第8話
四月三十日
我は好々爺ではない。老紳士の嗜みとして色好きなのだ。
暁闇で未だ明けを見ぬ、さめざめと冷え切った、凍て付く大気の隙間からは、しとしとと小糠雨が降り始め、我は慌てて起床した。
隣ですやすやと寝入っているかぐやが、何事か? とふがふがと鼻を動かして、ひくひくと耳を動かした。
我は優しくそっと一撫でし、屋根に脚立を掛けて、ブルーシートを臨時の天井に任命した。
朝から老体に鞭打ち酷使し、過酷な重労働作業で流したくも無い、清らかな汗を掻いた。
掻いた傍から雨は止んだので、我は朝風呂に浸かった。
我は屋上に設置してある、ドラム缶の風呂に入るのが常である。
之は風呂場を覗くから、追い出されたのではない、断じて違うと強く明記しておく、我の趣味だ。
――覗きが趣味ではない風呂が趣味なのだ。
流石に都会のど真ん中なもんで、人目が気になるので、周囲を赤浴びた塗炭の板で囲んである。
完璧な防止行為が施されているので、卑猥な行為には及ばないのを、皆々は心配することなかれ。
我はムザムザ公僕には捕まらぬ。
さてそんなこんなで、我は竹筒に口を当て、ふうふうと息を吐き出し、薪に火を点けて、頃合を見計らい、裸一貫で極楽極楽。と洩らしながら湯船に浸かる。
時折、石鹸の泡沫がふわふわと舞い散り、ふんふん、と鼻歌を歌いながら、我は片足を上げて、昔日の映画みたいに、サービスショットを惜しみなく、披露したことを此処に明記しておく。
紳士諸君、そう落胆することなかれ、何れは女性の裸体も出てくる可能性が、無きにしも非ず。
然し現実は厳ちい。
良かれと思った行為だが、ぴくぴくと足を攣って、反射的に動いた我は、ガンガンに熱伝導している、ドラム缶の縁に触れ、コンボが自然連動して、繋がり大火傷した。
あちいー。と言いながら。我は悪態を吐きつつ、慌てて緊急脱出した。
狭いドラム缶の中で、片足を上げるのは止めておけ。と強く促して置くので。皆も真似せぬようにな。
すっかり長風呂して。指先の皮膚は皺くちゃになったが、元々皺の寄せ集めなので。どこがふやけたのか、とんと見分けがつかない。
火傷した箇所を冷水で冷ましながら、ふと空を見上げると、暁雲が出始めて。暁色に染まり始めている。
考えてみれば。今日で月も終わり、もう完全に春の盛りだ。
我の心は舞い上がってきた。
桜は満開となり。蒲公英に薺は。爛漫と優雅に咲き乱れ、鼻孔を膨らませると。春の薫りが何処からともなく。爽やかに刺激し、木々も豪華絢、爛煌びやかに青々としてき、た山紫水明の輝かしくも、芳しい季節。
我は悶々とした気持ち……
悶々は削除である。
改めなおしてもう一度。
我は清々しく、清涼な気持ちを躍らせながら、逸る気持ちを抑えつつ、かぐやに大根の葉を与えて、がじがじ、と噛り付く逞しくも、荒々しいかぐやの猛々しい食事を、横目で見ながら、我は、あれこれと鏡見なが、ら服装の相性を確認して、結局は何時もの服装に落ち着いた。
重労働したものだから、朝飯が美味く、食の細い我は、久方振りにぺろり。と三杯も飯を平らげて皆を驚かせた。
なかんずく、ご飯担当のブリッツエンは、破顔一笑し、嫣然と頬笑んだ。
気持ちの悪い奴め。
笑い顔が許されるのは、女子だけじゃ。
貴様は雄鹿だろうが、もっとでんと構えんかいッ!
我はふんと鼻を鳴らしたが、結局は四杯も食ってしまった。
ぽっこりと膨らんだ、我の胃袋はキツキツで、魔道の者が宿り、孕ませ、今にも何かが産まれそうである。
勿論絞り粕が産まれた、朝から快便生活である。
朝飯は大事であるな、皆の衆。
朝から我の聖域の一つ、厠を占領するプランサーとの、壮絶凄絶な死闘、朝の厠陣取り合戦を、紙一重で制した我は、早く開けろ!
とがんがんと扉を開く音を、優雅な調べとし、厠に新聞紙を広げ、悠々と占拠して、記事を見ていたら、近所に新しい喫茶店が出来た情報を入手したので、唸りを上げて驚いた。
唸った表紙に、捻り出たのが声だけではないことを、こっそりと教えておく。
我が社の裏手にある、襤褸のビルディングが、商業総合複合施設に生まれ変わっていたらしい。
でかでかと二面に跨り載っている、宣伝広告記事は吃驚である。
一体何時の間に?
そういえば去年から工事をしていたな、と覚えがある。
我の記憶力には信憑性が無い。
はてさて歳のせいかな。とこの時ばかりは都合よく捕らえる我。
之が長生きの秘訣である。
それにしても、と思いながら、もう一度見てみると、本日が開店記念の目出度き日である。
新聞を持っていけば、サービィス券として使用できる、と明記してある。
之は行かねばならぬ。
我はいきり立ち、新聞紙を握り締めながら唸って、もう一度出産を迎えた。
我は快便後、最後の一枚のトイレットペーパーを使い果たした、
南無三。危うい所であった。
絞り粕の便を眺めて、健康確認し水に流し、尻を大事そうに押さえているプランサーに、睨みを利かせながらすれ違い、般若の如き相貌に、肝を冷やして気圧され、思わず土下座して、ごめんなさいと謝った。
だが、トイレットペーパーが切れていたことは、黙っておくとしよう。
経費削減なり。
粗末な小屋に戻った我は、颯爽とした足取りで、洋杖を片手に麦藁帽子を目深に被り、胸ポケットに新聞紙の切れ端を大切に仕舞い外出した。
玄関出た瞬間、健康サンダル履いて竹箒片手に、掃除していた梅の糞婆あに出会ぅたのは不快なり。
互いに一睨みして牽制しつつ、こりゃあかなわんと思い、白旗揚げて我は堂々と逃げ去った。
麗らかな日差しを浴びながら我は歩く。只管てくてくと歩き通した。
之は健康のためである。
間違ってもボケ防止だとか、筋力の衰えを防ぐ瀬戸際劣化体、だからではないことを明記しておく。
最近我を見る眼が、そんな目付きに変化してきたのを、我は見逃していない。
快便も相成って、体が羽毛の如く軽い、今にも天使のように舞い上がりそうじゃ
。
……うーむ、この歳でこう表現すると、別なお迎えが来ていてもおかしくない。
誤解を招く言い方なので控えよう。
それにしても季節の変わり目よ、月の替わり日よ、お前は何故そんなにも我の心を、うきうきとさせるのじゃぁ?
春の陽気に誘われただけではなく、もう四月も終わりを迎えると思うだけで、我は自然と外出したくなり、出掛けた。
最も目的地はあるが。
本日は土曜日なので、人通りは少ない。
靖国通りにさんざめく、古書店街だけではなく、オフィスや学校が多いので、普段は人も多い。
だが今日は杳として人並みが少ない。
この広いすずらん通り歩道こそ、我の道なり。
普段人気が多く、所狭しと行き交う、雑多な色合いを見せる店先に、煌びやかな路地も普段は歩きたくもないが、この早朝は思わず鼻歌歌いながら、物の怪に取り付かれたようにして、我は一心不乱にタップダンスを踊りながら道を通る。
すると、そこかしこで、小さな魑魅魍魎とばったりと出くわす。
街灯の上でぷかぷかと煙管をふかす鎌鼬、ゆらゆらと漂いながらゴミを漁る狐火に、卑猥な談笑にふける、魚面した土地神や、鏡の変化した九十九神一向。
ポケットに仕舞いこんだ、菓子目当てにわらわらと寄って来るので、我はしっしと追い払う。
それでも寄せては返す、波濤の波の如くに群がる数多の妖怪共。
我は仕方がないので、煎餅をばら撒き、追っ払い、其の隙に逃げ出した。
傍目から、あんぐり、と大口開けてみていた、ゴミ収集車の男には、独り相撲に見えたことだろう。
普通の人間に妖怪は見えない。
我には関係のない事だ。
店が開店するまでは時間が余っているので、有意義に過ごすことに決めた。
皇居周辺の内堀通りを練り歩き、散歩しようと決めたのだ。
すずらん通りを左に折れて、白山通りを真っ直ぐに歩く。
竹橋周辺に辿り着き、高層ビルディングが立ち並ぶ中、ランナーが音楽聞きながら汗流している。
この被虐性の亡者めが。
そんなにまでして、ランナーズハイになり、苦しみを快楽に変え、麻薬ドーパ神経ミンを放出したいのか。
我は一体何オ好んで、汗流すのか、不思議でしょうがなく、盛んに首を傾げながら歩き、時折小雀に煎餅を投げては、おじいちゃん駄目ですよぉ、と五月蝿い輩に注意され、憤慨し洋杖で追い払うた。
小雀まで逃げて、少々寂しかったが、直ぐに我を宿木と決め込んで寄ってくる。
だが小一時間と経たずに我は、早くも道半ばで頓挫する。
老体にはちと厳しいからだ。
だくだくと流れる汗。
我はぐっしょり、ぬるり。と大汗で湿った肌を、純白のハンケチで拭取る。
だがそれでも溢れてくる汗。春の暖かな季節と申しても、結局この筋張った体には酷である。
我脱水症状間近!
危険信号発令中!
小雀は恩を仇で返し、糞を麦藁帽子に垂れ流し、ぐっしょりと背中や胸を、糞や汗で大いに濡らしてしまった。
今日は水難の相が出現注意せよ!
ッてなことで、我は君主危うきに近寄らず。
皇居周辺の、水源からひいひい。言いながら尻見せて逃げ出し、普段運動なぞ滅多にせぬものだから、酸欠でばたりと倒れた。
我の貧相な体には、ほとほと愛想が尽きた。
愉しげに頭上から見上げる狐火の妖に、我は残りの力を込めて煎餅を投げつけて、逆に食われてしまい、悔しげに足を躍らせる。
勿論、又もや倒れる貧弱脆弱虚弱な我の体質。
諾々と嘆く間も無く、我の命運も此処で尽き果てる。
そう我は思うたよ、実際。
だが神とは存在するものだ。
小柄ながら無意味に馬鹿でかい、乳や尻しし肉をぶるぶると凶暴に揺らしながら、皇居周辺を、はぁ、はぁ。と桃色吐息吐き出し、軽やかにジョギングしていた、禰々子ねねこと遭遇す。
慌てて我に近寄り、一寸大丈夫ですかい、三太の大旦那ぁ?
と気遣われながら、米俵でも担ぐかのように、ひょい。と怪力で軽々と肩に担ぎ込まれ付き添われて、共にタクシーを使い退散した。
こやつは憂い奴じゃあのぉ。
我の愛人ラ・マンにしても宜しかろう。
我は人の優しさに触れ、久方振りに心底感動した
。疾走していたはずの肉付きの好い、河童に我は、すまぬ。
と礼を言ったが、どさくさにまみれて尻肉を触ったら、思い切り掌を抓られてしまったが、中々の触り心地であっ。
、安産体質であろう、早く子作りに励めと奨励した。
お蔭様で毎晩アクロバチックな異種格闘戦を、毎夜、夜長に繰り広げています。
と言われてしまえば、我もがっかりである。
にしても、失踪したのは我の外出気分である。
それと申し訳ないので、支払った我の財布の中身である。
喪失感は贖えぬが、ある意味之もプライスレス?
どちらにせよ早くも無駄遣いの我。
早起きは三文の徳。ではなく参問にならず。
色々な意味で目的達せず。
そんなこんなで結局我は家に帰り、仰臥の体制で二度寝した。
禰々子は添い寝の一つもせず帰って行く。
河童は鹿の角が苦手なので、仕方が無い。
寂しく不毛な一日なり。
何時しか深い眠りから、ごそごそと物音がするので、我は目覚めた。
開口一番誰何すいかと、怒鳴りつけるやいなや、ふうふう言いながらどすどす。と重苦しい足跡残し、ひぃひぃ叫びながら、慌てて逃げ出す音が聞こえた。
しょぼけた寝惚け眼を擦ってみると、玄関口の荷物が少し増えたみたいである。
我の神域が徐々に、侵食され始めている。
キューピッドの仕業だな、あの豚め。
鹿の癖に豚とは一体何の動物か?
鹿豚とは想像上の生き物か?
確かに創造したのは我だが、当初はあそこまで肥えていなかった。
純粋な乙女だったが……
何処でどう肥えてきたものか、腕組みして、膝で脅えたかぐやを撫でながら、黙考する我、実際はぷつぷつと、文句が駄々漏れである。
まあ、どちらにせよ後で、雷を落とさねばならぬな。
我の神域が、がらくたで溢れ、今にも出入り口が倒壊しそうである。
我はかぐやに濡れ煎餅の袋を開けて、与えるとせっせと片づけをし始める。
片付けば次は、。外出したくなった。
時計を見てみると一時である。寝過ごしも甚だしい怠惰の極みだ。
時間を浪費したことに悔しくなり、思わず我は悔し紛れに、地団駄を踏んだ。
だが、之では如何と思い、気分転換にタップダンスを踊った。。だが最早、タップダンスだか、地団駄だか、我も分からぬが、地団駄であることは間違いが無い。
華麗なタップダンスでも、間違いは無いのだが、杳として判明せぬ我の踊り。
変てこな踊りに感けていたら、何時しか時間は、綺羅星の流れの如く過ぎ去り、慌てて我は一張羅の背広を着込み、麦藁帽子を被り、洋杖片手にまたもや出掛ける。
出掛けに、晩御飯の買出しに行く途中のコメットと遭遇する。
丁度良いと我は思い、逃げ出すコメットの襟首を、むんず。と掴み、手を振り嫌がる様子だったが、気にせずに連れ出して行く。
一人では少々恥ずかちいからのぉ。
我が向かうところ敵無し、ばったばったと一個中隊ぐらいは、脇差で切り伏せるぐらいの気迫を、むんむん。と漂わせ、滲ませながら主従はイザ目的地へと向かった。
現着するなり我は驚愕した。
既に行列が出来ているではないか。
先行し、並んでいる人間はそこかしこで老爺の人並み。
先行者もセーター着込んで、丸眼鏡の貧弱体躯の怪しげな翁共である。
普段は古書店の棚に埋もれ、活字の奥深く潜行し、古書を眺めながら満足している店主共が、はにかんだ笑顔浮かべ、待ちきれない面持ちで、ニタリと笑っている。
おお気持ち悪いことこの上ないぞよ。
この分では今日軒並みの古書店はシャッター通りである。
だが我も、同じ穴の狢であることは忘却の彼方である。
然し冥土喫茶とやら、何もこの分野でその客層専攻に、特化しなくても宜しかろうに……
お目当ての場所は、冥土喫茶浪漫ロぉマンである。
新聞で拝見した、裏手の商業総合複合施設内なので、直ぐに着いた。
老舗喫茶芭婆バーバーが弊社の裏手にあり、その真横が今回の目的地である。
さらっと情景説明を導入したが、気にしないで貰いたい。
満足そうな表情浮かべて、退出してくる翁が、浮かれた御様子で、地に足着かぬ汚らしい破笑浮かべ、ふわふわ。とスキップ踏みながら帰宅する。
その体から漏れた匂いが、線香と菊の花とは気に恐ろしい。
其のまま浮かれて、飛び立て冥土へと。
我も手伝ってやろう、と出遅れて僻んでいる我である。
それにしても、名前からして印象が強すぎる。
縁起でもない匂いがぷんぷん、と漂ってくる。
実際出てくる客は皆、一様に菊と線香の香りが、ぷんぷん。むんむん。と咽るような濃厚さである。
本当に幸福の絶倒のあまり、浪漫飛行できそうな勢いで出てくる。
足掛け客の一人に、顔見知りの鳶頭である、寅長次郎と徒党を組んでいる、天狗の胡散臭い愛宕次郎と邂逅した。
口をそろえて助平な連中は、一様に素晴らしい、この素晴らしさは、体験するまでは筆舌しがたいが、敢えて言うなら、素晴らしき青春のメモリアルである。
一体何がそんなに素晴らしいのん?
筆舌できない素晴らしさなのでは?
むくむく、と様々な疑問が鎌首を持ち上げてきたが、兎にも角にも体験せよ!
と言い残し、恍惚とした表情で帰路に着く、寅と次郎一同。
恨めしや、我よりも先に体験するなどとは。
後で河童禰々子に如才に報告すべし、地獄に堕ちろぉォ天狗めッ!
人列に並ぶ道中、老舗喫茶芭婆バーバーの前を通ったので、我はすまん。松姫。
と詫びながら麦藁帽子を目深に被り、コメットを前面に押し立てながら、人込みに紛れ込んだ。
何とか遣り過ごすと、ほっと安心して、首を長―くして待つ我。
途端コメットの若造が、もじもじ。とし出す。
厠に行きたいのであろう。我は待てと叱った。
猛すぐ店内に突入である。其の瞬間が間近に迫り来るのだ。一人では心伴い。
我もモジモジ製の恥かしがりや産なのだ。
じっ、と堪えていた甲斐があった、人並みが流れて、我ら一行は店内に吸い込まれるようにして、欣喜雀躍しながら勇気を込めて、黒塗りの重厚扉を開けた。
からんからぁん。と来客の福音鳴らす、黄金色の鐘は異世界の調べ。
其処には、まごうことなき冥土の世界が拡がっていた。
我らを出迎えたのは、白水干に三角布を凛々しく巻いた死に装束姿が堂に入った、受付老婆である。
名札に初音。
死因老衰大往生、生きていれば御歳八十三歳と明記。
いらっしゃいましぃー。
いらっしゃいませ。と恨めしいを掛け合わせた、おどろおどろしい混合言葉は、我の心をぐっと引き寄せ捉えた。
手を古今の幽霊像はこうだ、といわんばかりに胸元で垂れ下がらせ、その演技は実に素晴らしい。
我らを案内するメイド?
嫌々違うな。冥土さんが案内して、我らは片隅の一席に辿り着く。
着座するなり、我は店内を見渡してみた。
平積みされた小石の山が置かれて、其の上には、ぐずぐすに溶けた、蝋燭行灯が配置されている。
だがあれは擬似蛍光灯であろう。
イザ火事になったら、我らの足では逃げ切れぬからな。
憎い心配りに臍を噛み、嬉しがる我。
ススキや菊が如実なく配置され、ぷん、とたゆたう一草と、線香の濃厚な香りが、一層心を鷲掴みにする。
目に優しい薄暗い室内は、神秘的な神々しさが、之でもかと演出されている。
満足しながら我は、冥土がそっと置いた食事案内表メニューに目を通した。
実に様々な品揃えであった。
なかんずく、別料金となる副案内表である。
其処には、素晴らしき青春のメモリアルを取り戻せ!
と共にこう記されておった。
壱、三ツ泣き(ン)会津デ女子レ。
弐、関東ヤン女子デレ。
参、北陸娘(後輩)。
試、京都娘(先輩)。
五、大阪娘(転校生)。
六、九州(幼)女子(馴染)。
七、沖縄娘(ドジっ娘)。
番外編、地方娘日替わり取り揃え。
我は鼻息荒く吹き荒み、意気揚々と注文を施した。
我が頼んだのは三ツ泣き(ン)会津デ女子レ。
と本日の御勧め幼稚園の曾孫と造りたい、造形ラン飯チ。
ご飯少なめである。
コメットの奴はもじもじしながら、冥土が創る、当たり障りの無い、平凡な日替わり死ラに(ン)飯チ。
と番外編を頼みおった。
我は赤面し、あのっ、そのぉ、と照れながら、注文したのは言うまでも無い。
一体何が出てくるのか?
とうきうきとしながら我は待った。
途中、接客の冥土給仕は、実に多種多様であることに気付く。
老眼鏡がずり落ちて直したり、蹴躓いて転んだり、口が悪かったり、足元が覚束無かったり、注文を間違えたり。と、様々な方言が飛び交う。
――ふぅ、全く、ボケが此処まで来ている老婆を雇わなくても良かろうに……。
と我は思ったが、違うことに気付いた。
彼奴等は、副案内のキャラクターに、なりきっているのだ。
実に優秀な冥土である。
この商魂が凄まじく恐ろしい……
実に雑多な人種だ、が悪くは無い。
そして冥土は、死人羽織の装束であることに気付いた。
成程。此処は未だ冥土の一歩手前であるってことか、
納得である。
一歩足を踏み出したら、既に棺桶に片足突っ込んだも、同然の心境であるか。
我は腕組みし、うんうん。と幾度も頷いた。
一頻り頷き終えると、背筋が曲がった皺くちゃの老婆冥土給仕が、食事を運んできた。
名札には雛菊、七十と銘打ってある。
雛菊は持ってくるなり、我を舐める様な目線で睨ねめ付け、値踏みしながら、食事を無言で置いていった。
冥土からは優しげで、暖かい日向の薫りと、白粉の慎ましい、懐かしさが、きゅんと香って、胸を真綿で締め付けて、郷里を思い出させてくる。
だが我は当然憤慨した。
何だあの態度は!
冷酷な接客も大概にせんかいっ!
家のヴィクセンですらも、一寸マシな接客をするではないか!
と思ったが、我は人前で大声を出すのは、恥かすぃので我慢した。
怒髪の勢いそのままに、箸を掴み飯を平らげ始める。
よっく見てみれば、小ぢんまりとした弁当箱の中には、真ん丸いパンダのお結びに、足付きウインナーなど、所謂キャラクター弁当と呼ばれる代物である。
確かに孫と共に造りたいであろう、
喜ぶ顔が見えるので、作る遣り甲斐がある。
作るではなく、造るに間違いはなかろう。
どちらにせよ、子供嫌いの我には縁も無いが、お結びで丸く収まろう。
それにしても、惣菜の赤トマトと唐揚げが、サンタクロースに見えるのは気のせいか?
にしても案外美味い。
控えめな塩分に、砂糖や柔らかい飯粒に、薄味の味付けは、老体を見事に心配してくれている。
我も経営者として、この点は潔く見習うべし。
果たして社長はどんな人物なのか?
恐らく聖母の如き女神に違いない。
そんなこんなを考えていたら、先程の冥土雛菊が近寄り、ほれっ漬物食べぇな、之はサービィスだから、勘違いするんじゃないよ、あーた!
と、もごもごと、あまり口を動かさずに喋り、乱暴に断ッ! と置いて、すぐさま逃げるようにして、頬を赤く染めながら去っていった。
不覚にも思わず、我の胸はキュンと高鳴った。
決して、高血圧、高血糖、不整脈ではないことを明記しておく。
我は顔の綻びが緩むのを、抑えるのに大変苦労したことを、想像してもらいたい。
飯がなんだか、より美味い。と感じ得る事ができた。
おお、そうだ忘れておった、
コメットの奴はと申せば、本当に当たり障りの無い白米に、味噌汁と三種の香の物、煮汁がたっぷりと沁み込んでおる、根野菜の煮物と、鯖の塩焼きである。
番外編が、田舎に帰省した孫である。
鶴が描かれた封筒に、お小遣い。
と明記されたポチ袋を、冥土が持ち、珍妙な仕草で燃え尽きろ魂、奪い取れ冥土の船賃六文銭、燃え燃えジャンケン!
とやらをして、勝ったら貰えるという、特殊なサービィスを受けておる。
羨ましい奴め……
もじもじ、と居心地悪そうにしながら、祖母冥土相手にジャンケンをしておる。
死にさらせ若僧が!
と思っていたら耳朶を引っ張られ、あーた、之もお食べなさいな!
と会津娘雛菊は、ワゴンに乗せられた、移動甘味処セットを勧めてくる。
何とも商売上手な女子である。勿
論我は買ったさ。
何か不満でもあるかい?
無いであろう。
ならばせっせと筆を進めようかしら、我は黄粉が粉雪を描く上に、黒蜜がたっぷりと沁み込んだ、葛餅とほうじ茶を注文した。
サービスで、雛菊は黒蜜で葛餅に年金。と書き足す芸当には、巧みの技を感じさせた。
身持ちの硬い会津女、は満足そうに莞爾と笑い、あーたお弁当美味しかったかい?
と尋ねてくる。
勿論だとも。と我は言った。
それは良かった、あたしが一生懸命朝拵えたんだよ。
なんと、今年一番の驚き、我は又注文する。
あーた何言ってんだい? それじゃあ、作り概がないってもんよ、次は別な代物頼みなさい。
ころころと笑い、最早他人ではない様子で、親しげに肩を叩き去ってゆく老婆。
我は思わず後ろからちょっ待てよ!
と後ろ髪魅かれる思いで、引き止めたかったが、堪えたさ、何故かって?
だって我は節度を知っている恋の伝道師三太だからな!
粛々と内面で決め台詞を語り、言葉には出せぬので、こうして筆を執り書き付ける我、
恥ずかしいのぉ。
と照れたところで何も始まらぬ。
それに我は知っている。
調理人が裏手に控えている現実を。
だがそれを語ったところで、野暮なので語らぬ。
横に眼を移すと、ジャンケン勝負に負けたコメットが、写真を撮られていた、。
之は、一回千円なので本当の罰ゲームでは?
敗者に対して、何とも惨いことこの上ない。
だが我も雛菊と一枚撮ったのを、正直に明記しておく。
帰り際に雛菊は、……又来てくれるかい……あーた? と恥ずかしげに首を傾げ問い尋ねてくる。
我は出兵前の兵隊らしく、引き締まった厳かな表情で、当然だ雛菊。と雄々しく応えた。
雛菊は曲がった腰を、真っ直ぐにしながら凛と手を振った。
我は、きゅんきゅん。と胸元が締め付けられる、甘酸っぱい感覚を、拭い去れることが最後までできんかった。
外人の癖に、日本人以上に心を知り尽くす我。素晴らしきなり。
それにしても給仕雛菊恐るべし。
最初のツンケンした、とっつきにくい冷たさに一泣。
ツンケンに慣れると、初めて知った優しき心に二泣き。
情深く去り難き悲しさに三泣き。
ならぬことはなりませぬ。の奥床しい気質で、尻を撫でたら、頬に一撃喰らい、痛さに四泣き。
会津の三泣き恐るべしっ!
長年に亘り、千古不易の関係を築き上げている、松には悪いが、我は暫く冥土喫茶に通いそうである。
目くるめく、スゥイートな展開がこの先には待っているに違いない。
我はタップダンスを進化させ、昇華させ、昔の某消費者金融の、宣伝映像の舞を優雅に踊りまくった。
踊ったら腰、膝、肩がポキポキト鳴って、至る所を傷めまくった。
コメットの奴が、我を甲斐甲斐しく抱きかかえる始末。
せめて雛菊が良かったのは言うまでもなかろう。
すっかり我は老爺いちころりん給仕に、どっぷりと嵌ってしまったのだ。
隣が若造とは情け無い。
仕方が無いので甘い記憶を呼び戻す。
だが事の顛末はそう甘くはいかなかった。
竹箒片手にし、敵情視察に来ていた梅に見つかり、我は問答無用でとっ捕まり、拉致され、えっちら、おっちら。と連れ去られた。
皮肉の応酬が一つも無く、一体この細腕の何処に、そんな力が存在するのか? と思うと恐ろしい。
女は色々な武器を隠しているものだ。
我は天国から地獄へと、真っ逆さまに落ちて行く一日である。
老舗喫茶芭婆バーバーに連れ込まれた我は、粗茶を出され、梅はずい。と汚らしい皺とシミだらけの顔を近付けて、尋問してくる。
で、どうだったんだい?
ハテ? 一体何のこと?
惚けるなこのトンきち野郎めいっ!
機知に富む我はすかさず応酬する。
ははぁん、儲けが奪われるか心配なんだな、この糞婆あめ!
既知の間柄として言わせて貰うと、お二人ともお静かに、他にもお客さんが居ますよ。
と静かに松に窘められてしまう。
神田神保町の心安らぐオアシス、前哨基地老舗喫茶芭婆バーバーは潰れることは、ありゃあせんからご心配なく。分かった梅?
心配するぐらいなら、貴方も土地を貸さなければ良かったのに……
姉さんそれを言っちゃあお終いよ!
と姉松を物凄い剣幕で睨む妹梅。
室内は冷暖房が故障したのか、急に冷えたのか暑くなったのか、分からぬ温度に、ぐぐっ、と変化した。
不意に震度一の地震で、室内が揺れたのを敏感質な体の我、感じ取る。
むむっ、やはり二人は他者の追随を許さぬ名の知れた並々ならぬ妖怪である。
姉妹の凄絶な喧嘩が始まろうとしていた。
背後には、青と赤のめらめらとした、火柱の火炎が見えるのは、我の気のせいであるが、皆も心眼で見極めることの出来る、達人クラスであれば見極めるのは容易いことであろう。
残念ながら我は煩悩の塊なので、見極めることが出来ない。
なので床を這いつくばりながら、秘かに逃げ出した。
逃げ出そうと鼠みたいに、こそこそと床を這う哀れな我。
だが其処に突如として出現したのはどこかで見たようで、見たことが無い様で、やはり見た事がある女子じゃッた。
うはうはん、相変わらず惨めな人生ね。御兄上様!
と高笑いしながら、高いハイヒールを音鳴らしつつ此方に近寄ってくる女子。
うむ。やはり見間違えがない。
あれは我の双子の妹ロロである。
漆黒のスーツを流麗に着こなし、茶色の外套をりゅう、とたなびかせながら、堂々と着こなしている。
関東平野のように、起伏の乏しい胸付きに、小笠原海溝のような深い括れは、痩せっぱちな体だが、心は逆に膨張しはち切れんばかりな、覇気溢れる姉御肌な気質。
凛々しい眉毛に、黒長髪の艶やかな黒髪をモヒカンにし、人の心胆寒からしめる黒い宝石の吊り目。
ほとんどヤクザの応対で、我に対処するが子供には優しい。
我の天敵である子供と対を成す妹ロロである。
我を郷里から、あの手この手に、その手で、も一つおまけで、人の手を活用し、我ら一家を追放した、残虐無比な性格の持ち主、妹ロロである。
何故黄金の国ジパングに?
ロロと我は見上げながら呻き、ロロが我をお兄タン、と言った言葉に驚くぬらりひょん姉妹。
我の妄想に愕くことなかれいっ諸君!
此処で挫けたら濃こゆい我の筆才に着いて来れないぞ!
暫しの辛抱であるから。耐えてくれ!
ッてことで、平然と我は何事もなかったかのようにして、話を進める。
我は、水難、女難、金難、今日は厄尽くしのテンコ盛り。我為す術無し。
ヘルプである!
むむっ頁が無くなった、すまん皆の衆又後程。
――次回に引っ張り繋げるお話し上手の我
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