第6話
四月二十日
季節は既に春。桜の蕾も何時しか開花し、九分咲きといった所。満開まであと少し。
本日夕方から、親父爺の聖地、老舗喫茶芭婆バーバーにて、神田神保町の寄り合い会合開かれたし。
議題は、神田祭の内容について。
議論は紛糾せず、消火試合の如く、円満に進み、例年通り、鳶頭連中心に進められるとのこと。
――となれば我の出番は無し。
残念である。
この時期に今なう、と体が疼いて仕方が無い。
神輿を担ぎたくて、担ぎたくて、どうにも心の動悸が高まる。
はてさてこれは病であろうか?
我心配なので、明日は病院に通院すべし。
隣に居た、兎堂古書店店主。愛宕次郎に尋ねてみたところ、扇子で口元隠しながら、流し目、思わせ振りな口調で、旦那、旦那、病は病でも、神輿煩いだと語る。
よっ憎いね旦那。と扇子で自分の頭を叩く始末。
そんな病名など聞いたことが無い。この民間療法の藪めッ!
因みにこやつは、純度百%の人間ではない。
所謂物の怪である。
胡散臭い若旦那臭をぷんぷんと発しているが、正体は天狗である。
春画を専門に扱っていて、無類の甘い物と、兎好きだが、動物アレルギーの為に、動物が飼えない。
いまも、我のかぐやの毛並みでくしゃみを連発し、誘発している。
普段は店を妻に任せて、老舗喫茶芭婆バーバーに入り浸り、春画片手に鼻息荒く吐き出して、本日の芭婆バーバー気紛れ珈琲、とケーキセットの香りと、味を楽しんでいることが、一日の日課である。
嫁は銀髪つり眼だが、童顔でむちむち体躯、背丈が小さい、ちゃきちゃき江戸っ子の河童禰々子ねねこである。
二人は周囲の人間を呆れさせ、嘆息吐くほど室内温度をぐぐっと上昇させ、見ていられなくなるぐらいに、熱々の夫婦だ。
砂糖とバターを半分の割合で作る、檄甘い、マジパンを砂糖漬けにして、上から黒糖に、蜂蜜と生クリームを塗りたくった代物よりも、更に甘い二人だ。
故に春画に妬かない様芭婆バーバーに入り浸り、悦楽にも入り浸る。
この助平ロリコン天狗(野郎)めが。
早く離別したまえ。禰々子ねねこよ!
ぷんぷんと発する腐敗臭気は、触れれば火傷する愛ラヴ愛ラヴ臭に違いない。おお、熱い暑い、臭い臭い。
因みに人間世界に、妖怪は結構な割合で紛れ込んでいる。
人間社会のほうが今は何かと便利であるからだ。
銀行を営んでいたり、自営業や会社勤めも普通に存在しているので、常人には見分けがつくまい。
思わず、ふふん。と小馬鹿にした笑いで、小突きたくなる。
どちらにせよ、直ぐに祭が始まる。楽しみだ。
その後会合はお開き、芭婆バーバーで如実無い軽めの談笑をした後に、男衆で寄り集まり、夜の街へと繰り出す一行。
嗚呼怨めしや。我にもそっと小遣いがあったのならば。
勿の論、小遣い交渉は燦々たる有様となって、危うく来月も削減されるところであった。
泡粟稗稗言いながら、生えていない尻尾巻いて、退散する我である。
母は地球で一番強い、生き物なり。
身をもって体感できたが、其処はそこで、捨てる神あれば拾う神ありき。
我はへそくりを発見したのである。
金三万円なり、然し今回の桃色遊戯に、繰り出す参加は辞退しておこう。
節約こそ我が人生なり。
老舗喫茶芭婆バーバー店主マスターに愚痴を聞いてもらおう。
赤星松。
昔日の遠い記憶は、麗しの看板娘であろうが、今は婆あだ。
別名神保町のお袋さんで、良き相談役。
常に和服を着て、これが乙女の嗜みであるとの事。
店内の正装も着物である。
店内は茶色と黒のモダンな風合いに、常にボレロ一曲しか流さぬ、酔狂数奇ぶりは感服である。
我は茶を注文し、カウンター中心に陣取り、愚痴をこぼしてこぼして、こぼしまくった。
興奮した煽りで、つい机を叩き、お茶もこぼしてしまった。
仕方ないので、新しく茶を頼む我。松はふんふん、と頷き、時にそれはこうで、ああだ、と諭し聞いてくれる姿は観音様である。
マリア様である。
とても正体がぬらりひょんで、双子の姉だとは想像もつかないではないか。
愚痴を溢れるほど、聞いてもらっていたときである。
扉を力任せに押し開き、イザ突撃! せんばかりの勢いで一目散に此方に向かい、どずっ!と座る婆あがいた。
挨拶代わりに我は言った。
生きていたのか、婆あ。
家賃滞納逃げだけは御免だからね。
言い終えるや、ふん。と荒々しい鼻息を、我に吹き付けて、葉巻の端をまるで胡瓜でも齧るかのように、我の顔目掛けて、ぺっ。と吐き捨て、燐棒で火を点けて、もうもう、と白煙を吹き付けて、我を燻す糞婆あ。
我は青筋立てて、怒ろうとも思うたが、溜飲を下げて、ぐっと我慢した。
婆あは時折、すっぱ、すぱ。と舶来品の葉巻を豪快に吸いながら、落ち着きない様子で、赤い簪弄くり、萎びたエプロンを捏ね繰り回す。
我も負けじ、と駱駝煙草の煙をふわふわ、ぽうぽう。と鼻から蒸気のように吐き出し、応酬す。
店内は何時しか、白煙に燻されて、小説の打ち合わせでもしていた客は、きゃあきゃあ、と悲鳴をあげて、火事だ皆逃げろ、早とちりしながら逃げ去り、後は煙に燻される、老人三人のみが残るだけになった。
梅婆あ、一体何のようだ、と我は問い尋ねた。
あたしが、松姉さんの店に来ちゃあ、いけんのかい?
したり顔で、我に甘い白煙を吹きかけた。
もう我慢がならねえ、やい、やい、やい。表に出やがあれいッ!
普段温厚と評判な、我の怒りは遂に爆発してしまった。
それと同時に、青筋立てて、今にも切れそうな我の血管、残念ながら先に切れたのは堪忍袋の袋であった。
だがまくし立てても、出てくるのは、ぷかり濛々とした白煙のみである。
一向に相手されてやいやしない。黒滔々とした漆黒の瞳を、くりくり動かしながら、梅婆あは松姉さん、温ぅうい珈琲牛乳。と優雅に頼む始末。
我は振り上げた刀を、何事もなかったかのようにして、鞘に収め椅子に座る。
リュウマチは治ったのか、梅婆あ。と我は尋ねると、湯治の旅も悪くはなかったね、西国に行ったが、あっちは桜満開で散り始め、夜風呂に桜がひらひら、と舞い中々に風流だったよぉ、こいつがお土産のカボスだよ、と梅婆あは姉松と我に寄越す。
電気街の袋に入れて、寄越す辺りが、ハイテクな現代っ子である。
機械音痴な姉とは違うのが摩訶不思議である。
我の見立てでは、姉に善が全部持っていかれ、妹の梅婆あに、悪が割られたのであろうな。
この駄目妖怪が。
にしても羨ましい。我も何処かへと旅行したい気分に駆られた。
週末には此方も桜が満開であろう。花見に行くべし。
だが癪である。
この婆あに感化されて、旅行に行くのは業腹であるが、花と団子の欲求に我は抗えぬ。
潔く降伏しよう。
決して、駄目妖怪に負けたのではないことを、日誌に強く書き残して、宣言しておく。
妖怪の血は、古今東西、和洋問わず宴には滅法弱いのだ。
邪魔したね。と言い残し、一息に飲み干して、逃げるような勢いで、つかつかと去って行く梅婆あ。
我は白煙で、元気でな。と応えてやった。
それを莞爾と笑み、嫌ですねえ三太さん、貴方って御人は野暮ですよ。
と呟き笑い、カップを片付ける松さん。
我の怒りは、何時しか消え去っていた。
不思議である。煙草を燻らせながら、梅と小言を二三繰り出すと、心が落ち着くのは。
之が老後のたのしみであるのかしらん?
張り合いが出ているのかもな。
にしても、なんでこんなにも、妖怪がこの街には多いのか。
神保町は、妖怪が跋扈する、奇喜交々な怪しい街である。
記憶の片隅に存在する、懐かしき古書の匂いにでも釣られて、ふらりと漂い、どっかりと、根をおろしてしまうのであろうか。
――何とも魅力的な街である。
我はお茶を揺らし、甘露をじわりと味わった。
――茶飲み愛好家三太
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