第3話 人の子は塔に住む

インサニア。少女はそう名乗った。高原に咲く花の名だ、とアシュリテは気付いた。

初めましてではない、とインサニアは言った。しかしアシュリテは記憶のどこを探してもインサニアという少女を見つけることはできなかった。


「手を出して」

インサニアがそう言い終わるより早く、アシュリテの両手を掴んだ。手錠が嵌められている両手だ。手錠の内側には棘が付いていて、ギチ、と音を立ててアシュリテの肉を裂いた。インサニアの白い手にもアシュリテの赤い血が付いた。

「ひどいわ」

「大丈夫だよ。小さい頃から付けてるから」

「アシュリテは今も小さいでしょ」

アシュリテの方がインサニアより背が高かったが、アシュリテは何も言い返さなかった。もしかして、インサニアの方が年上なのだろうか?インサニアはそれを知っているのだろうか?そう考えると言い返すことはおかしなことのように思えたからだ。

インサニアはポケットから錆付いた鍵束を取り出すと、そのうち一番小さい鍵を選んでアシュリテの手錠に差し込んだ。カチン、と小気味の良い音を立てて手錠が開いた。

「ほら。外れたわ。もう痛くないでしょ?」

「うん、痛くない。でも外していいの?怒られない?」

誰に?という言葉をインサニアが飲み込んだようにアシュリテには見えた。唇を噛んで斜め下を見たインサニアは、それっきり何も話さなくなってしまった。

投げかける言葉が思いつかないアシュリテは、ぐんぐん遠ざかる城と、凄い勢いで

後ろに流れて行く景色を見ていたが、ふと聞き覚えのある音がすることに気が付いた。


りんりんりんりんりんりん。りんりんりんりんりんりんりんりんりんりんりん。


霧鐘の音だ。この音が聞こえると霧が出てくる。

アシュリテはそれをインサニアに伝えようとしたが、彼女は突然しゃがみこんで竜の背中を右手でさすり始めた。すると竜は大きく一鳴きし(爽やかな突風が吹きぬけるような音だった)、翼を力強く羽ばたかせて斜め上へと飛び始めた。産まれたての霧が下へ遠ざかる。地上へ降り続ける雪も、彼らの故郷である雲も、下へ遠ざかる。

アシュリテとインサニアを乗せた灰色の竜は、いつの間にか雲よりも高く飛んでいた。

見渡す限りの雲の海はどこまでも広がっていて、遥か彼方で真っ黒な空と同化し、一生かかっても数え切れないほどの星たちが燃えるように輝いていた。アシュリテとインサニアと灰色の竜は、無限に広がる光の粒の中にいて、アシュリテはまるで自分が溶け出して世界と一体になってしまったような錯覚すら覚えた。

「霧は、この子には有害なものだから。霧の無い場所を飛んで行くわ」

インサニアの言葉がアシュリテを現実に引き戻した。


「霧鐘の音は、私にも聞こえるの」

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灰色の竜は飛び方を知らない Carpe Diem @carpediem

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