第3話 耳朶を打つ声
微かに聞こえるのは時計の針の音だ。進学する際に実家から拝借した物なのでデジタル時計ではない。恐らく秒も、もしかしたら分も違うかもしれないけれど、確かに針は時間を刻んでいく。
『うわあ。なんか素敵な思い出だね。青春っていうかさ』
話している内に世界はまた少し夜の色に染まっていた。何故か体育座りをしながら聞いていた彼女は羨ましそうに目を細めた。
「そうだね。素敵だし、青春だったよ」
そしてそう。僕もまんざらでは無いのだ。
柔らかな思い出はいつだって心根に存在していて、矮小な自分ごと抱き締めてくれる。
そんな想いはきっと世迷い言だ。僕は一体どこの世界の吟遊詩人なのだろうか。
けれど、戯れ言じみたことを戯れ言だと一笑に付すほどに大人ではない。だからある種それは事実なわけで。
とかなんとか。そんなことを考えてしまった自分に恥ずかしさを覚えた。
「ちょっと疲れたな」
僕はそうこぼしてからベランダに出た。別に風に当たりたかったわけではないけれど、なんとなくこのまま喋り続けるのは僕がいたたまれないのだ。
詳しく言おう。羞恥心によってダメージを負う僕の心がいたたまれないんだ。
案の定、彼女は背後でクスリと笑みを漏らしていた。
僕は毛ほどの溜息をついて思う。
多分、彼女には一生隠し事はできないんだ。これから先、いつまでも。
『どうしたの? 溜息なんて吐いてさ』
君のせいだ!
とは言えないから曖昧に笑っておいた。
洗濯物を干すのにも一苦労するぐらい手狭なベランダから見る夜空には何も映ってなかった。錆びている欄干にもたれ掛かるとギシギシと軋む音がした。
何か見えはしないだろうかと目に力を入れてみるけど、依然として視界に映るものは変わらなかった。引っ越してきてから三年とちょっと経つけれど、やはりこの辺りだと星は眺めることができないらしい。
それはきっとこのボロアパートの立地条件が少しばかり悪いからだ。郊外と言えば郊外なのだけど、その割には夜中まで営業している飲み屋が数件ほど存在しているのだ。だから車だってよく通るし、真っ暗になる時間帯はほとんど無い。
多分そのせいで闇空以外のものを目視することができないんだ。
『ねえ』
耳朶を打つとはこのことだろう。特別聞き心地の良い声でもないし、澄んでいるわけでもない。けれど彼女が発するその音も響きも、ちゃんと僕に聞こえている。聞こえてくるんだ。
「何?」
『いつまで黄昏れているのかなあって』
「別に黄昏れちゃいないんだけどね……。なんなら君もこっちに来なよ。星は見えないけれど月ならあるよ」
細く千切れた雲の隙間から顔を出したのは半月より欠けた月だった。
『ううん。やめとく』
返答は予想通りだった。恐らく外には出ないだろうと考えていたのだ。
「やっぱり出ないか」
『そりゃあね。出ないよ』
彼女の気持ちというか立場というか、理解はしているもののどんな言葉を掛ければ良いのかは分からない。
曖昧とか、きっととか、たぶんとか。
僕は今、そんな言葉がよく似合っている。断定できない。したくない。
心が千々に乱れそうになっていた。溢れ出すような記憶に浸かろうとしたとき、彼女は再び言葉を紡いだ。
『大丈夫?』
意識が深層に沈んでいく寸前、彼女の言葉で我に返った。
僕を見つめる彼女の黒瞳は不安げに揺れていた。
軽く頷いてから僕は室内に入った。
『ごめん。窓、閉めてくれる? 少し寒くて』
寒いだって? こんなに暑いじゃないか。
注意深く彼女を観察してみると、なるほど確かにいつもの彼女より顔色が悪い気がした。
僕は言われたままに窓をきっちり閉めた。
外気が入ってこなくなると空気は途端に生温いを通り越して少し汗ばむようにさえ感じてしまう。
『じゃ、続きを話してもらうとしますか。気分転換はできたでしょ?』
「そうだね」
きっと色々と考えすぎているだけで杞憂なんだ。
「どこまで話したっけ――ああ、中学校の頃までか」
『そうそう。君が甘酸っぱい青春を送っていましたよってところまでは聞いたよ』
フルコース的に言えば先ほどまでの話はメインディッシュじゃなくて前菜だ。
つまるところ。
「残念。全然まだまだ甘酸っぱいところまでは喋ってないんだよなあ」
『なら早く聞かせてよね』
「そんなガンを付けて訴えなくても言うって。それより具合はもう良いの?」
木漏れ日が当たったときのような笑顔を浮かべた彼女は、もう大丈夫とこぼした。
そっか、と僕も頷いて、それからまた話し始めた。
「特にイベントなんかは起こらないで僕は中学校を卒業して……」
『修学旅行とかあったでしょ? ねえ、その辺のことを詳しく聞きたいんだけど』
「修学旅行なー……そりゃあ行ったけどさ。彼女とは別の班だったし、こう、なんていうか、なんとなくだけど。その頃から僕は彼女と釣り合わない気がしていてさ。自由時間とかあったけどさ、行く勇気が無いとかそんなんじゃなくて、僕なんかが行くより、というか行ってもさ。彼女は誰かと楽しくしているんじゃないかって」
『ヘタレ』
「そんなに一刀両断しないでくれよ」
『鈍感だし。もう一つおまけに言わせてもらえば弱虫ね』
「言いたいことばかり言いやがってさ。こっちの言い分だって聞いてくれよって」
『聞いた上で言ってるの。きっとその子はとーっても期待していたと思うよ。「来てくれないかなー」ってめっちゃ期待していたと思うよ』
「やけに強く言うねえ。女の子は女の子の気持ちが分かるってか。まあでもさ、そのとき彼女は僕のことを好きじゃなかったと思うし、多分そこまで気にしてもいないんじゃないかな」
『うっわあー……本気で言ってるの?』
彼女は本気の呆れ顔をしていた。
『バレンタインになけなしの勇気を出してくれたかもしれないじゃない。それに比べてキミは……キミは勇気を出さなかったんだねえ』
肩を竦めて苦笑い。
「女心はいつになっても分からないのさ」
『ふーん。まあいいや。続けてどうぞ』
話の腰を折ったのはそっちのくせに。
これ以上の会話は益体無いので僕は自身の口から吐き出す言葉に没頭していった。
今からする話は確か、そう。高一のクリスマスのときだった。
思い返してみれば、僕に強く印象付けられている思い出は基本的に冬が多いような気がする。記憶は感覚と繋がりやすいらしいから、なんとなく雪の温度だったり網膜に染み付くような真白の色を覚えているのかもしれない。
まあ、別に思い出なんて言葉を使わない事柄だって、気がつけばすべてが美化される記憶の一端になるのだろう。
回りくどい言い方をしているけど、僕が言いたいのは『全部全部素敵な思い出ですよ』ということだけだ。
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