三章 内壊《うちごわれ》
内壊/1
ある教会に、それはそれは美しく、そして、まるで生きているかのような偶像がありました。
それは、神が宿っているとも言われていました。
あるときは、病気に悩める老人を助けた。
あるときは、戦いに赴いた恋人を助けた。
あるときは、偶像が光り輝き、神の言葉を代弁した。
いつしか、その偶像は、神の化身とも呼ばれていました。
ある夜中に、みすぼらしい少女が教会を訪れます。
助けてください。助けてください。
少女が両手を合わせ、偶像へと、祈りを捧げます。
お願いです。私を助けてください。
偶像は答えません。
愛してください。愛してください。
少女はまだまだ、祈りを捧げます。
偶像は答えません。
私は、誰にも愛されていないのです。助けてください。
偶像は答えません。
あぁ、なんということでしょう。
少女は、大げさに俯きます。
私は、神様にすら愛されていないのね。
少女は、懐から包丁を取り出します。よく切れそうな、よく手入れされた包丁です。
あぁ、神様。私は、こんなにもあなたを愛しているのに、あなたは私を愛してくださらない。
あぁ、神様。でも私は、強い子です。あなたに愛されるまで、私は、あなたのお側にいましょう。
あぁ、神様。愛しています。だから、私を愛してください。私は、誰からも愛されないのです。
あぁ、神様。どうか、愚かな私を、愛してください。どうせ、私は、望まれない子なのです。
あぁ、神様。私には、あなたしかいないのです。
偶像は答えません。
少女が、包丁を喉元へと突き刺します。
血が、とても溢れてきます。
少女は、痛くて、泣き叫びたくても、声が出ません。
やがて、彼女は、生き絶えました。
それを神父が見つけます。
おぉ、なんと愚かな子だろう!
神に救いを求めれば良かったものを!
神に祈りを捧げれば良かったものを!
おぉ、なんと哀れな子だろう!
きっと、この子は、神の元へと、辿り着けぬだろう!
おぉ、なんと罪深い子だろう!
自ら命を絶ってしまうとは!
神父は、神に祈ります。
あぁ、神よ。私の罪をお許しください。私が、もう少し早く帰ってくれば、彼女を救えたかもしれないのに。
あぁ、神よ。どうか、どうか、私をお許しください。
神父が祈りを捧げていると、少女の母親が、教会へと訪れます。
血の池に沈む少女を見て、母親は嘆きます。
あぁ、神よ。私をお許しください。私は、娘の抱えている悩みに気付くことができませんでした。
あぁ、神よ。どうか娘に、大いなる御慈悲をお与えください。
あぁ、神よ。どうか私を、どうか私を、お許しください。
しかし、偶像は答えません。
しかし、偶像は思います。
たぶん、彼らは、同じところへ、行けないだろうに。
内壊/2
寝室に、髪の内側だけ銀色に染めた、洒落ている男性が、たった今プリントしたばかりの、原稿を読んでいた。
「お前が好きそうな話だな」
彼は、原稿をベッドの上へと放る。
清貴は、うとうとしながら、ベッドから半身を起こした。
「読み終わったのか、雅詠」あくびを噛み殺しながら清貴は言う。
「まだだ。だがな、嫌になるんだよ、こういう話読んでると。というかよ、お前、こんな短い間に寝てたのか?」
「寝ようとしているときに、君が急に来たんだ。仕方ないだろう?」
伊藤
「急に北海道に来るなよ、雅詠」
「サプライズはいいものだろう? ちゃんと、締め切り過ぎた後に来たぞ」
「締め切りは来週だよ」
「細かいこと気にすると、またハゲるぞ」
「前のことは言うなよ」
清貴は眠い目をこすり、思い切り、大声を出した。それは怒りから来たものではなく、ただ、眠気を蹴散らすために、発せられた声だった。
「うるせぇな」
雅詠が、嫌そうに言う。
清貴は、未だ覚醒しきれない頭で、のっそりと煙草に手を伸ばした。
「ここでは吸うなって、秋華に言われなかったか」
「そうだな」
清貴は居間へと向かう。それに雅詠がついてくる。居間に着くと、二人は、ソファへと深々と座った。清貴と雅詠は、お互い銘柄の違う煙草を、同時に火を点けた。
「長い間一緒にいると、似ちまうのかもしれないな」
「それ、高校の頃にも言ってたよな、雅詠?」
清貴が、苦笑いする。
小学校、中学校、高校。それら全てが二人は一緒だ。小学、中学については、二人とも冗談を話す程度の仲で、そこまで親しいとは言えなかった。
だが、清貴が入った高校へは、清貴と雅詠しか行かなかった。正直な話、成績の良い中学とは言えず、また清貴と雅詠が入学したのは進学校だったため、その中学から入学できたのが、二人しかいなかった。
高校時代、二人は弓道部に所属した。二人しか同郷の者がいないということもあったのだろう。二人は、時間を共有することが、自然と多くなった。
清貴は、雅詠のことを、我儘な男だと、思っていた。雅詠は、清貴のことを、偏屈な男だと、思った。お互い、相容れないことも多かった。清貴は、立場上弱かったのか、雅詠が言う我儘を、仕方なしに聞いていた。雅詠は、清貴の屁理屈を、また屁理屈で折り曲げた。そんな互いの間に生まれるのは、苛立ちしかなかった。
だが、どうしたことか。雅詠は、ある日、清貴のことを親友と呼んだ。
その理由は、彼が当時付き合っていた女性にあった。正直、清貴は、そこまで顔は悪くない。それなのに、雅詠の恋人は、当人がいないことを良いことに、酷く言っていた。
それを聞き、雅詠は腹が立ったのだそうだ。
清貴と共に過ごす時間は、苛立ちしか感じないのに、何故こうも清貴のことを悪く言われ腹が立つのか。それに気付くのに、雅詠は数分もかからなかった。
お互い相容れないのではない。お互いただ素直に気持ちをぶつけ合っているだけなのだ。このようなこと、滅多にできることではない。自分は、何故こんな簡単なことがわからなかったのか。
そうして彼は、清貴が、自分にとってかけがえの無い親友だったと気付く。
そこから、彼らの関係は一変する。
今までは、一触即発な関係だったのが、円滑になった。清貴も、雅詠のことを親友と呼び、いつしか、この関係は尊いものとなった。一度紡がれた絆は、三十年以上経つ今もまだ、綻びることはなかった。
二人は、ほぼ同時に煙草の火を消す。
「ここまで一緒かよ。気持ち悪いな」
「まったくだな」
清貴と雅詠は、融和な笑みを浮かべた。
「そう言えば、礼子さんとはどうだ?」
「まぁ、普通だな。お前んとこみたく、気持ち悪いくらい仲良くはないが」
「気持ち悪いって言うなよ」
清貴は、再び煙草に火を点ける。
「で、大丈夫なのかよ? なんだか、ここ最近忙しいらしいじゃん」
「どうだろ。死体遺棄場所として、なんだか有名になってるけど、実際は、って感じかな」
「大変だな、有名小説家も」
「腕利き獣医だって、大変だろう?」
二人は大きく笑った。
「あら、楽しそうね」
秋華が、買い物から帰ってきたようだ。
「さっきはごめんね、まー君」
「気にするなよ。買い物に出る前だったんだし」
雅詠と秋華も、非常に仲が良かった。
よく、清貴の愚痴に、秋華と雅詠で華を咲かせては、とても楽しそうに、杯を交わしていた。
「まー君て、ネギが駄目なんだよね?」
「あぁ。ネギが入ってなければ、基本大丈夫」
「わかった。今日はネギ抜きの、すき焼きにするね」
「肉は高級なもの?」
「そりゃあね。良いお肉を選んだよ。百グラム千五百円」
「へへっ、やったね」
雅詠は小さくガッツポーズをとる。清貴は、大きくあくびをし、原稿を手に取る。
「それ、何に載るんだ?」
「なんか、『理不尽な話』っていう本に載せるらしい。色んな小説家に、色んな理不尽な話を書かせるらしいぞ。他の人のを読ませてもらったが、これなんて、可愛らしいもんだ」
「病んでやがるな、小説家ってのは」
「その通りだよな」
一応小説家の清貴も、雅詠の意見には頷いた。
「これと似たようなのをもう一作書かないだめだし、書くよ。適当にしていてくれ、雅詠。もう少ししたら、比翼も連理も帰ってくるから」
清貴は、柔らかく笑みを浮かべた。清貴の素のような顔で、いつもみたく、道化のようではない。
「あいよ」
雅詠は、その顔が好きだった。相手に一切の警戒を与えず、そして、相手に安心感を与える顔だ。このような顔をもっと増やせば、清貴はもっと好かれていたのではと、雅詠はよく思っていた。
「あぁ、そう言えば、スヌートはどうだい?」
清貴が、仕事部屋に向かおうとしたとき、思い出したように雅詠に聞いた。スヌートとは、しかめっ面という意味の、雅詠の愛猫である。
「相変わらず猫なで声で甘えてくる。結構、おじいちゃんなのにな」
雅詠は苦笑した。
仕事部屋に着いた清貴は、大きく溜息をついた。今日だけは、仕事をしないと決めていたのだが、雅詠が来てしまっては、おそらく、数日間はまともに仕事ができないだろう。清貴はそう考え、できるだけ仕事を片付けようと思った。
とにかく、長編小説は書き終わったので、この理不尽な話を完成させなくてはならない。
正直、これだけでも充分なのだが、担当編集者が言うには、「書けるだけ書いてください。清貴さんは、こういうの得意でしょう」とのことだ。つまり、沢山書けということだろう。
「このタイトルは……『教会の話』にするか。教会と言えば……」
彼は『きょうかい』と入力し、スペースキーを叩く。
境界。
もう一度叩く。
協会。
また叩く。
教誨。
またまた叩く。
教戒。
清貴は、立ち上がり、本棚から辞書を取り出す。
境界。境。区域。
協会。ある目的のために、会員が協力して設立、維持する会。
教誨。教え、諭すこと。
教戒。教え、戒めること。
「教え諭すこと、教え戒めること、この二つだな」
清貴は、大きく深呼吸して、これら二つをキーワードに、世界を創り始めた。
◇
雅詠は、煙草を吸いながら、夕方のローカル番組を楽しんでいた。
「まだやってるんだな、これ。懐かしいな」
雅詠は、そんなことを言いながら、秋華へと視線を移す。可愛らしいエプロンを身に着け、鼻歌交じりで、料理を次々とこなしていく。
「なぁ、秋華」
「なに?」
秋華が、料理の手を休め、雅詠へと振り向く。
「お前、清貴と結婚したこと……」
「後悔してないよ」
「よく俺が言いたいことがわかったな?」
「前に、きよもそんなこと言ってたの」
思い出したように笑う秋華。
「二人は、本当にそっくりね」
「複雑な気分だな、そう言われると」
秋華は、再び料理を作り始める。雅詠は、相変わらずローカル番組を観ていたが、やがて飽きてしまったのか、清貴の仕事部屋へと向かおうと立ち上がった。
「まー君。今はきよの部屋に、行かないであげて。たぶん集中してるから」
「じゃあ、なんか暇つぶしくれよ」
「じゃあ、この皮を剥いてくれる?」
「客に料理を手伝わせるのか?」
「まー君は、お客とかそういうのじゃないの」
雅詠は「やれやれ」などと呆れたように言いながら、微笑んだ。秋華の手伝いをする。
どうやら、今日はすき焼きだけではないようだ。すき焼きの材料の他に、秋華は何かを作っている。雅詠は、何を作っているか気になったが、楽しみにとっておこうと思い、何も聞かなかった。
夕食の準備をしていると、点けっぱなしのテレビから、「小樽市」という単語が聞こえた。秋華はそれを聞くと、すぐに料理を止め、テレビへと集中する。
「小樽市花園のマンションのゴミ捨て場に、蝋で固めた死体が三人出た事件で、容疑者が、たった今、警察へと連行されました」
ニュースは続く。
「容疑者は、三十代の女性で、『私のおかげで、彼は小説を書けるのよ』などと、叫んでいたようです。死体が遺棄されたマンションには、小説家の……」
「いい迷惑だよな、清貴も」
「うん……」
秋華は、心ここにあらずという様子で、テレビを食い入るように観ている。雅詠も、皮を剥くのを一時中断し、テレビを観る。
容疑者の顔は、まだ映されていない。ニュースキャスターは、淡々と情報を口にしていく。
「料理、続きやらなきゃ」
秋華がそう言うと、雅詠も再び皮剥きに励んだ。
それから、数十分して、玄関の扉が開いた。
「比翼と連理が帰ってきたかな」
秋華が、エプロンで手を拭きながら、玄関へと向かう。
そして、比翼と連理と共に、居間へと戻ってきた。
「わぁ、伊藤さんだ!」
比翼が嬉しそうに言う。そして、雅詠に抱きついた。
「おいおいやめろよ」
雅詠は、内心嬉しく思いながら、比翼を離す。
「お久しぶりです、伊藤さん。相変わらずお元気そうで」
「おう。連理も相変わらずだな」
「さっ、二人とも着替えてきなさい。今日はすき焼きよ」
「すき焼き以外の材料もあるけど?」
比翼がすかさず聞く。
「これは明日の仕込みよ」
「ふぅん」と、比翼はつまらそうに言って、連理と共に、自室へと引き上げる。雅詠は、今日はすき焼きだけかと、正直残念だったが、引き受けた仕事を途中で放り出せずに、秋華に言われた皮剥きは全て終えた。そして、雅詠は、いつも清貴が座っているソファへと腰掛け、再びローカル番組を観始めた。
やがて、私服に着替え終えた双子が戻ってきて、だらしなく居間のソファへと座る。
「伊藤さん、スヌートは元気?」
猫好きの比翼が、雅詠に声をかける。
「あぁ。相変わらず、な」
雅詠は、煙草に火を点ける。独特なメンソールの香りが、辺りに立ち込める。連理は、多少恨めしそうに雅詠に目を向けた。
どうやら、清貴はまだ、連理に居間で煙草を吸うことを、許していないようだ。
雅詠は、くっくっくっ、と小さく笑った。
「何を笑ってるのさ、まー君」
準備を終えたのか、秋華は雅詠に語りかけた。
「いや。ちょっとな」
「そっか、それなら別に何も聞かないけど。比翼、お父さんを呼んできて」
雅詠が薄っすらと笑みを浮かべたのを見ると、秋華は比翼にそう言った。
内壊/3
小説が進まなくなった。
清貴は、今まで書いていた文章を全て削除し、頭を抱える。
何が足りないのか。自分は、何を訴えたいのか。
ふと、連続殺人の話が頭に浮かんだ。
被害者は、何を思っていたのだろうか。辛かったのか、苦しかったのか、それとも、あまりにも理不尽な運命を呪ったのか。
清貴は目を閉じて、彼らのことを想像してみた。
目の前に、狂人。とても、気持ちの悪い笑みを浮かべ、こちらを見ている。狂人は、自分の首を絞めた。
苦しい。痛い。嫌だ。死にたくない。こんなところで、こんな奴に、殺されたくない。
しっかりと、狂人の顔が見える。とても、嬉しそうだ。
清貴は目を開いた。
そこには、さっきと変わらない、ディスプレイが表示されていた。清貴は、一つ溜息をついて、現実と向き合った。
もしも、ここで、この事件を使ってしまっては、自分は狂人となってしまう。それでは、自分が今まで守り抜いたものが駄目になる。そんな気がした。しかし、何か、この殺人事件には、親近感が沸いてしまう。それは決して、犯人に同調しているわけではない。何故か、自分がその犯罪を、犯しているような気がする。もしかしたら、自分は、この事件の犯人なのではないだろうか。
もしも、自分が犯人だったらどうするのだろうか?
何か問題があるのか?
少なくとも、今まで築いてきた絆は、全て壊れるだろう。しかし、それがどうしたことだろうか。絆など、とても容易く壊れるものだ。どうせ他人は、自分のことなど、理解しようとはしないだろう。自分はその程度の人間なのだ。所詮、空想を創り上げ、それを評価されなくては、屑のように扱われるだけなのだ。
誰も興味など示さぬ。
誰も自分など知らぬ。
誰も他人など知らぬ。
自分は、この世界にそうやって生まれ、育まれ、死にいく運命なのだ。
清貴は、微笑んでいた。
なんとも愚かな考えだろうか。このようなこと、既に、学生時代に考えていた。それを今更になって思い出すとは、なんとも愚かなのだろう。
ドアが鳴る。
「ご飯できたよ!」
この声は、比翼だろう。
清貴は、瞬時に頭を切り替える。
ここで、何もかもを失ってはいけない。
俺には、守らねばならぬものがあるのだ。
内壊/4
「今行くよ」
ドアの向こうから、清貴の声がする。
「待ってるからね」
比翼はそう言って、居間へと戻った。
すでに準備が整っており、あとは清貴を待つだけ。
何やら、雅詠が、連理に話しかけている。
「いいか。学生時代は、大事にしろよ。当然大学に行ってからでも、何でもできるが、今が一番大事なんだ。いいか……」
テーブルには、一本のチューハイと空のグラスがある。どうやら、雅詠はお酒で良い気分になってしまっているようだ。
比翼は、出来る限り気配を消して、いつもの席へと座る。
「いいか、比翼もだぞ! お前は、可愛いしモテるだろうが、誰彼と付き合うなよ。男は選べ! 特に、チャラい男には……!」
酔っ払いは、わずかな気配すら察するようだ。
比翼は新たな教訓を得て、雅詠の言葉を適当に聞いた。
秋華はと言うと、雅詠の言葉を、上手くあしらいながら、相槌を打っている。長い付き合いと言うやつだろう。比翼は、なんとなく感心していると、秋華と目があった。
「いい? きよもまー君も、こんな感じなの。こういう酔っ払いには、話半分で、相槌を打つのよ」
雅詠に聞こえるのではないかと、比翼は多少なりとも気を遣ったが、それはどうやらいらぬ心遣いだったようだ。雅詠は、まだまだ、何かしらの人生訓を語っていた。
連理はと言うと、性格なのか、雅詠の話を真剣に聞き、絶妙なタイミングで、意見や相槌をした。
「楽しんでいるな?」
清貴が食卓へと現れた。
「おいおい雅詠。お前、焼酎まで飲んでるのか?」
清貴が笑いながら言う。よくよく見ると、テーブルの下には、『鬼殺し』と書いてある焼酎があった。
「じゃあ、食べ始めしょうか」
区切りをつけるように秋華が言うと、今まで説教じみた話をしていた雅詠と清貴は「待ってました!」などと言いながら、爛々とした瞳で、秋華に言った。
腹が膨れ、落ち着きを取り戻したのか、清貴と雅詠は、ソファへと腰を下ろし、しみじみと話をしていた。
秋華はと言うと、片付けを清貴の代わりに行い、時々聞こえてくる二人の会話に、くすくすと小さく笑っていた。
比翼と連理は、笑い所がわからずに、ただただ呆気に取られながら話を聞いているだけだった。
「そんでよ、そのときによ……」
雅詠は、止まらずに話を続ける。
「ははっ! なんだよそれ! 雅詠さんの力で、なんとかしてみろよ!」
「おいおい、俺は治すほうだぞ? そんなことできないだろう。そもそも……」
「でもさ、なんとかしてさ……」
二人は、本当に楽しそうだ。
やがて、酒が尽きたのか、二人はどうするかと顔を見合わせた。
「よっしゃあ! 俺が買ってきてやるぜ!」
清貴は、意味不明な意気込みを見せ、見た目など気にせずに、外へと出て行った。去っていく清貴の背中を見て、雅詠は、くっくっくっ、と笑った。
「まー君の癖なのよ、あの笑い方」
秋華は片づけを終え、比翼と連理に話しかける。
「くっくっくっ、ってやつ。あれは、相当上機嫌じゃないと、聞けないの」
秋華は二人に笑顔を向けた。
「変な癖だね」
連理が言い、熱い緑茶を一口飲む。
「またお茶飲んでるよ……。もう熱いお茶の季節じゃないじゃん」
今年は、六月に入ろうとも、まだまだ寒い日が多かった。寒がりな連理は嫌がっているが、寒さに強い残りの三人は、大して気にしないほどだった。
「僕の勝手だろう」
不機嫌そうに連理は茶を啜り、自室へと戻っていった。
「比翼、連理。あなた達は明日も学校でしょう? 早く休みなさい」
連理は秋華に何も返さずに、熱いお茶をゆっくりとすする。そんな連理を横目に「そうしようかな」と短く返す。
「っと、そう言えば、聞きたいことがあるの」
「なに?」
「警察の人に、私達のこと、何か聞かれた?」
「いいえ、別に何も聞かれてないけど」
「それなら、いいや」
比翼はあくびをし、目をこすりながら自室へと戻っていった。
雅詠は、時計へと目をやった。すでに深夜の零時を指しており、程よい眠気が、ゆったりと自分の中から芽生えた。
秋華は、清貴が買ったコンポの電源を入れる。
スピーカーからは、ゆっくりとした音楽が流れ出す。
「あいつ、まだこれ聞いてたのか」
雅詠が、目を瞑りながら言った。
「きよは、ずっと彼らの大ファンだから」
「他のはないのか? なんていうかな、眠気を覚ますような、こう……ノリノリなやつ」
「駄目。二人が起きるでしょう?」
「それもそうだな」
しばし、ゆったりとした時間が流れる。
清貴が一番好きな曲が流れ始める。ゆったりとしていて、どこか哀愁を纏った曲だ。
「ここからが、きよが一番好きな歌詞よね」
秋華と雅詠が、小さく口ずさむ。
奪われたのはなんだ。
奪い取ったのはなんだ。
繰り返して少しずつ。
忘れたんだろうか。
汚れちゃったのはどっちだ。
世界か自分のほうか。
いずれにせよ、その瞳は。
開けるべきなんだろう。
清貴は、この音楽を聞くとき、いつも優しい顔をする。もしかしたら清貴は、自分と被せているのかもしれないと、雅詠は考えたことがあった。思い当たる節は、いくつもあった。
あいつは、いつも誰かに愛されたくて仕方なかった。誰かが、自分の側にいてほしかった。しかし、清貴はそれを恐れていた。自分の近くに、愛すべき人がいればいるほどに、清貴は、それが消えることを恐れ、悩み、いつしか、絶望へと至る。
「きよのこと、考えてる?」
「あぁ。秋華で良かったって、今ならはっきりと思える」
「あら。ようやっと私は、あなたのお眼鏡にかなったのね」
「ははっ。昔は、結構酷いこと言ってたからな」
清貴が有名になったことを、雅詠は嬉しく思っていた。しかし、それと同時に、彼は清貴が心配になった。今まで、人に好かれることが少なかった清貴が、急激に好かれ始め、良くない奴に、捕まるのではないかと思っていた。
実際、数人の女性は、清貴の『名前』を目当てに付き合い始め、そして、幾度も彼女らは清貴を傷つけた。それが気に入らずに、雅詠は、何度も清貴へと、叱責を述べた。その甲斐あってか、清貴も多少は人を見ることができるようになった。
「最初、まー君を紹介されたとき、怖かった」
「そりゃあね。親友の彼女だ、ちゃんと俺が見定めないといけないと」
「あはは。確かに、そんな目で見てた」
唐突に清貴は、雅詠に秋華を紹介した。仕事で出会い、結婚を前提に付き合っているとのことだった。
雅詠は、秋華が気に入らなかった。秋華は決して有名とは言えない、イラストレーター。もしかしたら、清貴を使って、売名行為でもしようとしているのではないか。雅詠の頭の中には、嫌なことしか浮かばなかった。自然、秋華を見る目も厳しくなった。彼女の行動全てが、気に入らなくなった。
「馬鹿だよな、俺。なんだかよ、清貴の父親って言うか、母親になった気分だった」
「母親には確実になれないけどね」
「茶化すなよ」
秋華と付き合い始めてから、清貴は、いつもよりも優しい表情をするようになった。徐々に、清貴の素顔が、見えてきた気がした。長い付き合いだが、清貴があそこまで優しい表情をしているのを、雅詠は初めて見た。
自分では、あいつの本心を知りえることができなかった。
自分では、あいつから道化の仮面を取り去ることができなかった。
嫉妬にも似た、黒い感情は、清貴に向けられた。
どうして自分ではないのだ。
どうして自分の前で、お前は、その仮面を取らなかったのだ。
「男の嫉妬ってのは、本当に、醜いな」
「そうだね。でも、すぐに気付いたじゃない」
ある日、清貴が言った。
君がいたから、俺は彼女を選べた。雅詠は、本当に、俺の自慢の親友だ。
「聞いてて、恥ずかしかったな。あの台詞は」
「ああいうことを、あっさりと言っちゃうのよね、彼は」
玄関が乱暴に開き、どたどたと騒がしい音を立てながら、清貴は居間へと辿り着く。
「おっしゃあ! 買ってきたぜ、雅詠!」
「よっしゃあ! 飲むぞ、清貴!」
「しかも、おいおい。こんなBGMかけやがって! 盛り上がった来たぜ!」
「おうよ! もいっちょ、飲むぞ!」
二人は、とても楽しそうに、とても嬉しそうに叫ぶ。
騒がしいとは思ったが、秋華は、優しく微笑む。
「私は、もう寝るね。私達三人に迷惑をかけないように、飲みなさい」
釘を刺して、秋華は、寝室へと向かった。
内壊/5
六月十六日。朝の六時。
連理は、居間へと向かった。ドアを開けると、そこには、濃すぎる煙草と酒の匂いがした。
ソファで、清貴と雅詠が倒れている。いびきは聞こえず、死んだように静かに眠っていた。居間のカーテンを全て開けると、弱々しい光が、部屋に入る。
連理はベランダへと、出て空を見上げた。どんよりとした、厚い雲が空を覆っていた。
煙草を吸いたいと思った連理だったが、禁止されているため、仕方なく、居間へと戻る。テーブルの上には、酒の空き缶やら、残ったつまみやら、何に使ったかわからないティッシュやらが乗っている。連理は、二人を起こさないように、それらを静かに片付けていく。
十五分程度で片付けは終わった。本来なら、もう秋華が起きて、朝食を作っているはずなのだが、今日はその気配すらない。仕方なしに、連理は冷蔵庫を覗く。冷凍食品が、二、三個見つかった。連理はその封を切り、適当な皿に乗せて、レンジへと入れ、スイッチをいれる。
ウーッと低い音を立てながら、レンジは動き出す。それを確認した連理は、炊飯ジャーを覗いた。米が炊けていることを確認すると、連理はご飯茶碗によそい、インスタント味噌汁を取り出す。
チン、とレンジから音がする。
温まった冷凍食品を、食卓へと並べ、静かに「いただきます」と言って、彼は朝食を食べ始める。
粗末な朝食だが、彼にとっては充分だった。時計に目を移すと、六時三十分を指している。彼は食器を片付け、自室へと向かった。
テレビを点け、天気を確認する。
今日は曇り。降水確率は、四十パーセント。
連理は、今日の時間割を確認し、煙草を吸い始める。
火曜日は、美術部がある。面倒だ。だけど、出ていないと、清貴に小言を言われるかもしれない。
携帯電話を見てみると、メールが一件届いていた。連理が付き合っている女性からだった。内容はどうでもいいような、求愛のメールだ。
そう言えば、あの殺人事件があってから、かまってなかった。だが、こんな朝早くから、盛んな奴だ。
連理は返事を返さずに、携帯電話をベッドへと放る。
「もう、六月か」
そろそろ、定期試験の勉強をしなければならない。さすがに、大学に行かないのでは、安定した職に就きにくいだろう。だが、清貴の七光りを利用する手もある。正直、小説なら書けるだろう。細かい点で、清貴から指摘を貰えば、良い所まではいけるだろう。だが、七光りは、高が知れている。
連理は、時計を見ると、いつもの時間になっていた。彼は、シャワーを浴びるために、浴室へと向かった。
◇
比翼は、浴室から聞こえるシャワーの音で目を覚ました。時計を見ると、七時十分。
「また、寝坊した……」
比翼は、急激に頭に血が昇るのを感じた。
乱暴にドアを開け、短い廊下を走りぬけた。その騒がしい音に、ソファで寝ていた清貴と雅詠が、頭を掻きながら起きる。
「比翼。時計は三十分進んでいるぞ」
「あぁ、そっか」
比翼は、いつもの勘違いを、いつも通りに清貴から指摘される。
「朝ごはんは?」
「秋華は起きてないのか?」
「わかんない」
清貴は、リビングを一回見回す。冷凍食品の匂いがする。連理は起きているだろう。どうやら、秋華は寝坊しているようだ。
「今日は、自分でなんとかしろ」
「わかった……」
比翼は、不満そうに言って、冷蔵庫を漁りだす。
「雅詠。客室に行って休もう」
「あぁ」
雅詠もまた、比翼と似たような声を出した。非常にゆっくりと、彼は客室へと向かった。清貴は、一つ大きくあくびをして、煙草に火を点ける。煙を吸うと、左目の奥がずきずきと痛んだ。それと同時に、頭の血管が、締まるような感覚。頭もふらふらする。
さすがに昨日は飲みすぎたな。
昨日は、空が明るくなるまで、飲んでいた。雅詠との昔話が楽しくて、ついつい飲みすぎてしまった。
清貴は、反省しながら、ベランダへと出る。どんよりとした、厚い雲の隙間から、僅かだが光が漏れている。
眠い。口の中が、ねばねばする。これでは、目覚めのキスを、秋華にはできない。
「へっぶし!」
何故かくしゃみが出た。
「戻るか」
清貴は、煙草の火を消し、居間へと戻ろうと立ち上がった。すると、比翼ががつがつと、朝食を食べている。見慣れた光景とはいえ、やはり、もう少し女性らしい、おしとやかさが欲しいところだ。
「なぁに?」
口にものを詰め込んだ比翼は、リスのようだ。可愛らしいような、馬鹿みたいな……。とにかく、自分の娘だと、実感する。
「リスか、お前は」
「うるさいなぁ。食べ物なんて、お腹に入れば一緒なの」
そうか、と清貴は合点した。
比翼は、料理が下手という次元ではないのだ。そもそも、食べ物自体を軽視しているのだ。故に、食べ物をより良く昇華する、『料理』についても、軽視しているのだ。だから、彼女は、料理の味付けなど、どうでもいいのだ。腹に入れば一緒と考えているのだから、どんな味付けだろうと、美味かろうと不味かろうと、彼女にとってはどうでもいいのか。だが、他人に食わせるのならば、やはり、「美味い」と言って欲しいのだろう。
「食べるなら、美味しいほうがいいけど」
清貴は、今考えていたことを、一瞬で否定された気分だった。複雑な気分のまま、ソファへと座り、テレビを点ける。
やはり、このマンションのことを取り上げていた。どうやら、犯人と確定したらしい。自分が好かれることは嬉しいが、やはり、このように好かれるのは、なんとも微妙な気持ちになる。
「そういえば、犯人捕まったんだね」
比翼が、食べ物を口にしながら言う。
「食べるか喋るか、どちらかにしなさい」
「なんだか、この事件のせいで、お父さんも更に有名になるんじゃない?」
「……そう、だな」
このような事件で、名前が売れるというのも、よくある話だ。清貴は、別段困っているほど売れていないわけではないが、自分の小説が売れるに越した事はない。だが、やはり、自分の実力で上まで行きたいとも、彼は思っていた。
「なんだか、複雑な気持ち、ってやつ?」
「だから、食いながら喋るなって」
比翼は大きなゲップをして、食器を片付ける。それとほぼ同時に、制服に着替え終わった連理が現れた。
「比翼、早く準備」
連理が小言を言って、ソファへと座る。不機嫌そうに連理を一瞥し、比翼は浴室へとばたばたと向かった。
「父さんは、休まなくていいの?」
連理が言う。
「せめて、お前達を見送るよ」
「そう」
連理は感情の籠もっていない声で言って、テレビに目を移す。ちょうど、清貴のことについて、ニュースで流れていた。
「テレビは好き勝手言ってるね」
「そうだな」
清貴の小説が、犯人に影響を与えたのではないかと、アナリストが言っていた。実際、清貴の小説には、過激な内容や発言を含むものもある。だが、それだけでこの犯罪が起きたとは、とてもではないが、言えないだろう。
「今度の小説は、純愛だっけ?」
「あぁ。それと、『理不尽な話』というやつだ」
「また叩かれそうな名前だね」
「大丈夫だよ。多分」
「そう」
ドライヤーの音が聞こえる。
「比翼が髪を乾かしているな」
「そうだね。比翼のいいところは、学校に行くとき、化粧をしないところだと、僕は思ってる」
「外食するときとかは、よく化粧してるけどな」
「まぁね」
清貴は、煙草に火を点けた。連理は、相変わらず恨めしそうにこちらを見て、大きく溜息をつく。
「いい加減、ここで吸うのを許してくれない?」
「駄目だ。あと一年我慢しろ」
連理は、心底残念そうに、肩を落とした。
数分して、比翼が準備を終えて居間へと戻ってきた。
「しっかりと勉強してこい、息子と娘よ」
「わかってるよ。行ってきます。父さん」
「私は大丈夫だよ。行ってきます」
二人は学校へと向かった。
残された清貴は、仕事部屋へと向かった。
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