第11話 芝浦

 ハルオは気がつくと、走る車の後部座席に座っていた。

 目が覚めてはいる自覚はあるのだが、朦朧とした気分で、身体にまるで力が入らない。

 ——ひどくだるい。

 ハルオは思わずもう一度意識を失いそうになってしまいそうな様子だった。

 しかし——彼はなんとか薄目を開け、自分の今の状態を確認する。

 車の中に間違いない。

 窓の外を景色が流れ、エンジンの音がする。

 体を揺らす振動を感じる。

 後部座席に彼は一人、ドアにもたれかかるように座っている。

 しかし、何処だここは?

 高速道の高架の橋脚が次々に通りすぎる。

 時々海が見える?

 今日オープンの東京スカイタワーとそれに向かう大きな橋も見える?

 それならばここは東京湾沿いの——海岸通り?

 なぜこんな所にいる?

 中目黒にいたのではなかったのか?

 頭をひどく蹴られて意識を失い……

 ——なぜ自分は車に乗っている?

 何者かに捕まったのか?

 しかし、捕まったにしては、手も足も縛られていない。

 気絶した後に何か薬を使われたのかもしれなく、今はぼんやりとして思うように体が動かないが、捕まったのだとしたら——そんな、いつ回復して暴れ出すかもしれないような、不用心な状態でハルオ後部座席に一人にしておくだろうか?

 ——そんなはずは無いとハルオは考える。

 でも、そうだとするならば、この車にいるのは……

「あれ、目が覚めた?」

 助手席から後ろを振り向いて話しかけて来たのは女だった。

「お前は……」

 少し呂律の回らない口調でハルオは言う。

「あれ、私が現れて、びっくりした? でも分かるでしょ。私を見つけたって事はあなたの仕事は終了って事よ」

「レイカ……いや夏美」

「あれれ、私が本当の夏美って事なんで分かったの? あの子の偽名考えるとき、どうせなら私の名前そのまま使ってしまったら面白いかな、あなたが真相知ったときびっくりするかななんて思ってうやって見たんだけど……ばれてたんじゃつまんないね」

 ハルオの目の前にいるのは、レイカ——と紅葉に指示され探していた写真の女そのものであった。   

「あいつが夏美じゃなく……レイカなのは気づいていた」とハルオ。「あんたが夏美なのはあてずっぽうだがな」とハルオ。

 女はハルオの言葉を聞くと、

「あら、ひっかかっちゃったわ」

 女はおもしろそうに笑う。

 それを見て、少し顔を険しくしながら、

「終わりとはどういうことだ」とハルオ。

 女のちゃかすような表情に少し怒りを感じているのかまだたどたどしいながら迫力のある声であった。

 しかし女は動じる様子もなく、よりいっそうのにやにや笑いを浮かべたまま、 

「紅葉さんからは写真の女を捜せって言われてたんでしょ。で、私に会えたんだからこれで仕事終了。紅葉さんに私を連れていってもらってもいいわよ。別に連れてこなくても良いと言うだろうけど」と。

 ハルオは首を振る。

「でもお前はレイカじゃない……」

「え? 当たり前じゃない。さっきあなたも私のこと夏美って呼んだでしょ。私はレイカじゃないわ。でも問題ないでしょ。探せと言われた写真の女は私なのだから」

 ハルオはまた首を振る。

「僕はレイカを探して連れ戻せと言われたんだ。君を捜してた訳じゃない」

「それは貴方の勝手な解釈でしょ。紅葉さんは……いえ、そうねこれを見てもらっても良い?」女はハルオに一枚の紙を手渡そうとする。「……手はもう動く?」

 渡された紙を掴もうとするが、手がまだ思うように動かない——ハルオは何度か掴むのに失敗するが、女に手に押し込まれるようにされて、やっとその紙を手に持つことができた。

 膝の上に紙を起き、まるでうなだれているかのような姿勢でハルオは読む。

 それは、紅葉直筆のサイン入りの、ハルオの業務完了とその支払いの確定をうたった書類だった。

 その中身をざっと見た後、小さなため息をつきながらハルオは言う。

「……凄いもんだな。お嬢様のわがままに一晩付き合ってあげただけで一億円か」

「これにあなたがサインしたらそれで確定よ。明日にはあなたの口座に振り込まれるでしょう」

「なるほどね……」ハルオは書類をじっと見つめながら「確かに紅葉のサインのようだ。これは本物だな」

「でどうするの? 今ここで直ぐサインしてもらえればこの件はこれですべて終了……手がちゃんと動くようになってからでいいけど」

「手が……動いたら……」ハルオは指を握ったり開いたりしてみる。話し始めてから急速に体の感覚は戻って来ている——これならばもうすぐペンくらいは握れるようになるだろうが「それで終了? こんなので一億円?」と。

 ハルオはそのままサインする気はないようだった。あまりにあっけない幕切れと、法外な収入を疑っているようなそぶりだが……

 しかし、女は続けて、

「何? ……分かってるんでしょ。逆にね——つまりこれで終了にしてくれたら一億円と言う事よ。このまま、何も詮索しないで、この件は忘れてくれたなら……それに一億円の価値があると言う事よ」と、ハルオがこの書類の意味を分かった上で芝居していた事を見破って言う。

 ハルオはごまかせないと悟り、しょうがなく肯定の頷きをしながら思った。この女はプロだ。多分同業者で、ハルオとやり合えるような人物として紅葉が送り込んで来たのだろうから、口八丁で逃れられるような奴じゃない。この女はハルオの今回の仕事の幕引きに遣わされた——その役目が終わらないうちは絶対あきらめない——ネゴシエイターとしてもプロの人材であるに違いない。

 ハルオは今の弱った自分の状態でそんな奴に対抗できるのかと少し弱気になり少し表情を曇らせた。すると、そんな一瞬の隙に女——本物の夏美——は突っ込んで来る。

「何? 何を悩んでるの? どっちにしても紅葉さんの依頼の仕事が契約通り終了なんだから、あなたはこれ以上何もしようがないと思うけど」

 女の言う通りだとハルオにも分かっていた。仕事を頼んだ紅葉本人が、業務の成功での終了を告げているのだ。それならばハルオがこれ以上この仕事——本物のレイカの探索を続ける理由などありはしない。

 今回の事件にこれ以上関わる意味がハルオにはもうなくなってしまっているのだった。

 そう思えば、心をつなぎ止める碇がなくなったハルオは、あっさりと流され、この事件から遠ざかざるをえないのかもしれない。

 ハルオ半ば自分でも納得しながら思う。

 納得行かないが仕事とはそんなものだと。与えられた依頼に基づいて動いていたのだから、依頼が消えたのならば、レイカとは仕事を通じての関係であったのだから、それでつながりは終わりなのだ。

 いや終わらなければならない。

 ハルオはそうやって、決して表面以上に踏み込まない事で、この輝ける「日本」の裏に潜む深淵から逃れて来たのだ。少し道を踏み外した同業者達がほんのちょっと踏み込んだ、欲や同情心から、底なし沼に踏み込んだその愚を散々見て来たのではなかったか?

 だから俺は……

 彼はプロとしての誇りで、浮かんで来るもやもやを押しつぶそうとする。

 お前は、俺は、仕事をしていたので、伊達や酔狂で人助けをしていたわけではなく……

 ここで引く事は決しておかしな事ではなく……

 しかし、まだまだ残る謎、何かから救ってやれなかったあの子……

 もやもやが、彼ののなかでも整理の着かない、大きなもやもやがハルオの心の中にもくもくと湧いてくる。

 絶対に、事態は見たままの通りでない。

 自分の想像もつかないような何事かが、今、この東京で起きているに違いなかった。

 しかし——彼は自嘲気味に——心地良いちょっとの諦観とともに思う。

 自分の今回の役割はここで終わりなのだ。

 この「東京」を劇場にした、なにか大きな公演から、自分はこんなところで退出する役割でも、その通りに演じることしか許されていない——ハルオの仕事は終わったのだ。

 自分の出番はもう終わってしまったのだ。

 出番が終わった役者が劇の中でできる事など……

 ハルオは自分から急速に気力が抜けて行くのを感じた。

 仕事だといいきかせて面倒を見た昨夜からの騒ぎ。夏美=レイカに散々引っ掻き回されて、疲労困憊の中でも、仕事の義務感から面倒を見始めたハルオ。

 しかし、なにかにせかされいるかのように「楽しもう」としてちっとも楽しめていそうじゃない彼女に付き合っているうち、彼女をなんとかしてやりたいと言う気持ち。

 それは仕事と言う範疇だけでは収まりきらない感情となってはいなかったのだが……

 しかし、もともとの言訳が無くなった。

 仕事と言う言訳が無くなったとたん、彼の感情は形の無い枠から流れ落ちてしまって行く。

 仕事と言う、感情をつなぎ止めていた糸が切れてしまったのなら、それはいつまでもこの場には留まれないのだった。

 ハルオの心は無力感に満ちた。

 気力がさらに抜けて行くのを感じた。

 ハルオは、このまま、あきらめてサインをするしかないかと思い始めている自分を軽蔑しながらも——それ以上どうしようもない自分を冷徹に監察していた。

 そうするとますます自覚される。逃げ道のない自分の状況。彼には理由がなかった。大義が。そうすると、自分でも情けないくらい、気力が失われ、思わずサインをしてしまいそうになる。

 でも……

 しかし、また、ハルオは、何か心の隅にまだ、何か忘れている大事な事がある気がしていた。

 それは何なのか、ぼんやりとした頭はなかなか正解にたどり着かないのだけれど、ハルオはその心の奥のしこりのような物を無視はできない。

 ハルオは、今思うようには回らない頭に向かって問いかける。

 何度も、何度も——まだうまくは回らない頭なら何度も愚直に同じと問いかけを自分自身に繰り返し、

「……ところで、この書類はいつ作られたものだ?」

 ハルオは遂に正解に気づく。

「いつ? 何を疑ってるの? そんな事が何か関係あるの? これは本物よ。この紅葉さんのサインはあなただって本物だって……」

「……それを疑っているわけじゃない。このサインは本物だよ。いままで彼女と仕事をする度に何度も見た事がある……間違いないよ。知りたいのは、これが作られたのは何時かと言う事だ」

「良く分からないけどそれが何か重要な事なの?」

「そうだ」と頷きながらハルオ。「それが重要だ」

 すると、

「ああ、なんかよくわからないけど……昨日よ」と夏美。「……午前中。あのお嬢様の尾行を始める前に、紅葉さんの事務所に寄った時、彼女がその時作ったその書類にその場でサインをもらったものよ」

「なるほど……」

「なるほど?」

「……じゃあだめだ」とハルオ。

「——だめ?」意味が分からないと言った顔の夏美。

「紅葉は信じるなと言ったんだ」

「信じるなって、誰を?」

「彼女自身をだ」

「彼女……自身?」

 ハルオの言葉に女は少しあきれたような様子。

「なにそれ? 彼女を信じなければあなたはなんで彼女から仕事を受けれるの?」

「紅葉は言ったんだ——これ以降、自分の事、紅葉自身の事も信じてはいけないってね」

「これ以降って、仕事を依頼された日以降ってこと」

 頷くハルオ。

「なのでここで止めるわけにはいかない。僕は、紅葉の依頼をまだ果たしていない」

「依頼? 依頼ってレイカを見つける事じゃないの。それはもう終わったでしょ。夏美はレイカに変わったでしょ。彼女自身がそれをもう選んだのよ。それで終わりよ」

 ハルオは首を振る。そして、やっと意思の戻って来た目で、強く女を睨みながら言う。

「いや、それだけじゃない紅葉はこうも言った。『日本を殺して、でもこの女の子を救って』と」

「……日本を殺す? なにそれ」

「それは知らないさ、なんか大きな話が今この東京で動いているんだろう。そんな大きな話なら——僕みたいな単なる駒が知るような話じゃない」

「……ああそれじゃ私も駒ね。そんな話はいっさい紅葉から聞いてないから」

「そうだろうな、君も僕も駒、状況の変化に応じて盤面で動かされている単なる駒だ」

「ああ、それでいいわ——私は駒で。大きな話なんてめんどくさい物にはかかわり合いにならないで日々を面白く過ごしたいだけなので——そんな話は知りたくもないわね」

「僕もそうだね、そんな大きな話は関わりたくもないし、知りたくもない。日々をただ過ごしたいだけだけど……」

「けど?」

「『女の子を救って』の方は無視できない」

 一瞬静かになる車内。

 ため息をつく夏美。

 そして、

「ああ……やっぱりこうなったか」と。

「やっぱり?」

「紅葉さん言ってたのよね。あなたはこんな書類サインしないでしょうって。私としてはここでサインしてもらった方が成果報酬大きいんだけどね……絶対無理でしょうって」

「紅葉は……」

「紅葉さんは、その時はあなたの思うようにさせてあげるように——それには私も協力するように言われてるわけ」

「……何を企んでいる」

「——言ったでしょ私だって駒だって。あなた以上に何か知っているわけではないわ。知らされてるのはここまでよ。でも……次に行くべき場所は知らされてるわ」

「行くべき場所?」

「それじゃあ……」運転手の男に目配せをする夏美。「海へ行くわよ」

「海って……?」

「今日海に行くと言ったら決まってるでしょ……今日は、東京スカイタワーのオープンニングセレモニーの日よ」

「はあ? なんだってそんなわざわざ激混みの所に」

 ああ、わざわざそんな場所に紅葉が行けと言ってるのならば、あの子、夏美……でなく——レイカはそこにいるだろう。

 そして、そう考えると、少し鼓動を早くなるのに気づくハルオ。

 なんだこの感情。

 ドキドキとした——淡く色づいたその感情をハルオはなんなのかうまく理解できずに混乱してしまうが、

「わざわざ行くんだからなにか意味があるんじゃない? 紅葉さんからは行く場所のとこまでしか教えて貰えなかったけど。そしてそこには今日は、紅葉さんもそこにいるはずなので——本人に聞いてみるのが一番良いんじゃないかな」と本物の夏美が言う。

 なるほど紅葉か。

 ハルオは思う。

 今の彼女に聞いてもどこまで本当の事を話してくれるのか謎だが、ともかく会ってみないと何も始まらない。

 そこに何が出て来るのかは分からない。

 しかし、今、ハルオは、何とかこの不可思議な状況から抜け出して、そして何としてでも彼の仕事を最後までやり遂げる事を誓うのであった。

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