雷神の馬蹄と異世界転移
「――たま――早く――、――もなく――――」
……声が聞こえる。何だろうか。薄ぼんやりとした頭に直接声が響くように声が聞こえる。だが不鮮明な、ノイズのかかったような声だ。性別すらわからないが……男の声だろうか?
「――きたまえ。早く――、さもなくば――――ね」
不明瞭であった声が突如、明確に男であるとわかる声に変貌する。頭の中の靄が晴れるにつれ、声は鮮明になっていく。奇妙な現象に、頭を働かせて覚醒させる。
「起きたまえ。早く起きたまえ、さもなくば死んでしまうね」
目を開ける。すると、そこには黒くぼやけた影があった。よくわからないが、いっままでの声はこの影が発していたのだろうか。
ふと周りを見渡せば、そこは水中のような場所だった。床は無いが浮遊感もない。この身に何も触れていないのに安定している。そうか、これが死後の世界か。だが、そうなるとこの黒い影が言う「死んでしまうよ」とはどういうことなのだろう。死ぬ直前の記憶が今一思い出せないのにも関係があるのだろうか? そう思いながら黒い影に目を向けると、再び頭の中に声が響く。
「私は人間のオスだね」
その声が聞こえた時、ぼやけた影は黒いローブを羽織った男性の姿に変化した。いや、元からこんな姿だったような気がする。背は自分より高く、百九〇センチはあるだろうか。ローブ越しに見えるシルエットは細く、鍛えている人間であるという印象は受けない。だが、顔だけはぼやけたままわからない。無貌、という表現がちょうどいいだろうか。何故か表情だけは読み取れるのが不思議だ。
「あなたは誰だ? ここはどこだ? 死んでしまうよとはどういう事だ?」俺は沸き上がった疑問を矢継ぎ早に彼にぶつける。どうやら思った以上に自分でも混乱していたようだ。
「私はサロモ。大導師サロモだね。この名をよく覚えておくがいいね」
不遜にも思える物言いで彼――サロモが答える。
「ここは私の作った$δ☆#&%γ……おや、君の世界にはこの概念は無いね。そうかそうだね、分かりやすく言えば精神世界のようなものだ。君の世界から君の精神のみを遊離させ、ここに招き寄せているね」
君の世界?精神だけを剥がす?何を言っているのだろうか、よくピンとこない。ただ、本当にこれらの事を行えているのなら。その事実に、彼が超常の力を持っていることは理解できた。
「そして最後の君の疑問だがね、……うむ、思い出すといいね」
そうして彼は俺の頭を指す。
その瞬間、俺の頭に先刻味わった嘆きと悲しみと叫びと後悔が流れ込む。
「うわあああアアアアア! ガアアアアアアアア! アーッアッアッ!」
知性の欠片も感じない、獣のような声で叫ぶ。俺は脳裏にフラッシュバックする悲劇に眼を逸らせなかった。空に開いた大穴、街を破壊する怪獣、そして宿里の最期。
それらの映像が繰り返される。
繰り返される度に、俺自身の失意と絶望が塗りたくられ脚色されていく。
怪獣はより禍々しく、流れる血はより毒々しく、見上げた空は嫌になる程どす黒く。悲鳴はより耳に障って、想像の中での犠牲者はより悲痛で悲壮に、宿里は――何より美しく、冒し難く彩られる。
何度悪夢を見たか数えることもできなくなるほど繰り返され、心の中がぐちゃぐちゃになる。色とりどりの感情が混ざり合い、心が濃色の絶望に塗りつぶされる。
繰り返される記憶は、頭の中に色濃く残るという。その理論を実証するかのように、無理やりに脳に悪夢を彫り込まれ絶叫する。
悪夢の只中にある俺に、サロモが淡白に告げる。
「君はこの後、
なんだ、それは。何なのだ、それは。俺は、宿里の命を奪った奴に何もできず殺されるのか。そんなことが許されるのか。否、許されない。この俺が許さない。
復讐心を核に様々な色が混ざり合い、どどめ色になった俺の心が嚇怒の色に染まる。
「しかしだね」俺の胸中を知ってか知らずか、サロモの言葉は続く。その後に続く言葉は、悪魔めいた誘惑をもって俺に絡みついた。
「あの怪獣を殺す事が出来るのなら、やりたいと思わないかね? その為の力が欲しくはないかね? あいつを倒してくれるならば、君を助けてあげよう」
その提案に、俺は反射的に頷いた。悪夢の中で極端に美化された宿里との思い出が心の比重を一気に占め、崩れた心のバランスは正常な判断を容易く奪う。復讐心が煌々と燃え上がり、俺の首を縦に傾けた。
このまま殺されてなるものか。奴を地獄に引きずり下ろすまで俺は生きることを諦めない。
その反応にサロモは「いい返事だ」とほくそ笑む。
「じゃね、まずは助けてあげるとしようね」
サロモが指をパチンと鳴らすと、俺を蝕んでいた悪夢が鳴りを潜めた。
そして、俺の体が目の前に現れる。自分で自分の体を見るという不思議な光景に驚き、頭が幾分冷静になる。
鉄筋が左肩に突き刺さった擦り傷だらけの体が、あの悍ましい悪夢が本当にあったことなのだと認識させた。
「この体をそのまま返すのは酷だね。治療もしておいてあげようね」
改造術式起動、と呟いて何かしらの詠唱を始めるサロモ。そうして俺の体に手を当てる。すると、みるみるうちに傷口が塞がり始めた。不気味な語句に思わず構えてしまったが、心配はなさそうだ。そのままサロモは詠唱を続けながら、左肩に突き刺さっている鉄筋を引き抜き、適当に放り投げる。どういう理由か、宙に舞った鉄骨はそのまま消えた。
そうこうしているうちに、俺の体は完全に治癒してしまった。
「では、入るといい」
サロモが一拍すると、俺の意識が一瞬かき消された。しかし、すぐに目を開ける。
目を開く、という命令が俺の脳から発される。俺の精神が肉の体に戻り、俺は自分の体を動かす感覚を取り戻した。軽く腕を回してみると、体が軽い。どうやら体のこりも治っているようだった。
「不具合は無いだろう、よかったね。それじゃね、まずアレについて説明しよう」
そう言って、サロモは指を鳴らす。すると俺の右側の空間が四角く切り取られ、枠を形作る。そこに映し出されたのは異形の怪獣であった。
あの怪獣に似ている。しかし、それは上半身だけ。下半身は上半身の二十倍を超え、でっぷりと肥えている。無数の蟲のような脚が生えているが、半分ほどは地面に着かずに持て余すように蠢いている。そして背中からは黒い石のようなものが背鰭のように生えており、その周囲をなぞるように膨張と収縮を繰り返す赤い管が何本も空のあちこちに向かって伸びている。
全身は黒く、赤い部分は空に伸びる管のみ。頭に生える一段と大きな悪魔を思わせる角と、頭から腹にかけて体を分かつように伸びる黄色の発光体がなければ、関係があると言われてもピンと来なかったであろう。
「私の世界ではあれらを
なるほど、あの黒い石は結晶体なのか。そういえば、あの怪獣にも腕や足、頭から黒い結晶体が生えていた。
「君の世界を襲ったのはその晶獣の中でも異端の存在。この異界晶獣ソトだ」
異界晶獣ソト。その名を、強く脳裏に刻み込む。宿里を殺した憎き敵。いずれ倒す仇として見定める。
「突然だが、君は
いきなり飛び出した話のスケールに頭が痛くなってくる。そもそもなんだ情報文明世界人というのは。
……いや、そんなことよりソトの話だ。さらに集中して、サロモの話に耳を傾ける。
「奴はめぼしい平行世界を見つけると、空間を捻じ曲げてその世界に自らの世界を直結させるね。そして自らの無数の口から口吻を伸ばし、世界の穴を塞ぐ。後はその世界を吸い込みながら、自らの歯に当たる器官をその世界に送り込んで咀嚼する」
「歯?」と、思わず聞き返す。
口吻と言うのはあの空に伸ばしている赤い管の事だろう。口が背中側に、しかも無数にあるというのにも驚いたが、それよりも奴らがただの歯でしかなかったことに愕然とした。
「そう、歯。君達に二十八本生えているそれだよね。ソトにとって、直結した世界は既に自分の舌で転がっているようなものだ。獲物を仕留める牙ではなく、口内に押し込んだものを食べやすいように消化する歯が適当な表現にあたるんだね」
なんということだ。宿里は知らぬ間にこいつの口の中に入り、こいつの歯に潰されて死んだとでもいうのか。敵の非常識さ、強大さに取り戻した肉体から涙が溢れる。
「だが、まだ君には希望がある」
サロモは続ける。
「奴の体内には多くの世界の残骸が今だ消化しきれず残っているね。故に、奴の体内空間の広さはとにかく広大だ。そんな空間を奴の矮小な体に押し込めているせいで空間の密度があまりに濃いね。そのおかげで奴の体内からの攻撃は空間と言う壁に守られて届かず、毒も効かないね。だが、その性質が祟ってか奴の口吻と直結した世界は他の世界に比べて時間の流れが極端に遅くなる。奴の歯が攻撃する前に君を避難させる事ができるくらいにね」
? と、頭の上に疑問符を浮かべる。それが希望とは、どういうことなのだろうか。
「要はね。食われたばかりの君の世界にはまだ助ける余地があり、それにはあいつを外から撃破するしかないってことだね」
大体わかった。こんな俺でも、いやこんな俺だからこそ、宿理が生きていた世界を救う事が出来るということか。
……しかし、俺に人助けが出来るのだろうか。俺に、もう一度人の手をとる事が出来るのだろうか……
「君の葛藤なんて知らないね。君はただ、これから行く世界で力を蓄えて奴を倒せばいい。復讐を遂げるんだね」
無慈悲にも思えるサロモの言葉。だが、その中の復讐と言う言葉が俺を潤す。
「では、君に望む力をあげよう。天の気、つまり君に丁度良いのは……ふむ、これだな」
そう言ってサロモはローブを手探り、掴んだそれを俺に差し出す。
それは、赤く複雑な紋様が装飾された灰色の棒の先に金のU時型の物体がついている
俺は、おずおずと謎の物体を受け取った。驚くほどひやりとしている。
「上質な
サロモが饒舌になる。自分の作ったものを実に嬉しそうにひけらかす様は、今までの冷徹な機械じみた態度と打って変わり、とても人間らしい。
「
サロモが其の名を告げた時、
「君からも、名を呼んでやるといいね」
促され、俺もその名を呼ぶ。高く腕を突き上げ、その道具を掲げる。ノリで。
「
その時、
弾けた光は粒子となって俺を包み込むと、バチバチと放電する音と共に俺に纏わりつく。右足が雷に包まれ、光の粒子が凝縮し、爪先に馬の蹄が象られた鎧で覆われる。左足も同じように鎧に覆われる。
胸に衝撃が走り、瞬間的に鋭角的な意匠のプロテクターが形成される。
服が雷と共に塗り変わり、動きやすいスーツに変わる。
両腕に分厚い籠手が装着される。刺々しい外観の両腕は振るたびに大気を裂き、空間を切り裂く音を奏でた。
頭には、天に突き立つような立派な鶏冠のついたフルフェイスのマスクが押し込まれる。浮かび上がった目が緑に輝き、稲妻が軌跡を描く。
灰色の体に赤く複雑な紋様が走り、何らかの術式が刻まれる。
激しい雷鳴と共に、首元から黄金のマフラーがたなびいた。
すべての光が俺の鎧になった時、そこには灰と赤と金に彩られた――ヒーローがそこにいた。
「……なるほど、そうなったかね。これはまた面白ね」
舌なめずりをしながらサロモは笑う。
「その道具は持ち主の願望を写す。君はどうやら騎士になりたかったようなのだね。この世界の政治体制に騎士制度など無かった気がするが……否、過去にはあったのかね? まぁ個人の趣味に口を出す趣味は持ち合わせていないので、とやかく言う気は無いね」
いや、違う。これは騎士ではなく、ヒーローの姿だ。
人助けを躊躇わない
ふと、俺の脳裏に宿理の最期の言葉が木霊する。
「私ね……ヒーロー、が好き」
……そうだ。俺は……宿理に愛されていた人間であり続けるために、人助けを躊躇わない。見返りがなくとも、おせっかいと言われようとも。宿理の好きなヒーローであろう――。
今は亡き宿里に、俺は奮い立つ。
「では、そろそろかの世界に出かけて貰うとしよう。試着も、主人登録も済んだ事だしね」と、サロモは指を鳴らす。
すると、俺の変身は解除され、
そして、俺の周囲をリング状に淡く青い光が囲む。その光から複数の光柱が上に伸び、あみだくじのように曲がりくねりながらカプセル状に俺を包んだ。
体の前に出現した宙に浮かぶ魔法陣のような物を操作しながらサロモは言う。
「あちらでの統一言語バベルや、
さらっと恐ろしい事を言ったぞこいつ。頭がボンってなったらどうするつもりだ、ボンって。死ぬぞ。
「最後に、何か聞きたい事はあるかね?」
俺の疑問を完全に無視し、さらに質問を促される。
思えば、ここに来てから情報を詰め込まれてばかりで、自分から質問する事など最初しかできなかった。
ここは、しっかり聞いておくべきだろう。
「お前の目的は何だ?」
そう、あまりにも胡散臭すぎるのだ、この男は。神のような技を持ち、人の精神に容易に干渉できる力を持ちながら、取引を持ちかけてくる。こいつは俺を騙そうとしているんじゃないかと疑心が浮かぶ。
「知れたこと。私の世界を守るためだ」
しかし俺の疑念を孕んだ問いに対し、サロモは真っ直ぐな眼差しで、毅然とした声で返した。そこに今までの胡散臭さは感じられなかった。
「ソトを放っておけば、いずれ私の世界まで食い尽くす。そんな事を断じて許す物か。大導師の名にかけて、私は私の世界を守ってみせる。私の愛する人々の為に」
あまりにも真っ直ぐなその覚悟の言葉に、俺はどこかシンパシーを覚えた。しかし、自分にはこうはなれないな、という思いもあった。彼の言葉には、自分の世界以外などどうなってもいいという響きをも孕んでいたように聞こえたのだ。
「なら、どうして俺を選んだんだ? あんたが倒す事はできないのか?」と聞き返す。
「残念ながら、私の小細工如きではあの質量の暴力に抗う術はない。私の世界を奴から見えなくするだけで精一杯だからね。君を選んだのは、たまたま君に適性があっただけという事だよ」
適性。おそらく、雷神の馬蹄の事だろう。いや、果たして本当にそれだけなのか――?
そんな俺の思考は、不意に巻き起こった浮遊感に中断を余儀なくされる。
「じゃあね、勇者よ。私の世界で強くなって、私の世界を守るついでに君の世界も取り戻しておいで」
体が徐々に消えていく。時間が数倍にも引き伸ばされるような感覚を覚えた。
――そして、俺は異世界へと飛び立った。
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