二章 想刻《そうこく》

想刻/1


 ほんの数日前の出来事だ。

 女性は大きく目を見開いた。瞳からはぼろぼろ涙がこぼれている。猿轡をしているので、助けを呼ぶことも出来ない。しかも手足を縄で縛られ、足首に手錠のようなものを嵌められ、頑丈な支柱に繋げられているために、逃げることもできない。そもそも、このような場所で叫んだところで、誰も助けに来てはくれないだろう。

 彼は剃刀を手にしていた。女性の黒髪を少しだけ切る。

 女性は恐怖で意識を失いそうになった。しかし、自分の知らぬところで何かが起こることのほうが怖いのか、ばらばらになりかけた意識を必死に繋ぎ合わせた。

 それを見た彼は、満足そうに微笑んで、女性の瞳を覗き込む。血走っていて、とても美しいと彼は感じた。ゆっくりと剃刀を女性の右の瞳へと向けた。女性は必死に瞼を閉じるものの、彼はそれを強引に開け、口が裂けるのではないかと思う程に嗤いながら、女性の瞳を切り裂いた。

 どろっとした液体に、多少の血が混ざっている。それは、涙のように、頬を伝った。呼吸が荒くなっている。女性はどうやら失禁もしたようだ。彼は余った左目を覗き込む。白目をむき、意識も手放してしまったようだった。どうやら彼は、これではつまらないと察し、適当な箇所を剃刀で力強く裂いた。

 一瞬で彼女の意識は戻り、痛みに再び涙を流した。猿轡をしているのも忘れているのか、何やら言葉を発している。彼は小首を傾げ、何かに合点する。

 彼は女性に背を向け、後ろに置いてある工具箱から、大きなニッパーを取り出した。女性はぶんぶんという音が聞こえるのではないかというほどに首を横に振り、明らかな拒絶を示す。それでも彼は気にしない。いいや、とても嬉しいのだろう。にんまりと笑み、彼女の左手の薬指をニッパーの刃で挟む。

 彼は女性をもう一度見る。相変わらずの笑みを向けていると、女性は、もう目としての役目も果たさない右目も大きく開き、涙を流す。顔は恐怖で歪んでいる。何かを叫んでいる。鼻水も止め処なく流れている。彼は両手に思い切り力を込めてた。めきめきと骨の音が鳴り、女性の声にならない苦痛の叫びが響く。ぐちゅっ、と気味の悪い音と共に指が落ちる。再び女性は意識を失った。

 彼は心底残念そうに肩を落とし、女性の髪をざっくばらんに切っていく。酷く不細工になった女性の頭。彼は再び適当なところを切って、女性を起こす。すでに瞳には『生』の光はなく、絶望の闇のみが映った。

 彼は再び女性に背を向け、今度は大きな金槌を取り出す。彼は今までのように笑うでもなく、ただただ作業のように、女性の顔を金槌で、殴り続けた。血以外の何かもぼたぼたとこぼれ、女性の呼吸すらもなくなった。

 彼は立ち上がり、最後に思い切り女性の頭をその金槌で殴りつけた。女性の頭は痛々しく陥没し、そこから血が流れた。


想刻/2


 死体の第一発見者は、秋華。被害者は男性。今度の死体も、体を蝋で塗られていた。死因は、首元を切り裂かれことによる失血死。しかも血を丁寧に拭き取っていた。

「簡単な調べでは、このようなところです」

 小鳥遊が、清貴と秋華に言った。

「発見したのは確か……」

「早朝の四時三十九分です。間違いありません」

 秋華が緊張気味に小鳥遊に答える。

「何故間違いないと言えるのか、もう一度お願いします」

「家に着いたときに時計を見ました。そして、ふとゴミ捨て場を見たら……」

「ありがとうございます」

 小鳥遊は煙草を口に咥え、頭を掻いた。秋華は何か変なことを言ってしまったのではないかと、気が気ではなかった。そんな秋華を清貴は気遣い、秋華の手を力強く握る。

「秋華さんのお仕事は?」

「イラストレーターをしています。フリーでやってまして、夫が書くライトノベルの挿絵を主に……」

「東京に行っていたらしいですね。何故ですか?」

「今話したイラストの関係で、パーティーがあり、東京に行ってました」

「わかりました。あなたが出席したという証言も取れてます。では、帰ってくるまでの時間まで何を?」

「友人とお酒を飲んでました。私が帰ってくる時間と被っていたので」

「そのあたりも嘘ではないようですね。ご友人の方と、お店の方があなたの顔を覚えていましたし。まぁ、容疑者からは外されるでしょう。ただ、まだ司法解剖の結果も出てませんし、参考人として、これからもまたお話を聞くことになると思います」

 秋華は小さく頷き、清貴に向き直る。

「ごめんね。締め切り近いのに……」

「そんなことどうでもいいんだ。それよりも、君のほうが心配だ」

 小鳥遊は二人を見て、鋭い視線を向けた。

「そういえば清貴さん。比翼連理は、今何を?」

「起きて、学校に行く準備をしているでしょうね。普通ならば」

「そうですか……」

「彼らが何か?」

 清貴は小鳥遊の今の言葉が、理由もなしに、放たれたものではないと感じた。もしかしたら彼は、息子と娘を疑っているのかもしれない。そんな不安が彼の胸によぎる。

「あいつらを疑っているんですか?」

「いえいえ。何故か彼らが気にかかりましてね」

 小鳥遊は微笑む。

「さぁ、こんなところに長居しないほうがいいでしょう」

 清貴と秋華は、小鳥遊に促されるままに、取調室を後にした。

 小鳥遊は二人が出て行くまで笑顔を崩すことはなかったが、二人が出て行って、ドアを閉めた瞬間に面倒くさそうに溜息をつき、椅子に座った。

 それとほぼ同時に、小鳥遊の相棒が取調室に入ってくる。

「いいのかよ、真」

「なにがだ?」

 小鳥遊の相棒である田原 義信たはら よしのぶは、両手に一つずつ持っている缶コーヒーのうち、一つを小鳥遊に投げる。それを受け取った小鳥遊は、また面倒くさそうに溜息をついた。

「お前の勘では、双子のほうじゃなかったか?」

「あぁ。特に姉の方な。最近のガキは何を考えているかわからんが、あいつらは存在自体がよくわからん」

 田原は、小鳥遊の言葉に苦笑しながら、煙草に火を点けた。

「煙草のDNAを調べたが、あの小説家じゃあない」

 田原は煙草を咥えながら話を進める。

「最初のは、死後三週間が経過している。死体が発見されたのが五月二十六日。つまり、殺されたのは五日。そのときのあの一家のアリバイは完璧。ゴールデンウィークに、家族で沖縄にいて、六日に帰ってきてる。奴らが殺すことは不可能。裏も取れた。二件目は死後二十二時間ってところだな。そのときのあいつらのアリバイも完璧。妻のほうは言うまでもないが……」

「他の奴らは俺が証人だ。父親と息子が出かけたのは、十一時三十分。その二人にも、一応尾行は付けたが、怪しい行動はなかった。俺も、娘が本当にいるか確認するために、家に行ったが、ちゃんといた。話を聞き終わったあとも張ってたが、怪しい人影は見なかった」

「お前が張ってた場所からじゃあ、ちょうど遺棄現場は見れんしな……皮肉なもんだな。あいつらが怪しいと思っていたのに、お前が無実を証明するなんて」

「あの姉は何かすると思ってたんだがな」

 小鳥遊は背広の内ポケットから煙草を取り出し、火を点ける。部屋の中を紫煙が巡り、やがて宙へと集まりだす。

「高校生だぞ。ある程度の良識もあるし、殺人によるペナルティの重さもわかってるだろう」

「一概にそうとは言い切れないだろう。良識を学べないガキだっているんだ。それに、高校生が殺人を犯すなんて、よくある話だ。良識もあって、罪の重さも知った上で、殺人を犯すような奴は、手に負えんがな」

「ははっ。全くだよな」

「あいつらじゃあないにしても、犯人はいるわけだ。俺たちにできることをやるか」

 田原と小鳥遊は、缶コーヒーを一口飲んで、取調室を後にした。



 時間は朝の八時半を回った。ようやっと開放された清貴と秋華は、肩を落とし、まるで死人のような顔をしていた。

 玄関の扉がやたら重く感じる。

「ただいま」

 清貴が囁くように言うと、比翼と連理が心配そうに駆け寄ってくる。

「二人とも大丈夫?」

 連理が最初に口を開く。

「あぁ……。まずは秋華を休ませたいんだ」

 清貴はそう言って、秋華を寝室へと連れて行き、ベッドに横にさせる。

 清貴も疲労の色が手に取れて見えたものの、休むことはせずに居間のソファへと座り、テレビを点けた。

 ニュースでは、先ほど自分達が事情聴取を受けた事件が流れていた。しかも相当な人だかりだ。

 清貴は、よく自分はこの人混みを掻き分けてこれたな、と自分に感心する。

「お父さん……」

 比翼は不安そうに清貴を呼ぶ。

「大丈夫だよ、比翼」

 疲れきった微笑みを比翼に向け、清貴を背伸びをする。

「お前達、学校は?」

「こんなときに行ったら、なに言われるかわかったものじゃないよ」

 連理が答えた。

「確かにその通りだな」

 清貴も大きく溜息をつく。

「すまないが、やっぱり俺も寝るよ。今日は外に出ないで、ゆっくり休めよ」

 清貴は二人に言うと、寝室へと向かった。

 居間に残された二人は、清貴の背中を眺め、細く息を吐く。

「連理。私の部屋に来る?」

「そうするよ」

 比翼の部屋には、相変わらず絵画が置いてあった。

「いつになったら片付けるんだ、これ」

「描くから置いてるの」

 比翼が床に敷いてある新聞紙を歩き、ベッドへと座る。それに倣い連理もベッドに座った。そして、比翼は連理の手を握った。

「上手くいってるね」

「そうみたいだね」

 比翼は嬉しそうに笑みを浮かべた。

「このまま行けば、案外早いかもよ」

「そうだね」

「早く、早くいなくなればいいのに」

「……うん」

 ぺらぺらと比翼は絶え間なく話し、連理は適当に相槌を打った。連理は、比翼の話の途中で何かを言おうとしたが、結局それは溜息となり、彼女の言葉を遮ることはできなかった。

 一方的な会話は数十分にも及び、さすがに比翼も話し疲れたのか、言葉が出なくなった。連理はそんな比翼を、ちらちらと横目で見ていた。

「私に何を言うつもり?」

 比翼は連理を睨み付ける。

「いや、あの、さ。ひよ……」

 連理が何かを言おうとした途端に、比翼の唇が連理の唇と重なる。そのまま比翼は連理を押し倒し、優しい笑みを浮かべた。

「今日、私は凄く気分がいいの。別にあなたでも問題ないけど」

「やめてくれ」

「そう、残念。さっ、早く戻って勉強したら、連理」

「そうするよ」

 比翼の部屋から連理は出て行く。

「ふふ」

 可愛い弟。少しからかってやったら、顔を赤くしてた。私だけの弟。可愛い連理。

 嫌らしい笑みを浮かべながら、比翼はキャンバスの前に立つ。黒い聖母は、相変わらず我が子を抱き、周りの『死』には何一つとして動揺していない。

「ねぇ。あなたの周りで、たくさんの人が死んでるよ」

 比翼が聖母に語りかけた。聖母は言葉を返さず、我が子を抱いている。比翼は、それが面白いのか、笑いが込み上げてきた。だが、彼女は必死に笑いを堪え、肩を震わせた。

 笑いを耐え抜いた比翼は、水を汲みにキッチンへと向かい、部屋に戻ってきたら、すぐにパレットと筆を手に取った。

 今度はどのような『死』を彼女に捧げようか。どれだけの死を彼女に捧げたところで、彼女は動じないが。比翼は楽しそうに『死』を追加していく。慎重に丁寧に、死の直前の苦しみすらも逃がさないように。

「そういえば……」

 彼女はふと思いついた。心の『死』を忘れていた。生命活動が終わることだけが『死』ではない。さすがにそれは絵では描けないだろうか。それらしい表情を描いたところで、それは生きているのだから、『死』ではない。一目で、これは心が死んでいるということがわからないと意味がない。心が死んでいる人。誰かいないだろうか。周りにはいない。

 彼女は目を閉じ、想像してみる。

 どのような状態に至ると、心は死ぬのか。そもそも心が死ぬとはどういうことだろう。狂うことか。違う、それは心が生きているからこそ、狂うのだ。

 どれだけ悩んでも、心が死んでいる人の姿が想像できない。では、心がない人はどうだろうか。

 心とは感情だ。それが無いということは、当然無表情だろう。

 比翼は目を開く。彼女の目には漆黒の聖母が映った。

「あぁ、それはいらないのか」

 心なんて、この絵に描く必要はない。この絵で重要なのは『死』だ。死んだら心なんてもの残るわけない。結果的に、完成したこの絵こそが、心の死となる。

「この絵が完成すれば、心の死は描ける」

 彼女はそう考えると、自分が何処かに至った気がした。まるで仙人にでもなった気分だ。

 しかし、何かのしこりが残る。それが何なのか、比翼はわからなかった。


想刻/3


 清貴が目を覚ましたときには、秋華は横にいなかった。朝のこともあって、心配になった清貴は秋華を呼んだ。だが、秋華からの返事はなく、虚しい沈黙が訪れるだけだった。

 頭をかきながら、時計を見る。昼の三時を回っていた。

 眠りすぎたかなと思い、清貴は寝室から出る。すると、甘い匂いがした。

 居間に着くと、比翼と秋華がキッチンに立っていた。どうやら何かを作っているようだ。

「何を作ってるんだ?」

 清貴が二人の背後から話しかける。「クッキー」と比翼が答えた。

「ちゃんと秋華から教わってるのか」

「当たり前じゃん。また兵器だとか、臭いとか言われたくないし」

 どうやら、数年前のことは本気で反省しているようだ。

「連理はどこだ?」

「あの子なら、今お風呂を掃除してるよ」

 今度は秋華が答える。

 清貴は自分だけ置いていかれたような気がして、焦りにも似た感情が胸に沸いた。しかし、どうしようと言うでもなく、彼はソファへ深々と腰を下ろした。

彼は煙草に火を点けて、今考えられることを一気に考えた。

 明日は晴れるだろうか。仕事はどうしようか。晴れたらどうしようか。そういえば、あの小説がまだ終わってなかった。どのような内容だっけ。あぁ、少年少女向けの恋愛小説か。悲恋ではなく、純愛だったな。そういうのは苦手だな。ではどうするか、今は三時十七分。四時から始め、一時間約十二ページぐらいが妥当だな。残りは四十九ページだから、理論値では四時間とほんのちょっと。秋華は大丈夫だろうか。これがきっかけで精神病とかにならなければいいのだが。

「めんどくせ」

 この一言は、彼の口癖だ。よく何か起きると、「めんどくさい」と言ってだるそうにしていた。秋華も最初こそこの一言には、いちいち腹が立っていたものの、今では、その一言の意味をちゃんと理解している。

「どうしたの、きよくん」

 秋華が背後から肩を叩き、そのまま横に座る。

「すまん。君に気を遣わせるつもりはなかったんだ」

「いいよ。今は人のことを考えているほうが、楽だし」

 清貴が「めんどくさい」などと言う時は、決まって何かを考えているときだ。頭の中で何かをシミュレートし、その度に不安要素や邪魔なノイズを削除していく。だが、その工程が複雑になってくると、彼の低スペックな脳は、「めんどくさい」という言葉で、思考を放棄するのだ。彼の「めんどくさい」は言わば、脳のショート音と言っても過言ではない。当然、生まれながらの面倒くさがり屋であるということも、言うまでもない。

「大したことじゃあないんだ。あと四時間仕事すれば、理論値では仕事が終わるけど、面倒くさいなと思っただけ」

「またそんなこと言って。売れっ子だからって怠けてると良いことないよ」

「そうだね。仕事がもらえなくなると困るし」

 清貴は横目で秋華の表情を観察した。

 秋華は本当に大丈夫なようだ。若干表情は暗いが、今すぐにどうこうという問題ではない。

「ところで、どうして急にクッキーなんて作ろうとしたんだ? 比翼がねだってきたのか?」

「まさか。あの子が私にそんなこと言ってくるわけないでしょ。気晴らしに作ってたら、作りたそうだったから、ついでに手伝ってもらったの」

 秋華は肩をすくめながらそう言った。その物言いにはどこか棘があり、仲の悪い友人の愚痴をこぼしているようだった。

「お母さん! 焼けたっぽいよ!」

 比翼が大して距離もないのに、大声で叫ぶ。「はいはい」と気だるそうにキッチンへと向かう。

 そんな二人を見て、清貴はそういえばと思い出した。

 比翼が物心ついた頃から、あの二人は仲が悪い気がする。反抗期の頃などひどかった。言い争いから殴り合いにまでなって、連理と一緒になって二人を止めたこともあった。あの二人も、それなりに丸くなったのか。

「きよちゃん、はい」

 焼きたてのクッキーを、秋華は清貴に差し出す。

「ありがとう」

 手を差し出すと、秋華は首を振る。

「あーん」

「ははは……」

 清貴は照れながら口を開く。秋華はゆっくりとクッキーを清貴の口に入れた。さくっとした食感と甘くて香ばしい香りが口に広がった。

「おいしいよ、ありがとう」

「どういたしまして」

 秋華に笑顔が戻り、清貴は嬉しそうに微笑んだ。秋華は再び清貴の横に座った。どうやら、盛り付けや片付けは、比翼に任せることにしたらしい。

「新婚の頃は、よくお菓子とか作ってたっけ……」

 秋華は思い出したように、ぽつぽつと話し出した。

「始めて会ったのは確か……ラノベの打ち合わせのときだよね?」

「あぁ。君は何故かびびりまくってた」

「そりゃそうよ。チャラ男みたいな格好で、サングラスしてて、目つき悪いんだもん」

「お洒落のつもりだったんだがな」

「そんで、声も低いし、私が、それを描くのは難しいって言うと、『原作者の要望を描いてみせるのが、イラストレーターだろう』って。今思うと、凄く理不尽だったわ」

 秋華は清貴の顔を見た。清貴は困ったように笑って、目を細めていた。

「あの時は、のし上がることで精一杯だったよ。他人のミスで、足を引っ張ってもらいたくなかったのさ。どんな小さな仕事でも、妥協しなかった。全力だった。今も妥協はしないけど、少しだけ余裕を持って仕事ができる」

「私もそうだった。自分と相手が納得できるまで、何度も描いた。寝る時間も、お洒落する時間も削って……」

「不思議だよな。今はそこまで熱くなれない。昔は、命を賭けてたつもりだったんだけどな」

 昔話に華が咲いたものの、その華はどうやらしおれてしまったようだ。そんな雰囲気を壊すように、比翼が清貴の頭の上に皿を置く。

「私のクッキーも食べてよ」

「はいはい……」

 清貴は頭を動かさないように苦笑する。それを聞いた比翼は、皿を清貴の頭の上からどけて、清貴の横に座った。

「まさに両手に花だな」清貴は照れながら言う。

「片方は花ではなく、食虫植物でしょう?」秋華が毒なのかよくわからないことを口にする。

「あはは。姥桜よりはマシだよね?」比翼は明らかな毒を吐く。

 清貴は内心、比翼が姥桜という言葉を知っていることに驚いた。

「はい。私が作ったやつ」

 他のよりも圧倒的に形が悪いクッキーを、比翼は差し出す。清貴は以前のトラウマからか、中々口を開こうとはしなかった。

「あーん」

 比翼が期待に満ちた表情で言った。さすがに女性にここまでさせて、自分がそれに応じないのでは、男が廃ってしまう。

 覚悟を決めて口を開く。

 さっきのさくっとした食感とは、明らかに違う。しっとりとしている。生なのか、という疑問が清貴の頭を過ぎる。いいや、そんなはずない。同じ時間焼いていたはずだ。一瞬だが、清貴は過去の兵器の食感を思い出し、吐き出しそうになった。

「どう?」

 咀嚼を再開する。何か甘酸っぱいものがある。

「ジャムを入れたのか?」

「うん。苺ジャム」

 だからこんなにしっとりしていたのか。いや、でもそれだけでこんな風になるものなのか。

「食感が少し、しっとりしてるな」

「途中からオーブンに入れたから」

「なるほど」

 清貴は飲み込み、大きく深呼吸する。

「おいしかったよ。ただ、今度は途中から入れたりするなよ」

「うん、気をつける。でも、カントリーマァムみたいでしょう?」

「あぁ、そんな気がする」

 過去のトラウマから、吐き出しそうになったということを、清貴は言わなかった。

「三人で何してるの?」

 連理が髪をゴムで縛った、可愛らしい格好で現れる。

「クッキー焼いてたのよ」

 秋華がそう言い、「連理も食べなさい。それと、掃除ありがとう」と付け足して、立ち上がった。

「そうだ、母さん。お湯、どうする?」

「まだいいわ。これから晩御飯もあるし」

 秋華は清貴と比翼の二人を見る。二人は小さく頷いた。

「連理。これ、食べてみろ。中々だぞ」

 清貴は比翼が作ったクッキーを連理に差し出す。少しだけ怪訝そうに顔を歪め、連理はそれを食べる。

「なんていうか、もそもそしてるというか、しっとりしているというか。中に苺ジャム、かな。それが入ってるね」

「どうだ、美味いか?」

「まぁまぁかな」

 清貴は意地悪く笑い、連理が飲み込む前に「それ、比翼が作ったやつ」と言った。連理はそれを聞いた瞬間に、クッキーを吐き出した。

「それを早く言ってよ!」

 クッキーの残骸がフローリングの床に散らばる。「あーあ」などと言いながら、清貴と秋華は残骸を片付け始めた。

「まぁまぁなら、吐き出すなよ」

 清貴が苦笑いを浮かべながら言うが、連理は毒でも盛られたかのように、鬼気迫っている。いいや、正確には、危機が迫っている。

「どういうことよ、連理」

 比翼は涙を浮かべながら、ゆっくりと立ち上がる。

「いや、ほら。前のこともあるからさ」

「……馬鹿っ!」

 クッションを力一杯に連理に投げつけ、比翼は自分の部屋へと戻っていった。

「父さんのせいだからね」

「吐き出したのは、お前の責任だろう?」

 連理は呆れるように首を横に振り、一人掛けのソファへと座り込む。

「なんで不味くもないのに、吐き出すんだよ?」

「過去のトラウマだよ」

「ははっ。俺はしっかりと飲み込んだぞ?」

「そういう問題じゃあ、ないんだ」

 連理の言わんとしていることを、清貴はちゃんと理解している。とにかく、あの兵器を一度でも味わっていると、拒絶反応が出るのだ。あの兵器を作った者が、作った食べ物。そう思うだけで、あのジャムが、もしかしたら生地が、何かしらの異物なのではないかと、思ってしまう。

「あなた達。ちゃんと謝ってきなさい」

 秋華が、二人の頭を一度ずつ叩きながら言った。

「比翼だって、一応は年頃の女の子よ。傷ついているかもしれないじゃない」

「わかったよ、母さん」

「はいはい。秋華がそう言うなら」

「きよ。あなたはもう少し、大人になってね」

 秋華は溜息をついた。


 清貴は、比翼の部屋のドアをノックする。

「比翼。さっきはすまなかったね」

 清貴が言うと、連理も「僕も、ごめん」と、清貴のついでのように謝る。

 ドアが開く。

 口をヘの字に結んでいる比翼が、目を腫らしていた。秋華の言ったとおり、本当に傷ついてしまったようだ。

 比翼は、二人を涙ぐんだ瞳で睨む。

「比翼?」

「どうせ、私の料理なんて、二人は食べたくないんでしょう」

 自分で言って、ショックを受けたのか、比翼は俯いた。

 年頃の女の子というよりは、少女のような印象を、清貴と連理は抱いた。

「そういうわけじゃ、ないんだけど……」

 連理が困ったように比翼に言う。

「その、何ていうか、昔のこともあってさ……」

 彼女に取っても、彼らに取っても、良くはない思い出を、口にしていいものか、連理は迷っていた。

「私だって、あれから、頑張ったもん」

 比翼の瞳から、涙がこぼれた。

「それなのに、さ。二人とも、まるで、毒みたく……」

 清貴は、昔のことを思い返した。

 連理にあそこまで言われた比翼は、一人で俯きながら、あれを処分し、キッチンを片付けていた。もしかしたら、あの後、部屋で一人泣いていたのかもしれない。

「昔よりは、全然マシになったし、今回だって、ちゃんと、食べられるもの、だったもん。味見だって、したもん」

 清貴は、比翼の頭を撫でて、抱きしめた。

「すまなかったね、比翼。俺たちの配慮が、全然足りなかった。でもね、不味かったわけじゃあないんだ。そうだな、例えを出そう。アナフィラキシーショックという言葉を、知っているか?」

「うん……毒蜂とかに刺されたあと、また刺されると、毒に体が過剰に反応して、死ぬやつ」

 清貴は、正直比翼が知っているとは思わなかった。

「その通りだ。今回のは、それと同じなんだよ。以前のトラウマから、俺たちの体は過剰に反応した。連理が吐き出したのも仕方ないんだ。連理が吐き出したとき、きっと、連理は前のあれを思い出してしまったんだよ」

 連理は言葉が出なかった。清貴は、比翼の過去の古傷を、いとも簡単に抉ったのだ。しかもその後に、塩を塗りたくったようなものだ。以前から清貴には、デリカシーというものが希薄だと思っていた連理だが、今回のことで、それは確信へとなった。

「……つまりは、そういうことなんだよ」

 清貴の満足そうな微笑み。

 すでに比翼は泣いていなかった。

 連理は呆れきっていた。

 誰かが後ろから、歩いてくる音が聞こえる。

「きよ、あんた何言ってんの?」

 思い切り振りかぶった秋華の拳が、清貴の背中に命中する。その衝撃で、比翼は清貴から離れ、清貴は一つ咳払いした。

 連理は、秋華の顔を見る。今までで、一番恐ろしい表情だ。

「少し言葉を選びなさい」

「あはは。すまなかったね、比翼。つまりは、今回のは不味くはなかったんだ。でも、昔のこともあって、ちょっと警戒してたんだよ。俺と連理はね」

「知らない!」

 比翼は顔をタコのように赤くして、ドアを乱暴に閉める。

「父さん。いくらなんでも、それはないわ」

 清貴は、連理の言葉に短く苦笑し、自分の仕事部屋へと入っていった。

「昔から何にも変わってないんだから」

 秋華は溜息をつく。

「ちゃんと昔から教育しといてよ」

 連理は諌めるように言って、自分の部屋に入ろうとしたが、「そういえば」と思い出したように言う。

「お風呂は熱めで」

「はいはい。ゆっくりと自分の部屋で休んでなさい」

 連理はドアを閉めた。

 秋華は急にすることがなくなり、どうしようかと悩む。今日は仕事をしないと決めていたので、仕事をする気にもなれない。

 仕方なしに、秋華は清貴にさっきの発言について、注意をするために仕事部屋のドアをノックする。

「入るよ」

「あぁ」

 清貴の低い声がする。

 秋華はドアを開けると、見慣れた部屋に溜息をつく。

「入ってきて、早々に溜息かい?」

 パソコンに向かっていた清貴が、秋華へと振り向く。先程のことなど、何もなかったかのように、秋華に微笑んでいる。それを見た秋華は、再度溜息をついた。

「また溜息ついて。何かあったのかい?」

「別に。仕事に集中できないようだけど?」

 秋華は注意する気など失せたのか、清貴に話題を振る。

「まぁね。でも、あと少しだから頑張ろうとも思ってる」

「そういうときは、雑な仕事になるのよね、あなたは」

「ははっ。その通りだよ。さすが、わかってるね」

 秋華は汚れ一つない絨毯へと座る。清貴は、再びパソコンへと向かい、キーボードを叩き始めた。

 カタカタと小気味良い音を刻み、清貴の世界が徐々にディスプレイに広がっていく。しかし、その音は一旦止む。そしてすぐに、ディスプレイに表示された世界は、削除された。

「ごめんね。やっぱり集中できない?」

「あぁ。酒でも飲もうかな……」

 清貴が壁に掛けてある時計を見る。

「まだ五時前か……」

 清貴は頭を掻く。

「そう言えばさ、比翼って、意外と成績良いのか?」

「えぇ。大体が三と四。連理が苦手なものが成績が良くて、得意なものが成績が悪いの」

「へぇ、そうなのか。昨日さ、比翼が意外と難しい言葉知ってて、驚くことばかりだよ」

 どうやら清貴は、本格的に仕事をしないつもりらしい。

「寝室で話しましょうか?」

「是非、そうしよう」

 二人にはルールがあった。この仕事部屋の中では、決して仕事以外の話は長くしない。

 二人は寝室に移動すると、ベッドに座る。

「けど、私達って、ルール沢山決めてるよね」

 比翼の話をしたくないのか、秋華は話を変えた。

「お互い、同棲を始めたときに決めたのを、引きずってるだけだろう?」

「その方が楽だと言ったのは、あなただけどね」

 秋華と清貴は互いに笑み、キスをする。

 清貴は秋華を抱き寄せ、首もとに何度もキスをする。

「駄目よ。二人が起きてるもの」

「そうだね。でも、今から気分を盛り上げておこうか?」

 清貴は秋華を押し倒し、壊れ物でも扱うかのように、優しく接吻を繰り返す。秋華も気分が乗ってきたのか、自分から清貴へとキスを求めた。

「今はここまでにしておこうか?」

「そうね」

 二人は体を離し、秋華は身なりを整える。

「なぁ、秋華。俺と結婚して、後悔してないか?」

「そうね……。今のところは後悔してないけど、比翼のことに関しては、どこで教育を間違えたかなって、思う」

「比翼が、嫌いかい?」

「まさか。私とあなたの子供よ? 嫌いなわけないでしょう。ただ、そうね、あの子は、私を愛してない。むしろ敵視しているように感じる」

 秋華が言ったことは、清貴には深く理解できる。何故かはわからないが、比翼は秋華を、異常なまでに敵視している。

「あなたには、見ていて気持ち悪いくらいの、愛情を感じるんだけどね」

 それも清貴は理解できた。よく、娘の初恋は父親で、娘は最初に父親を異性として意識する。それが思春期の特徴だ。だが、彼女は違った。

 思春期だろうと、反抗期だろうと、清貴には惜しみないほどの愛情を捧げていた。むしろ、清貴のほうが照れるくらいに、彼女は清貴に対して積極的だった。

「どうしてだろうね?」

「俺に言われてもな……。比翼にも連理にも、分け隔てなく接してたし。君もそうだろう?」

「えぇ。でも赤ん坊の頃から、比翼も連理も、私があやすよりは、あなたがあやしたほうが、すぐに泣き止んでた」

「考え始めると、止まらなくなるぞ」

「そうよね。でも気になるの。絶対にあなたは、良い父親にはならないと思ってたのに。なんか良い父親だし、良い夫だし」

「さり気なくひどいこと言うのな」

 清貴と秋華は笑い、またキスをする。

「晩御飯の準備する。比翼にも手伝ってもらうからね」

「ははっ。そりゃ美味いものになりそうだ」

 清貴は、不安要素を無視して、彼女に言った。


想刻/4


 昨日の、連理の肉じゃがの他に、食卓には色々なものが並んでいた。

 鶏肉、ピーマン、たまねぎを、味塩コショウで炒めたシンプルなもの。清貴の好物の一つだ。

 じゃがいもをスライスしたものを油で炒めた、シンプルなもの。これまた清貴の好物だ。

 きゅうりとレタスのシンプルなサラダ。清貴の好物だ。

 しじみのお吸い物。これは、連理と清貴の好物だ。

 さらには、鶏の唐揚げも沢山あった。言うまでもないが、清貴の好物だ。

 他にも色とりどりの、清貴の好物が並んでいた。

「凄いな、これ」

 連理が感心しているような、呆れているような曖昧な表情で言う。

「というか、ほとんどが父さんの好物ばかりじゃあないか。差別だよ」

 そんなことを愚痴りながら、連理は椅子へと座る。

 清貴はというと、目の前に好物ばかりが並べられ、食べる前から、非常に幸せそうだ。

「言っておくけど、私は手を出してないからね。口は出したけど。作ったのは全部、比翼よ。感謝して食べなさい」

 先日、連理が言ったようなことを、秋華は言った。

 全員が椅子に座ると、「いただきます」と全員で合掌し、我先にと箸を伸ばした。

 まだまだ大雑把な味付けではあるが、男二人の口には合っているのか、しばらく二人は無言で食べた。

「どう……?」

 さすがに心配なのか、比翼は二人に問う。

「おいしいよ、比翼。なんていうのか、この大雑把な味付け。懐かしいよ」

 清貴は食べ物を頬張りながら、答えた。連理はというと、比翼の問いかけには答えずに、黙々と箸を進める。彼なりにおいしいと評価しているのだろう。

「何が懐かしいのさ」

 比翼は可愛らしい笑みを浮かべ、自分で作った料理を、口へと運んだ。

「俺が一人暮らししてたときに、こんなような味付けだったんだよ。やっぱり、比翼は俺の娘だな」

「あら。私の娘よ。アレンジも上手かったんだから」

 清貴と秋華は、お互いに顔を見合わせる。

「やめてよ、二人とも」

 比翼は照れているのか、顔を赤くしていた。


 時刻は七時になった。片付けを早々に終えた清貴は、仕事部屋にて、小説を書くことにした。どうやら、美味いものを食べたことで、インスピレーションが上がったようだった。

 居間には、風呂の準備を終えた秋華と、比翼と連理の三人が、何も話さずに空間を共有していた。

「連理。最近彼女とはどうなの?」

 秋華が、話を切り出した。

「別に、何もないよ」

「そう。比翼はどうなの? 未来の旦那様は見つかりそう?」

「無理。高校生の時点で、未来の旦那さんていないよ」

「そう」

 会話は終わった。テレビも点けていないので、沈黙が非常に重い。

「二人とも、先にお風呂に入っちゃいなさい」

「そうする。連理、一緒に入ろうか?」

「別に、いいよ」

 連理は立ち上がり、浴室へと向かった。どうやら肯定の意味で言ったらしい。

「比翼。どういうことかしら?」

「さぁ……。私にもさっぱり。まぁ、久しぶりだし、いいか」

 どうやら、比翼は冗談で言ったようだ。そもそも、連理が承諾するとは、二人とも思わなかった。

「変なこと、するんじゃないわよ。あなた達は、正真正銘の、双子なんだから」

「わかってるよ」

 口を尖らせた比翼は、浴室へと向かった。

 ドアを開けると、すでに連理が服を脱いでいた。腰にはちゃんとタオルを巻いている。

「なにさ?」

「いや、別に」

 いつもなら、比翼がペースを握っているのに、今回は連理がペースを握っている。

 比翼は気恥ずかしそうに、服を脱いでいく。

「見てないで、さっさと体でも洗ってよ。大きいと言えるほどじゃあないんだから、うちのお風呂は」

「はいはい」

 決して大きいとは、確かに言えないが、二人が湯船へと浸かるには、充分な広さだった。

「今日はどうしたのさ、連理。いつもなら、絶対に嫌がるのに」

「別に」

 しっとりとした、黒髪が揺れる。

 こうして見ると、本当に鏡を見ているようだと、比翼は思った。確かに、男と女ということで、体つきの変化はあるが、髪の質といい、癖といい、どこかしら似ている。

「私と一緒にお風呂に入れるなんて、連理は幸せ者だよ」

「さいですか」

「あははっ! お父さんみたい!」

 連理が髪を掻き揚げる。鼻が高く、綺麗な肌。大き目の瞳だが、男らしい鋭さも感じる。まつ毛も長い。

「なに?」

「連理って、かっこいいんだね」

「同じような顔だろう?」

 連理よりも、数センチ長い髪を、タオルで巻いている比翼。瞳は大きく、可愛らしい一重だ。鼻は高い。唇が、少しだけふっくらとしていて、入浴しているためか、頬が紅く染まっている。

「連理って、結構モテるよね?」

「そうでもないよ」

「高校に入って、何人に告白された?」

「……十三人くらいかな」

「死ね」

 まさか、弟がここまでモテるとは思っていなかったのか、酷い言葉が漏れた。それを気にせずに、連理は話を続ける。

「比翼だって、モテるだろう」

「はぁ? んなわけないじゃん。私なんて四人だよ、高校で」

 連理は、「それで充分じゃないか」と、小さく呟いた。

「私って、魅力ないのかな」

 連理の呟きが聞こえていたのにも関わらず、彼女はまだ話を続ける。

「胸だって小さいし、背も低いし」

 連理は比翼の胸を見る。確かに、小さい。

「どこ見てんのよ、変態」

「一緒に入ってるんだから、仕方ないじゃないか」

 連理は溜息をついた。

「比翼。本当に、これでいいと思ってるのか?」

 急に、連理は真剣な表情になった。声も低く、真剣さが伝わってくる。

「いいのよ、これで」

 そんな連理に対し、適当に比翼は答えた。

 連理は立ち上がり、浴室から出て行った。

「もう上がるの?」

「比翼と入っていると、疲れるんだよ」

 連理は、溜息をつきながら戸を開け、すぐに閉める。

「本当は、嬉しいくせに」

「うるさいよ」

 曇りガラスの向こうから、連理は答えた。



 パソコンに向かう清貴の顔には、表情が感じられなかった。死んでいるようにも見え、はたまた、動かない偶像のようにも見えた。とにかく、今の彼の顔には、人間としてあるべきものが欠落していた。整然とされた部屋で、カタカタとキーボードを叩く音と、壁に掛けてある時計の秒針の音だけとが、この部屋を支配していた。すでに、どのくらいこうしているだろうか。おそらく、長いと言えるほどの時間は経過していない。しかし、そんな些細なことなど、彼にはどうでもよかった。今は、自分がキーボードを叩くことで築かれる、自分の世界のみが、彼に代え難い幸福を与えていた。

 清貴が小説を趣味で書き始めたのは、高校二年からだ。それから、彼は狂うように小説を書き続けた。このときは、別段、小説家になりたかったわけではない。それを他人が読み、感想を聞かせてくれることが、彼の至福だった。

 だが、それは高校を卒業する頃には、ぱったりと終わった。飽きたわけではなく、ただ、他に楽しいことが多かった。いつしか、彼が小説を書くのは、空いた時間を埋めるだけとなってしまった。

 そして数年が過ぎる。大学を卒業し、一般のプログラマーとなった。パソコンに向かう毎日が、続いた。

 そんな毎日に、彼は、疲れてしまった。何もかもが、どうでもよくなってしまった。自殺でもしてやろうかとも、思ったくらいだ。

 しかし、それは悔しかった。きっと、自殺したとしても、人並みに泣かれ、人並みに弔われ、人並みに忘れられるのだろう。どうせなら、彼は有名になりたかった。だが、彼には何もなかった。大学の成績は平凡。顔立ちは、悪くはないが良すぎるというわけでもない。有名になれる要素は、ほとんどなかった。

 彼は、大学時代から使用しているパソコンを、ふと思い出した。そういえば、小説を書いていた。何かを書こう。そう思った。そこで、すぐにアイデアは浮かんだ。

 この思いを、小説にしよう。平凡すぎて、つまらなすぎる、社会人の生活を。

 それから彼は、高校生の頃のように、小説を書き出した。小説の勉強などしなかった。有名な小説をいくつか読み、なんとなくの雰囲気を理解した。ちょうど、募集している出版社があり、彼はそこへと応募した。賞金は百万円。プロへとデビューもできる。

 そして、運よく、彼は大賞を受賞した。それから彼の生活は、一変する。会社を辞め、一人で過ごす時間が増えた。彼は、がむしゃらに小説を書いた。ライトノベルも、官能小説も、ミステリー小説も、恋愛小説も、なんでも書いた。

 そんなときに、彼は秋華と出会った。自分が執筆したライトノベルの、イラストレーターだった。初対面では、本当に彼女が、自分の望むものを、描いてくれるかは不安だった。その不安は現実に具現し、彼女は中々自分の望んだものを、描きはしなかった。他人に足を引っ張られ、彼は苛々した。彼女との打ち合わせの時間が多くなり、小説を書ける時間が減った。そして、彼はふと気付いたのだ。

 俺は、生きている。

 今まで、俺は死んでいた。

 初めて、実感する『生』の感覚。何故、今まで気付かなかったのか、わからない。しかし、自分は、小説を書くことで、初めて、自分が生きているという証拠を、この世に残した。

 そもそも、自分はとても矮小な人間だった。自分の欲望に忠実に動き、それに多くの他人を巻き込み、勝手に全ての結果を自身の力と慢心した。自分が、名前も顔も知らない誰かに必要とされているということに、盲目的に満足して鼻を高くしていた。

 けど、本当はそんなこと、どうでもよかった。

 自分はここにいて、ここで生きているのだと、この世に伝えたかっただけだった。言葉にしてしまえば、なんとも幼稚で、我儘だろうか。だが、自分は本当にそう思っているのだ。

 そんなとき、彼の目の前で、必死にイラストを描いている彼女がいた。彼女のおかげで、気付けたような、不思議な思い。一応、打ち合わせということなので、化粧もしていた。そんな彼女が、魅力的に見えた。彼女は、どうなのだろうか。彼女もまた、同じ思いで、ここまで来たのだろうか。違うのならば、是非に聞いてみたい。

 そして彼は、打ち合わせを止めて、彼女をデートに誘った。そこから、お互いは惹かれ合い、結婚まで至った。

 誰かが部屋をノックする。清貴は返事をしないで、そのままの姿勢でいた。

「父さん。比翼が一緒にお風呂に入ろうってさ」

 ドア越しに、連理の声がした。清貴は返事をしない。

「伝えたからね」

 ドアの前から、人の気配が消えた。

 残りのページは、あと二十一枚だ。時間がどれほど経ったかは、彼にはわからない。

 ただ、やはり、自分が築く世界が広がっていくのが、彼にはたまらなく嬉しいだけだった。



 誰かが声をかけた。清貴は、知らぬ間に、眠ってしまったらしい。時計を見ると、もう、十時だった。虚ろな目で、パソコンのディスプレイを見ると、主人公が中途半端に何かを話していた。

「起きた?」

 どうやら、比翼に起こされたらしい。

 清貴は、返事をしなかった。比翼なのに、連理のように感じる。少しぼうっと見ていると、どうしたことか。彼女が、誰でもないように見えた。

「寝惚けてるの?」

「そう、かもしれない」

 ようやっと、言葉が出た。清貴は立ち上がり、体を思い切り伸ばした。座った姿勢のままだったので、体中が軋む。

 そして、部屋に置いてある冷蔵庫から、缶チューハイを二本取り出し、一本を比翼に渡した。

「学生に飲ませるの?」

「たまにはいいだろう」

 清貴は一気に飲み干した。体中にアルコールが染みて、体の渇きを、僅かだが潤した。だが、比翼は酒を飲もうとはしなかった。

「今更だが、入ってくるなって言ったろう? この部屋は、俺と秋華以外、入っちゃ駄目なんだ」

「じゃあ一緒にお風呂に入ろ?」

「なんでそうなるんだ」

「いいからいいから」

 比翼の、仮面のような薄笑いが、不気味だ。

「早く行こう?」

 比翼は清貴の腕を引き、浴室へと連れて行こうとする。

「わかった、わかったから」

 清貴は、未だに覚醒しきれていない頭を抱え、下着とタオルを持って浴室へと向かった。

 清貴は熱いシャワーを浴びて、心身ともに蘇るようだった。比翼と共に入浴していないのならば、大声で、この快感を叫びたいくらいだった。比翼は、タオルを頭に巻き、体を長いバスタオルで包んだ姿で、すでに湯船に浸かっていた。

 清貴は、少々恥ずかしがったが、湯船に浸かる。

「しかし、その歳になって、父親と一緒に入浴するか、普通」

「いいの」

 比翼は、とても気持ち良さそうに、大きくあくびをする。

 耳を澄ますと、雨音がした。清貴は、雨は嫌いだが、この雨だけは好きになれるように感じた。

 清貴は瞼を閉じる。程よい温度の風呂、目の前には若々しい娘、そして、この気持ちの良い雨音。

 再び、眠気が清貴を誘惑する。

「寝ちゃ駄目だよ」

 比翼が言うが、清貴の耳には、すでに届いていなかった。すると、体を温かい何かが、下から上へと、なぞっていく。どうやら、人の指のようだ。

「比翼、やめなさい」

「だって、このまま寝ちゃいそうなんだもん」悪戯がばれた子供のように彼女は微笑む。

「寝かせてくれ、頼むから」

「駄目」

 比翼は、大きな可愛らしい瞳を、清貴に向けた。

「じゃあね、私がお父さんに話をしてあげる」

「あぁ」

「子供が出来たの」

「なんだって!」

 清貴は、一気に目が覚めた。

「今、三ヶ月だってさ」

「お前、何言っているんだ! 自分の言っていることがわかってるのか? お前はまだ十七だぞ? その歳で、子育てが出来ると思っているのか? いいや、まずは、相手を連れて来い! 一発殴ってやらねば気が済まん!」

「先生に」

「今は学校のことは関係な……ん?」

「倒置法」

「お前、そんな冗談、もう言うな」

 頭に昇った血が、一気に降りてくる。

「目が覚めたでしょう?」

「あぁ。通り越して、死ぬところだったよ」

 清貴は立ち上がり、浴室から出ようとした。すると比翼は、思い出したように「伊藤さんから、お父さんが部屋にいるときに電話があったの。起きたらでいいから、連絡頂戴って」と言った。

「わかったよ」

 清貴は、適当に返事をして、体を拭き始めた。


 しとしとと、不快な雨の音がする。比翼は雨が嫌いだ。清貴が嫌いだから、比翼も嫌いになった。

 きっと、清貴も今は同じ気持ちだ。

 比翼は、そう思うと嬉しくて仕方なかった。気持ちを共有したのだから。まるで、恋人のように。

 小さな乳房に手を当て、自分の鼓動が早くなっていることを、確認する。清貴と、入浴したことによる、鼓動ではない。これは何の鼓動だろうと、比翼はわかりもしなかった。潮騒のように、静か過ぎる心の雑音は、どこか心地良いようで、気味の悪いものだった。

 しとしとと、不快な雨の音がする。ゆったりと、彼女は天井を見る。湯気が、まるで生物のように、うねうねとして、面白い。煙草の紫煙も、よくこういった動きをすると、比翼は思った。

 煙草は悪いものだと、幼い頃から教えられたが、比翼は良いものだと思っていた。清貴が、その匂いを纏っていて、比翼はそれが好きだった。だから、煙草が嫌いになれなかった。煙草を嫌いになると、清貴を拒絶しているようで、嫌だったから。

 さすがに、二回も入浴したせいなのか、彼女は頭がぼーっとしてきたのか、彼女は入浴を切り上げ、明日のために早く寝ようと、髪もろくに乾かさずに、自室へと戻っていった。


想刻/5


 彼女は悩んでいた。今度はどうしようか。どういう死を与えてやろうか。どうやって、試してみようか。

 彼女は悩んでいた。周りを見回したところ、使えそうなものは何もない。今までと同じでは、何も楽しむことはできない。どうやって、また、あの快楽を得ることができるだろうか。

 彼女は再び辺りを見回した。ちょうどよく、土嚢のようなものが積まれていた。あれにしよう、と彼女は決めた。

 男が横になっている。両手と両足を縛られ、タオルで猿轡をしているので、何もできない。例え、ここでどれだけ叫んでも、どうせ誰も気付かないだろう。

 目が大きく見開かれている。男は信じられないというような表情で、彼女を凝視している。

 彼女は、聖母のような笑みを、顔に貼り付け、重い土嚢のようなものを、男へと一つ、また一つと乗せていく。男はばたばたと暴れ、中々、上手くいかない。彼女は再び、悩み始めた。

 そうだ、と彼女は名案を思いついた。

 彼女は、大きな金槌を取り出す。それは、血がべっとりと付いていた。それを思い切り振りかぶり、男の脛へと、振り下ろした。ごりっ、と鈍い音がした。男は何かを叫んだ。だが、どうやら、折れてはいないようだ。どうしようか。彼女は再び頭を悩ませる。やはり、正攻法で行くしかない。彼女は土嚢のようなものを、男の近くに置いていった。結構数があり、十三個ある。重さは、五キロくらいだろうか。彼女は、大きく深呼吸して、男の上へ、素早く並べていく。顔に一つ、上半身に一つ、下半身に一つ。そのあとは、とりあえず、適当に放り投げていった。男は暴れようとするが、彼女がどんどん乗せいてくために、いつしか身動きが取れなくなってしまった。十三個全て乗せ終わったときには、男は身動きを、一つとして、行わなかった。おそらく、諦めたのだろう。もしかしたら、まだ生きているかもしれない。彼女は万全を期すため、その場に座り込み、携帯電話をいじり始めた。携帯電話の液晶ライトが、彼女の顔を照らす。

 数十分が経っただろう。彼女は、土嚢を乱暴に崩した。

 そこで、彼女は、一つ気が付いた。顔を見ることが出来なかった。自分に対する怒りが、彼女の中へと渦巻く。男の顔を見ると、見るも無残に、不細工だった。彼女は、金槌で八つ当たりでもするように、男を殴りつける。やはり、反応は返ってこなかった。


想刻/6


 小鳥遊は、寝不足気味な頭を、必死に起こし、現場へと向かった。時刻は、六月十五日深夜の三時。今度も、あの小説家が住むマンションの、ゴミ捨て場に死体が見つかった。先に向かっていた田原が言うには、窒息死とのいうことだ。鬱血している状態から、まず間違いないだろう。しかも、素手で、とのことだ。

 小鳥遊が現場に着いたときには、田原が煙草を吸っていた。

 小鳥遊は、田原から煙草を奪う。

「自分の吸えよ」

「状況は?」

 田原は溜息をつく。

「前と同じだが、どうも……」

「慣れてきた。いいや、違うな。雑になってきた?」

「その通りだな」

 小鳥遊が、田原のポケットに手を入れ、携帯灰皿を奪う。

「被害者は?」言いながら、その携帯灰皿に煙草を押し込む。

「もう運ばれたよ」

「……ったく」

 小鳥遊は頭を掻いた。

「おい。少し話を整理したほうがいいかもな」

 田原は、小鳥遊の肩を叩き、戻るぞ、と暗に言う。小鳥遊も、その意図は分っていたが、マンションを見上げ、舌打ちをしている。

「間違いない、はずなんだが」

「証拠もねぇ、被害者との関連もねぇ、はたまた、死亡推定時刻から、殺すこともできねぇ」

 多少強引に、田原は小鳥遊を車に乗せる。

 小樽警察署に着いた二人は、早速、今までの情報を整理し始めた。

「一人目は……」

 田原が話そうとしていたとき、小鳥遊がそれよりも早く手帳を取り出し、口火を切る。

「被害者は男。発見されたのは、五月二十六日。死因は撲殺だ。ただ、何度も殴ったわけじゃあないな。頭部を一発、殴っただけだ。頭蓋の陥没の具合から、小さめの鈍器……市販されている金槌の可能性が高い。そして、丁寧に、全身に蝋が塗られている」

 田原は煙草を咥え、二人目の被害者について話す。

「二人目の被害者も男。発見日は五月三十一日。失血死。首元を裂かれている。それ以外の目立った特徴は、血を綺麗に拭いたことか。死体からアルコールが検出されている。たぶんだが、アルコール消毒液を布に湿らせ、それで血を拭いたってことが、考えられる。そんで、こいつも蝋で固められていた。だが、前のと比べると、かなりムラがあるな」

 田原が煙草に火を点けると、また小鳥遊が煙草を奪い、吸いだした。

「だからな、お前。自分の吸えよ」

 田原はまた新たに煙草を取り出し、火を点けた。

「三人目はどうなんだ、義信」

「聞く耳持たねぇのか、てめーは」

「いいから、話せ」

「わかったよ」

 不服そうに煙を吐き出し、田原は自分の手帳を取り出す。

「三人目の被害者は女。発見日は今日、六月十二日だ。死因は、首を絞められての、窒息死だ。しかも素手。今指紋やら何やらを、懸命に採取してるだろうよ。あいつらも、大変だよな」

「最初の死体が、死後三週間。二番目は、死後二十二時間、三人目は?」

「十一時間だ」

「早いな」

 小鳥遊は、煙草を灰皿へと押し当てた。そして、立ち上がって、大きく背伸びをする。

「二人目が発見されてから、二週間と少ししか経ってないぞ。相当せっかちだな。最悪、マスコミに見つかるかも知れんのに」

「そう言うなよ、真。もしかしたら、放っておいても、あっちから尻尾を出してくれるかもしれないぞ」

「放っておくつもりか、お前」

 小鳥遊は鋭く、田原を睨んだ。田原は何も答えずに、肩をすくませる。

「蝋はどうなんだ、三人目は」

「もちろん、塗られていた。ただ、やっぱり、雑だな。適当に塗っているって、よくわかったよ」

「模倣犯かもな」

「それはないな」

「なんでそう言い切れる?」

「お前に刑事の勘があるように、俺にもあるんだよ、ハゲ」

 田原は、煙草の火を消すと同時に、もう一本吸いだした。

「身元は全部わかってるが、てんでバラバラだ。一貫性がない」

「あぁ」

 小鳥遊が田原に近寄って、また煙草を奪おうとする。しかし、田原は、煙草を小鳥遊から遠ざけ、それを阻止した。小鳥遊は舌打ちする。

「どうしたよ、真。お前、煙草を買う金も、奥さんに貢ぎ始めたのか?」

「違う。いいや、違わないのかもしれんが」

「なんだよ、はっきりしろよ」

「……めぐみが、妊娠していることは、知ってるだろう?」

「あぁ、まぁな。でも、お前、禁煙は無理とかほざいてなかったか?」

「あいつの腹がでかくなってくるとな、なんか気を遣っちまうんだよ」

「ははっ! そいつぁいいな! 奥様のために、やっと禁煙しだしたのか!」

「そうだ、悪いか」

「そういうことは早く言えよ。出産祝いには、俺のガキのお古を、沢山やる」

「迷惑だ、やめてくれ」

 小鳥遊は照れるように、田原に背を向けた。

「ほらよ、妊娠祝いだ。俺がお前の周りで吸いまくってたとでも、言えよ」

 田原は、残り本数の少ない煙草が入った箱を、小鳥遊に投げ渡す。

「すまないな、義信」

 田原は乾いた笑いを小鳥遊に向け、小鳥遊は、笑っているのかいないのか、よくわからない表情を、田原に向けた。

「殺害現場も、わからないよな」

 小鳥遊は、期待せずに、田原へと言った。

「かなり古い家だろうな。前の死体から、結構な埃と、古い畳の屑が出てきた。他にも有力そうな証言が多々ある。それでも今回のような事件を起こすあたり、中々肝が据わってやがる」

「お前……いつからそのことを知ってた?」

「今日聞いたんだよ。お前が来る前に」

「馬鹿野郎! それを早く言え! 容疑者の見当はどうなんだ!」

「あぁ。今御偉方達が、容疑者の家に向かってるよ」

「お前っ……!」

「あれでほぼ確定だ。証言から、そこには、あの小説家の狂信的なファンがいるらしい。それに、相当なことを、言ってたらしいぞ。『私が、彼に、小説のネタをあげるの』とかなんとか。容疑者は女だ。指紋を見比べれば、すぐにわかるだろうな」

 小鳥遊は、田原の言葉に何の反応も示さない代わりに、田原の胸倉を掴み上げた。

「お前が、御偉方のペットだとは知らなかったぞ!」

「ばーか。んなつまらない手柄、あいつらにやれよ」

 田原は、小鳥遊の手を解き、鞄の中から、一冊の資料を取り出した。

「これ見ろよ」

 小鳥遊は、まだ興奮しているのか、その資料を乱暴に捲り始める。行方不明者リストでも言おうか、それも最近のものだ。

「これがどうした?」

 額には、まだ青筋が浮かんでいる。

「ラインが引いてあるだろ?」

 確かに、蛍光ペンで引かれたラインがある。

 最初に引かれているものは、四月三十日。続いて、五月十四日、六月四日、六月十一日。

「見ればわかるだろうが、全員未成年。高校生だ。その日付は、行方不明になったと思われる日だ。男の次は女、女の次は男と、交互だ。そして、こいつらは、今まで、両親に無断で外泊したことはない。更に、全てが木曜日」

「何が言いたい?」

「最初の死体が発見されたのが、五月二十六日。俺はな、その資料を見た」

 小鳥遊はもう一度資料へと、目を落とす。

「こんな田舎で、行方不明になる奴は少ない。なったとしても、小さい町だからな、大体すぐに見つかる。今までも、見つからなかったことはないだろう? まぁ、例外はあるが、未成年は、ちゃんと見つかってる」

 田原は何を言いたいのか、小鳥遊は考えを巡らす。

「だが、そいつらは見つからない」

 男、女、男、女。そして、木曜日。未成年。親に無断で外泊はしない。高校は、同じ……。

「最初の被害者も、それに載ってるだろう? 後半の死体は、捜索願が出る前に、仏様として発見されてるが」

 田原は、新品の煙草の箱を、鞄から取り出す。

「俺は心配なんだよ、真。子供ってのは、いつ、犯罪に巻き込まれるか、わかったものじゃない」

 真相が未だにわからないものの、田原が何を言いたいのか、小鳥遊は察する。

「あぁ、そうだな」

「やっぱ、心配だからな」

「あぁ、心配だからな」

 二人は警察署から、何かを確信した笑顔で、出て行った。


想刻/7


 六月十五日。

 気味の悪い朝を、比翼は迎えた。どうも、体がぎしぎしするようだ。腰も痛い。普段やらないような運動をすると、数日の間、体は抗議でもしているのか、拒否反応を起こす。

 枕もとの時計は、六時を指していた。比翼は軋む体を起こし、ベッドの上で、大きく背伸びをする。

 黒い部屋は、カーテンの隙間から、薄っすらと漏れる太陽光を、吸収している。まだ眠いのだが、どうしても、眠れる気にはなれなかった。しかし、今日は月曜日。比翼が最も嫌いな曜日だ。

 自身の中で、少し問答を続けた。もう一度寝直すと、きっと、寝坊するだろう。しかし、このまま起き続けていても、結局は授業中に眠くなる。では、居間で寝るのはどうだろうか。それでも、結局は起きないだろう。自分のことだから、確信を持てる。

「あーあ、眠い!」

 わざと大声を出してみる。当然、家族からの返答も、何も無い。

 と、彼女は思っていたが、ドアが鳴った。

「比翼、入るぞ」

 どうやら、清貴は起きていたようだ。

 比翼は、早起きは三文の得、という言葉を、今日ほど信じられることはなかった。

「どうぞ」

「朝っぱらから、何大声を出してるんだ」

 比翼は大きくあくびをして、ベッドを、ぽんぽんと叩く。清貴に、ここに座れと、合図しているのだ。清貴はそれを察したのか、ベッドへと座り、比翼の頭を撫でる。

「おはよう、比翼」

「おはよう、清貴さん」

 比翼は、普段の呼び方と変えてみた。清貴は、虚を突かれたように、目をぱちくりさせる。

「たまには呼び方を変えたほうが、新鮮でしょう?」

「そうだな」

 清貴は、笑みを浮かべて、また比翼の頭を撫でる。どうやら、清貴は、機嫌が良いようだ。もしくは、夜に飲んだ酒が、まだ抜けてないのかもしれない。

「ねぇ、私、早起きしたよ」

「あぁ、偉いな」

 再三、清貴は比翼の頭を撫でる。

 この手が好きだ。決して大きくはないが、温かくて、綺麗な手。

「お父さん、仕事は?」

「やっと終わったよ。純愛は、疲れるよ。俺の作風に合ってないんだ」

「お父さんは、そうだよね」

 比翼は、清貴を見て、とても嬉しそうに笑う。清貴は、比翼を抱きしめたい衝動に駆られるくらい、彼女を愛しく思えた。

「お前は可愛い子だな、比翼」

「でしょう?」

 おどけた彼女の表情には、一片の暗闇も含まれていなかった。例えるなら、生まれたばかりの子が、親に向ける、純真な笑顔のようにも見える。

 清貴は大きく欠伸をした。

「今日はのんびりとするよ。外に出ると、誰彼に捕まるからな」

 聞いてもいないのに、そのようなことを口にする。

「私も、今日は休もうかな」

「どうしたんだ?」

「生理痛」

「ははっ。たまには、いいかもな。ちゃんと出席はしているようだし、一日くらい、大目に見てやるよ」

「ありがと、清貴さん」

 再び、比翼は清貴に純真な笑みを向ける。

「でも、連理は寂しがり屋だから、頑張って行く」

「偉いぞ、比翼」

 清貴は、比翼にそう言って、部屋を出て行った。



 連理といつもの通学路を歩き、連理と比翼は学校へと向かう。

 通学バスに揺られ、彼らが学校前の長い階段と、坂の前に差し掛かったとき、連理は比翼の手を引いて、坂へと向かいだした。

「どうしたのさ」

「今日、朝にお父さんと話してたろう?」

「よくわかったね」

「双子だからね」

 前にもしたような会話を、彼らはする。

「月曜日って、私は嫌い」

「僕もだよ」

 連理は比翼の手を引きながら、素っ気無い返事をした。連理の手から、比翼は僅かな震えを感じた。

「どうしたの?」

「小鳥遊がいる」

「……っ!」

「振り向かないほうがいい。疑われてるんだよ、僕らは」

「でも、そんなこと、有り得ないよ……」

 二人の間に、嫌な空気が流れる。比翼は、連理の手を振りほどき、大声で連理に叫んだ。

「別に私が、何しようと勝手でしょう!」

 連理は、刹那、何が起きたのか理解できなかった。だが、連理は、自分達が手を繋いで登校しているということが、普段からは有り得ないことなのだと、気付く。

 連理は不安のあまり、普段を装うのを忘れていたのだ。

「勝手なわけないだろう! 父さんだけじゃなく、僕にも迷惑をかけるつもりか!」

 上出来よ、と比翼が表情で語っていた。

「知るかっ、馬鹿!」

 比翼は、連理に平手をかます。不意を突かれた攻撃に、連理は、ここまでするか、と半ば呆れた。

 そんな連理を残し、比翼は一人で校舎へと向かっていく。

 これで誤魔化せたとは、連理は思わない。今まで、普段通りに登校していたのだ。何かきっかけが必要だ。だが、比翼に連絡を入れるのは、得策ではない。もしも、警察に携帯電話を調べられたら、それで終わりだ。

 連理は少し考えて、歩を進める。

 小鳥遊が、自分達を尾け始めたのは、学校前でバスを降りてからだ。だが、尾行しているのが、小鳥遊だけとは限らない。他の刑事も、いたかもしれない。そうなってしまっては、非常にまずい。自分と比翼は、ここに来るまで、普通に話をしていた。どうするか……。

 結局、教室に着いても、名案は浮かばなかった。授業も頭に入らず、昼休みを迎えてしまった。

 白石が、連理の机に自分の弁当箱を置き、近くの椅子を引っ張り、座る。

「聞いたぞ、連理」

「何をだよ」

 また事件の話かもしれないと、連理は思っていた。

「比翼と喧嘩したんだって? しかも、坂を上ってる最中に」

 これは、助け舟だ。連理は察した。

 案外、比翼は頭が切れるのかもしれない。

「まぁね」

「しかも、原因が煙草だってな」

 白石が小声で言う。

「お前も吸ってるのに、比翼に偉そうに注意したんだってな。そんで、比翼がキレて、一発平手をかましたと」

「随分と詳しいな、白石」

「恵子から聞いたんだよ。すげー怒ってるらしいぞ。俺に、危険だから近づくなって、メールが来た」

 連理は、笑いそうになったのを、必死に堪えた。

 ここまで比翼が、上手く周りを誘導できるとは、連理は思ってもみなかった。

 これで問題が解決した連理は、少しだけ不貞腐れたような表情を作る。もしも、小鳥遊が白石や太田に何か聞いたとしても、今の話をされるだけで、証拠になどなりはしない。例え喫煙で補導されようとも、彼らにとっては大したマイナスにはならない。

「比翼が悪いんだ。当然だろう」

「自分の事は棚に上げんのかよ」

 白石が弁当を食べ始める。女の子のような可愛らしい弁当箱だ。太田が作ったものだろう。

「女性が吸うのは良い事じゃあない」

 連理は、鞄から、おにぎりを二つ取り出す。

「あいつは、怒ると怖いぞ」

「知ってるよ」

 今度は、わざとらしく眉間に皺を寄せ、困惑の表情を浮かべる。

 それは、ここから、色々やりづらくなるなという、考えも含まれてのものだった。



 比翼は、太田の行動をばれないように監視していた。太田と白石は、必ず昼休みに連絡を取っている。ああまで言えば、きっと白石に連絡を入れるだろうと、彼女は踏んでいた。

 太田がメールを打ち終わって、比翼と机をくっつける。他にも数人の女子が、比翼と机をつける。

 相変わらず、女というものは、どうしてこうまでして群れるのだろうと、比翼は内心呆れた。

「比翼、何怒ってるのさ?」

「そうだよ、教えてよ」

「彼氏と喧嘩でもしたの?」

 ドミノ倒しのように、質問が責めてくる。

「連理と喧嘩したの。それと、私に彼氏はいません」

 比翼は、不貞腐れるように、彼女らに言う。すると、太田を除く全員が「なんで?」と口を揃えた。

「ちょっと、家の事でね」

 小さめの弁当箱を、比翼は取り出す。比翼の弁当は、いつも秋華が作ってくれているが、比翼はそれが気に入らず、あまり、味付けも好きではない。

「そう言えば、連理くんってさ、浮気してるって噂、知ってる?」

 一人の女子が、嬉々と瞳を輝かせ、皆に言う。

「なんかね、学校の近くで、彼女以外の子と、手を繋いで歩いているの見た子がいるんだって!」

「うそー。連理くんのこと、純粋な良い人だと思ってたのにー」

 比翼は、箸を止め、わざとらしく考えるふりをした。

「それって、どんな子?」

「よくわからないけど、ここの制服だったよ」

「それって、私かも」

「はぁ? マジで言ってんの? 比翼って、連理くんとそんなことまでしてるんだ」

「時々ね。でも、今は連理の話はしたくない」

 比翼は口をへの字に結ぶ。

「じゃあこんな話は知ってる?」

 先ほどとは違う子が、再び話を始める。

「最近ね、うちの学生が行方不明になってるんだって」

 自分に関係のないことは、何でも笑い話にできる。

 おそらく、彼女らの世代にとっては、人の不幸は蜂蜜よりも甘くて、おいしいのだろう。

「何人くらい?」

 太田がその子に言った。

「四人かな……」

「えー。どうせ、家出とかでしょう?」

「詳しいことはわからないんだってさ」

「なにそれー」

「嘘だー」

 比翼は、仕方なしに調子を合わせ、驚いてみせた。どうせこれから、笑い話になど出来なくなる、などと考えながら。

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