第二章~やりたいこと~

第3話~ひとつめ~

 右を右と言わずになんと説明するか。



 聞いた瞬間、何をおかしなことを尋ねているのかと思わなくもないけれど、しかしこの問いを真剣に考え始めたところで頭を悩ましてしまう。同様に青を青と言わずになんと説明するかという質問も、やはり真剣に考え始めると頭を悩ませる。


 右と言われたら右であるわけだけど、仮に説明するとしたらお箸を持つ方だとか、そんな風に言うしかないだろう。だけどもし説明したい相手が左ききだったのなら正しい右を説明することは出来ない。


 青という色についても同じだ。みんなは目を通してこれが青だと知ることが出来るからこの色が青だよと言われて理解することが出来るわけだけど、僕のように見ることの出来ない、そもそも色自体生まれた時から見たことのない人間には通用しない。


 つまるところ右は右で、青は青なのだ。


 こういう話を人にすると君は随分ひねくれ者だと言われるかもしれないが、しかし僕にとってはとても重要な話だ。言葉の中の、もっと深い概念的な話。おそらく大抵の人は青の意味するところを説明することは出来ないと思う。


 一方で僕はそれでいいのだとも思う。その昔、まだ青という言葉が存在していない時代というものがあって、それでもこの色を誰かに伝えたいと思った人がこういった色のことを青と呼ぼうと決めたのだ。それによって青は青となった。

 伝えたいことを伝えるために人は言葉を作り出して言葉を使う。だから右は右で、青は青でいい。言語化できるのならそれに超したことはない。

 そして、それでも言語化出来ないものこそ一番大切にしなければいけないのかもしれない。


 とにかく、少し話が逸れてしまったから元に戻そう。


 僕にとって右に関してはそれでいいと思う。僕も直接右手を誰かに握ってもらいこっちが右だと教えてもらうことが出来る。わかるのならそれでいい。

 だけど青に関してはそういうわけにもいかない。これが青という色なんだよと言われたところで、そもそもそれ自体を見ることが僕には出来ない。形状こそは手で触れてどのようなものか想像できるのだけど、僕は色に関して知る手段を持ち合わせていない。世界は色に満ちているだとかそんな話をよく耳にするわけだけど、その色が分からないのだ。


 分からないものには興味が湧く。だから僕は人一倍に色というものに興味がある。決して見ることが出来ないから、だから僕は余計にそれを知りたいと思う。


 さっきの引き合いに青を出したのは色の中でも僕が一番知りたいと思っている色だからだ。その理由は簡単だ。この地球には果てしないほどに広がっている二つのものがあるらしいけど、どうやら両方とも青色をしているらしかったからだ。

 空と海。その二つは両方とも青色をしているらしい。この地球すべてを覆っているのが空で、地球上の約七割は海で出来ている。有名な宇宙飛行士も地球は青かったと言うぐらいなのだし、きっと青色は色の中でも特別なものなのだろう。

 だから僕は誰かと気軽に話をする関係になれた時、決まって青色はどんな色なのか聞く。わからないのだから聞くしかない。


 ただ、そんなことを実際に聞くことが出来た人は今まで生きてきた十六年の中で指の数で事足りるほどの人数しかいない。両親に、主治医の先生。近所にいたお兄さん。それくらいだ。


 みんな色々なことを話してくれた。青はとても悲しい色だという人もいれば、それとは正反対に清々しい色だと言う人もいた。青は安全を示すこともあるらしく、信号機が青色になれば横断歩道を渡ってもいいことになっているようだった。ただ、危険な思いをすると人は青ざめた表情をするとも聞いた。

 そんな話を聞き、僕はますます青がどんな色なのか気になった。

 最後に誰かに青は何色なのか聞いたのはもう数年前。だからこうして誰かに青色とはどんな色なのかと聞くのは本当に久しぶりだ。心臓の鼓動がいつもよりもいささか速くなってしまうのも無理はなかった。


「日向さん、こんにちは」

「こ、こんにちは。そ、その、どうしたの? なんだかニヤニヤしているよ?」


 どうやらそんな僕の心境がすでに顔からにじみ出ていたらしく、日向さんに会って早々とそんなことを言われてしまった。


「ああいや、今日もいい天気だと思ってさ」


 などとごまかすような話題を振りつつ僕はいつも通り日向さんの隣に腰を下ろす。

そう言えば、天気がいいと言えば日向さんと会う時は必ず天気がいいような気がする。日向さんとこうして会うのは三回目だけど、曇りの日であったこともなければ、ましてや雨の日であったこともない。


「日向さんは晴れ女なのかな」

「な、何ですか急に?」

「いや、日向さんと会う時は必ずいい天気だと思って」

「た、たまたまですよ。偶然です」


 確かに偶然と言われてしまえばそれで終わってしまう。

 会話の区切りがついたところで本題に入ろう。今日は別に天気の話をしに来たわけではない。今日は青色について聞きに来たのだ。


「日向さん、今日はどうしようか? ちなみに僕は日向さんに聞きたいことがあるんだけど」

「わ、私に聞きたいこと?」

「そう。聞きたいこと。聞いても大丈夫?」

「べ、別に大丈夫。でも、私が答えられる範囲で、お願いします」


 答えられる範囲というのはおそらく先週に日向さんから言い渡された三つ目の条件に当たらない範囲でという意味だろう。青色とはどんな色なのかはたぶんその条件に当てはまらないはずだから大丈夫だと思う。


「じゃあ聞こうかな」

「う、うん……」


 どういうわけか日向さんの声が強張る。


「その、そんなに身構えなくてもいいよ。大したことはないと思うから」

「そ、そうなんですか?」

「そうなんです。で、聞きたいことって言うのは、青ってどんな色をしているのかということなんだ」

「あ、青、ですか?」

「そう。青」

「そ、そんな事ですか?」

「そう。そんな事」


 拍子抜けしたというような、そんな反応を見せる日向さん。顔は見えないけど何となくどんな表情をしているのか想像できる。ちょっと可愛いなと思うと同時に、やっぱり日向さんは素直だなと思った。


「で、青ってどんな色かな?」

「どんな色……ん~……あ、空の色です」


 そんな日向さんの回答に、僕は少し嬉しくなる。ここで少しからかってみよう。


「あ~、確かに。青空って言うくらいだし」

「う、うん。そうだよ。青空って言うもんね。だから、青は空の色だと、思います」


 日向さんの声が少し高くなる。子供がなぞなぞの正解を言い当てた時みたいだ。


「あ~でも、僕目が見えないから空って見たことがないんだよね。ちょっとわからないかも」


 僕がそう言うと、「あ……」と小さな声を漏らす。日向さんの気分が大きく落ちたことが手に取るように分かった。


「そ、そうだよね……なんかごめんなさい。その、じゃ、じゃあ……」


 そして、日向さんはああでもないこうでもないとぶつぶつ独り言をつぶやき始める。何となく彼女が眉をひそめて頭を悩ます様子が頭の中で浮かび上がって来た。


「んん……あ、私の服が青色……って、萩野君は見えないのか。むむむ……って、ど、どうして萩野君はまた笑っているの?」

「ん? ああいや、やっぱり日向さんは面白いなって」

「そ、それってどういうこと? あ、また私をからかっているの?」

「ううん。違う違う。そんなつもりはないよ。じゃあさ、聞き方を変えてみるよ。日向さんは青色を見るとどんな気持ちになる?」

「ど、どんな気持ち?」

「そう。たとえば悲しい気持ちになるだとか、涼しい気分になるだとか、そう言うの」

「ちょ、ちょっと待ってね」


 ん~という唸り声。先ほどよりもより一層眉をひそめて頭を悩ましているのだろうか。こんな僕のくだらない質問に、これほどまで真剣に考えて答えてくれたのはもしかしたら日向さんが始めたかもしれない。

それが嬉しくもあり楽しくもあった。日向さんがどんな答えを言ってくれるのか、今まで聞いてきた答えとはまったく違うことを言ってくれるのかもしれないと期待してしまう。


 それからほんの少しの間、日向さんは静かになった。そして一つ強い風が僕たちの間を駆け抜けた後、彼女が話し始める。


 彼女はこう言った。


 日向さん曰く、彼女にとって青とは憧れでもあり、見ていると寂しい気持ちになるのだそうだ。

 ただ、これはいつものことなのだけど、やはりこれだけではその答えの意味するところは理解できない。だから僕はどうしてそう思うのか尋ねる。


「どうして、ですか?」

「そう。日向さんがそう思う理由があるわけだから、できることならそれも教えてほしいな」


 だけど日向さんは答えてくれなかった。

 どうやらその理由を話すと先週交わした三つ目の約束に当たってしまうかららしい。青色は憧れでもあり、見ていると寂しくもなる。そう思う理由がどうして日向さんのことを深く知ることに繋がるのか僕にはわからなかった。

 話すことが出来ないと言われてしまえば、僕も日向さんに聞くことは出来ない。これは約束だからだ。僕は人に嫌われたくはないので出来る限り約束は守りたい。


「うん。わかった、答えてくれてありがとう」

「す、すいません。お役に、立てたでしょうか?」

「うん。少なくとも、日向さんみたいな意見を聞いたのはこれが初めてだったよ」


 青色は憧れ。見ていると寂しい気持ちになるというのは、見ていると悲しい気持ちになるというのに似ているから初めて聞いたというわけでもないのだけど、憧れの色というのは初めて聞いた。

 どうして憧れるのかその理由まで聞きたかったけれど、断られてしまったのだから仕方がない。


「あ、あの」


 右側から日向さんの声が聞こえてくる。


「ん? 何?」


 僕がそう言うと「あの、えっと」と小さな声で日向さんは何回か繰り返し呟く。


「あの、私、その、萩野君が初めて出来た友達でね。そ、それで、私、友達が出来たらやってみたいなって思っていたことが、いくつかあるんだ」


 その一言に僕は正直驚いた。どこに驚いたかというと、それは僕が彼女にとって初めて出来た友達だという点だ。日向さんは僕と同い年で十六才。幼稚園から高校まで通っているはずだろうけど、その中で一人も友達が出来なかったというのは少し不思議だった。

 僕も人のことが言えるほど普通とは言い難いのだけど、そんな僕でさえ友達が一人もいなかったというわけではない。


「萩野君?」

「え?」

「あ、その、なんだか難しい顔をしていたから。私、やっぱり迷惑しかかけられないのかな?」

「ああいや、大丈夫だよ」


 僕には僕の事情があるように、日向さんには日向さんの事情があるのだろう。僕はそのつっかかりを無理やり飲み込んで受け入れる。


「それよりも日向さんがやってみたいことって?」

「聞いてくれるの?」

「うん。それでなんなの?」


 なぜか日向さんは緊張しているらしく、次の言葉を口に出すまでに時間がかかる。僕は時間に追われているというわけでもないので、彼女が話してくれるまで待つ。

 よし、と決心をするように日向さんは呟く。そして、彼女は一つ目のやってみたいことを僕に告げた。


「わ、私とお話をしてほしいの」


 日向さんの一つ目のやりたいことはありきたりでささやかなものであった。難しいことなど何もない。僕はもっと大変なことを言われると思っていたから、少し気が抜けてしまって随分と間抜けな声を漏らしてしまった。


「そんなことでいいの?」


 そもそも僕たちはすでにこうして話をしているのだし、わざわざ改まって言うことではないような気がしてならない。だけど日向さんはそんなことではないと真剣に、それでいてどこか恥ずかしがるような口調で僕に言葉を返してくる。


「僕は別に構わないよ。むしろ僕の方からお願いしたいかな」

「ほ、本当、ですか?」

「というか、すでに僕たち話しているような気がするんだけど」

「た、確かに、そう言われればそう、かも」


 そんな反応に僕はやっぱり自然と笑ってしまう。そして日向さんが不服そうに、どうして笑うのか尋ねてくる。それを僕は前と同じように何でもないとかわす。本当に何でもないのだ。何でもなく笑ってしまって、それが楽しいと自然に思うことが出来る。


 それから、僕は時間の許す限り日向さんと話をした。彼女はどうやら学校にとても興味があるらしく、学校ではどんなことが起こるのか僕に聞いてくる。


 どんなことが起こるのかと聞かれても、なにも特別なことが起こるわけではなくて毎日同じことを繰り返している。授業を受けて、お昼ご飯を食べて、授業を受けて放課後を迎える。この繰り返しだ。

 僕は部活動にも入っていないため放課後を迎えれば家へ帰る。

 普通の、どこにも特別なことなんてない日常だ。


 そんな日常を過ごしている僕だから、日向さんから学校のことを聞かれても面白いことはなに一つ答えてあげられなかった。だけど、それでも日向さんは熱心に僕の話を聞いていた。

 普通が一番だと、そんなことを言いながら日向さんは僕の日常を聞いてくる。

 確かに普通が一番だろう。普通に目が見える。それが僕には羨ましくてしょうがない。持っている者は憧れないが、持っていない者は憧れるもので、普通とは持っている者にしか与えられない。


 そう考えた所で、僕は日向さんに一つ聞きたいことが出来た。だけど、きっとこの質問は彼女の言う三つ目の条件に当てはまってしまうだろう。


 だから僕はその疑問を奥底に沈める。日向さんと話すこと、それが普通のままであるといいなと思いながら今日は彼女と話をして一日を過ごした。

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