望愛が歩む道編
第一章 望愛の家族
第1話 西園寺一家
―――西暦2120年の春。空に浮かんでいるのは目に痛いほど輝く太陽と白い雲、そして四角い箱や円形、三角錐などさまざまな形の建物が浮かんでいた。
その建物の中でも一際大きく黒いモダンな四角い箱の建物には世界でも有数の財閥の直系が住んでいる。そこの御夫人は切れ長の目の東洋系の美人。白い肌とは対照の潤んだ黒々とした瞳、そしてカラスの濡れ羽のような見事な黒髪を持つ彼女にとって、男でも女でも年寄だろうがまだ小さな赤子であっても魅了するのは朝飯前だった。
だが、この奥様には重大な欠点がある。それは中身だった。残念ながら性格は美人とは言えない醜悪さであった。彼女の周りには絶えず黒い噂が蔓延っていた。しかし、確かな証拠を掴んだ人物は誰一人といなく、それほど狡猾な人でもあった。そんな用意周到な人物だが、その醜悪さが内でも外でも表れるものがある。それは召使に対しての行為であった。それはもう染みついた習慣、癖の如く出てくるものであって、自分でもセーブがきかないのであろう。彼女は自分の思うとおりにいかないとすぐに自分付きの召使いに八つ当たりをするという困った癖があった。例えば、その召使いが奥様の花瓶を壊してしまったとき、一週間の絶食を言い渡した。それだけなら召使いにとってはまだ良い方であった。ある時、旦那様が奥様の大好きな連続ドラマの録画を間違えて消してしまったことがあった。それをその召使いに難癖をつけ、爪を剥ぐように言い渡した。自分のミスの責任で罰が与えられるのならともかく、他人のミスまで自分のせいにされたら溜まったものではない。しかしその召使いは素直に従った。もし従わなかったらもっと恐ろしい目に合うと学習済みだからだ。
そんな不幸な目に合っている召使いだが、とうとう奥様に付いてから十四年の月日が経っていた。初めて奥様と顔を合わせた十四年前は豊かな黒髪に艶のある白い肌、奥様と瓜二つの姿だった。そんな15歳の頃と比べ、召使いは今では惨めな姿になった。髪はやせ細り、ところどころ毛髪が薄くなっており、肌はガサガサ、醜い老婆のように皮と骨のような状況だった。目はくぼみ、ぎょろぎょろとした黒い目は不気味に輝いていた。いくら彼女がクロノロイドとはいえ、この扱いは異常であり、彼女を見た他の上流階級の人々は嫌悪を表し、また奥様に対して恐怖心を募らせていった。
そんな奥様の旦那様は当財閥の当主である。でっぷりとした体に小さな目、むちむちとした腕には今では珍しい骨董品の最高級腕時計が肉に食い込むように巻き付いていた。奥様もそうとう性格が悪いが、この旦那様も相当な“悪”である。相手を騙しての吸収合併なんて当たり前。前当主がお亡くなりになったとき、まだ足腰もピンピンしているおばあ様を四十九日が終わった途端、施設に無理やり放り込んだのだ。旦那様はおばあ様が貰った前当主の遺産を使わせたくなかったのだ。おばあ様は自分の実の息子のあんまりな仕打ちにショックを受け、とうとう寝込んでしまった。当主は占めたと思い、このままさっさと死ぬのを期待していた。奥様は奥様で、召使いに対する行為をおばあ様に見つかると毎回厳しく叱られたので、内心ほくそ笑み、施設からの死亡の便りを今か今かと待ち受けていた。
そんなどうしようもない一族の中に、一人だけおばあ様が寝込んでしまったことに対してショックを受けていた者がいた。大のおばあちゃん子であるその家の一人娘だった。まだ十歳にもなっていないかわいらしい女の子の容貌は母親似であったが、性格は全く違った。きっとおばあ様に預けられることが多かったのが功を奏したのだろう。また、奥様の召使いも彼女を大切に愛情持って接したことも少なからず関係したに違いない。
そんな女の子だが、今は家でつまらなそうに課題と向き合っていた。次々と問題を出すマスコット型勉強ホログラムはその子にとってまさに地獄のような拷問だった。普段なら、こんなにおとなしく一日中座ってはいない。彼女は
突如、机の左端に置いてある丸い黒の円盤から『ふぉん』というテレビのスイッチの入る独特な音がした。
「――臨時ニュースです。世間を騒がせたレジスタンスの首謀者である蒼井優也被告が捕らえられました。繰り返します――」
丸い円盤からは被告と思われる体格の良い男が警察に連行される様子が立体映像で流れていた。それを彼女、西園寺望愛はぼんやりと眺めていた。そうだ、テレビでも見よう。望愛は数学の難しい問題ばかり出しているホロにとっとと消えてもらった。もう一週間も家に缶詰状態の望愛は、何でもいいからとにかく笑える番組を探した。確か今日は月曜日だ。望愛は時間を見た。丁度五時になっていた。望愛の好きなアニメがやる時間だった。期待を込めて望愛は「66」とテレビに向かって言うと、チャンネルが切り替わった。
「私の見解では蒼井被告は――」
白髪の目じりにしわがたくさんあるおじさんがたった今入ったニュースについてありきたりなことばかりを言っていた。どうやら、アニメ放送を止めるほど重要なニュースらしい。望愛は落胆して違う番組を見ることにした。「次」と言い、テレビに一つずつチャンネルを変えていってもらってるが、全て臨時ニュースの話題で持ちきりだった。
「今世紀最大の悪魔が――」
「捕らえられた決定的瞬間を――」
最後に変えた番組では犯人が大勢の警察官に取り押さえられながらも、必至で逃れようともがいている姿だった。望愛は諦めてテレビのスイッチを切った。もう集中力がなくなった望愛はもう一度数学をやろうという気力は当然ながら起こらない。他の残った科目もそうだった。望愛は窓の外を見た。空は真っ赤に染まり、雲は薄いピンク色だ。外で自由に飛び回りたいという欲望が最高点に達した。今、この部屋に居るのは自分だけ。お母様は出かけているし、シューズの隠し場所も分かっている。隠し場所の奥の棚にちゃんとシューズがあるか、お母様が確認をしているところを二日前にこっそり見ていた。今なら窓から外に出られる・・・。だが、脳裏に優しい召使いの顔と母親の醜い笑みが浮かんだ。膨らんだ風船が一気に萎んでいく気分だった。望愛はもうあの召使いさんが困ることをしたくなかった。望愛はまた可愛くないホロを出し、数学をやり始めた。
―――ふわふわとした雲が青いキャンバスの上に浮かんでいた。望愛は防具無しで自由に空を飛んでいた。足の裏で静かに唸るエンジンが心地よく感じた。まるで翼が生えたみたいに、くるくると自由に旋回したり、アクロバティックな技をきめたりしていた。もっと高く飛びたい・・・。頭上には輝くばかりの太陽があった。どこまで近づけるのだろうか。望愛はエンジンの馬力を上げた。
もっと高く・・・。
上から下に流れていく風。雲がどんどん下に落ちていく。だが、お日様との距離が縮まらない。もっと馬力を上げないと。シューズからものすごい空圧が放出されている。けれどお日様はずっと遠くで輝いているばかりで、届かない。むしろ、お日様が遠ざかっているような気がする。お日様は自分のことが嫌いなのだろうか。望愛は悲しくなったが、すぐに顔を引き締めた。大丈夫。お日様よりももっと早く加速すれば、この追いかけっこは私が勝てる。お日様には絶対負けない。
「だめですよ」
突然、か細い女のひとの声が聞こえた。お日様からきこえたような気がした。
「だめです」
やはりそうだ。その時、足元から『プシュシュシュゥゥゥ』という音が聞こえた。その途端、お腹が浮いた。風が下から上に吹き、雲がどんどん上がっていく。さっきと逆だ。なんで? エアシューズはお日様がある限りエネルギー切れにならないのに・・・。
あぁ、そうか。
お日様が意地悪したんだ。だから私のシューズはエネルギー切れになったんだ。私のシューズはお日様のエネルギーをもらえなかったんだ。
お日様がどんどん遠ざかり、あと少しで地面に触れる。
私は結局自由になれなかった――――
「―――起きてください! お嬢様」
地面に激突する瞬間、望愛は目をパッチリ開けた。机から重い頭を起こすと、望愛の大好きな召使いさんが目の前にいた。
「だめですよ、こんなところで寝てしまっては。寝るなら、ベッドで寝てください」
召使いさんは私の衣服を片付けながら言った。窓を見ると真っ暗で、まんまるお月様と星が輝いていた。ホロはぷんぷん怒りながら「また寝るんだから」とか何とか言っている。望愛は服の裾でゴシゴシと自分の涎を拭いた。どうやら、勉強中に眠ってしまったらしい。
「お母様は?」
ごしごしと目をこすりながら訊いた。
「奥様はお帰りになっており、ダイニングで先にお食事をなさっておられます。お嬢様もお食事になさってはいかがでしょうか。すぐにご用意いたします」
片付けが終わった召使いさんはさっと私のほうに体を向けた。痛々しい彼女の見た目はお母様の醜さが前面に表れていた。
「お母様と食事したい気分じゃない」
お母様と食事をするといつも勉強のことを言われるので、望愛は母親との食事はなるべく避けるようにしていた。
「お母様が食べ終わったら呼びに来て」
ホロに「続き出して」と言い、やりたくもない問題を出させる。
「これに手間取ってる、とでも言っとけばお母様も文句を言わないと思うわ」
チッチと舌を鳴らす召使いさん。
「またそんなことを言って。奥様にはお嬢様の嘘はお見通しですよ」
さあお早く、と私の手を取った。
「―――嘘よ」
私がそう言った途端、召使いさんの手は緩んだ。その手から滑らかに私の手は落ちていった。「では、なるべく早めに来てくださいね」とか何とか言っているのが聞こえたような気がし、そのあとにドアの開く音と閉まる音が聞こえた。一人きりの空間が広がったのが分かった。私は不気味に笑い続けるホロが出す問題に頭を捻ろうとしたが、上手く思考が働かなかった。
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