ユグド王国の王都グランベルというのは、王城を中心に山を下る形になって円を描くよう『街』が広がっている大きな都市である。

 その王都内にしては辺鄙な、それこそ下町と裏町の間に位置する立地にある店の中では間違いなく繁盛している酒場にして飲食店である『ノルンの泉亭』は、本日もその例にもれず客で溢れ返っていた。

 客層も年齢もてんでバラバラ。ぼろきれ当然の服擬きを着ているスラムの人間もいれば、身綺麗でどう見ても高級そうな衣装に身を包んだ金持ちもいるし、汗水垂らした労働後の屈強の男衆や、見る者が見ればすぐに一般人カタギじゃないと分かる物騒な連中もいる。老いも若いも入り乱れている。

 『ノルンの泉亭』は、いろんな立場の人間が、いろんな場所から集まる稀有な酒場だ。それだけ様々な理由があってこの場所にいて、その人たちの数だけ様々な情報が錯綜している。

 だから、昼飯時はとうに過ぎたにもかかわらず、この店の客足が減る兆しはない。店が開いてから店が閉まるまで。常に客に恵まれ、ただ飯を食って酒を飲んで騒ぎたい客も、何かしらの情報が欲しくてやって来る客も混じり、結果いつでも騒がしくしているのがこの店の特徴だ。値段の安さとそれに反比例する料理や酒の美味さも、そして流れてくる情報の質も相まって、この店は常連客でいつもにぎわっている。

 当然、美味い飯に美味い酒をたらふく食って飲んでを繰り返せば、酒とその場の勢いで生じる乱痴気騒ぎも風物詩だ。罵倒が飛び交うこともあれば、拳と拳がぶつかる乱闘だって起きるのも必然。

 だが――店の立地上良しも悪しきも様々な人間が集まるのだ。そうなれば必然的に立場やメンツの衝突などが起きても何ら不思議でもないのだが、この店で刃傷沙汰の暴動が起きたことは、これまで一度もない。

 だからこそノクトは、自分に向かって先ほどから罵声を浴びせてくる男を見て思うのだ。

 こいつはそうとう莫迦なんだなぁ……――と、まるで他人事のように。

 いや、実際に他人事だけど。

 この店の事を知らずに、よくもまあこの王都で傭兵をやっているものだ。しかも見た限りまったくの素人というわけではないだろう。装備を見ても、十分熟練の傭兵というのが判る。

 もしかしたら流浪ながれの傭兵なのかもしれないという可能性もあるが、残念なことにこの男とノクトは初対面ではない。


 名はデルムッド・アキュナス。ノクトより背が高く、短めに切り揃えられた鳶色の髪に金の瞳を持つ、鍛えられた身体を包む鎧衣に浮き上がるほどの筋肉が目立つ男だ。


 初めて顔を合わせてのは半年以上前。ある仕事の際に衝突して以降、行く先々に現れてはこうして一方的な罵倒を飛ばし、時には直接的な暴力で訴えてくるのだから、最早救いようがなかった。

 それでいて『ノルンの泉亭このみせ』のことを知らないのだろうから、やはり莫迦なのだろう断言せざるを得ない。彼は、自身に向けられている視線に全く気付いていないのだろうか。いつの間にか店の中の喧噪は静まり返り、すべての客が剣呑な眼光で男を見据えていることを。

 少なくとも、デルムッドの連れである二人組は気づいている。

「……デルさん、ちょっとヤバいっすよ?」と、男の肩を揺すって警告しているが、男はその手を振り払って「黙っていろ!」と叱声を飛ばす。

 デルムッドの連れには同情を禁じ得ないが……運が悪かったと諦めてもらうしかない。擁護する義理もないわけだし。

 ノクトは溜め息一つ漏らしつつ、自分に飛んでくる暴言を他人事のように感じながら、目の前の更に盛られた料理に匙を突っ込んで口に運ぶ。


「ノクト」


 不意に、隣で黙然としていた連れが口を開く。身長は小柄で、恐らく一五〇センチあるか否か。うなじの長い一房を残して短めに切られた灰色の髪。何処か冷めたような薄碧の瞳。整った容姿は人目を惹くが、その全部を台無しにする感情というものが欠如した声で名を呼ぶ少女に、ノクトは視線だけで「何だ?」と尋ねた。


「人が話しかけているのを無視するのは、失礼に値するのではないですか?」


「自分に向けられる理不尽な罵倒を真正面から受け止めていたいとは、おれは思わないんだけどな。そこのところどう思う? フィーユ」


「興味がありません」


 少女――フィーユは即答した。だろうね、とノクトも肩を竦める。代わりに、


「いい加減にしろ、この……リーデルシュタインめが!」


「人の家名ファミリーネームを悪口みたいに呼ばないでくれないか?」


 背後から飛んできた罵声に嫌気が刺しながら、ノクトは視線をフィーユからデルムッドに移した。


「わざわざ人の後付け回してまで、アンタは何がしたいんだ? デルムッド・アキュナス。おれは長かった仕事を終わらせて、久々に美味い飯を食べに来たのに、わざわざ横で飯を不味くするような罵詈雑言を飛ばさないで欲しいんだけどな」


「貴様が気に食わん」


「完全にそっちの都合じゃないか……」


 あまりに理不尽な言葉に思わず呆気に取られてしまう。ついでにちらりとデルムッドの後ろに並ぶ彼の仲間に視線を向けると、連れの二人は揃ってかぶりを振った。どうやら彼らも理由は知らないらしい。

 どうしたものかと考えた矢先、突如デルムッドがノクトの座るテーブルを強く叩き、威圧するかのように見下しながら言う。


「傭兵の身でありながら、いつでもどこでも女を連れまわしている貴様に、私のような崇高な志を持つ戦士の胸の内が判るものか」


 随分とお門違いな話をしているな、とノクトは思う。

 そもそもフィーユはノクトの相棒バティ――つまりは同業者、れっきとした正規登録されている傭兵である。もしデルムッドの言葉に女性が傭兵をしているのは可笑しいという意味合いが込められているのだとしたら、それはすべての女性傭兵や女性騎士に対する侮辱以外のなにものでもない。


「そもそも貴様のようなやつが、国に認められた認可傭兵アプローヴでいられることが異様だ。一体どのようなこずるい手を弄した?」


 と、ノクトを威圧するために必要以上に鋭くしている眼光が、しかしほんの一瞬だけノクトの隣に向けられたのを、ノクトは確かに見た。


 瞬間、得心が言った。


 ただの嫉妬か。あるいは恋慕か。

 ノクトがフィーユという少女を伴っているのが気に食わないのか。それともフィーユと行動を共にしているノクトが気に食わないのかという点はさておき、ノクトは目の前で肩を怒らせ、渋面を浮かべるデルムッドから視線を逸らし、億劫そうにぼそりと呟いた。


「……面倒臭い奴」


 瞬間、殺気が膨れ上がった。どうやら癇に障ったらしい。

 隣に立つ筋骨隆々とした男の全身から、爆発が生じたような殺気が放たれると同時、その太い腕が煙るような速さで動くのを冷めた視線で見据える。

 その腕に握られているのは大型――ノクトの頭くらいはありそうな大型の自動拳銃オートマチック。傭兵の持つ武器は最低でも主装備メイン副装備サブの二つがあり、傭兵の多くは副装備として銃を好み、デルムッドもその例に漏れていない。

 銃を持つ腕が閃き、銃口がノクトの頭にピタリと添えられる。後は銃爪トリガーを引くだけで弾丸が発射され、ノクトの頭を吹き飛ばすだろう。

 ただし、そうなった瞬間――デルムッドの全身はハチの巣にもなるのを知っているから、ノクトは平然とデルムッドを見て、にやっと笑う。

 代わりに、デルムッドの表情が蒼白になる。

 ノクトの頭にデルムッドの持つ銃が突きつけられているように。

 デルムッドに向けて、ノクトたちを除いたすべての店員と客が銃を向けているからだ。


「ぐ、ぬ、が……!」と、声にもならない喘ぎを漏らしながら、自分に向けられる銃口の数に狼狽えるデルムッドに向けて、ノクトは手にする匙を向けながら言った。


「この店で得物を抜いた時点で、アンタの負けだよ。デルムッド」



      ◇◇◇


 数十という数に及ぶ銃を向けられ、顔を蒼くしたデルムッドが仲間の二人を連れて逃げるように店を去ると、これまでの沈黙がまるで嘘だったかのように店の中が喧噪で満たされた。


「うおいこらノクトー! てめぇ店に問題持ち込むんじゃねーぞ!」


「あっちが勝手についてきて莫迦やらかしたんだよ!」


 飛んできた大音声の野次に向けて負けじと音声を返すと、何処からともなく野太い男たちの哄笑が飛ぶ。


「ちげーねー!」

「にしても見ない連中だったな!」

「王都の外の連中だな、あれは」

「『ノルンの泉亭ここ』のルールを知らねー時点で決まりだろ?」

「『不戦の条約』を知ってたらあんなことできるわけないな!」


 全くその通りだと、ノクトも思う。ユグド王都で傭兵をしていて、『ノルンの泉亭』と、其処に設けられているただ一つの約束事である『不戦の条約』を知らないのは、外来者よそもの素人モグリのどちらかだ。


 『不戦の条約』とは、此処『ノルンの泉亭』に存在する暗黙の了解であり、この店の利用者たちの共通認識とされる――いわば誓約である。


 元々は十年以上昔に、この店の立地やら周辺の抗争やらを始め、様々なトラブルに巻き込まれた時に発足し、店で問題行動を起こす連中に制裁を加えていたのが事の始まりらしいが、その詳細を知る者は少ない。

 ただ、この店を利用する者は必ず誰かの紹介で訪れていて、その折にこの店の約束事を聞かされるのが通例だった。


 一、争いを持ち込むべからず。

 二、得物を抜くべからず。

 三、楽しんで食するべし。

 それらを破る者は、店の客に非ず。店に在る者すべての敵である。


 それが『不戦の条約』である。つまりは『店でどんちゃん騒いで食べるのは構わないが、刃傷沙汰するような奴は全員で私刑リンチする』ということだと、ノクトは勝手に思っている。

 しかしこの制約があるからこそ、この場所には様々な立場の人間が集まるのもまた事実だった。

 この店の中では、この国ユグドの王だろうが貴族だろうが、抗争中のマフィアだろうが平民だろうがスラム民だろうが関係ない。

 店の中ではみんなが平等という共通認識のもと、『王都で最も安全な場所』であり、同時に『王都で最も危険な場所』という文句(フレーズ)が飛び交っていて、事実この店で問題を起こした多くは王都での生活はできないと実しやかに囁かれている。

 何処までが真実で、何処までが背鰭の着いた噂なのかはさておいて、


「やっぱ美味いな」


 この店の料理が美味しいのは事実だと思う。少なくとも、ノクトは仕事で遠出することが多い。その場合、短ければ数日。長い場合は一月前後王都を離れていることがあり、その仕事から帰ってくると、先ず『ノルンの泉亭』にやってきて店主の作る料理を食べにくる程度には美味いと思っている。


店主マスター、御代わりー」空になった皿をカウンターに上げながら言うと、「あーいよ」という返事と共に奥から店主がやってきた。大柄な体躯に毛むくじゃらの髭を生やした、人懐っこそうな丸眼鏡の男が、肉切り包丁を片手にのっそりと姿を現す。


「御代わりは良いが……ノクト。店で喧嘩したら次は蹴り出すからな?」


「へーい」


 おざなりに返事を返すと、店主は微苦笑しながら皿を受け取って奥に引っ込んでいく。


「相変わらず熊っぽいな、あのおっさん」


「それは凶暴そうだ、という意味ですか?」


「包丁が物騒なのは同意するけどな……」


 表情を変えずに言うフィーユに、ノクトは苦笑しながら硝子杯グラスに注がれた水に口を付けた。数分も待っていると、店主が再びのっそりとした動作で姿を見せ、「ほれ、御代わり。残すなよ~」とノクトの前に出来たての料理が乗った皿を置いた。

「分かってるよ」と応じながら、ノクトは再び匙を手にし、料理を口に運ぼうとして――ぴたりとその動きを止めると、渋面を浮かべて溜め息を漏らした。


「お勤めご苦労様、と言っておいた方がいいか?」


「不要です。貴様に労われるなど、不愉快以外のなにものでもないので」


 言葉遣いこそ丁寧だが、口にしている言葉には容赦のない侮蔑が含まれているような気がした。振り返ると、そこには下町の酒場には似つかわしくない、一見して高価と判る意匠の施された服に身を包んでいる女性が立っていた。

 この王国の騎士――あるいはシュヴァリエと呼ばれる軍人が身に纏う制服。それも一般兵に支給される物とは異なる、白を基調とし、金で縁取りされた制服。それだけで階級はかなり高いのが判る。

 身長は目測約一七〇センチ。女性にしては長身。髪の色は少しくすんだ金髪に碧眼。容姿の特徴については、店中の男どもが揃って目を見開き凝視して、だらしない表情を浮かべるくらいに美人だと言えるのだろう。

 その美人が、表面上こそ冷静を装っているが、全身からにじみ出る不機嫌と不愉快の二感情が肌を打ってくるように感じ、ノクトは曖昧に笑みを浮かべて問うた。


「それで、今度はなんの伝言を頼まれたんだ? メリア・イスマール少尉殿」


 そう名を呼ぶと、メリア・イスマールは僅かに柳眉を吊り上げた。しかし、それ以上の行動アクションはこれといって起こさず、代わりに小さく咳払いをして、


「――第二飛行艇団所属認可傭兵アプローヴ識別名コード黒騎士シュヴァルツァー』へ通達」


 そう呼ばれた瞬間、思う。嫌な予感がするな……と。

 そもそも前置きの時点で――いや、それこそメリア・イスマールが姿を現した時点で、良い予感はしない。ましてや彼女が伝言板(メッセンジャー)としてこの場所に来ているというのがそのまま証明となる。


「『炎姫フレア=ナール』より、本日一五ヒトゴ〇〇マルマルまでに団長室へ出頭するように、とのことです」


「……了解」


 復唱する気にはならず、ただ微苦笑を浮かべてそう言葉を返す。

 するとメリアは「ふんっ」と鼻を鳴らすと、最早この場所に用はないとでも言わんばかりにその場で綺麗に回れ右をし、


「それでは、時間に遅れないように」


 そう言い残して、彼女は颯爽と店の出入り口から去って行った。その後ろ姿をノクトとフィーユ、更には店にいた大多数の客が半ば呆然とした様子で見送る。

 何処か騒然とする店内の中、ノクトは溜め息一つ零すと、改めてカウンターに向き直って食事を再開する。

 そんなノクトに、隣に坐る少女は問う。


「行くんですか?」


「そりゃ行くだろ」


 食べながらノクトは即答する。


「なんせ雇い主から直々の招集だぞ? まあ、正直に言えば行きたくはなけどな……」


 そう言って苦笑する。

 先ほどメリアが言った通り、ノクトは認可傭兵である。

 認可傭兵とは、通常の傭兵――身分の保証や国の保護を受けることのない自由傭兵フリーランスと異なり、文字通り国から認可された傭兵。つまり国軍と直接契約することで、その組織・指令系統に組み込まれた傭兵のことを指す名称だ。

 ノクトは現在、ユグド王国の軍――王国騎士団〈シュヴァリエ〉の飛行艇団第二師団の麾下にある。

 契約相手はその第二飛行艇団の団長だ。その団長から直々の呼び出しとなれば、ある程度仕事の選択権を持つ認可傭兵でも断るわけにはいかない。


「何より、媚びは売っておいて損はしないだろ?」


「そういうものですか」


「そういうものさ。たぶん」


 よく分からないとでもいう風に首を傾げる少女に、ノクトはそう言って頷いて見せた。




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