歯科助手の秘密
葉桜色人
歯科助手
『男の憂鬱なんてみっともないですよ』と一人の歯科助手に言われた。マスクの下はきっとあどけない顔のくせに、田舎のおふくろみたいに説教っぽく言うのだった。長い睫毛が印象的な歯科助手は、うがいをする僕の横で、そっと小さな声で囁くのだった。こっちはこっちで、口の中を見られてるんだ。すべてをさらけ出して、恥ずかしい思いもしてるのに、そんな風に言うなんて失礼な歯科助手だよ。
「君はそう思わないか?僕は何も口の中を見せたい訳じゃないんだよ。致し方ない状況になったんだ。二日前から奥歯が痛くなって、このままだと眠れなくなるだろう。だからわざわざ会社終わりに、この歯医者に来たんだよ。初めての歯医者だし、ホントは見たいテレビ番組があったから、今日は早く帰りたかったんだ。ああ、もちろんそんな理由は君にとったら知ったこっちゃないと思うよ。そりゃ、予約も無しで診察してくれたのはラッキーだと思ってる。でもさ、君とは初対面で僕という人間を知らないだろう。それを君は、僕に向かって男の憂鬱はみっともないって、それはないぜ……」
僕は心に思っていた気持ちを吐き出すように、その歯科助手に言い返した。無論、その歯科助手は謝ってくれるもんだろうと思ったが、長い睫毛が印象的な歯科助手は、悪びれる様子もなく僕を笑った。しかも薄ら笑いと来たもんだから、僕はあまりにの失礼な態度に小娘の分際で何様なんだと言ってやった。
すると、その歯科助手は……
「私、あなたより人生経験は豊富ですから。それに歯が痛いから歯医者に来た。しかも予約なしで診察してもらっておきながら、その態度は滑稽でみっともないですよ」彼女はそう言って、マスクを顎にずらして睨みつけた。
「あっ、歯が無い……」とマスクを取った彼女の口を見て言った一言である。
憂鬱なんて言った自分が恥ずかしくなってきた。男の憂鬱なんてみっともない。彼女の言うとおりだと心から思ったのだ。僕の人生なんて、彼女の人生に比べたらちっぽけでポテチの残りカスほどだろう。下唇から滴り落ちる血が、彼女の顎から首筋に垂れ落ちては人生を物語っていた。きっと僕の奥歯は、彼女が引き抜いた奥歯を取り付けてくれたんだろうな。
一体、人間の歯は何本あるのだろうか?彼女は自らの歯を何人の人々に提供したのか?僕はそれを考えては、滴り落ちる血を拭いてあげたいと思った。だけど僕にはその資格はなかったし、彼女にこれ以上愚痴をこぼすこともしないだろう。いや、出来ないと言った方が正解なんだけど。舌で奥歯を触っては、二度と憂鬱になんてみっともないと思っては考えた。
歯が無くなった彼女のその後を……
〜おわり〜
歯科助手の秘密 葉桜色人 @hijirigawa
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