3

 夢も見ないほど深い眠りから覚めると、白く輝いていた部屋の明かりが、オレンジ色の仄暗い明かりに変わっていた。眠りやすいようにサラが調節してくれたのだろう。でも、切り替えるスイッチなどは見当たらない。仕方がないのでそのまま部屋を出ると、あの眩しいくらい真っ白な壁が目に飛び込んでくる。

 右側から小さな話し声が聞こえてくる。一人はサラだ。事務的な声で何かを話している。話し相手は――女の人みたいだけれど、誰だろう。

 右隣の部屋の扉が開いている。もしかして、僕以外の被験者が覚醒したのか? 扉から覗き込むと、ベッドに座りながらサラの話を聞く女性と目が合う。

 「ハル様、おはようございます。よく眠れましたか?」

 サラが振り返って深く頭を下げた。僕は適当に返事しながら、その女の子から目が離せなかった。

 その子は僕を見つめたまま動かなかった。肩くらいまで伸ばした黒髪と整った顔つきで、頭のよさそうな印象の子だった。歳はたぶん僕と同じくらいだ。

 「この方は被験者J0004――カナ様です。カナ様、彼は先ほどご説明した先の覚醒者、ハル様です」

 「あ、えと、よろしく」

 僕はとりあえずそう言って、小さく頭を下げた。

 「カナ様はハル様と同様、覚醒前の記憶をほとんど失っているようです。ハル様にはご説明したとおり、私はお二方の個人的なデータは閲覧することができません」

 サラは僕たちを交互に見ながら説明する。

 「ですが、ここに眠る被験者の方々は、互いに知人であるパターンが多く存在します。1つの学校の生徒全員が、このコールドスリープに参加しているという情報も聞いています。少なからず、お二方が互いに面識のある可能性はあるのですが――」

 サラは僕たちの様子を見ると、首を振って説明を打ち切った。僕はカナというその少女を見るけれど、なにも思い出せない。思い出せそうな気配すらないものだから、僕は肩を落とした。

 それでも、同じ境遇の人がいるのはなんだか救われた気分だった。絶望的な状況は何一つ変わらないけれど、不安が少しだけため息に溶けて体から出ていくようだった。

 そうして人知れず安堵していると、僕の腹から滑稽な音が鳴り響く。こんな状況でも体は貪欲なのだ。寝ていなければ眠いし、何も食べなければ腹は鳴る。

 「ひとまず、お二人ともお食事とお飲み物をご所望のようなので、食堂に案内します」

 真っ赤になった僕の顔を見ながら言うサラは、少しだけ笑っていた気がした。




 食堂に案内され、サラに食事を出されるまで、僕たちは一言も会話をしなかった。カナはずっと黙り込んで何か考え込んでいたから、声を掛けられなかった。僕も同じように、ずっと考え込んでいた。状況は好転していないし、なによりわからないことだらけなのだ。それは僕にとっても、彼女にとっても同じで、だからこそどうにもならない。どちらかが少しでも多くのことを知っていれば、情報を交換することもできるのだけれど。

 「あの、カナさん」

 僕は勇気を出して声を掛けた。

 「……カナでいいよ、同い年だから」

 カナが笑顔で返してくるけれど、どこかぎこちなかった。

 「じゃあ……カナ、覚醒前のこと、ほんとうに何も覚えてないの?」

 少しだけでも、覚醒前に何があったのかを知りたかった。何せ今の僕は完全にゼロの状態なのだ。少しだけでも、手掛かりを知りたい。僕の記憶そのものに関わっていなくてもいい。せめて、地表で何が起こったのかということだけでも知りたかった。

 「うん……でも、ときどき何か思い出せそうな気はするの。サラちゃん、だっけ? あの子が言ってたけど、この記憶喪失には個人差があるんだって。あたしはほとんど忘れちゃったけど、最初に起きた人はちゃんと全部覚えてたみたいだし」

 カナも僕も記憶を失ってはいるが、その障害は致命的なものではないらしい。なにかのきっかけで少しずつ思い出すかもしれない。

 「ハル君は、覚えてないの?」

 カナが祈るような声で聞いてくる。カナも僕と同じように、少しだけでも情報がほしいのだ。何もわからないままこの新世界に放り出されたのだから、そう思うのは当然かもしれない。

 「僕も覚えてないんだ、何も。カナみたいに、何か思い出せそうな感じもしない。覚醒してからの記憶しかない。まるで、それまでの僕なんてはじめからいなかったみたいで」

 言いながら僕は、すこしだけ気持ちが楽になっていくのを感じた。状況は変わらなくても、こうして同じ境遇の人と話をするだけでも、精神的には落ち着くものだ。記憶に関しても、まったく思い出せる気配がない以上、カナみたいに、思い出せそうで思い出せないもどかしい気分にならなくてよかったと思っておこう。

 「サラは記憶の手がかりが、地表のどこかにあるって言ってた。でも、ほんとうにあるのかな……そもそも、2億年も経ってるなんて、僕はまだ信じられない。あの景色も、なんだろう、なんというか……偽物みたいで」

 だから、記憶の断片を持っているカナに頼るしかなかったのだ。なにかのきっかけで思い出せるかもしれないのは、カナのほうだ。

 「ハル君、外に出たの?」

 「うん、でも、なにもなかった。なにも――」

 僕はあの真っ白な景色を思い出して頭を抱えた。こんな世界で、僕は記憶を取り戻せるのだろうか。いや、それよりも、生き延びることだってできるかわからない。食事や水はサラが持ってきてくれるけど、それも底をつく日が遠からず来るんじゃないのか。いや、予想もできないくらいの未来なんだ、未知の技術があってもおかしくないけれど……。

 「大丈夫だよ」

 うつむく僕に、カナは力強く言った。

 「きっと、大丈夫。生きていける」

 カナの声には自信があった。これから起こることをすべて見てきたみたいに言うものだから、不安がすこし消える。

 「それにほら、ご飯もおいしいんだから、ちゃんと食べないともったいないよ」

 カナは手つかずだった僕の食事を見てそう笑った。もうさっきのようなぎこちない笑顔ではなかった。

 カナも同じなのだ。不安で、仕方がない。当然のことだし、どうにもならない。だからこうして誰かと話して、自分に言い聞かせながら、この環境に順応していくしかない。この新世界で生きるためには、受け入れるしかない。

 僕は食事を掻き込んだ。空になった胃がすこしずつ満たされていく。

 「ね、おいしいでしょ?」

 カナはなぜか得意げだった。きみが作ったわけじゃないのに……。

 「おいしいって感じるってことは、生きてるってこと。生きてるのに、あれこれ悩むのはもったいないよ。あたしも、なにもわからなくて不安だけど」

 その言葉は次第に力を帯びて、より強くなっていった。自分に聞かせるように、カナは語っている。

 「いまは、生きてる。それだけでじゅうぶん」

 カナは胸に手を当てて、鼓動を確かめるように目を閉じた。

 なぜか、この子といると不安が消えていくような気がした。胃の底にヘドロのように固まって、どこへも溶け出さないような予感のしていたあの黒い不安が、いまではもうどこにも気配を感じない。カナは、まわりの人にも影響を与えるくらい、強い人なのだ。




 それから何日かあとのことだった。目が覚めて部屋に取り付けてもらった時計を見ると、時間は午前10時だった。あのあとサラに頼んで、衣類や家具をある程度揃えてもらったのだけれど、どうやら僕が部屋にいない間に運びこんでくれているらしい。気がつくと頼んだものが綺麗にレイアウトされた状態で設置されている。どこから持ってきているのかわからないけれど、おかげで生活は不便していない。

 食堂に行くと、サラが完璧なタイミングで朝食を出してくれる。サラはなにもかも理解しているようだった。家具や服もそうだけれど、この食料はいったいどこから調達しているのだろうか。僕は未だに聞けずにいる。僕が口にしているこれが、常識外の食材で作られているような気がした。

 「サラ、カナは?」

 僕が食事を終えると同時に、いつものようにサラがコーヒーを持ってきてくれた。立ち上る湯気をかき分けて啜りながら、僕はサラに訪ねた。

 「今日もバイタリティルームにおられるようです。ハル様もお向かいになられますか?」

 僕は頷いて立ち上がる。ここ数日、僕とカナはバイタリティルーム――まあ簡単に言えばジムのようなものだ。全世界のあらゆる競技用の部屋があり、コートやグラウンド、果ては5階層をぶち抜いた野球場まであるという。2季のオリンピックをいっぺんにここでできるくらいの大きさなのである。

 カナの提案で、覚醒して失った身体能力を取り戻すことにした。カナは覚醒前も運動が好きだったようで、放っておくと僕が止めるまでルームランナーで走り続けているくらいだ。僕はというと、カナに続いていろいろ試しているのだが、気がつくと汗だくになって床に転がっている。よくもまああんな砂漠を歩けたものである。

 そんな話をすると、サラはまたアンドロイドらしからぬ苦笑を返した。

 「ハル様はもともと運動は苦手なのですね」

 僕はもう肩が取れるくらい落ち込んだ。なんだかサラがはじめて会った時より感情的になっているみたいだった。

 「身体能力の低下を気にしているようでしたら、身体能力の底上げをする装置がありますが」

 「そんなものがあるの?」

 落ちた肩が飛び上がるように元に戻るのを感じた。未知の技術に心を躍らせていると、サラがいきなり白衣の胸元をはだけさせる。僕は泡を食って手で目を塞いだ。いきなり何するんだ。

 焦ったまま闇の中で硬直していると、サラが僕の手を優しく引っ張った。

 「まずは腕に」

 当然のように、僕はサラのはだけた胸元の柔肌を見てしまう。しみ一つない、積もったばかりの粉雪のような白さだった。顔が沸騰するくらい熱くなるけれど、直視してしまってわかった。どうやら胸元の装甲の中にその装置をしまってあったらしい。胸の控えめな膨らみのそのすぐ上のあたりが、四角く切り抜かれて飛び出ている。いままで普通の女の子のように接してきたけれど、改めてれっきとしたアンドロイドなのだと思い知る。

 サラが僕の袖を捲って、そのバンドのようなものを二の腕に巻いてくれる。やたら薄くて、なんの変哲もない布を巻いているみたいだった。

 「これは新世界の劣悪な環境に耐えるために研究者が開発したパワードスーツの一種です。腕、足に巻くことにより、その部位から末端までの神経伝達を倍増させ、本来人間が無意識に抑えている筋力を2倍に引き上げることができます」

 僕は付けてもらったバンドを触りながら嘆息する。こんなものにそんな力があるとは思えないのだけれど。

 「……あの、サラ、何してるの」

 いきなりズボンを脱がせ始めたサラに、僕は慌てて身を引く。

 「ズボンを脱がなければ足にも付けられません」

 サラがにじり寄ってくるものだから、僕は諦めて自分でズボンを脱ぐことにした。

 それからサラが僕の両の太ももにバンドを付け終えるまで、あられもない姿で待つことになった。




 「そういえば聞きたかったんだ、その研究者っていうのはどこにいるの?」

 サラがバンドを巻き終えたのを確認してすぐにズボンをかき上げる。半裸の僕の目の前に跪いてもぞもぞ動かれるのは、主に道徳的な意味でよろしくない。

 これだけ大きな施設だ、施設を維持してきた従業員や、サラ以外のアンドロイドがいるはずだけど……。

 「現在当施設において生存している研究者は0名です。記録によると当施設内の研究者は1億3800万年前に絶滅しております。ですがその当時、ハル様たちと同じようにコールドスリープに参加した研究者が存在します。残念ながら、まだ覚醒していないようですが」

 じゃあ、ここにはサラ以外に誰もいないのか。

 「私の他に存在していた同型アンドロイドは、3000年ほど前に機能を停止しています。ですが、起動前のアンドロイドがLEVEL5区域に貯蔵されていますので、研究者の覚醒後、私以外のアンドロイドが稼働するはずです」

 3000年……ということは、サラはその莫大な時間をひとりで過ごしてきたのか。

 「……淋しくなかったの?」

 ふと口をついて言葉が出てしまう。サラはやっぱりいつもどおりの無感情な瞳で僕を見る。

 「私には感情がないので」

 サラはロボットだ。淋しいどころか、涙を流すことも、喜びに体を震わすこともできない。

 じゃあ、何でそんなに辛そうな顔をしてるんだろう。

 「サラはいつ生まれたの?」

 いや、生まれたというのは少し違うのかな。でも、僕の口から素直に溢れた単語がそれだった。サラはあまりにも人間に近すぎた。見た目も仕草も、言ってしまえば表情だって、僕からしてみれば豊かに見える。感情がないのは本当だと思うけど。

 「生まれた――という表現が、私の稼働開始を表すのであれば、約1億6000万年になります。この施設内では古いタイプのアンドロイドですので、あまり機能は多くありませんが」

 そんなことはない。サラには感謝しきれないくらい助けてもらっている。

 「私と、私と同型のアンドロイドには、自動学習機能が備わっています。ですので、ハル様とカナ様の表情を見て、私も自然と感情というものを覚えてきたのかもしれません」

 もしかしたら、サラにもそういった自覚があるのかもしれない。

 しかしこの広大な施設にサラはひとりだけだったのか。今は僕とカナしかいないからそれでも事足りるのかもしれないけれど、サラは何を思いながら3000年もの時間をひとりで過ごしたのだろう。生きている時間だけだったら僕はサラよりもはるかに長い。だけど人間は1年の孤独でも耐えられない生き物だ。

 僕は3000年の孤独を過ごしてきたサラの後ろ姿を見ながら歩き続けた。サラは孤独なんて気にしないかもしれないけれど、僕はなるべくサラの隣にいよう。少しでも彼女の時間を埋められるように。

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