人殺しの唄

南多 鏡

一章 殻繰《からくり》

殻繰/1


 辺りに異臭が広まる。それは肉が腐る前のような臭いに似ている。彼はその臭いを、思い切り吸い込み、細く息を吐いた。目の前には、倒れている誰か。その倒れている誰かに、鼻腔へと蟲が、這いずるように進入しようとしている。

 それを彼は取り上げ、満足気に微笑むと、それを手放し、地に着くと同時に、踏みつけた。

 僅かに痙攣している蟲の、息の根を止めるように、彼はそれをもう一度踏みつける。

 ここには、生と死が溶け込んでいる。ここでは彼が生を演じ、蟲が死を演じ、倒れている誰かが、生と死の中間を演じている。

 口の端から垂れてきた涎を艶かしく舐めとり、彼は一歩前に進み、重い扉を開けた。


殻繰/2


 嫌らしいほどに光は部屋を包む。瞼の裏が赤く燃え、眼球を焼く。

 体勢を捻り、その光から逃れようとしたものの、すでに一度でも邪魔された眠気は、二度と彼に戻ってくることはなかった。

 仕方なしに起き上がり、彼は大きく伸びる。枕元にある目覚まし時計は、彼がセットしている三十分前を刺していた。

 寝る前にカーテンをしなかった自分に舌打ちし、彼は煙草に火を点ける。何度も双子の姉に、ベッドの上で吸うなとは言われているものの、彼は気にしなかった。

 体中を紫煙が駆け巡っていく。その感覚は、トイレにて用を足した感覚にも似るほどに、小気味良いものだった。

 以前に、このことを姉に話すと、気味悪がっていたな。そんなことを思い出し、彼は薄く笑う。

 部屋のドアが控えめに鳴る。返事をしないでいると、ドアがゆっくりと開かれた。すでに四十を過ぎている筈なのに、顔立ちは高校生のような彼の父が、部屋へと入ってきた。

連理れんり、起きてたのか」

 父・清貴きよたかが、意外そうに言った。清貴は部屋をきょろきょろと見回し、連理のベッドの前へと腰を下ろす。そして、自分の煙草を取り出し、火を点けた。

 二人は特に何を話すでもなく、しばし煙草を楽しむ。

 やがて連理が煙草を灰皿へと押し込み、部屋にある小さい冷蔵庫から二本のミネラルウォーターを取り出し、一本を清貴に投げた。

「ありがとう」

 清貴は融和な笑みを浮かべ、連理へと感謝を述べる。

「仕事は、落ち着いたの?」

 連理が口を開く。清貴は溜息混じりに「まだだ」と頭を抱えながら言った。

 清貴は小説家を生業としている。主に恋愛小説を手がけており、その収入は余りあるものだった。だが決して、清貴は過ぎた贅沢などせず、一般的な生活を心がけている。

 当然、贅沢をしないわけではない。車や服や家などは、一般家庭よりも良い物だが、それは彼自身のために投資されたものではない。服や家、車などその他の装飾物は、見た目を良くし、子供や妻の心にゆとりを生ませるためのものだ。

 そんな考えを持っている父を、連理だけでなく、姉の比翼ひよくも愛していた。

「今日は良い天気だな」

 清貴が窓に向きながら言う。

 太陽の光を一身に浴びる清貴は、連理にとって美しいものに見えた。汚れず、そして気高い。連理はそんな父をいつまでも見ていたかった。しかし、清貴は連理の視線に気付き、気恥ずかしそうに頬を掻く。連理は少し残念そうに目を伏せる。すると、廊下からぱたぱたと、母・秋華しゅうかの足音が聞こえた。

「秋華が起きたな」

 清貴は口元を少し緩めると、連理の部屋を出た。連理が目覚まし時計を見ると、そろそろ六時になるところだった。

 楽しい時間は早く過ぎるとは、よく言ったものだ。

 連理は目覚ましのアラームをオフにした後、ゆったりとした足取りで、居間へと向かった。

 鼻をくすぐるような朝の匂いを、連理は感じた。彼はテーブルには向かわずに、ベランダの戸を開け外に出た。

 高層マンションの一室で、立地条件がとてもよく、九階という高さのためか、値段はかなりのものだと考えられる。

 背後から清貴が連理の肩を叩く。連理が振り向くと、父は「おはよう」と優しい笑みを浮かべ、煙草に火を点けた。

 連理は居間やベランダで煙草を吸うことを許されていない。そのためか、連理は清貴を恨めしそうに一瞥して、一人居間へと戻った。

 部屋に入ると、朝食の匂いがする。秋華は決して料理は得意ではない。だが、この家のルールとして、朝食は秋華が作る。そのためか、連理も比翼も朝食は好きではない。

 連理は無言のまま椅子に座る。それを見た秋華が「おはよう」と言いながら、少し焦げかけているベーコンエッグを乗せた小皿を置き、味噌汁を置いた。その後、飯茶碗にご飯をよそい、また連理の前へと置く。

 手を合わせ、小さい声で「いただきます」と言って連理は朝食を少しずつ食べていく。

 やがて清貴が連理の前へと座り、連理と同じ順番で朝食を置かれた。

「俺ベーコンエッグ好きなんだよなぁ」

 などと嬉しそうに言いながら、清貴は勢いよく朝食を食べていく。子供のような父を見て、連理は口元を緩め、朝食を平らげた。食べてすぐに連理は立ち上がり、冷蔵庫に入っているオレンジジュースを取り出した。清貴にそれを見せると、「くれ」と言う。連理はコップ二つを手に取り、一つを父の前に置き、ジュースを注ぐ。

「ありがとな」

 清貴は一気に飲み干し、食器をシンクに置き、またベランダに出た。

「連理は駄目よ。私達の見えないところなら良いけど」

 秋華が連理を嗜めるように言った。それが少し癇に障った連理は、不機嫌そうに「別に」とだけ言って、浴室へと向かった。

 時間は六時四十分。秋華は壁に掛けてある時計を見て大きく溜息をつく。清貴が戻ってくると、秋華は清貴の服の裾を掴み、小声で語りかけた。

「また六時四十分。あの子、きっちりしすぎじゃない?」

 連理の病的なまでの生活リズム。それに母は悩んでいた。もしかしたら本当に何かの病気ではないかと思うほどに、彼はきっちりとした生活を送っている。

「大丈夫さ。連理は俺に似ているだけだ」

 清貴は新聞を広げ、日本の情勢をチェックする。

 寝る時間はいつも曖昧、何事も適当に動く、そんな清貴に連理が似ている。秋華は清貴に聞こえるように再び溜息をついた。

「そろそろお姫様が起きるぞ」

「あなたが言うならそうなんでしょうね。二年生になって、やっと自分で起きられるようになったみたい」

 ばん! と騒々しい音とともに短い距離を一気に走りぬける音が聞こえた。居間に来たかと思うと、「お母さん、ごはん」と慌てるように彼女は言った。

「比翼、忘れたのか? 時計は三十分早く進んでいるってこと」

 清貴が比翼に言う。

 比翼の部屋の時計のみ、三十分進めていた。何日もしていれば慣れるであろうに、比翼は未だにそれに慣れず、よくこう言った朝を迎える。

「あ、そうか。おはよう、お父さん」

「あぁ。おはよう」

 連理の双子の姉である比翼は、一気に緊張が抜けた状態で椅子に座る。すると、秋華が手際よく彼女の前へと食器を並べていく。

「いつもと変わらぬ朝食、ありがとうございます」

 皮肉の様に比翼が言い、華の女子高生とは思えぬ勢いで朝食を平らげた。

「こういったところは、俺に似ないでほしかったな」

 清貴が苦笑を浮かべると、比翼は机に置かれているジュースをコップに注ぎもせずに、直接口につけ飲み始めた。

「ごちそうさま」

 そう言って彼女は浴室へと向かった。そんな比翼を、清貴は愛しく思っていた。当然、連理も愛しいし、妻の秋華も愛しい。ただ、なんと言おうか、馬鹿な子ほど可愛いとは、よく考えられた言葉だと、清貴は思っていた。

 あらかた新聞を見た清貴は、自分の分の朝食を作っている秋華の後ろから、ゆっくりと腰に手を回す。

「なぁに?」秋華が子供をなだめる様な声で清貴に言う。秋華は嫌がらず、くすくすと笑っていた。清貴は秋華の耳元で、小さく「愛しているよ」と囁いた。「私も」と秋華は嬉しそうに言って、ゆっくりと清貴に向き直る。二人は満足そうに笑った。秋華の綺麗な黒髪を清貴は愛で、小さく呟く。

「でも、ベーコンエッグは焦がさないでくれないか?」

 そう清貴が呟くと、秋華は清貴の足を踏みつけた。声にならない声で清貴は鳴き、ばつが悪そうに笑った。

「父さん、これ」

 連理が小包を持って、居間に来る。すでに高校の制服に着替え、朝の手紙でも確かめに行ったのだろう。

「そんなもの今日あったか?」

「いや、父さんのファンの子から。昨日渡しといてって言われたの、忘れてた」

「あぁ、そうか。ありがたくいただきます。でも、次からは出版社へお願いしますと伝えておいてくれ」

「わかった」

 連理は小包をテーブルの上に置き、ソファに座ってテレビを点ける。テレビでは、いつもと変わらないようなことが放送されていた。連理は比翼の準備が終わるまでテレビを見ていたのだが、そこで驚きを隠せないニュースが流れた。

「今朝未明、小樽市花園にあるマンションのゴミ捨て場に、蝋で固められた若い男性の全裸死体が発見されました」

 テレビに映された映像には、彼が住んでいるマンションがあった。

「嘘だろ……新聞に載ってないぞ」

 いつの間にか清貴は連理の後ろに居た。連理の手からリモコンを奪い、音量を上げる。

「身元はまだ判らず、遺体の状況から死後数週間……」

 数分の間、三人はニュースを食い入るように見つめた。

「連理、行こう?」

 比翼が制服に着替え、連理に声を掛けた。しかし、連理は彼女の言葉を無視する。比翼は反応を示さない連理の視線を追って、テレビを見た。

「ここって家じゃん」

 皆がわかりきっていることを比翼が口にすると、清貴は洗面所へと向かい、急いで顔を洗った。そして、自室で着替えを手早く済ませた。

「今日は俺が送り迎えする。帰る時は連絡しろ。いいな?」

 清貴が緊張を隠せない表情で二人へと言った。二人は何も言わず、テレビをじっと眺めていた。清貴はテレビを消し、二人を交互に見て「いいか?」と再度確認する。それに二人は、少々戸惑いながらも「わかった」と口を揃えた。


 清貴が運転する車に校門前まで送られた二人は、清貴の車が見えなくなるまで、手を振るでもなく見送った。その後校舎へと向かって歩き出した。

 校舎まで至るには、長い石の階段を上がるか、階段に向かって右側の長い坂道を進むこととなる。ほとんどの生徒は、最短距離の階段を使い、談笑しながら階段を上っていくのが普通だ。

 比翼はこの階段が気に入らず、少し回り道にはなるものの、長い坂を歩いていくことを好んでいた。

「連理はいつも階段だよね」

 比翼が連理の顔を見ないで言った。それに連理は「まぁね」と彼もまた比翼の顔を見ずに言う。

「今日は私も階段で行こうかな」

「好きにしなよ」

 連理の素っ気無い返事。

 決して二人は不仲ではない。ただ、必要以上に近付きたくない、というのが連理の考えだった。毎朝学校に一緒に行くのは、清貴のため。二人で一緒に出なければ、清貴が何かあったと心配するからだ。清貴に心配されるのは、連理だけでなく、比翼も快く思っていない。

「お父さんと朝話してたでしょ?」

「よくわかるね」

「双子だもの」

 比翼は悪戯っぽく笑うと、溜息をついた。連理も父のことは愛しているが、比翼の父への愛情は、連理から見ても異常だった。それは、何かに取り憑かれていると言っても過言ではない程に、彼女は清貴を独占したがる。

 校門前に着くと、二人は片手を上げて、簡単に別れの挨拶をした。クラスが離れているためか下駄箱も遠いからだ。

 連理は七組、比翼は三組に属している。連理は理系で、比翼は文系。そんな二人を清貴は、「面白い」と言ってよく笑い話にしていたが、一体何が面白いのかが二人にはわからなかった。

 午前の授業はあっという間に終わり、昼休みに入った。それと同時に、連理と比翼は職員室へと呼び出された。二人が何の用かと首を傾げつつ向かうと、そこには灰色のスーツを身に纏う、鋭い眼光の男がいた。

「君たちが比翼連理か?」

 男は笑いもせずに彼らに言った。彼らは、『比翼連理』と一緒くたにして呼ばれるのが好きではない。

「えぇ。でも、私たちのことをそう呼ばないでくれますか? 私は『比翼』なので」

 比翼が明らかに不快を表に出して男に言った。それに同意するとでも言うように、連理は小さく首を縦に振る。

 男はわざとらしく肩をすくめ、「すまなかったね、比翼」と親しい間柄でもないのに彼女を呼び捨てた。

「今日は君たちの住んでいるマンションで起きた事件のことを聞きに来たんだ」

 男は奥のソファを指差し、移動するように示す。

「自己紹介がまだだったな。俺は小鳥遊 たかなし まことだ。珍しい苗字だろう?」

 遅れた自己紹介をした後、名刺を二枚取り出し、二人に丁寧に渡す。男は一つ咳払いした後、すぐに事件の内容について詳しく聞いてきた。二人は特に答えられることもなく、「はぁ」とか「さぁ」など、曖昧な返事しかできずにいた。

「まぁ、そんなものか。ありがとう。悪かったね、貴重な昼休みに」

 そう言って、小鳥遊は睨み付けるように二人を見た。よくよく見れば、小鳥遊の顔は非常に整っており、肌にはシミなども一切なく綺麗なものだ。まるで、高等な芸術作品がそのまま人間となったような容姿だ。

「何をしているんだ? 長くここにいると友人にありもしない噂を立てられるかもしれないよ。早く行きなさい」

 しかし、どれだけ小鳥遊が美男子であろうと、二人の何とも言えぬ不快感を拭い去ることはできなかった。

 二人が解放された時には、既に昼休みが終わる十分前だったため、満足に昼食を取れなかったのは、言うまでもなかった。


殻繰/3


 午後の最後の授業は数学だった。連理は数学が得意だ。理系クラスに配属されているので、当然と言えば当然なのだが、それとは一線を引くほどに彼の数学の成績は高かった。

 数学とは哲学の入り口であると彼は考えている。絶対的な正解があり、曖昧な答えなどない。哲学者とは、絶対的な正解を、人間の中に永遠に求め続ける。だからこそ、彼は数学と言うものが、哲学の入り口と考えているのだ。

 しかし、高校の授業程度では、哲学と言うには程遠い。

 いつもの通り、黒板に増えていくミミズが這った様な文字を解読し、それをノートへと書き写していく。更にそれと平行して自分なりに理解をしていくだけの、単純作業。

 区切りの良いところまで進むと、教師は教科書を閉じ、「今日はここまでにしよう」とチャイムが鳴る十分前に言った。それを聞いた過半数の生徒は各々が歓喜の声を上げた。

「おい連理。今日どうして呼ばれたんだよ」

 連理の席の後ろにいる、白石 洋太しらいし ようたがにやにやとした表情を浮かべ聞いてくる。

「別に。最近の成績のことについてだよ」

「ほう。それはさぞや優越感に浸れる時間だったろうに」

「まぁね」

 鞄に教科書やノートを詰め、携帯電話を手に取る。

 今日、弓道部に出るとしたなら、迎えがあると少々面倒だ。

 連理は弓道部と美術部に属しており、弓道部の活動が行われる弓道場は、自宅から歩いて数分の距離にある。そこまで車で送られるくらいなら、そのまま家に帰りたい。しかし、何もせずに帰るには少々時間がもったいない。だが美術部に出るほど、創作意欲はない。連理はそう考えていた。

 連理がどうしようか悩んでいると、比翼が教室に現れた。

「連理」

 比翼は一人ではなく、白石の彼女である太田 恵子おおた けいこと一緒だった。

「今日、どうするの?」

 比翼が言いたいことは、連理にはよくわかった。彼女もまた弓道部と美術部に属している。そして、考えは連理と一緒なのだろう。

 弓道部に出るくらいなら、そのまま家に帰りたい。彼女もきっとそう思っているに違いないと連理は察する。

「比翼はどうするんだ?」

 掃除が始まってしまうので、とりあえず教室から出るように、連理は比翼を促した。

「私は仕方ないから、美術部に出ようと思うんだけど」

「そうか。そんな気分じゃないけど、僕もそうするよ」

 必要以上に近づきたくないとは言え、考えていることが似たり寄ったりなので、どうしても近づいてしまうのは、仕方のないことだ。

「お前ら部活出るのか?」

 白石が意外そうに言った。それに二人は「まぁね」と簡単に答え、美術室へと向かった。


 美術部は閑散としており、数えられる人数しか部員はいなかった。連理と比翼は、お互い途中まで描いているキャンバスを取り出す。

 被せてある布を取り払い、イーゼルを手に取る。二人は隣同士になるように椅子を運び、イーゼルを設置し、キャンバスをそこに置いた。

 椅子に座ると、連理は鞄からウォークマンを取り出した。そして、イヤホンを耳に挿し、音楽を聴きながらインスピレーションを高める。

 比翼はただ一心にキャンバスを見つめ、何が足りないのか、何を付け足すべきかを自身の中で幾度も問答を繰り返してから筆を取る。

 すると、いつの間に現れたのか、美術部の顧問が二人の絵画を見比べながら、うんうんと頷いた。だが、何を言うでもなくそのまま二人から離れていった。

 二人は、多くのコンクールで金賞を受賞している。そのためか、学校側からの期待も大きく、コンクール前などでは弓道部を休むようにと圧力がかかるほどだ。

 連理は具象絵画を主に描く。それは鳥をモチーフにしたものが多く、特に孔雀を好んで描く。繊細な色使いで、本物がそこに居ると勘違いしてしまうほどに、彼の作品はリアリティに満ちている。

 一方比翼は抽象絵画を主に描いている。何を描いているかわからないほどなのだが、何故か芸術家の心を掴むものらしかった。だが、比翼は稀に具象絵画も描き、それが連理とはまた違った魅力を持った作品となっている。

「連理」

「なに?」

「これ、どう思う?」

 折角高まったインスピレーションを比翼に台無しにされた連理は、溜息をつきながら比翼の絵画に目を移す。

 そこには、あまりにも乱雑な線しか描かれていなかった。

「線だね」

「そうよね」

「そもそも、僕には比翼の絵に何も言えないんだけど」

「今回は連理みたいなのを描こうと思ってるの」

「それで、モチーフは?」

「絶望」

 比翼は連理を見て、口元だけ笑ってみせた。

「頑張って」

 適当に応援して、連理は再び自身の絵画に向き合った。連理の題材は、想像の天使で、心無い微笑を浮かべているという設定で描いていた。それは、まだ途中とは言え、充分な完成度を誇っていた。

「連理の絵の対照的なものを描こうと思って」

 比翼は連理に話しかけたが、それを連理は無視して、ウォークマンの音量を上げた。

 二時間ほど経っただろうか、連理が壁にある時計を見てみると、すでに午後の六時を過ぎていた。

「そろそろ帰ろうか、比翼」

 連理がキャンバスに布を被せながら比翼を見た。すると、比翼はまるで親の仇でも見るような瞳で真っ直ぐに自分のキャンバスを睨んでいた。連理が比翼のキャンバスへと視線を移すと、そこには黒い『何か』が描かれていた。

「比翼?」

 もう一度比翼を呼ぶと、彼女は「あ、ごめん。集中してた」と言って、軽く微笑んだ。

「これが絶望?」

「うん」

「どちらかと言えば憎しみだよ」

「いいの。ここからだから」

 比翼はキャンバスに布を被せた。

「お父さんに連絡しないとね」

 比翼が携帯電話を手に取り、清貴へと電話をかける。

「お父さん? 今学校終わったの。うん、連理も一緒。今日は美術部に出てたの。うん。わかった、じゃあ早く来てね」

「何だって?」

「今から来るって」

 比翼は満足そうに微笑むと、布を被せたキャンバスを戻さずに他の道具をしまった。

「持って帰るのか?」

「うん。家にいたほうが『絶望』は描けるだろうから」

 連理は比翼の言わんとしていることをすぐに理解した。

 比翼の清貴に対する執着心は異常だ。彼を自分だけが独占したい。しかし、彼には妻がいる。そして自分は娘。決して家族愛以上のものは得られない。

 どれだけ望んでも、彼は自分を愛してくれない。彼は妻を愛しているから。妻だけが、彼の『愛』を受け取れる。故にその現状は絶望。

「やめなよ、いい加減。そんな風に思ってもどうしようもないだろう」

「私は何も言ってないけど?」

 比翼はとても嬉しそうに微笑んだ。その笑みの内にある、黒い感情を連理は察し、それ以上何も言おうとはしなかった。

 連理と比翼は、坂を降り、そこで清貴を待った。待っているその間、時々比翼はその場でくるりと回ってみせた。

「何してるのさ」

 明らかに呆れるように連理は言う。

「男子が好きな行動。恵子に教えてもらったさ。下着が見えそうで見えないのが男子にはいいみたいよ」

「比翼はどうせ黒だろ」

「うわっ、正解。連理って変態じゃない?」

「比翼は黒いものしか持ってないだろう」

 くだらない会話を繰り返していると、清貴の車が停まる。比翼は走って車に近寄り、助手席へと腰を下ろす。そして連理は、溜息をつきながら後部座席へと腰を下ろした。

「今日は母さんがいないんだ。何か食いたいものあるか?」

 清貴が車を発進させて二人に問う。二人は少し悩んだ後、「ピザ」と声を揃えて言った。清貴は短く笑った後、「わかった」と言って、煙草に火を点けた。そして、その煙草とライターを後部座席の連理へと渡す。

 連理はそれらを受け取ると、煙草を口に咥え、火を点ける。清貴が後部座席の窓をほんの少し開けた。

 学生に煙草を渡すとは何を考えているのだろう。しかも学校のすぐ近くなのに。連理はそんなことを考えていたが、父の気遣いに少しだけ嬉しくなった。

「私も煙草を吸おうかな」

 比翼がとんでもないことを口にする。その発言に清貴は苦笑いし、「やめなさい」と彼女に言った。比翼は頬を膨らませたが、それはちっとも可愛らしくなかった。

 数十分して、自宅の前に着く。清貴は二人を先に下ろして、車を地下駐車場へと向かわせる。

 ゴミ捨て場の前には、警察官が数人居て、未だに現場を調べていた。他にもテレビ局の関係者らしき人も多くいた。二人はなるべく気にしない素振りでマンションへと入ろうとしたが、テレビ局の女性リポーターが二人を呼び止める。

「すみません、少々よろしいですか?」

 カメラとマイクをこちらに向けながら彼女は言った。

「ここで起きた事件についてご存知ですか?」

 比翼が何か言いそうだったため、連理が先手を取る。

「知りません」

 連理が冷たく言い放つと、二人はそのままマンションの中へと入っていった。後ろからは「ここで起きた殺人について……!」という女性リポーターの叫びにも似た声が聞こえた。

「比翼。余計なことは言わないでくれよ」

 比翼はまだ何も話していないのにも関わらず、連理に釘を刺された。彼女は不機嫌そうに「はいはい」と答えると、エレベーターのボタンを押した。


 夕食は、二人のリクエスト通りピザとなった。連理はミックスシーフードを頼み、比翼はハバネロピザを頼んだ。そんな二人がピザを食べているとき、清貴は鍋焼きうどんを食べていた。しかも自分で作ったものだ。

「お父さんもピザを頼めばよかったのに」

 比翼が水を飲みながら言った。「俺はピザは好きじゃないんだよ」と清貴は答え、ずるずるとうどんを啜っている。連理は特に何を話すでもなく、黙々とピザを食べていた。

「連理ももう少し話に参加しようよ」比翼がからかうような口調で言うと、「食べているときに話すのは好きじゃないんだ」と連理は一言だけ言った。

 三十分程度で全てを食べ終わった三人は、だらしない格好でソファに座り込んだ。

 清貴が煙草を吸い始めると、連理は恨めしそうに清貴を見る。

「今日はいいぞ」

 清貴が口元を緩ませながら言うと、連理は一瞬表情を明るくして、すぐに部屋から自分の煙草を持ってきて、火を点けた。

 リビングを紫煙が舞い、煙草特有の匂いがする。比翼は眉間に皺を寄せながら、大きくあくびをした。そのときにちらっと、連理を見た。

 すると連理は、「もう眠いから寝るよ」と言って、半分も吸っていない煙草を消した。

「まだ七時だぞ。それに今吸い始めたばかりじゃないか」清貴が驚いたように連理に言うが、「なんだか疲れたんだ」と彼は言った。

 清貴が少々残念そうに「そうか」と小さく言うと、連理は困ったように微笑んで、「おやすみ」と言って部屋へと向かっていった。

 リビングに残された比翼と清貴は、しばし無言だった。

「ねぇ。私の部屋に来ない?」

「何かあるのか?」

「今描いている絵の感想を聞きたいの」

 比翼は口元だけ笑って清貴に言った。清貴は仕事をする気にならないのか、大して考えないで頷いた。

 比翼の部屋は黒いものが多かった。何も知らない人が彼女の部屋を見ると、何かの宗教にでもはまっているのではないかと疑うほどだ。それに見慣れているとは言え、清貴はあまり良い気分になりはしなかった。

「相変わらずだな。比翼の部屋は」

「黒はなんだか落ち着くんだもの」

 比翼は学校から持ってきたキャンバスの布を取り外し、清貴に見せる。清貴の目の色が一瞬変わった。

「これ……お前が描いたのか」

「うん。中々良い出来でしょう?」

 キャンバスの中央には、なんとも言い表せない黒い『何か』。そして、それを取り囲むような濃い紫と血のような赤が、まるで靄のようにかかっている。

「なんというか、目を引く画だな」

「でしょう?」

 嬉しそうに比翼が言うが、清貴は表情が固かった。このキャンバスには、彼女の全てが詰まっているように感じた。決して、比翼の性格が暗いとか、そういうものではない。しかし、彼女の絵を見た清貴は、これは彼女の何かを具現したものだと直感した。

「何か悩みでもあるのか?」

「なに、突然?」

「いや、無いならいいんだ」

 目を背けたい願望に駆られた清貴だったが、何故か背けることができなかった。それは赤子のようだとも彼は考えた。無力だからこそ、力のあるものが助けなければならない。『これ』は、何も知らぬ故に、何をもすることができる。この絵には、それだけの『負』の魅力がある。

「凄いな、比翼」

 清貴が比翼の頭を優しく撫でる。その腕を彼女を掴み、彼の指を艶かしく舌で弄ぶ。

「なんだよ?」

 清貴が気味悪そうに言った。

「気持ちいい?」

「いいや。気色悪い」

「おかしいな。こうすれば男の人は喜ぶらしいのに」

「誰から聞いたんだよ」

「秘密だよ」

 どことなく少年のような口調で話す比翼。清貴は、連理と彼女が重なるような幻惑に陥った。

「どうしたのさ?」

 くすくすくすくす。

 彼女は鈴が転がるような軽やかな笑い声を上げる。

「いや、なんでもない。やっぱりお前達は双子だなと思ってな」

「私と連理でも重なった?」

「あぁ」

 比翼は嬉しそうに笑って、ベッドに腰掛けた。

「ねぇお父さん。私とお母さん、どっちが好き?」

「両方好きに決まっているだろう」

 その答えに比翼は満足せず、頬を膨らます。清貴は小さく溜息をつくと、彼女の隣に腰掛けた。

「比翼。どんな風に言って欲しかったんだい?」

 優しく、そして包容力のある声で比翼に問いかける。比翼は清貴に振り向き、にっこりと明るい表情を作った。

「私だけを愛してるって、言ってほしい」

 清貴は短く笑った後、「君だけを愛しているよ、比翼」と真面目な顔で彼女に言う。

 彼女は満足したように頷くと、「じゃあ私を抱いて」と言った。

「馬鹿を言うな」

 清貴は軽く比翼の頭を叩き、立ち上がって部屋を出た。

 清貴がドアを閉めるのを見届けた比翼は、キャンバスを手に取る。中央にいる黒い『何か』を睨み付けるように眺め、舌打ちをした。


殻繰/4


 暗い部屋で、彼女はあるものを見下していた。それは紛れもなく人間だ。口から血を流しながら、微動だにしない人間。よく見ると、喉元がぱっくりと開いている。彼女は屈み、動かない人間の瞳を覗き込む。暗くて詳しくはわからないが、瞳孔が開いているように見える。

 『生』の光がそこにはなかった。それが堪らないほどに嬉しいのか、彼女は幸せそうに嗤う。

 満足した彼女は、時間をかけて血を拭き取った。その後、太めの針と糸で、喉元を縫う。

 ざっと見た限りでは、かなり不出来な裁縫だが、彼女にとってはとても上手くいったようだ。そのためか何度もそれを見て頷き、嗤う。彼女は舌を出し、涎を流す。その一滴が死体の性器へと滴り落ちる。

 くすくすくすくす。

 嘲笑いながら彼女は、死体を蝋で塗りたくっていった。


殻繰/5


 比翼は、連理とは対照的に大雑把な性格だ。何事もある程度適当に決め、買い物などでも自分の直感で選ぶ。

 そんな性格のせいなのか、彼女は毎朝寝坊する。

「比翼……比翼!」

 連理が彼女を呼ぶ。それでも比翼は起きようとはせず、体を捻る。

「起きろって!」

「今日は、土曜でしょう」比翼がぼそぼそと小さく呟く。

 そんなこと知ってるよ、とでも言いたいかのように連理は舌打ちした。そして、比翼の毛布を強引に引っ張る。比翼は膝を折って、まるで殻の中に篭っているような体勢だった。

 一向に起きようとはしない比翼に、とても大きく溜息をついて、連理は手に持っている毛布を乱暴に投げた。

「父さん! 比翼は行かないみたいだ!」

 『父さん』という言葉に反応したのか、比翼は一瞬で起き上がる。

「どこに行くの?」

「さぁね」

 連理はわざとらしく肩をすくめ、比翼の部屋を出た。

 比翼はぼさぼさな頭を掻きながら、居間へと向かった。居間にはすでに、準備のできた連理と清貴がいた。清貴は彼女を見ると、口元を緩ませた。その様が気に入らないのか、比翼は頬を膨らませる。

「何さ。家なんだもん、ぼさぼさでもいいじゃん」

 そのまま比翼は冷蔵庫へと向かい、清貴の野菜ジュースを許可も得ずに勝手に飲み始めた。

「朝はこれだね、やっぱり」

 比翼は冷蔵庫にそれをしまうと、着替えもせずに清貴の隣に座った。

「比翼。今から出かけるんだが、お前はどうする?」

「やめておきなよ、父さん。比翼はガサツな割に、外に出掛ける準備は時間がかかるから」

 連理が不機嫌そうに清貴に言った。清貴はそれが可笑しいのか、笑っている。

 そんな連理の態度が、本当に気に入らないのか、彼女は立ち上り、文句を言いながら彼の頭を叩く。

「弟のくせに、この……このっ!」

 痛くならないように手加減しているのだが、表情が本当に悔しそうで、しかも泣きそうにも見えた。

「双子なんだし、姉とか弟とか関係ないだろう。ただ比翼が先に産まれただけなんだし」

 連理がもっともなことを言うと、更に比翼は頬を膨らまし、まるで風船のようになった。

「喧嘩するな。比翼、これから買い物に行くんだ。行くなら早く準備しろ」

「今日は一人で絵を描くから、いいや」

 連理は小さな声で「これだから比翼は……」と呟きながら立ち上がり、玄関へと向かう。そんな連理を見た清貴は、小さく溜息をついて、「何かあったら、すぐに連絡しろよ」と言って、玄関へと向かった。

 がちゃり、と施錠されたのを聞いた比翼は、シャワーを浴びるわけでもなく自分の部屋へと戻っていった。そして、前日のままになっている部屋を見て、大きく息を吸い込んだ。

 ベッドの前には、イーゼルに乗っている絵画。相変わらず黒い『何か』が中央にあって、それがこちらを睨み付けている。比翼はそれをじっと見据え、ぼそぼそと何か呟きだした。

「……い。憎い、醜い、汚らしい……」

 やがて彼女はパレットを手に取り、着替えもせずに続きを描き出した。何かに取り憑かれているように、何かを呪うかのように筆をキャンバスに走らせる。

 黒を基本に色を作り、徐々に黒い『何か』が、形を成していく。黒い『何か』は、漆黒の外套を纏った女性だった。背中からは大きな純白の翼が一対。それからは血が滴っている。

「まだ、まだ……」

 比翼は嗤っていた。狂気に満ちているといっても、決して過言ではない。彼女は徐々に完成していく絵に、得体の知れない快楽を感じた。

 しかし、あることに、彼女は気付いた。

「こんなの、絶望じゃない」

 彼女は手を止め、キャンバスへと向き合う。目を見開き、何が足りないかを自分に問いただす。

「聖母?」

 彼女の中で何かが見つかった。

「そう、聖母だ。ふふ……簡単だった。そうだ、そうだったんだね」

 彼女は再び筆をキャンバスに走らせた。

 絶望にて嘲笑う聖母。自分の大切なもの一つがあれば、世界などどうでもいい。滅びてもいい。ただ、一つ守れればいい。他のものは死に絶えてもいい。壊れてもいい。消えろ。消えろ。消えろ。邪魔なもの。醜いもの。汚らわしいもの。

 そう、私が描きたいものは、絶望じゃあない。死だ。死んだもの、全てを描きたい。そしてその中で……我が子を抱く、聖母。

「これ、これだ……」

 ピンポーン。

 あまりにも唐突な異音に、彼女は数瞬何があったのか理解できなかった。そして、もう一度呼び鈴が鳴ると、彼女は誰か来たのだとようやっと理解し、玄関へと向かう。

 インターフォンのボタンを押すと、小さなディスプレイの中に、一度だけ会ったことのある男がいた。

「どちら様でしょうか?」

 わざとらしく澄ました声で彼女が言うと、小鳥遊はカメラに向かって警察手帳を取り出す。

「最近起きた事件について、お話をお聞かせいただきたいのですが」

「両親は出かけております」

「あぁ。君は片翼か」

 『片翼』という言葉に、妙な苛立ちを彼女は覚えた。

「比翼です。帰ってください」

「こちらも仕事でね、そういうわけにはいかないんだ」

「両親が帰ってきたらご連絡します」

「公務執行妨害で、ここを強制捜査してもかまわないのだが?」

「では令状を取ってきてください。待ってますよ」

 彼女はインターフォンを切ると、ゆったりとした足取りで、自分の部屋へと戻った。

 入った瞬間に、漆黒の聖母が彼女を睨む。まるで、彼女を憎んでいるようにも見えた。そんな雰囲気を感じ取った彼女は、不気味に嗤う。

「すぐに完成させてあげるから……」

 再び筆を手に取り、彼女は絵の完成を目指した。普段、彼女がここまで早く絵画を仕上げようとすることはない。彼女は最後の最後まで時間を使い、僅かな妥協も許さない。そのため、一気に仕上げようとは決してしない。だが、今回は違った。何かが彼女を狂わせる。もしかしたら、漆黒の聖母が、彼女に絵画の完成を急いているのかもしれない。

「それでいいの。あなたは『それ』を守っていればいいの。私が全てを……」

 慎重に、そして繊細に。彼女は徐々に聖母の周りに死を形作っていく。自分が思いつく限りの死を、彼女は描いていく。圧死、焼死、爆死、轢死、窒息死、失血死……もっと、もっと多く。

 気付けば腹が鳴った。こんなに集中していても、腹は減るものだと彼女は思い、台所へと向かう。そのとき、父の仕事部屋のドアが半開きになっているのが気付いた。

 清貴はほとんど夫婦の寝室で休まない。そのため、仕事部屋にはベッドや冷蔵庫などが置いてあった。また、清貴は仕事部屋に誰も入れたがらないため、比翼は多少興味があった。

 ほんの少し迷ったあと、彼女は部屋へと入る。

 そこは比翼が思っていたよりも、つまらない光景だった。

 床には何も落ちておらず、白い絨毯は汚れらしい汚れもない。ベッドは皺一つなく、まるで新品のようだ。部屋の中央にある、ガラス製の円いテーブルの上には、清貴がいつも吸っている煙草と灰皿が遠慮気味に置いてあった。灰皿の中には、煙草の灰はまったくなかった。奥にある机には、デスクトップのパソコンがある。彼女はそこまで進んだ。机の上にはキーボードとマウス以外何もなく、やはり綺麗にされていた。

 左手側には、比翼と同じくらいの高さの本棚があった。そこには語原辞典や国語辞典、他には小説を書くのに必要であろうと思われる書物が、綺麗に並んでいる。

 彼女は、この部屋で清貴が仕事をしているのが想像すらできなかった。どちらかと言えば清貴は大雑把で、ここまで病的なほどに整理する人間ではないはず。これではまるで……連理のようだった。潔癖症と言うほどではないが、連理の部屋もこのように異常に整理整頓されている。

 机の引き出しを開くと、やはり中もきっちりと整頓されていた。上から順に開いていくと、一番下の引き出しに真っ白な表紙の本があった。開いてみると、それはどうやら日記らしい。比翼は、あの変死体が発見された日に、清貴がどのように感じたのか気になり、そのページを開く。

 五月二十六日。今日、朝早くに死体が発見された。信じられない。まさか、自分の近くでこのようなことが起きるとは。

 その日の夜。比翼に連れられ、彼女の絵画を見ることになった。それを見て、とても口では言い表せない感情を抱いた。まるで、あれは彼女を現しているようだ。彼女は一体何を考えているのだろうか。俺にはわからない。いや、わかるはずないのだろう。彼女は、自分とは違う存在なのだ。他人の考えなど、理解できるわけないのだ。

 余った部分には、比翼と連理の写真が貼られていた。何ヶ月か前に撮ったものだ。清貴を中心に、左に比翼、右に連理がいる。比翼は満面の笑みを浮かべているが、連理は僅かに笑っている。

 案外変死体については深く書かれておらず、比翼は肩を落とした。清貴ならば、もっと面白く書いているのではと期待していたが、それは期待はずれだったようだ。

 比翼は、昨日の日付を探す。

 五月二十九日。今日は、一段とつまらない日だった。起伏のない一日ほど、俺を病ますものはない。明日は、何かがあることを願う。

「つまんない」

 比翼は本を閉じて、元の場所に戻す。そして、部屋から出て行った。


殻繰/6


 清貴と連理は、小樽市で唯一とも言える、巨大なショッピングモールへと来ていた。二人は服を買ったり、比翼へのお土産を選んだり、食事をしたりしていた。

「父さん」

「なんだ、連理?」

 清貴が連理に振り向くと、連理は家具を見ていた。その先を辿ると、もじゃもじゃした白い毛が覆っているクッションがあった。やたらとでかい。

「欲しいのか?」

「うん……」

「まぁ、いいぞ」

 清貴はそれを手に取ると、値段に驚いた。

「……一万五千円もするのか」

「あ、ごめん。値段まで見てなかった」

「まぁ、いいだろう。今日は無礼講だ」

「用法が間違ってるよ」

「俺的には正解なんだ」

 それをレジに持っていき、きっちりと支払いを済ませた。

「ほら。お前のだから待てよ」

「うん。ありがとう」照れながら、連理は嬉しそうに言う。

「そろそろ帰るぞ。お姫様が空腹で暴れだす時間だ」

 連理は、こんなところまで来て比翼に振り回されるのかと内心思ったが、清貴はどうやら疲れているようだ。

「疲れてるの?」

「あぁ……人混みは苦手だ」

「よくそれで東京に住めたね」

 二人は駐車場に向かうため、エレベーターへと向かった。

「本州側を自分が希望したしな。伊藤もいたし」

「伊藤さんはまだ東京に住んでるの?」

「正確には千葉に住んでるんだがな。まぁ、彼にはあっちのほうが楽しいことが多くていいだろう」

 エレベーターに二人は乗り込む。

「それに、俺は社会人になって、二年くらいで小説家としてデビューしたし。あんまり外に出るようなことはなかったんだ」

「勿体無いね」

「そうでもないさ。そのおかげで秋華にも会えたしな」

 駐車場に着くと、二人は車に向かう。

「……北海道はいいものだぞ」

「知ってるよ」

 車に乗り込み、自宅へと車を走らせた。

 数分で自宅前に着くと、清貴は連理を降ろし、地下駐車場へと向かった。連理は清貴を待とうとも思ったが、いかんせん荷物が多いので、先に向かうことにした。

 エレベーターで九階に上がり、鍵を取り出すと、自分の家の前に見覚えのある男が、煙草を吸っていた。足元には相当の数の煙草の吸殻がある。かなり長い間ここにいたのだろう。

「何か御用ですか」

「あぁ。比翼に入れてもらえなくてね」

「そうでしょうね。比翼も僕も、あなたを好きではありませんから」

 連理は率直に答え、鍵を開ける。

「どうぞ。もうすぐ父も来ます」

「そうか。それは助かるよ」

 連理は小鳥遊を家へと招く。すると、寝巻き姿のままの比翼が居間から現れた。

「別に家に入れなくてよかったのに」

「さすがに警察の人の言うことを聞かなかったら、あとでどんな疑いを掛けられるかわかったものじゃないしね」

「それもそうだね」

 連理は小鳥遊に何も言わず、奥を指差した。そのジェスチャーが、そこに座れ、という意味だということを小鳥遊はすぐに理解し、ソファへと座り込む。

 比翼はわざと小鳥遊に聞こえるように大きな溜息をついて自室へと引き上げた。

「何か飲みますか、小鳥遊さん」

「何があるんだ?」

「コーヒーと緑茶とレモンティーです」

「コーヒーを頼むよ」

「わかりました」

 手早くコーヒーを淹れた連理は、それをテーブルに置く。それとほぼ同時に、玄関の扉が開く。

「お父さんが帰ってきたのかな?」

 小鳥遊が連理に言うが、彼はそれを無視した。すぐに清貴が居間に来る。そして、見慣れない人物に首を傾げた。

「新しい出版の依頼かな?」

「いいえ。私はこういうものですよ」

 小鳥遊が警察手帳を清貴に見せる。一瞬で清貴の表情が強張り、連理を一度鋭く睨み付ける。

「大丈夫ですよ。息子さんは、特に何もしてないはずですから」

「そう……ですか」

「連理。部屋に戻ってなさい」

「わかった」

 小鳥遊が連理を横目でちらりと見る。その眼光は、彼を見透かすかのようだった。

 小鳥遊が連理を気にしているのは、一目瞭然と言ってもいいぐらいだ。清貴は、思い出せる限りの連理の行動を思い返す。何か彼が悪いことをしたか。いいや、たぶんしていない。彼が知る限りでは、喫煙程度だ。

「最近、このマンションのゴミ捨て場に蝋で固められた死体が発見されたのをご存知ですか?」

 小鳥遊がコーヒーを一口飲んで、清貴に問いかけた。

「えぇ。犯人はまだ……?」

「はい。まだ捜査中です」

 清貴は小鳥遊を睨む。それを感じ取ったのか、小鳥遊は眉間に皺を寄せた。

「何か?」

「いえ……」

 清貴は煙草に火を点ける。

「セブンスターですか」

「えぇ」

「実はですね、被害者の口の中に、同じ銘柄の煙草が入っていたのですよ」

「DNAをよこせと?」

「その通りです」

 清貴は溜息をついて、「構いませんよ」と答えた。それに「助かります」と小鳥遊は答えた。だが、彼は特に何をするでもなく、清貴を見つめていた。

「麺棒とかで取るのでは?」

「まぁそういうときもあります。今回は、あなたの吸殻をいただきますよ」

 小鳥遊は清貴が煙草を吸い終わるまでじっと待っていた。清貴は落ち着かないのか、片手に携帯電話を持ち、誰からも連絡が来ないのにセンター問い合わせなどを繰り返していた。

「落ち着いてください」

 小鳥遊が口元だけ緩めて言うが、清貴にはそれが計算された笑みだと理解した。

「落ち着けるわけないでしょう。疑われているのですから」

「それもそうですね」

 同じ顔のままで彼は言い、自らも煙草に火を点ける。

 煙草を吸い終わる数分の間が、清貴にとっては苦痛にしか感じなかった。

 清貴はその空気に耐えられなくなったのか、煙草を灰皿に押し付ける。それと同時に小鳥遊は、白い手袋を嵌めて吸殻を小さなビニール袋に入れた。

「ご協力ありがとうございます」

 小鳥遊のあまりにも迅速な行動に、眉間に皺を寄せる。

「あなたは人を苛々させることが得意なようですね」

「ははっ。今しがた連理にも言われたのですが、私は比翼連理の両者に嫌われているようです。そして今の発言からして、あなたにも。まぁ、私もあなた方は好まないですがね」

 清貴は小さく舌打ちした。だが、彼からはどこか清々しいものも感じる。今小鳥遊は、至極気持ちの良いことを言ったような気がする。普通、苦笑いを浮かべる程度が、大人の対応だろうと清貴は思う。だが、小鳥遊は違う。それが当たり前とでも言うように、あっさりと応えた。

「なにか?」

 小鳥遊がこちらの目を見つめながら言った。

「はははっ。あなたは、どうやら私が思っていたより、面白い人かもしれませんね」

 今までの不快な気持ちなどどこに行ったかと思うほど、清貴は気持ちよく笑った。

 小鳥遊は怪訝そうに表情を歪めている。当然といえば当然の反応だ。たった今まで相手の文句を言っていたのに、急に手の平を返すかのような言動。小鳥遊は、小説家には変人が多いと聞いたことを思い出し、彼もその一種なのだなと合点した。

「ところで、最近不審な人物を見かけたりはしませんでしたか?」

 小鳥遊が細く煙を吐いて言う。

「いや、ないですね」

「そうですか。では、周囲の人間で、目に見えて何かが変わった人は?」

「いませんね」

「そうですか。今日はこれで失礼します。また後日、お話を伺うことになるかもしれませんが、そのときは、ご協力をお願いします」

 小鳥遊は煙草を灰皿に押し当て、ゆっくりと立ち上がった。清貴は小鳥遊を玄関まで見送ると、連理の部屋へと向かった。

 連理を疑っているわけではない。彼も精神的にはもう大人で、この家の長男だ。全てとまでは言わないが、知る権利はあるだろう。そんなことを頭に浮かべながら、彼は部屋のドアを二度ノックする。「どうぞ」と小さい声が部屋からすると、清貴はそっとドアを開け、彼の部屋へと入る。

「どうしたのさ?」

 どうやら連理は勉学に励んでいたようだ。問題集とノートが机の上に広げられていた。

「あぁ。小鳥遊さんの話を教えようと思ってな。一応長男な訳だし」

「いいよ、別に」

 否定の意味で言われたということに、清貴はすぐに気付いた。

「そうか……」

 知りたがるとは思ったが、どうやら自分の思い違いだったか、と彼は的が外れたことに僅かに肩を落とす。

「それにしても、相変わらずだな」

 連理の部屋は整理整頓がしっかりとなされている。比翼のほとんどが黒のみで統一されているよりは、目には優しい。ただし、彼の部屋は、まるで異物を排出したがっているかのように、こちらを圧迫する。

「そう、かな。僕は気にならないし、こうじゃないと落ち着かないけど」

「まぁ、俺も人のことは言えないかな」

 清貴の頭には、自分の仕事部屋が浮かんだ。あれに比べたら、この部屋は、まだまともと言ってもいいだろう。

 清貴は急に黙り、連理の部屋を色々と探索し始めた。別にやましいものなど置いてはいないが、連理は清貴が何か見つけてもすぐに取り戻せるように、少々警戒している。

 だが、そんな連理の心配も杞憂に終わったのか、清貴はベッドへと腰掛ける。

「まさか、ベッドの下にエロ本は隠さないよな」

「そういった類は持ってないよ」

「お前まさか……童貞か?」

「残念ながら、違うよ」

 連理は携帯電話をポケットから取り出し、清貴に投げ渡す。

「あぁ、前連れてきた子か」

「おかげさまで、交際半年目です」

「違う高校の子か」

「そうだよ。友達の紹介でね」

「中々やり手だな、息子よ」

「どうも」

 携帯電話を連理に返すと、清貴はベッドの上に寝転がった。

「加齢臭がつくからやめてよ」

 連理が辛辣な毒を吐くと、清貴はとてつもなく変に顔を歪め、「はいはい。お父さんは臭いですものね」と言って、起き上がった。しかし、部屋から出ようとはせず、ぼーっとしている。

「もしかして、かまってほしいの?」

 そう連理が言うと、清貴は口を尖らせ、「別にいいさ、比翼に遊んでもらうから」と言って、ようやっと連理の部屋を出た。そんな子供のような父の背に向かって、「勉強が終わったら、声をかけるよ」と、まるで親のように声をかけた。

 清貴は比翼の部屋のドアをノックする。すぐに「入って良いよ」と返事があり、清貴はドアを開く。

 相変わらず寝巻き姿の比翼が、床に新聞紙を敷き、キャンバスに向かっていた。

 清貴は椅子に腰掛け、しばらく比翼の様子を伺う。比翼は比翼で、清貴のことなど目に入っていないかのように、キャンバスを見つめる。ちらっと、清貴はキャンバスを覗き込んだ。以前描いていたような、不穏な印象は感じられず、少しだけ清貴は胸を撫で下ろした。もう少しちゃんと見たいのだが、どうも比翼が邪魔で見えない。しかし集中している彼女の邪魔もしたくない。そんな清貴が見つけた暇つぶしは、しばらくここにいようというものだった。

 比翼は、慎重に色を作り、それを少しずつキャンバスに塗っていく。

 ここまで繊細な作業を比翼ができることに、清貴は驚きの色を示す。そして、自分でも気付かないうちに微笑んでいた。

 視線を送り続けると、もしかしたら彼女の邪魔をしてしまうかもしれないと思ったのか、清貴は仕方なく机に並んでいる書物に目をやった。

 先日はよく見ることができなかったものの、今回はじっくりと見てやろうなどと、清貴は意気込んだ。

 まず彼の目に入ったのが辞書。国語辞典、漢和辞典、英和辞典、和英辞典。ここまでは学生ならば当然だ。そして、次には問題集。『数学Ⅱ・Bの必勝法!』、『簡単にわかる化学の本』、『やさしい古語の世界』などと銘打った背表紙がある。他には『ソクラテスの哲学』、『Sophie's World』、『蒼の炎』、など。勉強したいのか小説を読みたいのかどっちなんだと、清貴は内心ほくそ笑む。そして清貴は『Sophie's World』を取ってぺらぺらとページを捲った。

 彼は大学生の頃に、哲学にはまったことがあった。賢いというほど成績が良くもなく、また努力も苦手だった。しかし、頭の中で考えるのはとても好きだった。誰にも邪魔されない、誰にも馬鹿にされることもない。頭の中なら、自分が考えた……言ってしまえば恥ずかしいが、妄想すらも、どんなドラマにも負けない上等なものに思えた。

 そんなときに、学科主任と話す機会があり、彼から哲学について語られた。元から哲学的な思考に憧れていたので、自分は熱心に主任の話を聞き、哲学を学ぶ上で、彼が『入り口』と称している本をいただいた。

 『Sophie's World』。直訳して、『ソフィーの世界』。ある日、ソフィー・アムンセンという少女に、一通の手紙が届く。それは少女にとっては意味がわからない手紙だった。だが、彼女はその手紙の意味を真剣に考え、いつしか哲学に興味を持つようになる。

 清貴は過去の記憶を掘り返した。最後まで読んではいなかった気がするが、確か最初の手紙の内容は、『あなたはだれ?』だった。

 清貴は途中まで捲ったページを戻っていき、最初のページを開く。そこでやっと、彼は異変に気付いた。

 日本語が見当たらない。ページを何枚捲っても、目に入るのは英語のみだ。何故気付かなかったのか。よくよく見れば、縦書きではなく横書きではないか。どうやら比翼は英語が得意だったようだ。

 本を元の場所に戻すと、清貴は更に違和感を覚える。学生ならば当然持っている辞書。何故か気になる。それを手に取ると、やけに軽い。いや、実際はこれくらいなのだろうか。ケースから中身を取り出そうとすると、単行本が二冊出てきた。真っ黒なブックカバーで覆われている。日記かもしれないが、気付かなかったということにして見てやれ、という悪戯心から清貴は本を開く。

 『父に犯される娘の快楽』というタイトルらしい。清貴はとりあえず読んでみることにした。

 官能小説は、何度か依頼され書いたことがある清貴だが、書き手の立場でも読み手の立場でも、やはり妙な気分になるものだった。恥ずかしいような、照れくさいような、そんな感じだ。この小説は、中々想像を掻き立てられるような言い回しで、非常に上手く書けていると、書き手と読み手の両者の立場から、彼は感想を胸に浮かべる。

 しかし、これ以上読んでしまうと、自分のが反応してしまうような気がした。娘の部屋に来て、官能小説を読んで、興奮するなど親として最低だ。

 清貴はそう思い、その本を閉じた。そしてもう一冊の本を開く。これも黒いブックカバーで覆われていた。清貴は、できることなら、これは官能小説であって欲しくないと思って、本を開く。

 『パパ、愛してる』というタイトルだ。今度は漫画らしい。俗に言うエロ本だ。とりあえずページを捲る。いきなり性交のシーンが描かれていて、きわどい描写だった。

 清貴は本を閉じ、辞書のケースに二冊の本を入れた。すると、最悪なタイミングで比翼が振り向く。

「ねぇ、お父さん」

「ん?」

 なるだけ平静を装った清貴の返事だったが、彼女は察したらしい。

「信じらんない! 娘の部屋に入って、勝手に調べるなんて!」

 比翼が手にもつパレットと筆を清貴に投げつける。顔は真っ赤で、とても恥ずかしそうだ。そんな比翼を、不謹慎ながらも、清貴は可愛いと思っていた。

「最悪! あー、もう!」

 目には薄っすらと涙が浮かんでいた。清貴は殴られることを覚悟したものの、比翼はそうするでもなく、その場に座り込んだ。

「もう、もう!」

 両手で顔を覆い隠し、自分の顔を必死に見られないようにする比翼に、清貴はそっと頭を撫でてやった。

「性に興味を持つのは当たり前さ。特に官能小説は、女性もよく読むんだよ」

「そんなことどうでもいいの! もういいから出てって!」

 比翼に押され清貴は部屋を追い出された。ドアを閉める直前に「馬鹿!」と大声で比翼は清貴に言い放ち、ドアを乱暴に閉めた。

 やれやれ、などと清貴は思い、「悪かったね、比翼」とドア越しに軽い謝罪を述べる。それに比翼もドア越しに「知らない!」と、如何にも年頃の女の子らしい台詞を吐いた。

 連理が遠慮気味に部屋から顔を出し、「大丈夫?」と清貴に話しかける。まるで怯えている小動物のように、こっそりと。

「比翼に怒られた」

 清貴はおどけて言うと、自分の仕事部屋に入り、鍵を閉めた。



 比翼は絵を描く気力を失ったのか、ベッドに座り込んでいた。顔の熱は未だに引かない。清貴に見られるくらいならば、まだ連理や母に見られたほうがマシだった。きっと、自分の趣味もばれてしまった。あえて辞書のケースの中に隠していたのに、清貴は見事に見破り、あれを見つけてしまった。もしかしたら、今度の小説のネタにでも使われてしまうかもしれない。そんなことになったら、もう学校にも行けない。

 比翼は大きく深呼吸して、気持ちを少しだけでも落ち着かせた。胸に手をやり、自分の鼓動の早さを、改めて確かめる。そのときに、自分の乳房の小ささが、気になった。

 高校二年生にもなって、彼女の乳房は平均よりも小さかった。身長とて、連理よりも十センチ程度低い。神様は二物も三物も与えてくれないのだと、彼女は世の不平等さを、そのような些細なことで嘆く。

 そんなことを考えていると、清貴に見られた物のことなど忘れたのか、比翼は横になって、なんとなくだが、昔のことを思い出していた。



 清貴に対する恋心に気付いたのは、小学生一年生の頃。嫌でも連理と登校することになるので、クラスの男子には、よくからかわれた。今にして思えば、なんとも子供らしいからかい方だったろうか。あの頃の連理は、男の子らしく、よく私を庇ってくれていた。また自分のことも、『俺』と言っていたし、まるで、私のほうが妹のようにも感じた。

 家に帰ると、私はすぐに清貴に抱きついた。清貴の煙草の匂いが好きで、清貴の温かい胸が好きだった。

 ずっと、ずっとこの胸に埋もれていたかった。でも、いつも母が邪魔をする。いつもいつも、私を清貴から遠ざける。「甘えないの」、「お父さんが困ってるでしょう」、「比翼はお姉ちゃんなんだから」、そんなくだらない理由ばかり私に言う。

 仕方なしに清貴から離れ、連理と遊ぶ。この頃から私達は部屋をあてがわれ、遊ぶときは決まって私の部屋だった。連理は私の遊びにいつも付き合っていた。でもつまらなさそうにするでもなく、楽しんでいたと思う。

「比翼は、お父さんが好きなんだね」

 幼い頃大好きだった積み木で遊んでいたときに、連理が、ふと思い出したかのように言ったのを覚えている。

「うん、大好き。レンちゃんは?」

「俺も、好きだよ」

 一瞬、子供心にライバル登場かとも思ったが、よく考えれば、当然だ。私達は双子なんだから、好きな人も同じに決まってる。好きになる理由も、きっと同じ。

 そして私は、その夜、清貴のことしか考えられなかった。よく読んでいた漫画で、このような症状に至るのは恋だと描かれていた。そして、その恋は成就するのだ。なんて稚拙な考えだろうと、今は笑える。現実を知った今の私はそう思うが、その頃は本気でそう思っていた。本気で結婚できると思っていたのだ。

 歳を重ねれば重ねるほど、それは異常なのだと悟った。親に恋するなど、創作の中だけの話だ。ませた友人が言うには、パパはお小遣いをくれるし、優しい。それだけだ。

 それから、私はこの感情を隠すことにした。

 一応、経験も必要だと思った。中学のときにも何回か告白されたが、彼らと付き合っても得られるものはないと踏んでいた。ちょうどタイミングよく、高校一年のときに、二個上の先輩に告白されたので、別に好きでもないのに付き合った。高校三年生くらいなら、ある程度大人としての見識もあるだろうと考えていた。まぁ、それなりに楽しませてもらったし、一部を除けば、模範的な彼氏であった気がする。

 初めてその人を家に連れてきたときの、清貴の表情は面白かった。嬉しいのだか不満なのだか、とてもユニークだったと思う。ただ、鋭い目つきで、彼氏を吟味していたのは言うまでもない。

 初体験はその人だ。どうやら彼も初めてだったらしい。彼の家に遊びに行っている途中で、急に話さなくなり、私はなんとなく彼が望んでいることを悟った。正直、どうでも良かったが。

 薄っぺらい布団に押し倒され、気持ち悪いほどに首元を舐め回された。制服だったのだが、面倒くさかったのか脱がし方がわからなかったかは知らないが、服を着たまますることになった。だが、何故か彼はブラジャーだけは外し、乳房を幼子のように、執拗に舐めた。性的な快感はなかったが、可哀想だから、「あっ」とか「んっ」とか声は出してやった。

 やがて彼の手は性器へと達し、乱暴に弄った。濡れていたのかすらもそのときはわからなかったが、たぶん濡れていただろう。彼はいきり立つ自分の性器を、私の性器へと当て、何とか挿入しようとしていたが、上手くいかない。私も初めてだったので、口も手も出さなかったが、なんとも下手だろうか、と思った。

 やっと先端が入った。その瞬間、彼は私のことなど考えもせずに、一気に奥まで突いた。メリメリと音がしたような気がしたのを覚えている。自分で、破瓜の血が流れたのがわかった。

 彼は私の唇と自分の唇を乱暴に重ね、舌を入れてくる。私の口の中をねちょねちょと彼の舌が這いずり、気味が悪かった。

 すぐに彼は動き出しだ。ぎこちないピストン運動だったが、段々とスムーズになった。だが、私は痛くて、このときは性交の快感がわからなかった。やがて彼は射精した。中にだ。私が安全日でなかったら、どう責任を取るつもりだったのだろうか。「ごめん」などと平謝りしていたが、やめるつもりはないのか、今度はその性器を、私の顔の前へと持ってきた。

 いくらなんでも、これはポルノ雑誌の読みすぎだと思い、やんわりと拒絶した。彼はがっかりしているようにも見えたが、好きでもない男のものを咥えてやるほど、私は淫乱ではない。しかし、彼は一回では物足りないのか、また性交を要求してきた。「やだ」とは言ったが、盛りのついた猿は再び性器を立てていて、私の気持ちも無視して無理矢理に挿入してきた。

 私は初体験にて三回もやられた。それからも、ことあるごとに性交を求められた。

 私は、経験もさせてもらったし、何より、こんな万年盛りのついた猿の相手も嫌だったので、彼が卒業すると同時に、別れを告げた。彼はそれをあっさりと受け入れた。それが、彼との唯一良い思い出だ。

 女性としての経験は、ここまで出来る限りはした。あとは、清貴をどうやって手に入れるかだ。これだけは答えが出ない。母を殺すのもありだが、それでは私と清貴は結ばれないのだ。むしろ引き裂かれる。ならば、やはり清貴と体を重ねるのが手っ取り早い。そうすれば、母も離婚を言い出すだろう。だが親権の問題がある。更には、有名な小説家の清貴に、そのようなスキャンダルが起きてしまっては、今後の生活が危うい。できることならば、今の生活を維持しながら、母だけを削除できれば良いのだ。あいつだけいなくなればいい。連理に関しては、特に考える必要はない。たまたま男に生まれてしまっただけで、彼が『女』だったら、きっと私と意気投合出来たろう。

 やはり、あいつだけが邪魔だ。



 小さくドアが鳴る。比翼が返事をしないでいると、連理がゆっくりと入ってきた。

「比翼」

「何?」比翼は横になったまま彼に言った。

 連理は気まずそうに比翼を見た。どうやら、先ほどの大声の原因を聞きに来たようだ。

「お父さんに、私のエロ本を見つけられただけだよ」

「なんだ」

 連理が新聞紙を踏みながら、ベッドに向かってくる。

 ベッドに座ると、彼は比翼の頭を撫でた。

「なんのつもり?」

「別になにも」

 なんて可愛い弟だろう。比翼は連理を抱きしめたい衝動に駆られる。わざわざ自分を心配し、しかも慰めるために、彼は比翼の頭を撫でたのだ。これならば女子の人気が高いのもよくわかるな、などと彼女は言葉に出さずに、感心する。

「昨日、私に気を遣ってくれたでしょう」

「眠たかったから寝ただけだよ」

 照れを隠すように、連理が頬を掻いた。

「ねぇ、今何時?」

「えっと……午後六時ちょっと過ぎだね」

「お父さんは仕事してる時間か。ゲームでもする?」

「やめておくよ」

 比翼は起き上がり、枕元に置いてあったテレビのリモコンを手に取った。小さめの液晶テレビだが、清貴が、確か何かのコンクールで金賞を取ったご褒美に買ってくれたものだ。

 リモコンの電源ボタンを押してテレビを点ける。人気の高い少年漫画がアニメ化されたものが流れた。数分それを見ていたが、飽きてしまったのか、比翼はゲームを始めるためにリモコンのゲームボタンを押した。そして、ベッドから降りて、ゲームの電源を入れて、コントローラーを手に取った。

「なにやるのさ」

 いつの間にか連理は、そこらに転がっていた漫画を読んでいた。

「洋太から借りたやつ」

「あぁ。台風の夜、だっけ?」

「そんなゲームやるくらいなら、ニュース見てたほうが楽しいでしょうよ」

 本気でゲームのタイトルを忘れているのか、わざとそのようなことを言っているのかわからない連理を、比翼は軽く受け流した。

 テレビに、ゲームのタイトルが表示され、比翼はロードを選ぶ。テレビには、いくつかのファイルが表示されたが、比翼は一番上のものを選んだ。

 陰鬱なBGMが流れ、テキストが表示される。どうやら、殺人事件が起きた直後のようだ。彼女はそれを真剣に読みながら、コントローラーのボタンを押す。

 連理は今読んでいる漫画よりも、こちらのほうが面白いと気付いたのか、漫画を置き、比翼と同じくテレビを見た。

 主人公が、何故このような事件が起きたのかを推理しているようだ。だが、よくわからないらしく、とりあえずリビングに全員集まろうと、登場人物達に声をかけている。比翼は首の骨を一回鳴らし、立ち上がった。机の引き出しを開け、眼鏡を取り出し、かける。どうやら、集中してゲームをやるらしい。

 カチッカチッ。

 テレビから時計らしき音がする。すると、比翼は再び立ち上がり、部屋の電気を消した。そしてカーテンも閉める。雰囲気を出そうとしているのだろう。変な趣味だなと、連理は言葉にしないで呆れた。しかし、せっかくカーテンを閉めても、まだ外は明るいので、雰囲気はあまり出なかった。

 カチッカチッ。

 登場人物の一人が立ち上がり、トイレに行くらしい。

 カチッカチッ。

 何故かテキストが進まない。連理が不思議に思い、比翼を見ると、ボタンを押すのをためらっているようだ。連理は勝手にボタンを押した。

 比翼は何も言わずに連理を睨み付けた。連理は、このゲームより比翼のほうが恐ろしいと感じたのか、「部屋に戻るよ」と言って、比翼の部屋を出た。そして、彼女を刺激しないように、そっとドアを閉める。

 部屋に戻ろうとした連理は、小腹が空いたのを感じた。食事を摂ったのが、三、四時間前だったな、と頭の中で考え、彼は仕方なしにキッチンへと向かい、冷蔵庫を開けた。まぁまぁ野菜がある。チルドを開けると牛肉の薄切りと鮭の切り身が四つあった。確かじゃがいもも沢山あったはずと、コンロの下の戸を開け、ダンボールを開く。彼の予想通り沢山のじゃがいもがあった。

「肉じゃがと焼き魚かな」

 彼は手際よく準備を始めた。

 まずはじゃがいもの皮を剥き、大きめに乱切りにする。にんじんも同じく皮を剥き、乱切りにする。たまねぎの一番上の茶色い薄皮を綺麗に剥き、二等分にし、芯を取って、輪切りにしていく。冷蔵庫を開け、白滝を取り出す。白滝のアクを取るために、鍋で三分程度茹でて適当に切り分けた。あとは牛肉。これも適当な大きさに切った。

 鍋でサラダ油を熱し、たまねぎを投入。しんなりするまで炒める。そこに残りの材料を入れる。牛肉に火を通ったのを確認して、水をたっぷりと投入。

 砂糖、日本酒、みりん、醤油を適当に。煮汁が半分くらいになったら、味を見ながら砂糖と醤油を追加。どうやら、あまり追加しなくても大丈夫なようだった。あとは蓋をして弱火で煮立てる。

 今度は、魚の賞味期限を確認。大丈夫なようだ。四枚並べて、グリルに火を点ける。火力は男らしく最大で。

 一通り準備が終わったので、炊飯器の中身を確認する。これも大丈夫なようだ。

「味噌汁、忘れてた」

 冷蔵庫を再び開け、味噌と豆腐と長ネギを取り出す。味噌汁用の鍋を取り出し、水を入れ、お湯を沸かす。味噌を入れる前に、長ネギを適当に切って、肉じゃがの火を消す。豆腐をなるべく綺麗に切り分け、お湯に投入。そして味噌を適量とって、お湯に投入。優しく混ぜてネギも投入。弱火にして蓋をし、じっくりと火を通せば味噌汁の出来上がりだ。

 所要時間、約三十五分。連理はグリルの火力を落とし、魚を返して、部屋に戻って煙草を一本吸った。

 ドアが二つ開く音がした。どうやら清貴と比翼が晩飯の匂いに釣られ、部屋から出てきたようだ。

 煙草を吸い終わった連理は、キッチンへと向かう。二人とも、ソファに座り、「早くしてください」と言わんばかりだ。どうやら手伝うつもりはさらさらないらしい。味噌汁の蓋を開け、味見。これなら許される範囲内だと思い、火を消す。次にグリルを再度確認。魚は食欲をそそるような匂いと、焦げ目がついている。菜箸で魚にちゃんと火が通っていることを確認すると、グリルの火を消した。

「比翼。皿とか漬物とかを並べてくれ」

 さすがに清貴を使うのはどうかと思ったので、女性である比翼に声をかける。

「はいはい」

 比翼は仕方なさそうに、冷蔵庫を開けて漬物を取り出し、食卓へと置いた。そして、連理がおかずを乗せるのに使うであろう食器をキッチンへと並べていく。

 清貴はすでに椅子に座って、おかずが並ぶのを待っていた。

「どんどん持っていってくれ」

 ぱっぱっぱっと魚を小皿に乗せ、肉じゃがを底の深い皿に盛った。そして味噌汁を人数分用意し、やっと連理は椅子に座った。すでに三人分のご飯が用意されていた。

「さて、連理への感謝の気持ちを噛み締めて、いただきますか」清貴がとても嬉しそうに言った。それに対し連理は、「噛み締めなくて良いよ。ちゃんと僕に感謝を述べていただいてください」などと言った。

 そんな連理の言葉に、二人は楽しそうに笑い、食べながらも何度も「ありがとう」やら「本当に感謝してる」やらと、やたらしつこく連理に言う。今まで喧嘩してたんじゃないのかと、苛々しながら彼は「もういいよ、噛み締めて」と言った。すると、二人はまた楽しそうに笑った。

 やがて食事も終わり、清貴が食器を片付け、洗い始める。夕食の片付けは、仕事が切羽詰ってなければ、いつも清貴がやる。慣れているのか、数分で食器を洗い終わり、清貴はソファに座り、煙草に火を点ける。

 テレビでは、若手芸人が漫才をして、くだらないことをしていた。

「しかし連理よ」

 清貴が、緑茶を飲んでいる連理に話しかける。

「ん?」

「お前、随分と料理が上手くなったな」

「おかげさまで」

「比翼ももう少し、見習って欲しいものだ」

 清貴は溜息をついた。今比翼はようやっとシャワーを浴びている。

「今更シャワー浴びて、どうするんだろうね」連理が馬鹿にするかのように言い、「女性にはそういうときがあるんだ」と清貴が庇うように言う。

「少し、話が戻るけどさ、比翼には料理を作らせないほうがいいよ」

 連理は、緑茶を持って、清貴の右隣へと腰を下ろす。

「あぁ、わかってるよ。あんな料理、ゲームと漫画ぐらいでしか、出ないと思っていたのにな」

 以前にも、秋華の帰りが遅くなるときがあった。中学二年の比翼は、「男なんかに料理はできない」などの言葉を並べ、キッチンから、いいや、居間から二人を追い出した。仕方なしに二人はゲームをしたり、話したりして時間を潰した。

 やがて料理ができたのか、比翼からお呼びがかかった。娘の手料理が食べられるということで、清貴は嬉々としていたが、それと反対に連理は少々不安そうだった。

 比翼が言うにはカレーらしかった。まずは連理の分が用意された。匂いは、なんとなくカレーの匂いがした。比翼は、「愛情たっぷりです」と述べた。

 意を決した連理が一口食べる。一瞬で吐き出す。連理はすぐに水を何杯も飲んだ。

 比翼の期待の目が、清貴に向けられた。連理が食べ残したものを、清貴は一口食べる。

 これは食べ物ではない。

 これは異物だ。

 毒などという陳腐なものではない。

 生物兵器だ。

 食べ物のテロだ。

 当然清貴も飲み込むことはできずに吐き出した。すぐに連理と同じような行動を取る。

 落ち着いた連理は、普段の彼からは想像できないくらいに饒舌で、表現力豊かだった。

「比翼、これは何を作ったの?」

 最初は落ち着いた声で比翼に話しかける。

「カレー」

「……」

 一瞬の静寂の後、連理はマシンガンのように話し出す。

「カレーってのは、こんなものじゃねぇんだよ! これは気持ち悪いんだよ! 口の中に入れた瞬間に拒否反応を起こすんだよ! よくわかんないけど、とりあえず、この宇宙銀河の中で一番すげー有り得ないくらいまずいんだよ!」

 あの連理がここまではっきりと言う事もなかった。そして、それを聞いた比翼は、以降一人でキッチンに立つことはなくなった。

「懐かしいよ、あの兵器」清貴が引きつった笑顔で言った。その話をしただけで、清貴の口の中にあのときの謎の食感が蘇るように感じた。

「比翼の未来の旦那さんが心配だよ」

「そう言えば、あいつ彼氏いなかったか?」

「彼氏の卒業と同時に別れたって。なんか、面倒くさいからって言ってたよ」

「そうか……」

 清貴は嬉しいのか残念なのか、微妙な表情をした。

「なんの話してるの?」

 比翼が居間に戻ってきた。

「比翼が作った生物兵器の話をしてたんだよ」

 連理がそう言うと、比翼は「また作ってあげようか?」などとふざけたことを言う。

 比翼は清貴の隣に座り、寄り添った。

「なんだよ比翼。照れるだろう」

 清貴は嬉しそうに笑い、少しだけ頬が赤くなっていた。

 連理は呆れて、部屋に戻ろうと立ち上がった。しかし、比翼は連理の腕を掴み、清貴の横に座らせる。左に比翼、中央に清貴、右に連理。清貴は、二人の頭を、優しく撫でる。連理は気恥ずかしいのかそっぽを向き、比翼は心底嬉しそうだった。清貴は微笑み、幸せを感じた。

「そう言えば、母さんはいつ帰ってくるの?」

 連理が少しでも気を紛らわせようと、清貴に話しかけた。

「今日の夜中には帰ってくると言ってたけどな」

「お母さんの話は今しちゃだめ」

 比翼が年上のような口調で連理に言った。

「本当に比翼は……」

 連理は心底呆れ、哀れむような目で比翼を見た

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