Ⅱ
――時は数時間ほど遡る。
雇い主であるエルに呼び出されたのが昨日のこと。渋々ながら仕事の依頼を引き受けたノクトは、日が昇るとほぼ同時に家を出て、まっすぐある場所に向かった。
場所は王都下町の場末も場末。下町で――いや、もしかしたら王都で一番繁盛しているとも言われている店、『ノルンの泉亭』。
しかし、当然ながら朝食を食べに来たわけではない。時間はまだ明け方。むしろこの店はようやく閉店作業に入った時間だ。
だが、ノクトはそんなことは気にせず店の入り口をくぐった。
「おはようさん」
「もう店じまいだぞー……って、なんだ。ノクトか」
振り返った店主が面倒臭そうに顔を顰めた。
「なんだとはご挨拶じゃないか。常連客だぜ?」
「こんな時間に来るってことは、飯じゃあないんだろ?」
「まあ、その通り」
「だったらとっとと済ませて帰れよ。店、閉められないから」
「失礼な店主だな」と適当に相槌を打ちつつ、ノクトは店の中を見回し、お目当ての人物を見つける。
「エリスさん、ちょっといいですか?」
「ん~?」
間延びした、しかし鈴の音のような綺麗な声量による返事と共に、店内のテーブルを拭いていた
この店の古株店員、エリス・インファンジュ。朱瞳の双眸が現在半分程閉じているように見えるのは、単に眠いからだろう。
「ん~、ノクト君か。どうしたの?」
それでもちゃんと受け答えができる程度には意識がはっきりしているらしい。酷い時は作業しながら寝ていることも少なくないのだ、この人の場合。
そんなエリスに向け、ノクトは苦笑いする。
「朝早くに申し訳ないんですが……『下』、行けますか?」
「『下』?」
言われた言葉の意味が判らなかったのか、エリスはぽかんとしたように首を傾げた。が、それも一瞬のこと。すぐに合点が言った様子でぽんと手を叩くと、眉を顰め難しそうな表情を造って言った。
「うん、今日はいるよ。でも、機嫌は悪いかも」
「あの人はいつも機嫌悪いでしょ」
「それもそうだね」
言って、からからと笑うエリス。何処か摑み処のない彼女の様子に微苦笑しながら、ノクトは『ノルンの泉亭』の奥へ向かった。
その場所は一部の人間のみが知っている、言わば秘密の通路だ。そして、この店が繁盛する理由の一端でもある。
一見すれば店内の壁と何も変わらない。しかし、その壁の前でノクトは足を止め、身に纏う黒いコートのポケットから、古びた鍵を取り出し、それを翳す。
瞬間、鍵が淡い光を放って鳴動した。呼応するように、目の前の壁も震え――一瞬の間を置いて、壁の外装が一変する。木目の壁が消え、代わりに現れたのは開けるだけで一苦労しそうな印象を抱かせる分厚い鉄扉である。
どうにもこういう重そうな扉と縁があるのだろうか? と自嘲しながら鍵をしまい、その扉を潜ると、その先に広がっているのは地下へと続く階段だ。いつ見ても不気味なこの階段を、ノクトは億劫そうな吐息を漏らしながら降りていく。
心許ない照明を道標にして一分ほど階段を下り、ようやく目的の場所へ辿り着く。
現れたのは、またも鉄の扉だ。前の扉と違うのは、目の前の扉は随分と高度な技術で造られた物だということだけ。
その扉を、ノクトはまず二回ノックした。そして呼吸二回分の間隔を開けて、今度は三回ノックする。
すると、目の前の扉が音もなく横にスライドし、
「――入れ……」
酷く不機嫌そうな声がその奥から。ノクトは肩を竦めながらその声に従い、中に入った。
その部屋に入って最初に目につくのは、異様に散乱とした室内の惨状――だとノクトは思っている。
小さいものは本に始まり、大きなものは果たしてこんな一室のために必要なのかと疑問に思ってしまう
その真ん中に設置された、辛うじて作業するための
「……っち」
舌打ちをすると、まるで何事もなかったかのように視線を端末に戻す様子を見て、ノクトは早々に回れ右をしたくなった。が、何とか思い留まって咳払いする。
白と黒の混じった斑髪に、恰幅のいい体格を糊のきいたシャツとスーツに包んでいる。見た目は若いほうだが、何処となく老け顔。そしてその全身から醸し出される、胡乱且つくたびれたその様子から、彼の実年齢を正しく理解できる人間はまずいないだろう。
男の名はアルゴ・ブラッドベリーという。
職業は〈情報屋〉というこの上なく怪しい仕事だが、彼の下に集まる情報量と信憑性は王国内でも随一と言われていて、情報の取り扱いで彼に勝る者はまずいない。
何よりこの男の存在を有名にしているのは、それこそ『ノルンの泉亭』に設けられた制約――『不戦の条約』を造りだした立役者の一人だということだが、それは置いておく。
重要なのは、この男は信憑性のある情報を取り扱っているという、その一点だ。風体が怪しかろうが関係ない。なによりノクト自身がこの男を信用して情報を買うのだから、もし
「……何しに来た?」
「〈情報屋〉のところに来る理由なんて一つしかないでしょう?」
「なら用件を言えよ、クソガキ」
口の悪さは彼の機嫌と比例式だ。どうやらエリスの言う通り、そうとう虫の居所が悪いらしい。
ともなれば、長居は無用だ。そう判断したノクトは、早々に話を切り出す。
「用件はふたつ。負素を動力にした兵器の噂――そういうのが出回っていないか。出回っているなら、それは何処からか、だ」
「あー……」
尋ねた次の瞬間、アルゴは酷く億劫そうに眉を顰め、その斑な髪を掻きあげた。不機嫌そうな渋面と共に、彼は手元の端末をデスクの上に置くと、代わりに大型の端末に手を伸ばした。
「……『
端末を弄りながら、アルゴが言う。聞き慣れない言葉に、ノクトは首を傾げた。
「
「ちげーよ、莫迦が。今日は飲んでもいねー」
的外れなことを言うノクトを見て、アルゴは鼻を鳴らす。カタカタと端末に直結した端子のキィを叩きながら、男は渋面しながら簡潔な説明を投げる。
「便宜上、そう呼ばれてんだ。正体不明のイカれた兵器ってことで、一部ではそう呼んでる」
「便宜上の名前があるくらいには出回っているってこと?」
「それほどでもねぇ。まだ試験段階らしく、出回ってるのはほんの少しだ。おそらくは
どうでもよさ気にアルゴは言うが、それだけでも充分問題だ。試験動作がされているということは、その後の展開があると考えて間違いない。
「出処は?」
「そこまでは知らねーよ」
肩を竦めながら、即答が返ってきた。その様子からして、別に隠しているわけではなく、本当に知らないのだろう。聞かれない情報を教えることはないが、聞かれた情報を提示しない、ということをこの男はしないのをノクトは充分に知っているので、そう判断した。
が、一瞬の間が開いた。彼の叩いていたキィの音が僅かに止まり――大きく嘆息。
「……だが、次の
「このタイミングで?」
「ああ。最高に最悪のタイミングで、だ」
「クソみてーだ」と、忌々しそうにアルゴが嘯く。そんな彼の様子に苦笑しつつ、ノクトは無言で続きを促す。彼は厳めしい表情で、舌打ち交じりに答えた。
「どうにも、大々的に宣伝している莫迦がいる。『新技術の兵器を手に入れた』って、調子に乗って敵対連中を挑発してな」
「愉快な玩具を手に入れたからって、自慢したい子供か」
「された連中は迷惑きわまりねーがな。そして奴らに
「
「はっ!
それもそうだ。納得し、ノクトはコートのポケットから携帯端末を取り出した。画面に受信表示されているのを見て、ノクトは即座にファイルを開く。
組織名は『ブロート』。
裏社会に属する組織としてはまだ新興勢力らしく、構成員は最大で四〇人前後。その内響律式を操れるものが少数所属。資金源は違法武器の売買。誘拐。それに伴う人身売買などなど。
しかし縄張りを無視した行動が仇となり、最近ではより別の組織に目を付けられて大きな動きが出来ずにいたとか。
「そして体よく使われている……ってところか?」
「まあ、そいつらからすれば藁にも縋りたいんだろうよ。自分たちの実権を盤石のものとしたいのさ」
出しゃばったり、分を弁えない連中は直ちに淘汰されていく。
だから、その絶対的な法則に抗う術が手に入るのなら、出所が怪しかろうが、裏があろうが関係ない。使えるものは使う――そういうことなのだろう。
無論、『ブロード』の事情など知ったことではない。『ブロード』には『ブロード』の事情があるように、ノクトにはノクトの
途中障害となるのならば、実力行使もやむなし、だ。
そう心に聞かせると、ノクトはさっさと身を翻す。回れ右をしながら「料金はいつも通りで」という捨て科白を残すことを忘れない。
「料金明細は後で送る。期間は届いてから二週間。それ以内に指定金額が振り込まれない場合は、覚悟しておけ」
投げつけるようなアルゴの声に、了承の意味を込めてひらひらと手を振って見せる。
背中に投げかけられた彼の声音は、終始徹底して不機嫌なままだった。
◇◇◇
それは『ノルンの泉亭』を出てすぐのことだった。
背中に冷たい何かが走るのを感じ、ノクトは何でもない風体を装いながらその悪寒の正体を探り……
――失敗したな……。
と、ノクトは胸中で毒づいた。
一人、二人、三人……七人――
歩きながら気配を探りつつ、コートのポケットに手を入れて端末を操作。簡易化した緊急信号を送信する。送信完了を示し小さな電子音がポケットの奥からなるのを聞くと、ノクトは小さく溜め息を零した。
そうして石畳の傾斜をふらふらと歩き――飛び込むようにして脇道へと身を滑らせると同時、思い切り地面を蹴って細い路地を疾駆した。
同時に幾つもの気配が躍り出る。
響素が生み出す弾丸が銃口からマズルフラッシュと共に迸る。
戦慄が背後の彼方から。同時に小さな悲鳴が幾つか聞こえてきたが気にも留めず、ノクトは更に曲がり角を右に、続いて更に左へと曲がる。
しかし、追従する気配は消えない。それどころか、数を増しているような気がする。
「あー、しつこい。それと鬱陶しい」
苛立ちを吐き出すように声に出す。出しながら見えてきた角に飛び込もうとして――殺気。直感に任せて足を止めると、その角からナイフを手にした影が飛び出してきた。あのまま走っていたら、側頭部に直撃コースだ。胴体ではなく頭部を狙ってくる辺り、殺意に溢れているが殺しに慣れていないように感じる。
が、殺す気で掛かってきている以上、こちらとて容赦も遠慮もしない。
「危ねーだろ」
言いながら右足を振り上げる。蹴り上げるというよりは、飛び上がるような蹴足が閃き、襲撃者の腕を蹴りつけた。
ナイフが零れ落ち、襲撃者が困惑するのを尻目に、容赦なくその顔面に拳を叩き込む。硬い感触に何かが割れる音。
暗がりで、且つ急いでいたために確認していなかったが、良く見ると襲撃者は真っ白い仮面を被っていた。感触と音は、殴った衝撃で仮面が割れたことによるものだと理解する。
叩き込んだ拳を、踏込と同時に思い切り振り抜く。拳打の衝撃と同時に後頭部が壁にめり込んだような手応えがあったが、これっぽちの罪悪感も抱かない。
ピクリとも動かない襲撃者をそのまま放置して再び遁走。慌ただしい気配を背後に感じつつ、ノクトは迫る壁に向けて思い切り跳躍。更に壁を足場に見立てて再度跳躍。三角跳びの要領で更に数回跳び、建物の縁に手を伸ばした。
上手く縁を摑むと、そのまま身体を持ち上げて屋上に身を躍らせる。見下せば、先ほどの襲撃者と似たような格好の連中が見えたが、構わず走り出――そうとして、足を止める。
「……随分と先回りされてるな」
目の前に立ちはだかる影法師に向けて苦笑した。
出で立ちは追跡者たちと似たようなものだ。違うのは、他の追跡者の身に纏っていた全身を包み隠すようなマントではなく、フードつきの黒い
「……随分と逃げ足に自信があるようだが、これ以上は逃げられまい?」
低く、可能な限り感情を押し殺した声で放たれる宣言。目深にかぶったフードの奥から注がれる、貫くような視線に対し、ノクトは銃口を向けつつ問う。
「で、おたくらはなんだ? どうしておれを追っかけ回す?
適当に皮肉を吐きつつ周囲を警戒するが、すでに手遅れのようだ。
いつの間にか、正面に立つ男の両隣に影が二つ。両側面に二人ずつ。そして背後に三人……どうやら完全に囲まれたらしい。
しかも包囲網を作っている連中は揃って左手をノクトに突きつけていた。見ればその手には全員機械仕掛けの手甲――
全員が
響律式使とは、三百年前の大災害以降、負素と共に世界に出現したもう一つの元素粒子――
指揮甲は、その響律式を操るための
幾らノクトの着ているコートが対術式加工を施しているとは言っても、これだけの人数による響律式の一斉掃射の前では防御力も紙切れ同前だろう。
大人しく〈黒閃〉を置き、
「どうやら……噂は本当のようだな」そんなノクトを見て、正面の影法師が囁いた。「『黒騎士』……この空界で響律式の使えない人間……まさか本当に存在するとは」
男のぼやきに、ノクトはやれやれと肩を竦めて見せた。その左手で、お飾りの指揮甲が軽い金属音を鳴らす。
「おれも有名になったもんだな」
「ほざくなよ、『黒騎士』」
阻むように恫喝する。フードの奥に覗く眼光が鋭くなった。
「我々はそのような些事に囚われるほど狭き視野で動いているのではない。我らは我らの目的のために動く。そうでなければ、貴様のような小物を生かすものか」
「そいつは有難い。あまりの厚遇さに嬉しくて震えが止まらないな」
やんわりと苦笑。同時に良く調べていると感心する。
男の言う通り、ノクトは響律式を操ることができない。正確にはノクト自身が意図して操れる響素というのは極端に低いらしく、常人が必要とする量の響素では響律式を発現できないのだ。
響律式は現代技術を支える根底となる技術であり、戦術である。当然、戦闘が主な仕事である傭兵たちはそれを戦闘技術として行使する。
その中で、一度として響律式を扱うことのない傭兵がいれば否応なしに目立つのだ。
見当違いな侮言と暴力にさらされたことも少なくない――特に、響律式や響素を神聖視する者たちからは……。
だが、目の前の連中は少なくともそうではないようだ。まあその場合、まったく別の疑問が生じるわけなのだが。
「我々に対しての言及は無意味だ。時間と労力の無駄な問いかけは無用」
一同を統率する影法師が言う。先に牽制された。どうやら答える気はないらしい。
「『黒騎士』……貴様はあの〈情報屋〉から何を聞いた? そして今、何をしようとしている?」
「こっちの疑問にはお答えしてくれないのに、そっちの質問には答えろってのは――あまりに一方的な要求じゃないか?」
「当然だろう? 我らは貴様を制する力がある。しかし、貴様に我らを制する力はない――それこそが、我らにのみ一方的な要求を成すことを許している。そして――」
すぅ……と、影法師の腕が持ち上がる。ゆっくりと、だが滑らかで自然な動作。その手に握られている砲筒がなければなお嬉しいのだが、現実はそうもいかない。
「――これ以上の言葉遊びは不要だ。答える気がないのならば、即刻消えてもらうぞ、と」
淡々と影法師は言う。事務的で冷徹な科白だが、目の前に突き付けられた砲筒と、声音の内に宿る殺意は現実的な脅威だった。
そして――目の前の影法師は、きっとそう判断したら迷いなく引き金を引く。
それは想像でも予想でもない。
口にした言葉や、態度から悟ったのではない。
影法師の全身から滲み出ている、隠す気もない明確な殺人者の気配が、そう確信させるのだ。
目の前には自分の頭ほどある銃口。周囲には待機状態のまま展開された無数の響律式。
「返答は如何に?」
影法師が問う。
答えの代わりに、ノクトは口元に笑みを浮かべた。
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