雨と犬と少年

サライ サラ

第1話

 雨の日は好きだ。


 しとしとと降り注ぐ雨の音は不思議と心を落ち着けてくれる。


 小田潮おだしお)はそんなことを思いながら学校帰りの道を歩いていた。


 傘を差したそこは自分だけのもの。煩わしい人間関係をほんのひととき忘れることができる小さな世界だ。


 お気に入りの赤い傘をくるりと回すと、水滴の軍勢が傘の表面を滑り少し大ぶりな雫となって地面へ落ちていく。


 そんな些細な出来事も潮にとってはとても素敵なことのように思えた。



(あ……)



 住宅路の角を右に折れたところで思わず足が止まる。


 数歩先の電柱のそばに、三人の少女たちがしゃがみ込んでいるのが見えたためだ。


 少女たちの傘の下に覗く濃紺の制服は潮と同じ高校のもの。さらによく見れば、三人は同じクラスの少女たちだった。



「可哀想にね」


「ひどいことするよね。連れて帰りたいけどうちのマンション、ペット禁止なんだ」


「そっかあ。うちは猫飼ってるから、たぶんお母さんがダメって言うと思うんだよね」



 三人の少女たちは電柱を囲むようにしてそんな会話を繰り広げていた。


 その話しの内容から彼女たちがなにをしているのか、潮は推測できたが、足を速めて少女たちの横を通り過ぎようとした。


 瞬間、きゅんきゅんとか細い鳴き声が鼓膜を震わせた。



「……」



 ほんの少しだけ傘を上げて窺うと、少女たちの向こう側に、雨に濡れるダンボール箱が見えた。


 その中から子犬がひょこりと顔を出している。薄茶の毛色に垂れた耳が可愛らしい犬だ。


 子犬の黒くつぶらな瞳にじっと見つめられた気がして智佳は視界を細く狭めた。


 薄情な行為に憤りは覚える。しかし、少女たちと同じように子犬の傍に歩み寄ろうとは思わなかった。


 子犬のそばに行ったところで、最終的に連れて帰ってやることはできない。


 潮の母は動物の毛にアレルギー反応を起こしてしまう体質なのだ。両親に訊かなくとも自分の家で犬を飼えないことはわかっていた。


 今、子犬に優しく接して満足するのは自分の心だけだ。雨の中に置いて行かれる子犬からしてみれば、潮の家の事情など関係ないだろう。



「あ、そうだ。お昼の残りあるからあげるね」



 少女たちのうちの一人がそう言ってカバンの中からパンの入った袋を取りだした。


 ダンボールの中の子犬が嬉しそうに顔を上げ、パタパタと尻尾を振っている。


 そこまで見て智佳は再び前を向いて歩き出した。


 雨に濡れ、ほこりで薄汚れたか弱い命は、今この時だけの恵みにも無償の喜びを見せている。


 再び寒空の下に置いて行かれる事なんてきっと知らないはずだ。



(私にはできない……)



 潮は心の中で呟くと、傘を目深に差して他人から自分の顔が見えないようにした。


 一度歩み寄ってしまったら、きっと子犬を見捨てて帰ることなんて出来なくなってしまうだろう。



(だったら、最初から近づかなければいい……。私には関係ない……)



 いつもなら心を落ち着けてくれるはずの雨音が今はなぜか帰路を急かしているような気さえする。


「やっぱり、お腹すいてたんだねー」


「見て、ほら。鼻にクリームついちゃった。かわいいねー」


「連れて帰ってあげられればいいんだけどね。ごめんね」



 少女たちの声が背後から聞こえ、潮は無意識に傘の柄を握る手にぎゅっと力を込めていた。と、そのときだ。



「その犬拾うの?」



 ふいに後ろから少女たちとは違う低い声が聞こえた。



「……」



 肩越しにちらりと視線を向けると、少女たちのすぐ近くに制服姿の背の高い少年がいた。


 詰め襟の制服は智佳の通う高校とは別の学校のものだ。


 いくら小降りとはいえ、少年はこの雨の中傘も差さずにずぶ濡れで立っていた。

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