4 母
ある日、わたしが何気なく母に聞く。
「ねえ、お母さんは、お父さんのどこが気に入って結婚したの?」
それに答え、母が云う。
「まあ、悪い人じゃなかったからね。それにわたしのことを好いてくれたし……」
予想に反しない母の答だ。
この人は答はいつもこんなふう。
だから、わたしは続けてこう云う。
「ふうん、そんなもんなんだぁ。やっぱり出会いとか、きっかけとかあるのかしらね?」
それに対する母の答がわたしの予想を裏切る。
「ところで真悠子はそれ以上のことを訊ける歳になったの? どう?」
えっ?
「えっ?」
「えっ……じゃないわよ。どうなのよ?」
母の問いかけの意味がわからず、わたしがただ戸惑う。
「さあて、どうなんだろう? 自分じゃ良くわかんないよ」
「情けないのねぇ。自分のことでしょう?」
「それはそうだけど……」
他に答えが思いつかない。
「でも何? お母さん、思わせ振りに……」
わたしが問うと、
「まあ、若い頃にはいろいろあったからね。お母さんにだって……」
と謎めいた笑みをわたしに向け、ただし口調も態度もわたしの良く知る母のままに母が答える。
「……ってことは揉め事があったわけ?」
わたしが訊くと、
「揉め事って云うんじゃないけどね」
と先ほどとまったく同じ表情で母。
「訊きたいんなら話すけど、他の人に云っちゃやーよ」
わたしは時々この人の年齢がわからなくなる。
実年齢は四十五歳のはずだが、子供に戻ったり、またいきなり枯れたお婆さんに変身したりするからだ。
少しだけ悩み、わたしは母の話を聞こうと決める。
「じゃ、聞く!」と答えると、
「紅茶を入れてくれる。わたしはケーキを切るから」
と母が云い、すっくと卓袱台から立ち上がる。
……と同時に、いつもの忙しいオーラが立ち昇る。
日曜日の昼間、家にはわたしと母の二人しかいない。
父は出張の中日で現地にいたし、兄は彼女か友だちの家に遊びに行っていたと思う。
天気が良かったので、わたしもその後出かけようと思っている。
「お母さん、結婚前、一応事務として働いていたのよ。小さな建設会社だったけど」
それは前に数回聞いたことがあったので、わたしはそう受け答える。
さらにバイクかスクーターを乗りまわし、得意先に荷物や書類を送り届けたことも聞いている。
現在の見た目、運動神経皆無の母からは想像できないような仕事振りだ。
「平衡感覚とかは良かったみたいね。だけど今じゃ、自転車だって乗るのが怖い」
少しだけ遠い目をして母が云う。
口調は変わらない
「混雑しているバス通りなんかは、特にね。この辺りもアパートとかマンションがいっぱい出来て人が多くなっちゃたわよねぇ?」
話の筋が見えないが、おそらく主題とは関係ない内容だと判断する。
だから、
「それで?」
と先を促す。
「男の人に奥さんがいて、その男の人と付き合ったりしたら不倫よね」
「えっ、ウソ?」
「お手伝いに毛の生えたような事務仕事だったけど、事務担当は二人いてね。女性は他に経理がいたけど、その経理が奥さんだったのよ」
判り辛いな。
「で、その旦那さんは一級建築士で、扱いは社員だったけど社長さんのお友だちだったから事実上は役員に対しても結構意見が通ったのね。役員は当然のように社長さんの家族」
「それで?」と、わたし。
「仮にSさんとしておくけど、その一級建築士の人が今で云うイケメンでね。背が高くて、肩幅が広くて、脚も長かった。だからお母さんはそうでもなかったんだけど、お母さんの同僚が熱を上げてしまって」
さて、話は何処に至るのだろう?
「で、仮にYさんとしておくけど、その同僚の方も美人じゃなかったんだけど見ていてホッとするような可愛い人でね。YさんからSさんに向けた秋波をお母さんが感じて暫くすると二人の間で恋の鞘当が始まって。まあ成るようになったわけよ」
「で?」
「詳しいことは知らないけど、やっぱり関係がバレてね。修羅場があって、結果的にYさんとSさんがくっ付いて会社を出ていったという顛末」
「それが?」
「うん。だからね、会社のみんなの目がそっちを向いてたから、そのときわたしの不倫はバレなかったっていうお話」
「お母さんっ!」
「当時は両親に無理を云って会社近くのアパートに住んでたんだけど、まあ結局相手の奥さんにはバレてね。両親にはバレなかったんだけどさ。でね、留守電に不倫相手の奥さんが恨み節を繰り返し吹き込んだり、あるいは無言電話を入れたりしてね。最後の方ではナイフを持った奥さんが血相を変えてアパートの階段を上がって来るものだから、気配を感じて窓から逃げたりして大変だったわ」
嘘でしょ?
「その奥さんの方も段々ノイローゼみたいになってきてさ。だからセックスは上手くて指だけで逝かされたこともあったんだけど、お母さん、その不倫相手とは別れたのよ。雰囲気の悪さ……っていうか、毎回の喧嘩に倦んでしまって」
「それって?」
「お父さんがってことなら、もちろん知ってるわよ。あの別れの前にお父さんがお母さんの近くに現れなかったら、お母さん、まだ不倫相手と付き合っていたかもね。まあ、実際にはそんなこともないんでしょうけど。吃驚した?」
満面に笑みを浮かべて母が問うので、
「うん、吃驚した!」
と、わたしは答える。
すると、
「じゃ、もう一度、吃驚させてあげようか?」
胸を張り母が云うので耳を澄ますと、
「今のは全部嘘よ。お父さんの小説の中のお話だわ」
してやったりという顔で母が話を締め括る。
「原案料を貰っておけば良かったわね」
……えっ?
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