第13話 東京
十数年前、この「日本」の東京は荒川沖海底断層に発生した直下型の地震により壊滅的な被害を受けた。その被害は、試算方法にも寄るが、最高数十兆円にものぼると考えられた。これは。この震災は、九十年代に入っても君らの日本よりは長く消費傾向が続いたとは言え、株価も土地価格もついに下がり始め、労働人口もピークを越えた……そんな景気の減退も見え始めた日本の大崩落のきっかけとなる可能性もあった。
そんな、最悪のタイミングで起きたこの災厄に、「日本」の綱渡りのような経済がとどめを刺される可能性は十分に考えられた。
事実、引退を見据え保守的になって来ていた団塊の世代の消費傾向からしても、復興の公共事業はしばらく栄えるにしても、その特需が終わったならば、特需の収入をも溜め込んだ団塊の世代が消費を控えるようになり、そのままこちらの「日本」もデフレのスパイラルに落ちて行く——そのような予想をした経済学者も「こちら」にも多数いた……
しかし、結論から言うと、この日本ではそうはならなかった。デフレスパイラルはおきず、かわりに始まったのはかつてのバブルを思わせる、嫌それ以上の極端に過剰に振れた経済成長であった。
なるほど——この「日本」が、君らの世界と違う動きとなったのにはいくつか理由は考えられる。
ミレニアムを少し越えた震災前まで新採をとり続けた企業により、ロスジェネを生み出さなかったため、復興特需後も調度結婚子育ての時期に入って来た団塊ジュニアが、給与分だけの旺盛な消費をしめしたこと——これがまず理由の一つ。
この日本でも、少子化は問題にはなっていたのだが、君らの「日本」に比べればそれはだいぶましなものであった——これもまた理由の一つ。
なにしろ、君らの日本に比べたならば不況の時期が短かったので、経済的基盤の確立された若者が多く、子育てをすることへの不安や問題は少ない。かつ、風紀の乱れもかまわぬ若者をエロティックな衝動へと向かわせるような文化の奨励——そのせいもあってか、先進国ではトップクラスの出生率を維持する事が可能となったのだった。なので将来の労働人口減少への不安も比較的軽微なものに収まって、その不安の軽微さに比例するように、経済への影響も軽微なものに収まっていた。
そしてこの世界ではまだ——もうぼろぼろになりながら——鉄のカーテンが存在しているのも理由の一つ。
死に体のソビエト連邦が、小さな改革を時たま行いながらも、巨大な収容所さながらに大陸の中央にでんとまだ存在するため、中国を始めとした共産国の資本主義陣営への関与はまだまだ小さいものに留まっていた。
つまり日本の製造業への新興諸国の影響も少なく、アメリカもパートナーとして日本重視の世界戦略もずっと維持され続けていた。
そして更に……
——いや、この後いくらでもそうやって繁栄の理由となる要素要素を上げて行く事はできるが……
そう言う要素が積み重なったそのそもの原因、この「日本」の意思のようなもの、それがもっとも君らの日本と、この「日本」の違いそれを先に語るべきではないか。
発展への意思。
狂気にもにた、焦燥感。
まるで世界をこのまま食い尽くしても悔いの無いかとさえ思えるような——自滅に向かうレミングの群れのようにさえ見る——その時代の精神のようなものがこの日本を覆い尽くしていたことを……
まるで自分達の生が偽物ででもあるかのような——金融商品のような記号ででもあるかのように——自らの生の放蕩、無への贈与が、虚無の世界とのポトラッチが行われているようだったことを……
欲望の為に欲望を必要とするインフレーションが、この世界を覆った。
きっかけは震災の復興やら、そのタイミングで取られた経済政策であったかもしれない。しかしその持続には別の理由が必要だ。
そしてこの「日本」にはそれがあった。
なので、想像力の続く限り——それでも足りなければ想像力の向こう側の悪夢まで取り入れて——この街は「日本」は変わって行った。
復興景気の終わったゼロ年代半ばも越えて、果てのないの発展を求め、達成した「日本」。自分達の心が記号になる事で記号の中で自らの自我をいくらでも拡大できた「日本」。それは歪んだ真珠(バロック)のように、悪夢のように、見てしまったならば逃れられぬ蠱惑により人々を魅了し、虜にした。
もちろん、こんな「日本」の何かが可笑しいと、思う人々も沢山いた。
しかし、ある程度走り出してしまえば、ここまで賭け続けたその賭け金の膨大さを思えば、止まる勇気は誰にもない。
人々は走り続けた。
なぜなら、止まった者から後ろから追って来る虚無に呑込まれるのが分かっていたから。
常に、その虚無への贈り物を続けなければ、虚無が世界をも呑込んでしまうから。
人々は走り続け虚無への贈り物を——欲望を——探し——捧げた。
さも無ければ存在が消えてしまうから。
疲れ、もし足を止めてしまいそうになる時には、震災後の、日本が復興への希望に燃えていたあの頃の事を思いながら。
なかでも——当時もっとも有名なアジテーターとして目立っていた、大蔵大臣深泉季彦演説を思い出しながら——人々は走る。
復興に命をかけ取り組んで、本当に生命を吸い取られてしまったかのように、復興のめどが立った頃、まだ五十代で死亡してしまった深泉季彦。
彼の行った数々の演説は未だにテレビなどのマスコミにも、人の口にものぼりつづける。
まるでこの日本をこの狂躁にしばりつけている呪文のように。それは意識するとしないとに関わらず、この今の「日本」の中に流れ続ける通奏低音のように、人々の心を支え、基礎を形作っていた。
言われた時は当時の世の中のため、実務的な響きを持っていただろう言葉は、しかし今では、意味が変容し、この虚構の社会を支える言葉へと変わってしまった。
まるで成仏できずこの世に残った悪霊のように、彼の言葉はこの「日本」を徘徊する。
出会った者に取り憑き、呪う。
それを祓い清めなければならない。
そう思った彼の子供達による壮大な「儀式」が行われたのが……
*
金曜の午後8時。
様々な人々が様々な思いを抱えうごめく、不穏な空気に満ちた、この日。
今日は、東京スカイタワーの開幕オープニングイベントの日。今はその開幕からもう3時間が経ったところ。この東京湾は早くも絶頂かという盛り上がりとなっているところだった。
海面には様々な取材の船が浮かび、空には多数の取材のヘリコプターが飛ぶ。その空に向けてサーチライトが舞い、橋につけられたイルミネーションが煌めく。次々にあがる花火、あちらこちらからフラッシュライト。
この世の物とは思えないような鮮やかな色彩に満ちた光の饗宴だった。
それを——何事に置いても派手なこの「日本」でも見た事のないような東京湾の騒ぎを——間近で見物しようと湾岸の港には人が溢れていた。
遠く横須賀から、東京湾をぐるりと廻って木更津まで。湾岸沿いの港と言う港では、この「日本」の本当の再生を記念する祭りを盛り上げるべく、様々な組織が企画したイベントが行われていた。
この夜にありったけの放蕩を行う事がこの「日本」に生きる物の義務ででもあるかのように、この日に何か関わり印を残す事がまるで永遠の生を約束してくれるとでも思っているかのように、様々な会社や個人、公共団体がこの日の祭りのスポンサーやボランティアとして名乗りを上げていたのだった。そして、そういう支援があまりにも多いため、スカイタワー本体でのイベントだけでは資金も人員も消費しきれず、湾岸で行われる他のイベントでも驚く程豪華な様子になっているのだった。
いや、湾岸だけではなかった。
東京のあちらこちらにはこの時だけの為につくられた意味不明のモニュメントが乱立し、あらゆる通りで星空が地に落ちて来たかのような光りの洪水。
世界中からエンターティナーが全員集まって来たのではと思える程に豪華なステージがイベント会場だけでなくそこらの路地でも行われている。
今週の全米ヒットチャート一位の歌手が分刻みであちらこちらの駅前に現れる姿。ハリウッドの銀幕のスターが町内のミスコンの司会をする姿。
都内からしてそんな状態であれば、そのご本尊である海上のスカイタワー周辺はと言えば、もはや全貌は誰もつかめないような騒ぎとなっているのであった。
タワーに向かう新交通システムや地下鉄は平日だと言うのに朝方からずっと満員の状態だった。
乗車を待つ列が各始発駅からあふれ、昼の時点ですでに乗車には何時間も待たされていた。
そんな乗り物は諦めた人向けにはタワーに向かう数本の橋の上り車線が開放され、徒歩で渡る者達も多かったが、それにしても安全上許可が出るギリギリまで流入した人の波に溢れ、動く気配さえない……
——どこへ行っても満員の人の群れであった。
勢いに任せてこの一生に一度かも知れないイベントに向かった人々も、遅々として進まない列では、明日の朝にでも果たしてたどり着けるかどうかと不安になる橋の上。
そんな途方に暮れた人の群れの間を数台の車が通り過ぎる。
本土からタワーへの物品輸送に確保されている下り二車線を通り、羨望の目で眺められながら、その車はスカイタワーへ進む。
今日は関係者、業務用の車しか通らないはずなので、その五台連なったトラックはタワーか本日のイベントの関係者の者に違いは無いのだが、この華やかな祭りに向かうにはなんとも辛気な雰囲気の漂う車両であった。
いやなんの変哲も無いただのトラックではある。しかし、このお祭り気分の中、整然と列を作り、全台ともまったく同じ速度で通行する、そのあまりに手際の良いトラックの集団は何か普通と違う雰囲気を持つ。
やはりプロの目は隠せないものである。
なにか不審の直感を得た、出口の臨時の検問の警官は、
「ああ、申し訳ないけど、積み荷の方もちょっと見せてね……」
先頭のトラックを止めると、
運転手の通行許可症の確認だけでなく積み荷のチェックも申し出て、
「直ぐ終わるからね」
トラックの裏に回り、幌をあけるのだが……
その瞬間。
——銃声!
倒れる警官。
飛び出して来たのは、防弾チョッキにヘルメットを着け、サブマシンガンを抱えた完全武装の男達。
銃声を合図に、他の四台のトラックの荷台からも次々に武装した連中が現れる。
——また銃声!
検問にいた十名弱の警官達も慌てて銃を撃ち威嚇をするのだが……
無駄であった。
警官達は、
数十名の訓練された兵士に囲まれたなら、
抵抗らしい抵抗も無いうちにたちまち降伏となるのだった。
しかし……
武装集団の一人が海を見て叫ぶ。
「——あれを!」
海から昇ってくる光りの筋。
彼らがまるでこの場所に来る事を予想でもしていたかのように、
付近の海上にいた巡視艇上のランチャーから発せられたロケットが、
——今、
正に彼らの元へせまりくるところなのであった。
*
さて時間は少し遡り、検問所での騒ぎの始まる少し前、東京スカイタワーとその低層階でのイベントの開始の頃……
十万人を収容するスタジアムで始まった開会式。
建設大臣のテープカットのあと、退屈な各界の重鎮の挨拶も程々に始まったイギリスの重鎮ロックバンドのコンサートに人々が熱狂する中、他のエリアに置いても様々な催し物が行われていた。
それはまるで世界中のあらゆる分野のアーティストを勢揃いさせたかのような賑やかさだった。少しでも歌えるもの、楽器を演奏できるものは全ては今日この場所を目指して集まって来ているかのように見えた。
あちこちにつくられた特別ステージ。正式なオープン後は、その一部屋で世界を揺るがすようなビジネスが行われる予定の部屋では今日はそのローンチを祝う臨時のステージに変わる。
歓声。
本物、偽物の区別なく、世界中から集められたモノの宴が繰り広げられている。人も物もモノならなにもかも。あればよい。そこに埋まれば良い。
空隙があったなら本物でも偽物でも——記号でも構わない。埋めろ、埋まれ。
我々の宴はまだ始まったばかり。
この夜は始まったばかり。
何もかも、埋め尽くし、その後に世界は変わる。
表面が全てを覆い尽くしその奥へは決して行けない世界へ。
「日本」は次の段階へと進むのだ。
この夜。この日、魔はここにいる。
この塔を依り代として、それはこの地を、そして世界を覆い尽くすだろう。
このバベルは天に届くだろう。
それは勝利するのだろう。
示すのだろう。
世界は中身を必要としない事を。
魔が、瞬間が、表面が勝利する事を。
世界を喰らい尽くすまで、その欲望の止まらない事を。
その欲望の源があなた達で有る事を。
次元をも越える渇望であることを。
なので……
それは止まらない。ブレーキの壊れたダンンプカーのように。
それは戻らない。こぼれたミルクのように。
増加するエントロピーは減少しないように。
始まった物は——終わるしかない。
……しかし、
——知らない。
「日本」はまだ知らない。
ここで蠢く、また別の魔が、虎視眈々とその座を狙っている事を。
その名を絶望と言う——欲望の麗しき同胞。
盟友が自分を捨て置いて、一人で世界を喰らい楽しむことなど許さぬと、それは静かに這い寄って来る。
果たして、そのどちらが新しい神となるのか。
まだ分からぬ未来。
それを知らぬ人々はまだ、ただ騒ぐ。
飛び交う歓声とシャンパンの栓の開けられる音。
泡まみれのスーツでパーティからパーティへと移動する人々の姿。
照らす極彩色のライト。
ザッピングででもしてるかのように、次々にその画像を変える吹き抜けのホール天井の巨大スクリーン。
首都圏の壊滅した映像。それが春の葉の生えるように復興して行く様子。
合わせて流れる重厚な弦楽器の音。そして和太鼓の音。いやビルの崩れる音。その映像……はいつの間にか抽象画のような曖昧とした形と色に替わり。それはさらにこの東京スカイタワーの姿となり、それはどんどんと大きくなり、ついには宇宙へと到達する。
笑い顔。
宇宙からこの地上を見るその地は笑い顔に満ちていた。
世界を見下ろす「日本」は天からその笑い顔だけを見ていたのだ。
笑う物達だけの住まう、内面のない笑みを浮かべる事だけができる、映像の中の人物のように、何処かの誰かのように振る舞う事ができる物だけが生きるべき「日本」だ。
バベル。人間の欲望は今度こそは、今夜こそは成功するのかもしれない。
同じ言葉を話す人間どもは、その力を合わせ、天に届く塔をつくる。
それを罰する、神はいない——死んだこの世界で。
饗宴は続く……が?
スカイタワーを満たすお祭り気分の中で、少し物々しい雰囲気と言うか、喧嘩でもしてるかの様子の男女がいる。
「ああ、やっぱり君はやって来ちゃったわね」
紅葉であった。
そして対面して話しているのはもちろんハルオ。
「『やって来た』じゃない——俺が昨日からどんな大変だったかと思ってるんだ」
「そりゃ陸地から、今日ここに入るのは大変だったでしょ。良く渡って来れたわね」
紅葉は感心したような表情でハルオを見る。
「そりゃ、知人の店の搬入の車に頼み込んで同乗させてもらって——じゃない!」
「じゃない? 大変だったのはタワーにやってくる事じゃなくて?」
「おい紅葉、分かっててごまかす気か」
「そんなことは……あれ。でも……あら?」
「……あら?」
「私を呼び捨てにしてくれるなんて大学以来じゃない。もしかして私に惚れ直した?」
「おい!」
いらいらした表情のハルオ。
それを涼しげな目でにやにやとしながら眺めている紅葉。
「ともかく、私も今日はここでいろんなクライアントに挨拶しに行かなくちゃいけないので、ハルオ君、用件は手短にすましてくれない」
髪もきっちりとセットしてばっちり化粧もした、日頃のキャリアウーマンから艶やかな淑女に変身したドレス姿の紅葉。彼女は、このスカイタワー開幕イベントで、紅葉の会社と取引のあるあちらこちらの会社のブースに挨拶に回っている途中なのだった。
それをやっとのことで見つけて捕まえたハルオだった。紅葉の関連しそうな企業をしらみつぶしに訪ねて、二時間かけてやっと次のブースに移動しようと宝飾会社のブースを離れたところを捕まえたのであった。
しかし、見つかっても、飄々とした様子でハルオを煙に巻く気がまんまんの紅葉。
ハルオは、
「じゃあ手短に——昨日から俺がやらされた事の意味を説明してもらおうか」とごまされる気は無い。
時間が無い。紅葉はそう言ったが、それはハルオも同じだった。
レイカは今晩ここで何か行おうとしている。それはもう間近に迫っている。様々な修羅場をくぐり抜けたハルオのカンがそう伝える。
ハルオは、ここで紅葉にのらりくらりとかわされてるわけにはいかないのだった。
なので、ハルオは真剣な目で、茶番はやめて話すべき事を話すように頼んだつもりであった。
しかし、
「説明なら、そちらの……なっちゃんからしてると思うけど」と、相変わらずちゃかした様子で、紅葉はハルオの横の夏美を見ながら言う。
頷く夏美。
「『なっちゃん』? ああこの夏美ね……」ハルオは横目で夏美を見る。「あれで説明って言えるわけないだろ」
「あれ、していなかった? そんな分けないわよね。ハルオ君、聞いてるわよね」
うなずく夏美。
顔をしかめるハルオ。
「……君はレイカ嬢を見つけたんで仕事は終わり。一億円もらって余計な事は話さない。——それ以上の説明が必要だとも?」
「それじゃ、何にも説明してないじゃないか。俺は、なんでこんな仕事を俺にさせたのか知りたいんだよ」
「あら? 可愛いお嬢さんの社会勉強付き合って貰う以上の意味は別に無いわよ。私の知る内で君が一番相性がよさそうだと思っただけ——それが理由よ」
「お前なあ——やっぱり分かってて、おちょくってるだろ」
「そんな事は無いわ、ハルオ君……これが私の答えよ」
「『今』のお前の答えだろ!」
一瞬言葉を呑込む紅葉。
「……そうよ。それ以上『今』の私に何か言えるとでも?」
ハルオは怒った表情を緩めて、
「ああ、そうだな……『今』のお前ならそうかも知れない。でもなあ……」
「……でも?」
「俺が命令を受けたのは三日前のお前で——お前はそれ以降の『お前』を信じるなと言ったんだ」
ハルオの言葉を聞いてため息をつき、
「ああ、やっぱりそうなるか……」と言いながらにっこりと笑う紅葉。
その表情はいままでのにこやかだが何重にも重ねていた仮面を脱ぎ素に戻った、少し不安そうだが、しかし美しい表情であった。
それにびっくりして、あっけにとられポカンとしてしまうハルオ。
すると、
「でも……そうよ、それでいいのよ」と、今度は小声で、続けて紅葉。
「そ……?」
それは? どう言う意味なのだとと続けて問おうとするハルオを制するように、紅葉は手に持った小さなバックから、パスカードを一つ取り出し、それをハルオに渡す。
「何だこれ?」
「東エリアの一番海側に千人くらい入るホールあるんだけど、そこでやってるファッションショーのバックステージに入る事ができるパスよ」
「そんな所のパス貰ってどうするんだ?」
「そのバックステージの奥の緊急避難口から外に出ると上層階まで続く非常階段があるわ」
「……階段?」
「それ以上は言えないわ」
「言えない?」
「言ったでしょあなたの仕事はもう今の私にとっては終わってるんだって。個人的に言えるのはここまでと言う事よ。つまり、これ——パスを渡すのは——ファンションショーの裏側覗いてみたかった知人達にパスを私は配ってるんだけど、その内の一人が君と言う事」
「言えないか……」
「そうよ」
「そりゃそうだな、お前がディケム飲んでの望んだ大勝負だ。それをぶちこわすような危険はおかさない——そのギリギリに俺は触れているってことだろ」
無言の紅葉。
「——いや、言わなくても良い……しかし、つまりその先に行けと言う事だな」
紅葉は何も答えなかった。頷く事も、首を横に振る事も無かった。
しかしハルオは紅葉の目をしっかりと見つめた。
紅葉もハルオの目をしっかりと見つめた。
二人にはそれで十分だった。
そして、
「ああ、ありがとう——ともかくやってみるよ」とハルオは言い、
——振り返り、
東館に移動しようと一歩踏み出すが……
しかし、
「ちょっと、待って!」
それを呼び止める紅葉。
何だと言う顔でもう一度振り返るハルオ。
すると、
「なっちゃんも一緒に連れて行って」と紅葉。
「は? 一緒に? 助けならいらんぞ」
「そうじゃないわよ。あなたの個人的な行動に私の協力者は使う気はないわ——別の用事よ」
「別の用事?」
「そう別の用事……いいわねなっちゃん」
「それは追加の仕事の以来だと思ってよいのよね」と夏美。
「ええ、もちろん。あなたにはこの後、ハルオ君について行ってもらって、そして機会があればやって欲しい事があるの」
「私に出来る事ならなんなりと」
「ええ、いえ大した事じゃないの、これをある女に渡して欲しいの」
「これは?」
紅葉がまたバックから出したのは、一通のすでに封の開いた古い可愛らしい封筒だった。
何事かと疑問に思いながらもそれを受け取る夏美。
「ごめんね——」
紅葉は横目でハルオを見るながら夏美に向かって言う。
「今回の事件の本筋とは違うんだけどね、ちょっとその女に私はやらせたい事があって……」
「……? 良く分からないですが、ただ渡せば良いですね」
「そうそう。ただ渡せば良いの。そして私がこう言っていたって言って……」
「……?」
「『するべき事をしないのなら全世界にそいつばらまくからね』って」
良く分からないと言った表情ながらも頷く夏美
「……ありがと。じゃあなっちゃん頼まれて……で渡す相手だけど」
紅葉は封筒のなかから写真を取り出し、
「この人は?」と夏美の問いに、
「九雲トウコ。子供の頃から別れて暮らしてしてるけど——私の実の姉よ」と、
にっこりと笑いながら、
「この人がこの件で彼女が後悔しないように、私はしたいと思ってるの」と言うのであった。
そしてハルオ達が移動したのは、ファッションショーである。
華やかなモデル達の歩くキャットウォークの両側には、あやしげな業界の人々が群がり、光るストロボ——あがる歓声。
ジルコニアでできたチューリップの髪飾りをしたエキゾチックな顔立ちのモデルは、体にぴったりと張り付いた七色に光るメタリックな染色がされたライクラ素材のウエィングドレスを長く引きずりながら、胸に掲げ持っていたアクリル製チューリップの造花の束を観客にむかって投げ込む。
会場中にレーザが飛び交い。
そして花束で隠されてい乳房があらわになったまま、深く礼。
その瞬間、会場を包む拍手。
現れたデザイナーの白人男性とともに、モデルは再び深く頭をさげ……
「分からん……」
会場の隅を移動しながら、ハルオはぼそりと呟いた。
「あんなの、分かんなくてもいいのよ、それより問題は我々がちょっと場違いっぽくて目立ってるってことだわ」
「確かにな」
一応スーツ姿だが昨日から着のみ着のままのあきらかにくたびれた格好のハルオはともかく、日本のどんな場所にでも潜り込めるようにとまるでこの日本に求められる最大公約数を体現したかのようなパンツスーツ姿の夏美は、どんな場所にも無難に溶け込むはずであった。
しかし、まるで気の狂った連中の集会のようにさえみえる、極端な格好の人々の中では逆に目立ってしまう。まわりは宇宙から来たカーボーイの皆様か、気が狂ってしまった童話の中から現れたのか、日本のDCブランド時代のおしゃれな連中でも裸足で逃げ出しそうな格好の人達ばかり。
明らかにハルオと夏美は悪目立ちして、注目をあびてしまっているので、そのままバックステージに入り込む姿を見られた時には、誰かが疑って——ファッション関係者には見えないと——二人を止める者がいるんじゃないかとハルオははらはらしてしまっていた。
なので、
「さっさと行こう」
「そうね」
半裸の、時には全裸のモデル達が着替え、メイクされ、あちこちで指示の大声が聴こえる。華やかと言うよりは——戦場のように感じる——そのうえ目のやり場にこまる。
こんな場所はさっさと退散したいとハルオは思った。夏美も同意見のようだった。しかし、首から下げたバックステージパスに書いてある企業名から、スポンサー企業の宣伝部社員かと思われて名刺を渡して来るモデル事務所のマネージャー達に曖昧な挨拶をしながらだとなかなか進まない。
なるほど、これじゃ「こちら」では五年前に発見されたヒッグス粒子による質量発生の説明に使われていたたとえ話そのままだと、ハルオは現実逃避的な夢想を——質量の無い光りになりたいなどと——痩せぎすのモデルに腕をつかまれながら思いながら……
——やっとたどりついた非常口のドアを開けると、目の前に通り過ぎるサーチライトの光りが目に入り……
思わず目を瞑る。
すると潮の匂い。
匂いを運ぶ風。
それは意外な程、強く、気を抜くと吹き飛ばされてしまいそう。
あわてて足を踏ん張りながらゆっくりと目を開けると……
目の前に広がるのは視界一杯が光りの楽園となっている東京湾のすがた。
後ろから付いて来た夏美がドアを閉める。すると中から漏れて来るショーの喧噪がシャットアウトされ——遠くの橋の上を通るパレードの楽しげな音が聴こえる。
ハルオは深呼吸をして気分を入れ替える。
ああ良い眺めだ。
こんな景色を眺めながら高い所に行くのも——自分は高所恐怖症じゃないし——楽しいもんかも知れないなと思って、非常階段を探し目の間にそびえるタワーの姿を仰ぎ見るが……
「おい……これ階段じゃないじゃん」
そこにあったのは階段ではなく、建物の壁にそって張り付いた、何かのメンテ用に使われるのだと見られる梯子だった。
「まさかこれを昇って行けって?」
呆然とするハルオ。
数百メートル上までずっと続いて行くその梯子。
「あら、これを昇れって? 紅葉さんも人が悪い」と夏美が言う。「でも、昇れって……いったい何処まで昇ったら良いのかしら」
ハルオは夏美の言葉を聞いてはっとなる。
そういや、昇れとは言われたが何処までとは言われていなかった。
いったい何処までこの梯子を上らなければならないのかと、考えると気が遠くなりそうになった——その瞬間……
後ろから聞こえた爆発音に思わずハルオは振り向くのだった。
*
スカイタワーの低層階——とはいっても五十階はあるのだが——その最上階付近。
このタワーのオープンとともにここに本社を移そうと計画していたが、諸事情により移転が遅れてしまっているテレビ局——しかしもう完成していたスタジオの一つにアキラ達は集まっていた。
テレビ会社そのもの移転は遅れていたが、ここで今日はスカイタワーのオープンイベントの中継が用意されていたため、既に機材や回線も用意されていた。それを知っていたアキラ達はここを拠点にこれから「日本」にむけて彼らの計画を遂行しようとしていた。
アキラ達は、ここから彼らのメッセージを放送する、そのためのおあつらえ向きの場所として選び、占拠したのだった。
ここが計画の要であり中枢であった。
最後には——最悪ここさえあれば良いのだった。
ここが潰れさえしなければ、アキラの計画は達成される。
他の事はすべて、極論をいえば、そのための時間稼ぎと注目を浴びる為のプロモーションにすぎないのだった。
もとより、体制を整え自衛隊や警察が本気で自分達の殲滅を始めたら、彼が集めた傭兵達では、数時間さえ保たないとアキラは思っていた。
もちろん様々な手は打っていた。その中でも一番効果的なものは——ロックコンサートを行っているスタジアムに入り込んでいる部隊がランチャー発射の気化爆弾を脅しにそこから逃げ遅れた数千人を人質に取っている。これが政府側へは一番の脅しになるだろう。
が、テロとの戦いに慣れたこの「日本」ならば、ある程度の犠牲には躊躇せずに事をなすだろう。人質で時間を引き延ばしても、せいぜい数時間が数日になるくらいだろう。
しかし、それで良いのだった。
勝負はこの後数時間と考えていた。
それで必要にして十分である。
その後は、余計な殺戮も混乱も無しに、死に行く「日本」と一緒に……
「アキラさん、そろそろ予定ポイントの制圧は完了しましたが」
アキラが考えを中断するかのように、今回アキラが演出したテロのために雇われた傭兵部隊の隊長が報告をする。
いや、報告を聞かなくても、周りで行われる会話を聞いていたアキラは今の状態がどうなっているのかは大体分かっていた。
この東京スカイタワーにアクセスする経路はその入り口をほぼふさぐ事に成功しているようだった。
——計画は予定どうり進行している。
アキラは満足そうに頷いた。
「おめでとう……それでは次のステップにもう移れると言うわけだ」
「ええ、もちろん万全とは言えませんが、十分に可能です」
隊長の言うように、制圧は完璧とは言い難かった。
タワーと陸地をつないだ二本の橋のうち、高層でアクセスする一本はテロ側が完全に占拠したが、海面すぐで取り付くもう一本は、巡視艇からの攻撃が激しく——後退して戦線をなんとか持ちこたえている状態であった。陸地側からの援軍を運ぶ橋頭堡が構築されてしまっているのだった。
港でも海上からの攻撃が激しく、今の所上陸は許していないものの、いつそこにも橋頭堡を築かれるか分からない状態であった。
地下鉄は調度到着した列車をホームに足止めし、乗客を人質賭する事により、この経路からの侵入はまず無理な状態になっていたが、これにしてもある程度の犠牲をしょうが無しと政府が判断したならば——スタジアムの人質と同じ話だ——突破は可能だろう。
——しかしこれで時間を稼げる。
アキラの目的の為には十分な時間が。
そしてその準備ができたならば——あとは進むだけだ。
アキラは決意の目をしてゆっくりと頷く。
それを見て、傭兵隊長は、
「始めますか」と。
アキラは何も言わず頷く。
「それでは……」
隊長はそばに控えていた屈強な男に指示をする。
その男はアキラを立たせると、後ろ手に羽交い締めにする。
「……申し訳ありませんが少し我慢してください」
隊長はアキラに向かって軽く一礼すると——拳を顔に向かって叩き込んだ。
「……っ……」
アキラの、くぐもった悲鳴のような声が漏れる、しかし隊長は続ける。
何度も、何度も——
致命傷になるような傷はさけながらも、瞬く間に腫れ上がる顔。
「もっとやりますか」
「お願いする」
その言葉と同時に、アキラの羽交い締めが解かれる。すると、彼の胸ぐらをつかんだ隊長は、そのまま背負い投げをする。
床に、叩き付けられた衝撃で、息を失い、苦しそうにうめくアキラ。
しかし隊長はそのアキラを無理矢理立たせると——また背負い投げ。
破れ、乱れたスーツで転がるアキラ、その脇腹を踏みつけられて——骨の折れるような音。
「——これ以上はこの後の演説に差し支えるかと思いますが」と隊長。
「あ……あ」途切れ途切れの声で答えるアキラ。「……わ……かっ……た」
アキラはこの暴行の間後ろに控えていた別の二人の男に、丁寧に支えられながら立ち上がると、椅子に座らされ、そのまま椅子の背ごと縛られる。
その間、隊長は無線で散らばった部隊連絡をして状況の確認をしている。特に大きな問題は起きていないのか、彼は親指をたててOKの意をアキラに伝える。
スタジオ内に走る緊張。
そして、
「レイカ」
アキラの呼び声に従っていままでスタジオの隅にいたレイカが近くまで歩いて来る。
「それでは始める——いや終わるか……すべてが」
頷くレイカ。
「こんな事にお前を巻き込んで本当に申し訳ないと思う——一緒に来なくても書類のありかをを教えて貰うだけでよかったのだが」
「いえ、兄さん……私が言わないと行けないのです。父さんの秘密は、託されたのが私なら、それを伝える役目は私がやるしか無いのです」
何も言わずに黙って頷くアキラ。
もう一度頷くレイカ。
撮影用ライトが照らされ、カメラが構えられる。
その時はもう、間近に迫っていたのだった。
一度深呼吸をして、アキラはカメラに向かってその決意に満ちた目をまっすぐに向けたのだった。
*
強い風が吹く。
タワーの外壁の梯子を昇り、上に行けば行く程、風は強くなって行った。
ハルオは、吹き飛ばされそうになる所を梯子に必死にしがみついてなんとかそれを防いだ。
しかし、彼はもう限界を越えていた。もうどれくらい昇ったのだろうか、下を見る事などとっくに止めていたが、それでも足が震えてしまう——いやこれは疲労のためか……
「まったく、これくらいで情けないわね」
ハルオの直ぐ下にいる夏美があきれたような声をかける。
「うるさい——お前が異常なんだよ」
怒鳴った際にうっかり下を見て、頭の中がぐるぐるとなって、また危うく落ちそうになるハルオ。
慌てて上を向いて呼吸を整えるハルオ。
その頭は、今、紅葉への呪詛で一杯。
「なんの装備も無しでこんなロッククライミングまがいのことさせやがって、一億万なんかじゃぜんぜんたりないんだからな……」
しかし、ここに昇っているのは仕事の終了を承諾しなかった彼の個人的な意思によるのだと思い出して、
「——これで追加料金は少し分が悪いか」
ため息をつくハルオ。
それを見て面白そうに笑う夏美。
「どうするの? 進むの? 降りるの?」
夏美は危なげなく梯子につかまりながら至極落ち着いた様子。すでに、別に高所恐怖症なわけではないハルオが下を見ていられない程に高い場所まで昇っていると言うのに、彼女はまったく動じている様子も無い。
それもそのはず、
「ロッククライミングが趣味なんて——なんでお前だけそんな都合が良いんだよ」
「知らないわよ——紅葉さんがたまたまこの仕事に私選んだだけだから……」
——だけだから?
そんな訳は無いとハルオは思う。
紅葉は、こうなる事が分かっていて——いやその可能性を想定して——最適の人物として夏美を選んだのだ。
ハルオがあそこで止まらない場合はこの梯子を上る事になるだろうと考えて。そのサポートに回る人材をちゃっかりと用意しておいたのであった。
まったく抜け目無い女。
可愛げの無い位。
しかしハルオは今はその可愛げの無い所に感謝する。
ハルオ一人ではきっとこの梯子をここまで昇る事はできなかっただろうから。
夏美に悪態をつかれ、時々気分をはっきりさせなければ、途中で、梯子を昇る単調な作業のうちで、気が抜けて、ついうっかり滑り落ちてしまったかもしれない。
夏美もそれが分かって挑発的な事を言って来ているのだろう——そう思えば——夏美にも、紅葉にも感謝をしなければならないのだろうが……
「もちろん、進むが……」
どうにも限界に来ているのは事実であった。
恐怖は気力で何とかしたにしても、慣れない筋肉を使う梯子昇りにハルオの身体は限界を越えていた。
このままでは、いくら注意してもいつ滑り落ちてしまうか予断を許さない状態であるとハルオは緊張しながら、身体を持ち上げるが……
「危ない!」
夏美が叫んだ。
ハルオが片手と片足で身体を持ち上げたその一番不安定な時に、夏美は吹く風の気配を感じ、それがが彼をそのまま宙へ運んでしまいそうな予感に、思わず大声で警告する。
ハルオは、掴んだ片手で梯子を更に強く握り、もう片方の手もすぐに梯子に向かって伸ばす。
しかし風は思ったよりも早く届き、梯子を掴む寸前、ハルオの身体は強く揺れ、掛かって来る体重に、もう片方の手も梯子から外れかけ……
「あら、探偵さん。待っていたわよ」
ハルオが外しかけた手を、がっしりと掴んでくれた女性の言葉だった。
いつの間にかハルオの直ぐ上にあった踊り場。
そこから手を伸ばし、ハルオを助けてくれた女性は、
「初めまして、私の名前は……」
「九雲さん、九雲トウコさん。紅葉のお姉さんですよね」
トウコだった。
話しながらなんとか体勢を立て直したハルオは、そのまま少し昇り、踊り場に移りながら言う。
すると、
「あら、そこまで紅葉に聞いてるの? でも、今の名字は違ってよ」
「名字?」
「まあそれは良いわ。紅葉と私の話をするのもややこしいので——トウコで読んでもらって良いかしら」
「分かりましたトウコさん。俺は花山——花山ハルオです」
「ええ名前も紅葉から聞いてるわ……でもそちらの女性は……?」
その時、調度踊り場に上がって来た夏美に向かってトウコが言う。
今にも落ちてしまいそうなハルオに巻き込まれないように少し距離とって昇って来た彼女は、ハルオ達の姿を見て、
「あれ、ここがゴールなわけですか?」と。
「違うわよ」とトウコ。「スタートよ。これでやっとあなたがたの準備が整ったと思って」
「それは残念。もういい加減に疲れたのですが」
夏美は、言葉とは裏腹に、疲労困憊のハルオとは違い、だいぶ余裕のある顔。整理体操のつもりか軽いストレッチをしながら言う。
比べて、ハルオは、足が笑っているようで、少しよろめきながら立ち上がる。
それを見てサドっぽい嬉しそうな笑みを浮かべながら、
「あらら——本当は少し休ましてあげたいのだけれど——あなた達は直ぐに次の場所に移らないといけないわ。時間はもうあまり無いから」とトウコ。「この後も階段のぼらなきゃいけないとおもうけど探偵さん……ハルオさんの方は大丈夫かしら?」
「構わないですが……」構わないどころか、足がふらふらで絡まりそうなのを、手すりにつかまりなんとか耐え手いる状態のハルオ。「その前に教えて欲しい事があるんです……トウコさん、あなたが紅葉とグルだったのは分かりましたが……」
「グル? まあそうね。肉親のたっての頼みと言うので、侵入経路の確保と、ここであなた達の案内をしてあげる約束だけはしたけれど——まあその程度の協力関係よ。紅葉とは目的は違うわ」
「へえ? 目的が違う? まあ紅葉の方は目的はどうせ金儲けなので……するとあなたはそれとは違うと」
「まあ、そうね」
少し警戒した顔つきになるトウコ。
それを見て今度はハルオが嬉しそうな顔になりながら、
「じゃあ、それを教えてほしいんです。あなた方がやろうとしているのは何なのかを」
「教えてやらないとどうすると言うの? あなたには、今、選択肢は無いと思うけど」
「そうですね、そう言いたい所だけど——今、俺には選択肢があるわけでない。あいつが——レイカが何をする気なのかは知らないけど、あんな悲しい顔をしていたのに、それが良い事なわけは無い……でも、止めるにはあなたに頼るしか無い状態だ。あなたが何か教えてくれるかくれないかに関わらず——今はそれしかできない」
「じゃあ、私に、あなたに教えてあげるための必要性は無いわね——となっちゃうわよ花山ハルオさん。それなら私はなるべく秘密は秘密のままにしたいと思っちゃうだけだと思うけど」
「ええ、別にそれならそれでも良いです」
「あら? 私が何するのか知ってるの? そんな安請け合いしても良いのかしら? あなたはもしかして大犯罪の片棒を担ぐのかもしれないわよ」
「……構いませんよ。なぜなら……」
「なぜなら?」
「俺は紅葉から『この女の子を救って欲しい』とレイカを託された。そしてその子はまだ救われていない。ならば俺はこの仕事を終えていないと言う事で……そのためならば……」
「……『日本を殺す』仲間に入っても良いのかしら?」
試すような目のレイカ。
氷のようなそれを真っ正面から受け止めながら、ハルオはゆっくりと、しかし強く頷きながら、
「ええ、勿論。と言うよりも、そんなでかい話、自分にはどうでもよくて……あなたに聞きたいのは、俺がこれから行くのは彼女を助ける為になるのかどうかと言う事だけです」
その言葉を聞いて、無言で大きく頷くトウコ。
それを見てハルオが、
「では上に……」
しかし、
ハルオの言葉に夏美が割り込んで、
「あの、その前に、私これを紅葉さんから……」と。「で、『するべき事をしないのなら全世界にそいつばらまくからね』と彼女が言っていたと伝えろとも言われましたが……」と。
すると、夏美が渡した封筒を見て、血相を変えるトウコ。
「バカ! 紅葉ったら、こんなもの……」
慌ててその封筒をスーツの内ポケットにしまい込むと、クールな美女の顔がまるで恋する乙女ででもあるかのように赤くなり、
「でも、もしかしたらこれが最後の……説得の……」と。
ポカンとした目でそれを見つめるハルオ達。
それに気づいて、じろりとハルオをにらむトウコ。
目の鋭さに思わず姿勢を正すハルオ。
「ああ、ごほん」とまだ少し恥ずかしそうな表情のトウコ。
しかし、咳払いをしたあとのトウコは元の通りクールで、しかしさらに決意に満ちた表情に変わると、
「さあ、君たち、バカ者どもにお仕置きに行くわよ!」と言ったのだった。
*
10年前、この「日本」の危機を救ったと言われる男——深泉季彦。関東を襲った震災による首都の壊滅——に端を発した様々に重なった絶望的な状況の「日本」の中で、天才的な政策手腕を発揮して、綱渡りの金融政策を次々に成功させた男。彼は、その後の「日本」の発展の礎を築いた男であった。そして、その後、復興に身も心も捧げ命を削るような激務の中で志半ばで倒れた、その日本人好みの悲劇も相まって、今でも英雄視されている人物である。
そしてその息子であるアキラも傑物ではあった。彼は、関連会社数十を配する、父親の作った企業帝国のうちで、その中のお荷物にすぎないある不動産会社を受け継いだだけであった。しかし、好況の波もあったが、なにより彼の卓越した経営センスにより、瞬く間に、受け継いだその中堅会社を業界大手までに発展させ、その後、グループ外部の様々な企業の買収や合併を行い、気付くとあっというまに父親の帝国に比するくらいの規模にまで企業グループを拡大していたのだった。
このアキラ、やはりただ物では無かった。
しかし、神格化され、聖人ででもあるかのような崇拝をうけた父親に比べれば、実務には長けるが、カリスマに欠け、また業績のためならどんな残忍な手でも躊躇しない。暴君として、怖れられはすれ、崇拝される事は無い俗物——それがアキラの一般的な評価であった。
アキラは、もちろん、そんな評価など欠片も気にしないのであったが——しかし彼は自分と比べられるその父親の評価に関しては実は異論があった。
深泉季彦その英雄的な伝説——その伝説がもしかして、今の日本の礎となりえないものでしか無いとしたら?
その礎の元に建ったこの「日本」とは実は?
「……と言うわけですべては虚偽であったのです」
アキラがテレビカメラに向かって言う。
銃を突きつけられ、テロリストに捕まり、彼の会社の巨大損失隠しの暴露を強制されていると言う三文芝居であった。
「当社は海外不動産投資ででた損失を、連結外子会社の損失とすべく……」
殴られ顔を腫らしたアキラは、椅子に縛り付けられたまま、テレビカメラに向かって彼の持つ不動産会社——銀行と共に彼のグループの中核として位置づけられる——の不正につて淡々とした告白をしている所であった。
もちろんテロリストに強制させられていると言うのは真っ赤な嘘。彼がこの暴露を行う場としてこのような大掛かりな芝居をうったのであった(巨大な損失とその粉飾決算が行われていると言うのは本当の事であったが)。
不動産投資において出した損失を連結外子会社に付け替える、逆に買収した会社の連結外に見せかけた利益を本体に付け替える。
君らの世界でも様々な金融事件で起こったことが、この世界でも起きていたと言う事だった。
それは今ここで告白するアキラの会社にだけ起きている事ではない——多かれ少なかれこの「日本」全体で起きていた事であった。
なぜなら、一見、今時点でも、弩級の好況にあると見えるこの「日本」は、しかしその弩級故に、その弩級を続ける為の限界に陥っていたのだ。発展が、発展により約束される世界であれば、弩級の発展は超弩級の発展によってしか担保できない。
なので欲望により発展するこの「日本」には超弩級の欲望が今必要とされている——そのインフレーションする欲望のスパイラルがそこに必要なのに……
——しかし人々は倦んでいた。
その欲望の中、欲望で作られた心には、いつの間にか次の欲望等考える事ができなくなっていたのだった。
欲望には、欲望を感じる身体が、個物が必要なのに、欲望により欲望を作る事を始めたこの世界からは、チェシャ猫の笑いのごとき、身体の無い笑いだけが残る——笑いによる世界が作られる。
しかし、それはあやふやで、偽物の世界——さらなる嘘がなければ続いて行かない世界であった。
しかしその嘘をささえる——新しい嘘を作り出す——人間が、すでに嘘に入れ替わっていたとしたら?
人間が嘘もつけない嘘の存在になってしまっていたとしらら?
なので——実は数年前、ついに発展の限界を迎えていたこの「日本」は、嘘を支える為の嘘をつきだしたのだった。
それは君らの世界と同じ。
粉飾決算での株価向上に海のものとも山のものともわからない海外での投資。
サブプライムローンのように高リスク債券の危険度を見えなくするような金融商品。
まだ当分は利益にはならないのに期待だけあおる新たなエネルギー開発への投資。
本気でやる気はないが話題先行で資金を集める地域開発投資詐欺。
株価をあげる為だけの金融ビジネスの連続……
君らの世界と同じように、この世界も繁栄の頂点において、もっとも危うい状況をむかえていたのだった。
そして、さらにマズい事には、この世界では、この虚像を倒すことの出来る者がもはやいないのであった。
この世界は後戻りできないポイントをもうとっくに超えていた。
心まで虚像になったこの世界の人々はその虚無を担保にさらなる虚無を作り出してもまるで気にしない。
少数の気づいた人がいたにしても、この「日本」が今止まる事その影響を考えると、軟着陸の地点を探っているうちに自らもいつのまにか虚無に蝕まれ……
なので、アキラは、思い切って「日本」を殺す事にした。
この「日本」が何物も生まず、腐り、世界を道連れに虚無に呑込まれこの世から消え去る前に、殺して、その死体から新しい日本が生まれて来る事を期待しようとしたのだ。
そのための暴露であった。
そのためのこの騒ぎであった。
しかも、彼の会社の粉飾決済、無謀な投資、嘘の報告……この暴露はきっかけに過ぎないはずであった。
彼は自分の所の違法な会計から、取引のある会社——つまり日本の殆どの大企業——多かれ少なかれどこか無謀でコンプライアンスに欠けた——の内幕とつながるような資料を、あえて廃棄せずに残しておいた。
その在処も、銃を突きつけられて脅かしに屈したと言う形で今テレビ放送で全世界に向けて話してしまっている。
アキラの会社の強制捜査が始まったら、この「日本」の会社の様々な内幕が連鎖的に暴露され、あっと言う間に株の大暴落を始めとした金融危機が起きるに違いなかった。この虚無の上に築いた偽の楼閣これで崩れ落ちる事になるに違いなかった。
それが、アキラが、テロ組織に拉致され彼の企業帝国のスキャンダルを白状させられていると言う芝居をうった意味だった。
政界財界の様々な思惑が絡んで単なる記者会見での発表であれば必ず横やりが入ってうやむやにされたであろう事を考え、彼の帝国の崩壊をきっかけの「日本」の沈没を最大限の効果で演出しようと言う事でとったのがこの芝居であった。
しかし——
もしかしたらこの「日本」はそれでも止まらないのかも知れない。
この世界の業はアキラの企み等呑込んで消化してしまう程に深いものかも知れない。
この今夜の騒ぎの後、確実に起こるだろう、金融危機。それは「日本」を激しく打ちのめすだろう。しばらくは反省し、もしかしたら、君らの日本のごとく、打ちひしがれ、弱気のまま失われた時代へと突入してしまうかもしれない。
しかし、また、もしかしたら、人々はあっという間にそれを生み出した心の虚無にまた捕われてしまうかも知れない。
アキラはそんな可能性も思い描いていた。
一時この狂躁の経済の愚かさに気づき自重する人々も、またすぐに日々の生活の中で、ちょっとした向上のため、ちょっとした嘘をついてしまっても良いと思うかも知れない。それがこの「日本」かもしれない。
そうしたら、すぐにまたこの「日本」の経済は過熱する——その嘘に人々は気づかない——無意識に気づかないふりをするようになってしまうかも知れない。
自らの帝国の崩壊とともに仕組んだ変革も、それでも完全にはこの「日本」の異常の根を絶てないのならば——あっという間に元通りになる可能性があった。
そのためアキラはレイカをこの企てに巻き込んだのであった。
テレビカメラがレイカに移る。
アキラと同じように椅子に座らされているが、銃を突きつけられても、縛られたり、暴行された後は向けられない。
アキラのように暴力でしゃべらされていると言う演出は取っていなかった。
それは女性が暴力を受けた状態でテレビ映った場合のテロ組織への心証の悪さも考えてのものであるが、レイカが自発的に協力していると言うような様子を演出するためでもあった。
「……私の父についてお話しします。世間では復興の英雄として知られている深泉季彦の事です」
レイカが、話し始める。
「まず言いたいのは父は、深泉季彦は——超人でもなんでもなく、とても弱く、脆いただの男だったと言う事です。世間では、透徹した論理をもって混乱した日本を導いた偉人である事を強調されますが、家では迷い、悩む一人の何処にでもいる人間でした。しかし、それ故に私にとっては普通の、しかしこれ以上はない愛情をもって私に接してくれる父親であったのです」
レイカが語る幼き日のエピソード。それは日本の復興の時期と思いと重なり、一気にテレビを見る人々の共感を得る。
大変な時期を過ごし、そこから立ち上がった日本のイメージが誰もに思い起こされる。
「……その彼から私はグループの中枢となる銀行を受け継いでおります。もちろんまだ若輩ものゆえ、その実務に入る事はまだありませんが、その相続者として、受け継ぐべきものを受け継いでいる——それは良いものも悪いものもすべてです。そのすべてを私は今語らねばなりません。なぜなら……」
レイカをとるカメラがアップになる。
「……私はこんな偽物の世界が、偽物のまま生きながらえるのを良しと思わないのです」
レイカはそこでいったん言葉を切り、深呼吸——決意を決めた目でまた口を開く。
「——まずは兄のアキラに続いて弊行の財務状態の真実をつたえたいと思います」
レイカは深泉季彦の残した銀行の現在の状況の本当を話す。
それは、兄の帝国に勝るとも劣らない虚偽のオンパレードであった。
これだけでも兄の暴露に続き、「日本」を更に打ちのめすには十分な物であったが……
「次に私は父、深泉季彦の残した秘密について語らねばなりません」
レイカは画面の外にいた傭兵の一人から渡されたノートパソコンを開く。
テレビの画像はパソコンの画面のものにスイッチされる。
そこに現れたのは、深泉季彦時代の彼の銀行の取引の記録であった。
画面では流れる様々な取引先の記録。
カーソルは次々に流れ、そして特に取引額の大きなあるカラムで止まる。
「これがその秘密です」
レイカは冷静な感情を押し殺したような声で言う。
それは深泉季彦の最大の秘密——それは禁止されているはずの海外の軍事政権との取引の記録であった。
画面はレイカのアップに戻り彼女は更に語る。
一度海外の他の銀行を通してロンダリングは行われてはいるものの、独裁政権とその配下の軍へ投資して対価として深泉の関連会社が資源開発の権利を取る、それがそこで示された数字の意味であった。
企業としては、白日の下にさらしては行けない、スキャンダルがそこにあり、そしてそれが、震災の後大きな危機にあった深泉の企業群が立ち直るきっかけとなったと言うのだった。
深泉の立ち直り、それはすなわち、当時の「日本」の立ち直りも意味した。
つまり、この「日本」の起源にこの暗い秘密があると言うのだ。
テレビを見つめていた視聴者達はそれに驚き、目が離せない。
しかし、それで終わりでは無い。
そこにある数字は——それだけでは——その国だけとの取引では無かった。
暗黒の上に更に塗り込める様々な黒。
少数民族虐殺の噂のあった国の政権のロンダリング先の銀行からの入金。民主化グループの虐殺を行った政権との取引の記録。他、様々なテログループと目される連中との取引。そして死の商人と目される武器企業への投資の記録。
それらの記録は日本から武器用の部品が大量に流出した事、またそこで起きた紛争により、武器製造業者への投資は相当のリターンを生んだ事を示していた。
他にも、レイカのアクセスする数々のリスト——財務管理上は消してしまっても問題なかったグループのは灰色から黒に渡る企業としての信義則違反と取られる数々の記録、ファイルは——レイカに託され、彼女の判断によりその罪を問われる事を望まれた物なのであった。
レイカはいまその罪を、ここで「日本」に問いているのであった。
清廉潔白な復興の英雄とあがめられた父の暗闇それはこの今の「日本」が抱える暗闇であった。
「この日本が成り立つ為の犠牲を、虚偽を私は隠しておく事はできないと考えるのです」
全国にテレビを通じて衝撃が走った。
それはこの日、この時だからこその衝撃であった。
もし、このスキャンダルが昨日に暴露されていたとしたら……
この国で、いや世界のどの国々でも、このような裏の顔がある、それを心底否定する生硬で純粋な者などこの日本で多くは残っていないのだ。
このスキャンダルに一瞬は良心の呵責を覚えたにしても、もうとっくに終わった事、どうせ嘘の上に作られたこの国、次の日になればその事は忘れ——また欲望を膨らませ虚無に楼閣を建てるまたいつもの日々に……
しかし、すでに、アキラとレイカの暴露した企業達の粉飾決済の情報により急激な降下を始めるだろう株式市場、崩壊の始まった経済の元ではどうだろうか?
人々はこの「日本」をこの繁栄を守りたいものと思うだろうか?
人々は虚ろの身体が享受する偽の繁栄の夢から目が覚めて、その深淵に呑込まれかけた自らの本当の身体に、その身体を包み込んでいる汚物の姿に今ならば気づくのではないか?
これが、アキラが狙いレイカが同意した、計画の最終段階だった。
レイカがたった一日ちょっとの普通の女の子の楽しみと引き換えに承諾した、最後の骰子が今投げられたのだった。
どう転ぶか本当の所は分からない大きな掛。
しかし、彼らには迷いも、後悔も無かった。
なぜなら彼らは、これは運命であると思っていた。
彼らは、父がレイカにこの秘密を託したのは、この「日本」が早々にこのような過剰な繁栄に自らを焼く事になること、その再生を願っての事なのではと思っていた。
起こるべき事が起きたので——起すべき事を起さねばならない。
それは起き、彼らは行った。
やるべき事はやったのだ、後はこのまま状況に運を任せ、そう思い、視聴者に向かってエリカは最後の言葉を言う。
「——この国の将来はここからでは先はありません。戻るべき所まで戻って始めて私達は始めなければならないのです」レイカは深くカメラに向かって礼をする。「これで私の話を終わらせていただきます」
スタジオ内に静寂が走った。
いや、それは「日本」全土に広がった。
誰も何も話せなかった。
まっすぐにカメラを見つめるレイカの目に射すくめられてしまったかのように、「日本」は息を飲み、その次に起きるだろう未来を待った……
——今、骰子は転がり、その目を決めた。
誰も見えない、何処でもない場所で転がる、運命の骰子。
それは転がり、止まり、誰にも見えないがもう決まっている運命を告げる。
その目は吉と出たのか凶と出たのか……
誰にも分からない。しかし、確定した、運命をこの兄妹は甘んじて受けようと心を決めた。
罪を、非難の言葉を全部自分達に集め、「日本」が言葉の中に逃げる事を許さない。
答えは、心を怠惰にする反省の中にはない。自らへの憐憫の甘い言葉の中には無い。
ならば、人々はただ立ち上がり、進まなければならない。
罪が、自分の中に無いのならば、罪は救いとなってはくれない。
なので——静寂。
テレビの向こう側もこちら側も。
これで終わりであった。
アキラとレイカはやるだけの事をやった。やれるだけの事はやった。
そしてその結果を後は問うだけであった。
虚偽の上に虚偽を重ねたこの「日本」に本当の姿を見せるだけのつもりであった。
——しかしこれだけで果たして、「日本」は変わるのだろうか。
アキラと深泉の企業帝国の崩壊、それつながる「日本」中の企業の連鎖した倒壊。
君らの日本と違う、この「日本」には、この後たっぷり二十年分の無謀な発展のつけが一気に雪崩のように襲いかかるだろう。
しかし、もしかして、この「日本」なら、この狂乱の世界なら、あっさりと、この一夜の事も忘れ、また虚偽の中に生きようとするかも知れない。
だから、足りなかった。
アキラもそれが分かっていた。
なので彼は、彼の力以上の、「象徴」の力を借りようと思っていた。
——アキラの計画にはまだ、その最後の仕上げが残っていたのだった。
崩壊には忘れられない「象徴」が必要だった。
驕る人々の話すただ一つの言葉、バベルを、人の話す一つの言葉のもはや崩れた事を思い出させることが……
——それが今起きるのだった。
アキラがすべてを決心したような顔になり、頷いた——その瞬間——大きな爆発音がした。
——今は無人のはずのタワーの中間の展望台が破壊される。
——館内放送。
けたたましいサイレンの音の後、この東京スカイタワーとその周りの施設に、即刻退去のアナウンスが流れた。
話すのは、覆面をしてテロ組織のリーダーのふりをした傭兵隊長。彼が、
「スカイタワーおよびその下部のビジネス低層階を三十分後に破壊する。それまでに総員退避するように」と。「今の爆発は警告だが三十分後には施設全体を破壊される。時限スイッチはもう作動を始めた。これからの解除は不可能だ」
自らの仲間に発したと見せて、タワーに残っている一般人の退避も勧告しているアナウンスだった。
このタワーと関連施設は彼らによって破壊されると言うのだった。
——しかし、それは本当なのだろうか。
地震を想定しない海外の構造物に比べ、強靭に作られたこの「日本」の巨大構造物が、ましてや震災の復興を願って作ったこのタワーとなれば、完璧な冗長性をもって作られたその構造が、ちょっとやそっとの爆発程度で揺らぐはずもないと思われるのだが……
しかしこのスタジオにいる者達は知っていた。
アキラが入手した設計図を元に、タワーの耐震構造の弱点や、下部構造で応力のかかるトラス、弱点となる鉄筋コンクリート壁——連鎖的に崩壊する為に壊すべき場所を詳細に解析した工兵達が、ここを封鎖したこの数時間の間にもう爆薬を仕掛け終わっている事を。
スカイタワーは日本の土木建築工学の粋をこらした、複雑だが信頼性の高いプロアクティブな耐震構造により強靭な冗長性を誇っていた。しかしその要となる中枢構造を破壊されてしまったならばその冗長性はあっという間に無くなってしまうのだ。
アナウンスは決して嘘や、誇張なのではなく、この後に必ず起きる事を警告したに過ぎないのだった。
なので、男は脅しもごまかしも無い極々冷静な声で放送を終えると、アキラと視線をあわせ彼の仕事の終了を合図したならば、アキラに一礼すると、総員退去の号令をかける。
もはや、長居は無用。
この低層階、ビジネスエリアはタワーと基礎を共有したビルであり、タワーの破壊の後、ここもまた崩れさることが予測されたのだった。
なのでここからすぐさま立ち去らなければならない。リーダーの号令を合図に、テレビカメラの電源が切られ、中継も終わり、傭兵達は一斉にこのスタジオを去り始めたのだった。
他の場所でも、スタジアムを占拠していた部隊を始め、要所を守っていた部隊も、その役目を解かれ、破壊の放送にパニックになる群衆にまぎれ、逃走を開始した。
誰もがこの場所から、このそびえ立つ塔、この「日本」の復興の象徴から逃げ去ろうとしていた。
それは、ネズミが沈む船から逃げ出すと言われるかのごとく、本能的に感じ取った沈没の予感。
しれはその目の前にある塔から逃げるだけではない。
この「日本」からの逃走のごとく人々には感じられていたはずだ。
その思いはたぶん、その逃走の感覚はあっという間に「日本」全土に共有されて行くはず。
——それがこのビルにただ二人残った、アキラとレイカの最後の企みなのであった。
*
爆発の音、それに続く、混乱。
ハルオ達は、トウコの指示に従い、非常階段を三十階程を昇った後、スタジオに入る事はせずに、その下の階で誰もいない部屋の中に隠れ、じっと機会を伺っていた。
「いったい何を待ってるんだ。もう階段昇った疲労なんてとっくに取れたんだけど……早くあいつに……」
耐えきれずにトウコに聞くハルオ。
「静かに」
十数人の足音がして、ドアを開く音がする。
その後に聞こえてく罵声がやはり十数人分。
しかし、その罵声にむかって、ドアを開けた連中は、一喝の怒鳴り声の後——今の子のビルの状況を伝える。
すると今度は罵声のかわりに起きた悲鳴と、あっという間にエレベータの方に向かって走って行く足音。
彼らの話はハルオにも聞こえていた。
「ここが崩れるだって?」
「そうよ。捕まえていたテレビ局のスタッフを開放した所を見ると、アキラ達は目的を達成して、あとは最後の仕上げでスカイタワーの破壊を行う所みたいね」
「破壊って……」
「スカイタワーが崩れれば、そこと基礎を共有しているこのビジネス棟も崩れるわ。幸い今この二つの棟にはあまり人がいないはずだし、今多くの人々がいる商業棟やスタジアムは構造上下部は別の人工島に乗っている形だから崩壊には巻き込まれはしないはずだけど……ともかくこの建物からは早く逃げなくちゃ駄目ね」
「なんでそんな事をするんだよ」
「あら『日本を殺す』って言ってたたじゃない。その最後の仕上げよ。この塔を破壊する事で日本にとどめを刺すというわけよ」
「『日本を殺す』って……あいつは何をしたんだよ」
「ああ、そうね彼女がやったはずの一世一代の演説が聞けなかったのは残念だったわね——でもじゃあ、本人にきいてみると言うのはどうかしら」
「聞くって、それじゃあいつはまだこのビルに残っているのかよ」
「ええ、彼女の兄のアキラも一緒、二人はこのまま死ぬ気なのよ」
「なんで? 何でだよ!」
「それは罪を償う気じゃないの。こんな大騒ぎ起しちゃって。日本経済をめちゃくちゃにして、そしてこれからさらに大変な破壊もしちゃうんだもの。このまま……」
話しかけた言葉を飲み込み、口元に指をあてて静かにと言う仕草をするトウコ。
目の前を通り過ぎる最後の足音。
その音が遠くなり……
フロアには静寂。
そして数秒後。
口元から指をトウコは、
「でもこのままにはしておけないでしょ?」と。
頷くハルオ。
「行くわよ、あの馬鹿な感傷に沈んで死ぬなんて馬鹿な事を考えている、あの二人をひっぱたきに行きましょう」
*
レイカは、アキラを縛っているロープを、傭兵達が残して行ったナイフで切って外すと、椅子から滑るように落ちそうになったアキラを抱きかかえながらゆっくりと床におろした。
「やはり、お前だけ逃げるわけにはいかないのか」とアキラ。
「兄さん、まだ馬鹿な事を……私だけ逃げるなんて出来るわけ無いでしょう。父の呪いを受け継いだのは私の方なのです、残ると言うのなら私が」
「しかし、僕と違って、お前はまだなにも人生を楽しんでいない。この計画に巻き込み、年頃の少女なら当然あってしあるべき、恋人どころか友達もも作らずに、ただ強く思いに沈むだけの日々を過ごさせてしまった。このまま死ぬなんてあまりに……」
「兄さん、どっちにしてももうすぐ三十分が経ちます——逃げるにももう間に合わないですよ。私は覚悟はできてます、この家に生まれ、……普通の女の子の気楽で楽しそうな生活に憧れた事が無いわけでもなかったですが——最後の一日はとても楽しかったので」
「そうか。せめて……」アキラは微かに笑いながら「……それはよかった」
「ええ紅葉さんがとても楽しい方に会わせてくれて、最後に少しだけ普通の子のように無邪気にその瞬間楽しめたような気がして、これで思い起こすことは無く……え?」
レイカがびっくりしたような目で固まった、その方向には。
「花山……さん……?」
突然現れたハルオ達を見て、びっくりして固まるレイカ。
アキラも警戒した面持ちで振り返るが、ハルオの横のトウコの姿を見てあきれた顔に変わる。
「トウコ——どう言うつもりかな。君はもうとっくにここから逃げていたのだと思ったのだが」
アキラが冷静な声で言う。
「はあ? こんないい加減な終わり方でじぶんだけ安易にあの世に逃げようとしてる奴を見逃せだって?」
「ああ、この人達の事は気にしないでいいわよ」アキラと夏美を横目で見ながらトウコが言う。「レイカちゃんに用事があるみたいだから一緒に来てもらったけど、私の助っ人で呼んだわけじゃないのだから。私はアキラ、君に用事がある……」
歩き出すトウコ。
アキラは少し困ったような顔になるが、
構わずに更に近づくトウコ——
大きく手を振りかぶって……
全員が息を飲み静まったスタジオに響く、
——平手打ちの音。
「ふざけてんじゃないわよ。あなたの家は私の仇で、その中でももっともいけ好かない奴で——そんなあなたがこんなところで死んで逃げるなんて——私が許す分けないじゃないの!」
言葉とは裏腹に、トウコの表情は必死の様子で、涙さえ浮かべている。
「——このまま、生き恥をさらしなさいよ。私のそばで苦しむ姿を一生さらしなさいよ!」
泣き崩れ、アキラの胸に顔を突っ伏すトウコ。
呆気にとられ、ポカンとした表情のまわり一同。
そのまま膝をつき、床に崩れる二人。
「でも……トウコ——悪い、もう遅いんだここはもう間に合わない……君らは……」
「ふざけないでよ、逃がさないっていったでしょ。地獄に逃げるなら、そこまで一緒に行ってあなたが無限の苦しみにのたうちまわるのを喜んで眺めてやるわ」
「でもトウコ、僕は……」
「それに……」
トウコはアキラに封筒を渡す。
それを見てアキラの顔色が変わる。
「すべき事をちゃんとしないと、それを全世界に公開するって姉に脅かされたわ。きっと沢山コピーも取ってるんでしょ。私の姉の事だから、きっとあなたの方のも、持ってると思うわ。そっちも合わせて公開するでしょうね」
「なるほど……困ったな」
アキラの嘆息。
この緊急時に、拍子抜けする程の当惑したような、少しうれしいような、コミカルな感じさえする彼の表情。
周りもその姿に呆気にとられて、一瞬、今の自分達のおかれた状況を忘れかけるが……
凄まじい——爆音。
レイカの悲鳴。
窓の外では、轟音とともに、崩れ落ちるスカイタワーの姿。
何十秒か大きく揺れ、この場の一同はそれぞれが床に伏してそれに耐えたえたあと、なんとか立ち上がろうとするが、細かく振動し始めた床に片膝立ちがやっとの状態。
「おいお前」レイカに床を這うように動いて近づきながらハルオ。「震えているぞ」
「当たり前です花山さん。怖いんです!」少し逆切れ気味にレイカ。
「お前は——償いの為に命を投げ出すんじゃなかったのか」
「そうです——そのつもりだけど……怖いんです」
「なるほどな情けなくないかおまえそれ」
「なさけなくても、やらなきゃ行けないです私は……」
言葉につまるハルオ。
目をそらすレイカ。
それを見て、ため息を漏らしながら、ハルオは手を大きく振りかぶって……
——平手打ちの音。
「あれ?」
叩いたのは何時の間にかそばに来ていた、夏美だった。
「女をあなたが叩くのもなんだから——気持ち代弁して置いてあげたわ……さああとはどうぞ」
無茶ぶりをされて、一瞬、困ったような顔をしたハルオ。
しかし直ぐに意を決した目つきになると、
「どうだ——痛いか」と。
「あたりまえです」
「死ぬ時はもっと痛いぞ……」
言葉が返せず絶句するレイカ。
「震えてるぞお前」
「震えていて、惨めで恥ずかしい事は知っています。でも私は……」
「ふざけんな!」
レイカの肩をつかんで叫ぶハルオ。
黙るレイカ。
「またくお前ら兄妹は馬鹿者だよ。理想だとか、責任だとか、絵空ごとばっかり言って——自分の身体の痛みも認める事ができねえ」
「でも——」
「でもじゃない、行くぞ、何しろお前は大事な事を忘れているからな」
「大事な事?」
「ああ、お前の誘拐騒ぎで、お前が買った服はもうどこかに行ってしまった——なら別のをまた一緒に買いに行かなければならないだろ」
ハルオの言葉にびっくりしたような顔のレイカ。
頷くハルオ。
「さあ、つべこべ言わないで、行くぞ」
「いえ花山さん……」
「『いえ』……じゃない!」
「そうじゃなくて……私、言わなきゃならない事があるんです」
「なんだ!」また揺れ、軋むビル。「早く……」
「あの……花山さん……私を」
「……」
「……助けてください!」
レイカの言葉が合図になったかのように動き出す一団。
ビルの揺れはますますひどくなるが、壁や手すりにつかまりながら非常階段を下る。
時々大きな揺れに階段を踏み外しながら、しかし、その度に誰かがささえた。
確実に——生きる為に。
——生きる!
今はそれだけを考えて進む。
虚無の上に虚無を重ね、多かれ少なかれ、生の意味を忘れてしまっていた「我ら」。
しかし今、不安と焦りの中、踏み出す一歩一歩そこにはなんの虚偽もなかった。
落ちて来る瓦礫に足下をうたれ、それでも這って進みながら……
今、この「日本」の住民達は、目の前にある死と、それを越えるための生の現実に挑みながら、ここ何年も忘れていた生の意味を思い出し、その生に向かって一生懸命に進むのだった。
そして……
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