第2話~始まり~
翌週。病院からの帰り道。彼女は変わらずに同じ場所で座っているようだった。今回の定期健診は別段早く終わったというわけではないのだけど、僕は彼女に声をかけようと思って足を向ける。
しかし実際に声をかけようとしたところで、そう言えば僕は彼女の名前を聞いていなかったことに気が付きどう声を掛けようかと悩んでしまう。
人の名前は他者との差別化という意味合いもあるわけで、やはりこういう場面では相手の名前を知らないと困ってしまう。
ただ、そこには差別化以上に何かしらの意味が含まれているものだとも思う。もちろん親の願いが込められているという意味もあるけど、何よりその名前は自分という存在をこの場所に繋ぎ止めてくれる鎖のようなものなのだと僕は考えている。そしてその鎖は他の人の世界と自分の世界を繋いでくれる。
誰かが誰かを思う時、やはり人は名前と一緒にその人のことを頭の中で思い浮かべるだろう。逆に名前を聞くことでその人を思い浮かべることも出来る。加えて、少しばかり気恥ずかしい話ではあるけれど、誰かと結婚すれば名前の一部が同じものになって、二人の世界が共有される。
名前が付けられる対象は人に限らず犬や猫、あらゆる生き物につけられるものだけど、名前を付けるのはたぶん人間だけだ。それだけで、やはり僕は名前が特別なものだと思うことが出来る。
「あの、どうしたんですか?」
そんなことを考えているうちに、僕の方が彼女に声をかけられてしまった。
「ああ、えっと。そう言えばまだ君の名前を知らなかったと思って」
「えっと……あ、確かにそうです」
彼女もそのことに今気が付いたらしい。
人の名前を尋ねるときはまずは自分からなんてよく言うものだし、まずは僕の方が名前を名乗ろう。
「僕の名前は萩野空。君は?」
「わ、私は日向紬って言います」
「日向紬さん、か」
日向さんとこうやって会って話をするのはこれでまだ二回目だけど、何となく彼女に合う良い名前だと僕は思った。
「な、なんでしょうか?」
だけど、そんなことを実際に口に出して言うほどの度胸もないので、僕は「何でもないよ」といって先週と同じように彼女の隣に腰を下ろすことにした。
腰を下ろすと、無造作に生えた雑草が僕のお尻をズボン越しに刺激してくる。ほんの少し痛い。
「日向さんは、お尻大丈夫?」
「へ? な、何ですかいきなり?」
「ああ、いや。ごめんごめん。別に変な意味じゃなくて、単純に座っていると雑草がチクチクするからって意味」
「あぁ……そ、そう意味ですか。う、うん、別に、大丈夫、です」
そう言う彼女の声はどこかぎこちない。まあ、僕も少し言い方がよくなかった。仕切り直すことにしよう。
「日向さん、今日はどんな天気なのかな? 僕、今朝は天気予報を聞き忘れちゃったんだ」
「天気、ですか? 今日もいい天気ですよ」
「どんな風に?」
「ど、どんな風に……外で遊んでいる人が羨ましくなるような、そんな天気です」
「羨ましくなるようなって……ごめん、聞いておいてあれなんだけど、よくわからない」
「そ、そうですか?」
こう言った類の質問に対して、大抵の人は雲一つない天気だとか、そういった返答をするものだけど、この日向さんの答えは個性的すぎやしないだろうか。
「というか、それじゃあまるで日向さんが外で遊ぶことが出来ない人みたいじゃない?」
「そ、それは……」
急に日向さんの声が落ち込む。聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか。いや、でも今こうして外に出ているのだし、別段変な事を聞いたというわけでもない気がする。
「そ、そんな事よりも、萩野、君は今日も病院だったの?」
はぐらかされた。別段追及するつもりもないので彼女の質問に答えよう。
「うん、そうだよ」
「萩野君が毎週通っている病院って、この近くにあるそれなりに大きい病院だよね」
「そう。そこであってる」
「いつから通っているの?」
「小学校に入る前からだと思う」
「そ、そんなに長く?」
「うん」
「そ、その……答えにくかったらごめんなさいなんだけど、萩野君の目はそんなに悪いの?」
そんなに悪い。むしろそちらの言い方の方が無神経なような気がしなくはないのだけど、しかし僕の目はそれほど悪いのだろう。何しろ見えないのだから。だけど、それは目だけの話であってそれ以外は健康そのものだ。
「いいや、確かに目は落ちるところまで落ちているけど、先週もいった通り他はなんの問題もないんだ。本当は毎週病院に通う必要もない」
「そうなの? じゃあどうして毎週病院へ?」
どうして毎週、別に行く必要もない病院へ通っているのか。今はすでに習慣になってしまっているけど、習慣化される前にはそれなりの理由があるわけで、僕はそのことを日向さんに話す。
「ん~……、話し相手が欲しかったからかな。学校に通ってもなかなか周りの人たちと馴染むことが出来なくてね。一週間のうちにあった出来事を主治医の先生に話すために通っていた気がする。で、それが習慣になっちゃって、今に至るって感じかな」
「そ、そうですか」
そう。ただ昔、他にも理由があったのだけど、ここでそのことを日向さんに言う必要はないだろう。
とにかく僕は話し相手が欲しかった。こう見えて、とは言っても周りからどう見えているのかわからないけれど、とにかく僕は誰かと話がしたかった。誰かと話をすると安心するからだ。目で見て直接存在を確認し安心を得ることが出来ないから、僕は話すことで安心感を得ようとしていたのだと思う。
こうして日向さんに話しかけたのも、多分僕のこう言った面があったというのもあるのだろう。
「萩野君は、その、学校へは通っているの?」
「通っているよ。普通の高校。でも、やっぱり目が見えないと何かと不便でね。僕はノートを取ることも出来ないし、教科書だって読めない。クラスメイトのみんなは決して悪い人たちではないのだけど、なんというか、心置きなく会話を楽しめる友達もいないんだよね」
友達がいない。それも当然だと僕は受け入れている。何の隔てもなく、心の底に眠る本性をさらけ出せる存在。そんなものなど僕にはいない。表面上仲良くしてくれる人は沢山いる。だけどやはりどこか違っていて、みんなはみんなの居場所があるようだった。
見ているものが違うのだと、僕はそう思う。きっとみんなが見ているものは眩しいものばかりなのだと思う。僕は一緒にそれらを見ることが出来ない。だからしょうがないのだ。
「というか、さっきから僕が質問に答えてばかりだよね? 僕からも質問していい?」
「こ、答えられる範囲なら、いいですよ」
「じゃあ、日向さんは眼鏡をかけている? それともかけていない?」
「め、眼鏡ですか? 今はかけていません」
「今は? じゃあ普段は眼鏡をかけているの?」
「ま、まあそうです」
「じゃあ、髪は短い方? それとも長い方?」
「み、短い方だと、思います」
「好きな食べ物は何?」
「あ、甘い物なら基本的に」
「好きなことは?」
「読書です」
「最近はどんな本を読んだの?」
「えっと……最近は本を読めていないんです」
「あれ? そうなの?」
「うん。昔は一か月に五冊以上は読んでいたんだけど」
「どうして?」
「そ、それは言えないです。というか、そろそろ今度は私に質問させてもらえないかな?」
「ああ、ごめんごめん」
誰かと会話をする際、僕は決まってその人の好きな物や大まかな顔の特徴を聞いて、頭の中でこんな人なのかなと想像する。だけど、今回はいささか一方的に聞きすぎた。
「じゃあ、日向さん、どうぞ」
「え、えっと……学校は楽しいですか?」
「さっきの話の続きだね。ん~楽しいというか、なんというか。普通かな」
「ふ、普通なの?」
「うん。普通。あ、でも、僕の通う学校は珍しく屋上が解放されていてね。僕はいつもそこでお昼ご飯を食べるんだけど、とても心地がいいんだ」
「お、屋上でご飯。憧れます。じゃあ、授業とかはどうですか?」
「授業ね~。僕は基本的にノートを取らずに先生の話を聞き続けているけど、まあよく眠くなる」
「寝ちゃうんですか」
「そう、寝ちゃうの」
授業は一コマ六十五分。興味のある話ならいいのだが、まったく興味の無い話を一時間以上も話されてはさすがに眠くなってしまう。
しかし、どうやら日向さんは随分学校のことについて気になる様子だ。彼女も学校へは通っているはずなのだろうに、どうしてだろうか。
「日向さんはどう? 授業中眠くなるようなことはないの?」
授業中、ただの一度も眠ったことがない人などいないだろう。必ずみんな授業中に一度は現実と夢の中を行き来する体験をするものだと思う。
「え、えっと……それは……こ、この話はこれで終わりにしましょう」
しかしながらそのことをはぐらかすように日向さんはこの話を終わりにしてしまった。
「この話はって、始めたのは日向さんだけど」
「あ、いえ、その、すいません」
「いや、謝る必要もないよ」
そんなやり取りに、僕は自然と笑ってしまう。
「あ、あの、私何か変な事言いました?」
「ううん。違う違う、ただ、久しぶりに楽しいなって」
本当。こんな風に誰かと話をして楽しいと思えるのは久しぶりだった。こんなことを言うと、毎週僕と話してくれる主治医の先生に怒られてしまうのかもしれないけれど、今の僕にとって彼女と話す方が楽しいと思えるらしい。
「はは、楽しかった。じゃあ、僕はそろそろ帰るとするよ」
今週も十分楽しむことが出来た。あまり遅くなると親も心配するだろうから、そろそろ帰ろう。
「あ、えっと、その」
僕が立ち上がったところで日向さんはそんな声を出す。
「ん? どうかしたの?」
「あ、あの。えっと……」
どうやら随分と言いにくいことをこれから口にする様子だ。いったい何を口走るのかと少しドキドキしながら彼女の言葉を静かに待つ。
だけど、その次に放たれた言葉は特に何の変哲もない、まるで幼稚園児のような一言だった。
「わ、私と友達になってほ、欲しいなって」
「と、友達に?」
まったく予想していなかったことを言われ、僕は思わず頬を緩めてしまった。そんな僕の態度が気に障ったのか、それとも自分が言った事への気恥ずかしさからなのか、初めて日向さんが大き目な声を出す。
「ど、どうしてそんなににやにやしているの? わ、私変なこと言ったかな?」
「ううん。そうじゃないんだ。ただ、友達になろうなんて直接言うのは幼稚園児くらいまでだと思っていたから、ついおかしくて」
「ほ、ほら、やっぱりおかしいって」
「いやいや。おかしくないよ。うん。おかしくない」
そう、おかしくない。ただ、大人になればなるほどこんな風に口約束をしてまで友達という関係を築こうとはしないだろうから、それが新鮮だっただけだ。
気が合えば行動を共にして、そう言った間柄を友達関係と呼称する。そういった面では、僕はすでに日向さんと友達の関係にあると言っていいと思う。
「そ、それで、どうかな?」
「うん。僕は別に構わないよ。毎週の病院の帰り道、楽しみが増えるということだからね。それに、僕はてっきりもう日向さんとは友達になっていたとばかり思っていたよ」
「ほ、本当?」
「うん。なんなら、僕の方からよろしくしたいかな」
本当、何年ぶりに同い年の人と心置きなく会話することが出来ている。できれば来週からもこうして話がしたいと思う。
「じゃ、じゃあこれからよろしくお願いします」
「うん。よろしく」
僕は自然に笑う。きっと、日向さんも笑ってくれていると思う。僕らの間を駆ける風が、とても心地よい空気を運んでくれている様に思えた。
しかし、その風が止まった途端、がらりと空気が変わったのだった。
「それでね、こんなことを言うのは少し変で失礼だと思うんだけど、今から言うことを守ってほしいの」
心地よい風は停滞し、空気は先ほどとは一変し張り詰めたものになる。彼女の声色も、とても真剣なものに変わっていた。
一体何を言うのかと僕は耳を傾ける。だけど彼女の言う、守ってほしいことというのが僕にとっていささかよく分からない内容だった。
約束は三つある。
ひとつ、私には絶対に触れようとしないこと。
ひとつ、この河原以外で私と話さないこと。
ひとつ、私のことを深く知ろうとしないこと。
友達になれたことはとても嬉しいけど、この三つだけは絶対に守ってほしい。と、彼女は最後に付け加える。
本当に、僕は彼女が何を思ってこのようなことを言うのかわからなかった。
僕は日向さんに話しかけた時から、彼女は少し不思議だと思っていたけれど、今回のこれは方向性の違う、種類の異なった不思議さだ。
その異変の正体を僕は彼女に尋ねることが出来なかった。どうか何も言わずにこの三つの約束を守ってほしいと、そう言われているようでならなかったからだ。
僕の目が暗闇に満ちている様に、彼女にもまた彼女の事情があるのかもしれない。
ただ、その事情がどのようなものであっても彼女は彼女なのだろう。
僕はそれが嫌いではない。
だから僕はわかったと、そう答えることにした。
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