第9話 中目黒
兄のアキラが大学途中から家を飛び出した時、深泉家では、親族の議論もほぼ無いままに、次期家首は妹のレイカとすることに決まった。その頃、レイカはまだ中学にも入らぬ時。そこから、彼女がどう育つのか正直まだ未知数な頃ではあった。しかし、彼女が幼き頃より見せた聡明さと、人を最大限に気遣いながらも自分の信念を必ず通す芯の強い気性——くせもの揃いの一族の重鎮どももがうっとりとなる魅力がすでに彼女にはあった。
なので誰も迷わなかった。親族、古くからの重役あわせて、家の関連者は皆、レイカを自分達の主とする事に賛成していた。多くの会社を運営している者達、人の成長を見通す「見抜き」のプロ達が躊躇無く彼女を次期家主として承認したのだった。
そして、だからこそレイカには秘密が託されたのだった。この家の秘密であり、この「日本」の秘密。兄のアキラには託されなかった秘密——であった。
もちろんそれ——秘密——は、アキラに教えられなかったのは当然ではあるとは言える。自分から家を飛び出した形のアキラではあったが、体良く追い出したと言うのが親族の実情にはよりあっていた。実態は、彼は、様々な嫌がらせにより、いずらくなった深泉家から出るようにしむけられたのだった。
そんな彼に一族の秘密など渡される訳が無かった。
なにしろ——彼の評判と言えば……粗暴で、冷酷、打算で人を人とも思わないような扱いをし、仲間の為にではなく、自分の利の為にだけ動く——最低なものであった。
彼の能力は一族の誰もが認めるものの、この名家にして粗暴な梟雄など必要とされていなかったのだ。そして、そんな異端児が、あの秘密を知ればますます反抗し、一族に害をなすのでは。その秘密を利用するのではと思われたのだった。
——もっとも、家を飛び出たのは結果的にはアキラの為にも良かったのかも知れない。
深泉のグループの中にいれば、重鎮達に監視され窮屈な中、自由に辣腕もふるえなかったかも知れない彼は、家の外でこそ思う存分活躍できたとも言える。
アキラは、手切れ金のように渡されたグループのお荷物だった中堅不動産会社を元に、「日本」の実業界に悪名を轟かせながらも様々な会社を成長させた。彼は、「日本」経済の鬼っ子と扱われながらも、揺るぎない位置と実績を作り出していた。それは深泉の家の中にいては。彼にしても、決してできはしなかった事だろう。
人生なんて何がどんな風に転がってどうなるものか分からない。逆運と見えたものも、機会として、時期を得て、それをものにしたのが彼、アキラだった。
そして、逆境で花開いたこのアキラの力を見て、やはり彼を深泉の当主として迎えようと言う声も、改革派のグループの会社重役達を中心にあったと言うが……
しかし、逆に、逆境からアキラが深泉家としても無視できないような勢力にまでのし上がってきたのなら、それほどの力がやはりあるのならば、追い出した後ろめたさもあり、より復讐を怖れ、重鎮達はアキラをより怖れ、憎み、疎んだのだった。
なので、アキラがどんな優秀さ、傑物なところを証明した所で、もはや彼がグループに戻る事は無い。むしろ、彼がその実力を示せば示す程に深泉家は怖れ、距離を取ろうとする。
ますます、深泉家はグループのすべてをレイカへと託す意思を固めるのだった。
グループが欲しいのは有能な改革者ではなかった。グループをまとめる神輿がほしいのであった。象徴として敬われ、憧れ、慕われる者が必要なのであった。
そして、そのために選ばれたのがレイカなのであって——彼女は自らの役目をよくよく知っていたのであった。
神輿であること、侵されざるざる清涼さを持ち、秘密の封印をする、その浄化をするのが自らの役目である事を。
立場を知り、それが、責任が、自分のものだけではない運命を支えている事を知り。彼女は来されていたよりも過度に清純な自らを守った。
高校も大学も、同年代の友人とも本当に打ち解けることは無く、世間知らずの聖女として生きていた。
いや、レイカが自分で納得した人生だ。それに不満があるわけではなかった。
彼女は自分には責任があるのと知っているのだった。それが運命と思って、その芝居のような生活を崩す事は決してあり得なかったのだった。
しかし、レイカも年頃の女の子でもある。
大学を卒業し正式に経営に入った時から今以上に、彼女は自由意志はなくなる。その前に一度だけで良い、足かせを外し自由を満喫してみたい。そんな事を思わなかったと言えば嘘になる。
彼女がいくら自分を律していたとは言え、自分の生活にそんな日が少しだけでも起きないかとふと夢みることも無いわけではなかったのだ。
でも、一度自分の枷を解いたならばそこからすべてドミノ倒しに何もかも崩れて行くのではと言う恐怖——それがあるから彼女はまた毎日をまた劇のように過ごすのであったが……
兄のアキラが、数年ぶりにレイカに接触して来たその時に、彼女にも一瞬の魔が差したのだった。
何処からか父の秘密についにたどりついた彼の作り出した計画。
それは——それを聞いた事で起きたのはレイカが怖れていた通りの事、怖れていた通りの結果だった。
一度心に侵入を許した果実の味に彼女は全てをを捨てることを決心するまでに毒された。
予想通りのドミノ倒し。
それは、その心境の変化は彼女には、始まってしまえば、もう止める事はできなかった。
それならば……
それならばまたこれも運命とレイカは悟り、であるならば、計画の前に一度だけでよい——数日で良い——ただの女の子として、その自由を満喫して見たいと思ったのだった。
そしてレイカは……
*
満開の桜の下にいた。
目黒川沿いの遊歩道にいる夏美とハルオだった。
ほぼ満開のここでは、金曜の午前とは言え、年配の集団を中心に、もう人の流れに逆らっては歩けない程の混雑が始まっていた。
そういえば、東京の桜はもう満開近かったんだっけ、とハルオは思い出す。
明日からの休日にはここを始め都内の花見スポットは歩くのも大変な程混みまくるのだろう。
桜の花を見て。みんな酔っぱらって馬鹿騒ぎをする——そんな「日本」中どこでも変わらない光景、それはその酩酊の中で、異世界が混じりあう光景ででもあるかのようだった。
様々な人々が、集い、交錯する。ハルオはもちろん、異世界などと、そんなあり得ないような物事を今考えていたわけではないが、花の下の、このうきうきした気分を、行き交う人々と、普段なら接しないような人々とも、共有しているこの瞬間を——表現するのに思わず異世界と言う感想が出てきたのだった。
ともかく、そんなうきうきしたこの光景をハルオは好ましく思う。
そして夏美はハルオ以上に楽しそうにこの川沿いの桜を眺め興奮している。
「来週には目黒川が桜の川になってそうだな」
そんな楽しそうな表情の夏美にハルオは話しかける。
「桜の川? ですか?」
「ああ、ここは川に桜の木が張り出してるだろ、それが川にどんどんと散って——桜の花の薙がれる川みたいにここはなるんだよ」
「それも——綺麗そうですね!」
「ああ、桜の散る時のここも良いね」
「ちょっと悲しい気分になりますが……」
「なんで」
「……綺麗なんですけど——散って行くのが美しいなんてなんか嫌だなって」
「消え行くもの、散る行くものが美しいのが悲しいと?」
「そうです」
「で、その悲しいものをみる後悔が……お前の心の中に満ちる哀愁に、ゾクソクと危険な美しさを感じるみたいな……?」
「ああ……そうです、そんな感じです」
「でも、そしたら、そのゾクゾクから逃げられなくなるぞ……散るのが美しいなんて言うこまったロマンが頭の中にでき上がってしまう。そんなのは嘘だな」
「嘘? ってどう言う意味ですか」
「それはお前が創った物だ。自分の心のなかで自分が望む型に当てはめて——そうやって創った嘘だ」
「でも……私はそういう風にしか思えないのですから……そう思う事からは……」
「……逃げられない? と?」
頷く夏美。
「そうでもないと思うぞ——見ればいいんだ」
「見る?」
「そのものを見れば良い」
「そのもの? なんか花山さん妙に理屈っぽいですね」と、また何か担がれているのではないかと、少し疑ってるような目つきの夏美。
「理屈じゃないさ——見れば良い。散る花が美しければそのままに見れば良い」と、夏美に優しく、嘘の無い目で微笑みながら、ハルオ。
「でも今日は満開の花ですよ」
「それなら今日は満開の花を見る」
「見てますよ」
「だから今日は、花は散ってないだろ」
「それは……そうですが?」
やはり、意味不明の言葉で煙に巻かれているような感じがするのかまだ疑わしげな目でハルオを見る夏美。
「なんか、僕が適当な事言ってるように思ってるような目だな、お前」
「だって意味不明ですよ花山さん」
「そうかな?」
「そうです」
「でも、と言うかな、意味不明で良いんだ——意味を考えるんじゃなく、そのものを見ろと僕は言ったので」
「だからそれが意味不明で……」
夏美が次の言葉を話そうとした瞬間、風が吹き、桜の木が揺れる、ひとひらの花が散り、二人の目の間にゆらゆらと揺れながら落ちる。
時が止まる。
花が舞、音も無く地面の上にふわりと落ちた。
思わず花びらを見つめる二人。
「満開の桜でも散る花びらはあるんですね」と夏美。
「そうだな……」ハルオは花びらを拾いながら言う。「綺麗だったな」
「はい」
「なら、それ以上考えないで、花を見る——それだけでいいと思うよ。人間は余計な事を考え過ぎなんだ」
「……ん、まだ良く分かりませんがそれで良いです」
と少し合点がいったような顔で夏美。
それを見て、
「ああ、それが良い」
にっこりと笑うハルオ。
それに笑い返す夏美。
まるで恋人同士でもあるかのような打ち解けた表情の二人。
二人ともに楽しそうな中目黒の散策——特に、夏美はとても楽しそうであった。
そんな良い雰囲気のまま二人はゆっくりと川の横の道を歩いていた。
昨日の約束通りに、目黒川沿いの様々なショプに入りながら夏美の服を探し、時々カフェで休み、また散策を始める——その繰り返しであった。
そしてそんな繰り返しをするうちに、いつの間にか二人の持つ紙袋の数はだいぶ増えていた。
昨日のブランドショップ周りでは見つからなかった夏美の求める服は、この街ではどんどんと見つかっている様だった。
「昨日は全然見つからなかったのにな」
そういうと夏美は嬉しそうににっこりと笑う。
つられてハルオも思わず笑みがこぼれる。
「だいぶ買えたので、もしかしたら、満足したかもです」
「ならこのまま勢いで余計な物まで買ってしまう前に一回頭をクリアした方が良いな」
「……?」
「あのへんのベンチで一回休もう」
ハルオは、川沿いから少し高くなった場所にある公園のベンチを差し、頷いた夏美ともに二人はそこまで歩いて行く。
そして両手一杯の紙袋を真ん中に置いてベンチに座る二人。
眺めるのは、キラキラと太陽に輝く公園の広い芝生。
郊外に移転した自衛隊の跡地に次の再開発が決まるまでの間に暫定で作られた、都心部にしては大きなこの公園。
出来てからまだ余り時間も経っていない為、植えられた桜の木もあまり大きくなく、川沿いの桜に比べれば見所も少なく、人通りも少ない。
昨日からの騒ぎの疲れもあり、最初は花見気分に浮かれていたが、過剰な人出に食傷ぎみになっていた——そんな二人には今ちょうど良い場所であった。
そんな場所でリラックスして二人は話している。
「ほんと、ここに来てから面白いように見つかります——なんか別世界のようです」
「大げさだな——古着とか正体不明のブランドの服とかばっかり選んでたがそんなんでよかったのか」
「——大満足です。こんなのが欲しかったんです。いつも買ってもらえないような——こんな可愛いのが、ずっと欲しかったんです。……まったく、こんなのこの世界の何処にあったんんですか! 不思議です」
「ああ、いったい何処で作られているのか、どの時代の物なのか、謎の服とかこういうところの店には良く混じっているよな。もしかしたら、こういうのは別の世界から紛れ込んで来たのかもしれないな」
「別の世界?」
「例えば……さ、別の日本とかさ」
「別の日本? 何ですかそれは」
「……何ですかと言われても、そんなちゃんと考えて言った言葉じゃないけれど——こんな日本と違って、もっと落ち着いたカジュアルな日本があって、そう言う所で作られた服が、こう言う街にふと紛れ込むんじゃないかなって」
「ええ、まさか?」
「でもお前こんな服いままでどっかで見た事があるか?」
「そう言われればそうですが……」
難しげな口調だが、しかしほんわかとした表情の人懐っこい目の夏美。
つられて思わず顔をほころばせるハルオ。
——暖かな良く晴れた春の日。
人々の楽しげな声の聞こえる、さわやかだが、ぽかぽかと暖かい。
理想的な春の日であった。
幸せな気分になりながら、二人は公園を、その向こうの満開の桜の咲く目黒川を眺めていた。
そして、昨日からの疲れもあり、少しうつらうつらとなる二人。
夢の中に包まれる二人。
暖かな風の中、混じる、合わさる——夢と現が。
こんなうららかな日に。
花の匂いの中、夢と現、現と夢が混じり出し、
「飲んでもいないのにな……」
ハルオは眠りかけだった自分に気づく。
「えっ、飲む? お酒ですか。花山さん飲んでも、私はかまわないですよ」
「いや、そう言う意味じゃなく……」
「あっ、でも、もしかして私も少し飲みたいかも。こんな平日の午前から飲み出すなんて、なんか悪い事してるみたいでスリルあります……」
「別に、花見の季節なら朝から飲んでても誰も悪い事とか言わないと思うけどな、それともお前今日学校とかさぼってるのか」
「まさか……まだ春休みですよ」
「そうか、それなら良いんじゃないか」
「でも……そうですか? はしたないとか言われちゃわないですか」と首を傾けながら言う夏美。
それを見て思わず吹き出すハルオ。
「なんですか! 花山さん。何で笑ってるんですか」
「ああ、ごめん……いや『はしたない』なんて、そんな言葉、普段聞く事がなくてね。さすがお嬢さまだね」
「もう……なんか馬鹿にされてる気がする」
膨れっ面の夏美をみて更に笑うハルオ。
それを見てさらに膨れる夏美。
まだ少し笑いながらも、ハルオが謝って、夏美は少し機嫌を直し、
「——じゃあ、馬鹿にされてることは不問にしますが——ともかく……せっかくだから飲んじゃいましょう。ホラあそこ……」公園の入り口の所に屋台が出ているのを指差しながら夏美。「あのお店屋さんでお酒も売ってるようですよ……私買ってきます」
ベンチから立ち上がる夏美。
その瞬間、少し嫌な感じが、寒気がしたのだが、夏美がうきうきとした足取りでスキップでもするように歩いて行くのを見て、ハルオは少し浮かしかけた腰をおろす。
公園のハルオ達の座ったベンチから、ほんの直ぐそこだった。
店まで五十メートルもない。
今彼女が何者かに狙われてると言っても、そいつらも、いくら何でもこの衆人環境で誘拐するような馬鹿なことをするだろうか。
この花見客のあふれた車も入り込めない道で、女性とはいえ、抵抗する人間を捕まえて、そんな素早くは逃げられないだろう——こんな場所で奴らは騒ぎを引き起こすだろうか?
いや、無いだろうとハルオは思う。
何者かがまだ夏美を狙っていたにしても、ここで騒ぎを起こすよりも、もっと良いチャンスはいくらでもあるだろう。
花見客でごった返すこの辺りから離れ、もっと人通りの少ない道を通る時に狙えば良い。
奴らは、組織だって、合理的に、目的を持ち動いているグループに見えた。それならば、こんなところで騒ぎを起こすことはないのではないか。
なので、大の大人——夏美——が、機嫌よくひとりで飲み物を買いに行くのを、心配してついて行くのは、少し過保護——と言うか子供扱いしすぎで失礼なのではないか。
そう思うとハルオはベンチに更に深く腰を掛ける。
そして、自分が過保護気味に夏美の事を心配した事を——それを笑う。
自分自身を笑う。
この一日付き合った夏美に、少し情が湧いているかも知れない。それがどんな情かはともかく、ハルオは夏美を好ましく思い、今もつい、彼女を守る事を考えてしまっている。
ハルオには、それは危険な兆候に思えた。
本来冷静に情報を収集し判断しなければならない仕事の途中なのに感情が勝ってしまっていないか。
それにより行動に制限がおきてしまっていないか。
感情が判断を歪めてしまうのをハルオは警戒し——しかしその警戒がまた考えの範囲を狭めてしまわないか。
考えれば考える程迷い道の中に入って行ってしまうようなこの感覚。
迷宮の様だ。この謎の多い仕事の依頼そのものも迷宮のようなものだが、その迷宮の中に入れ子細工のように入っている外見は小さなしかし奥深い迷宮——夏美。
まだ見えないその出口。見える物そのままとはきっと違う。
果たしてどこに自分は行こうとしているのか。もう少しでわかりそうなのに近づくと逃げて行く、かげろうのようなその謎……
「ああ、へたなこと考えるのやめた」
そう言うと、ハルオはベンチから腰を上げ、買い物の袋も忘れずに持って夏美の跡を追い……屋台でカクテルを買っている夏美の後ろに立つ。
「……花山さん。来てくれなくても持って行ったのに」
後ろに立ったハルオの気配に気づいて、振り返って夏美が言う。
「いや……そう言うわけではなく……」
自分でもそこまであせって追いかけた意味が良く分からないハルオは、柄にもなく動転して、返事もしどろもどろ。
「そう言うわけって、どう言う意味ですか?」
「いや、いい……ああ、わざわざ酒に行ってもらって悪いな——手伝うよ」
ハルオの少し焦ったような様子を、不思議そうに眺めながら、
「ええ……そんなの全然……」と夏美。「でも、あれ?」
「あれ?」
夏美はハルオの目を見てにっこりと笑う。
「もしかして、これは借りイチですか?」
「借り?」
「やっと花山さんが感謝してくれるようなことできたかなあって」
ニコニコした顔でプラスチックのカップに入ったカクテルを渡されて思わず顔から笑みの漏れるハルオ。
一口、口をつけて、
「スプモーニね……」と。
「——そうです、危ないお酒ですよ」
「……ああ、そうだったな、じゃあ感謝するのやめるかな」
昨日の夜の騒ぎを思い出しながらふざけた口調でハルオ。
「いや、ありがとうな」
ハルオの感謝の言葉を聞いて、まだ少し顔を膨らせながらも嬉しそうな夏美。
「はい! こんな事しかできませんが。これで……」
「これで……?」
「それは……」
顔は笑ったままの夏美の瞳に少し影が差すのをハルオは見逃さない。
瞬時に変わったハルオの顔色を見て、自分の感情が悟られたのを知った夏美は、言葉を一瞬詰まらせる。しかし直ぐに、彼女は、何かを決心したような顔になると、
「それで花山さん……そろそろ約束を果たす時間だと思いました」と。
ハルオも真剣な表情になる。
「レイカの事か」
「はい」頷く夏美。
「買い物はこれで満足なのか」
また頷く夏美。
「こんなんでか……もっと渋谷よりか、目黒の家具街あたりまで行けば、もっと違った店も結構あるぞ」
「いえ……そう聞くと惜しいですが……何もかもは無理なので、物事はどこかであきらめなければいけません」
「あきらめる? なんだい随分深刻そうに……別にレイカの情報貰った後だって、もう少しなら買い物付き合うぞ。ちょっと歩くが、駒沢通りで学芸大駅まで行く間にだっていろいろと店が……」
「ありがとうございます。でもこれ以上迷惑はかけれません」
「迷惑? 迷惑じゃなくて仕事だって。仕事に迷惑も何もない。今回はお前に付き合ってわがまま聞いてやるのが仕事なんだから、そんな事気にする事無いぞ」
ハルオの言葉に嬉しそうな表情を浮かべる夏美。
少しの沈黙。
それをじっと見つめるハルオ。
夏美は少しはにかむような笑みを浮かべながら、
「やっぱり紅葉さんに聞いた通りですね」
「紅葉? あいつが何か言ったか」
「花山さんはきっと私を助けようとするでしょうって」
「助けるって、そりゃさらわれそうになったら助けるだろ普通」
「その事だけじゃなく……買い物でもなんでも真剣につきあってくれました」
「だから仕事だって……」
「仕事でもいいんです。私の為に昨日から全部一生懸命にやってくれました。私の機嫌を適当に取ったり、騙したりしたところはまったくありませんでした。それは私にとっては救いなんです」
「救いって……だからおおげさだって」
「いえ大げさじゃありません。これは救いなんです……だって最後の……」
夏美は話す言葉を呑込み、一瞬空を見る。
「最後?」
夏美はハルオに向き直る。
「おい、最後のって……」
「はい、では花山さん、最後にすべてお話しします。そうすれば全ては分かります……レイカは……」
夏美は、言わなければならない事だが、どうしても言葉にならない言葉を、無理矢理に発しようとする人の、逡巡したような表情で口をぱくぱくとさせた後、遂に意を決した目になって、言葉が喉から出かけるが……
——しかし周囲から上がった歓声にそのか細い声はかき消される。
何事か?
いやな予感のしたハルオは人々の視線の方向を見る。
川だった。
道から数メートル下の目黒川の川面を、五台の水上オートバイの集団が川を遡っている所だった。
その集団は、ハルオ達の下を通り過ぎると、派手なUターンをしてそのままその場所にとどまっていた。
そのまま何度も派手なターンを行って、その度に沸き上がる歓声。
なんだこの時期のこんな所まで水上オートバイでやってくるなんて、目立ち好きの連中か? とか思いながら、回るの人々と一緒にその一団を見たとき……
——ハルオの背筋に寒気が走った。
思わず夏美の手を掴み、その場から逃げ出そうと——体が勝手に動いて……
——しかし駄目だ。
ハルオは手を引きながら気づいた。彼の察知した危険は——後ろ——慌ててかがみ体をひねりながら、飛んで来た来た拳を避けようとするが……
昨日の夜、同じような危険に、本能的に、ハルオは逃げる事よりも、拳を避ける事を優先した。それならば、避け、この場から逃げれたのかもしれない。
しかしハルオは今、夏美を連れて逃げる事を優先した。
その結果……
地面に倒れるハルオ。
周りから上がる悲鳴。
一瞬の脳震盪だったのだろう。ハルオは次の彼の顔めがけて踏みつけてる足から、すんでの所で意識を取り戻し、転がり逃れる。
踏み込んで来る男に、ハルオは横に落ちていた買い物袋を投げつけ牽制しようとしたが、男は全くスピードを緩める事無く、その袋を躊躇無く掴み、川に投げ捨てて、そのままハルオに拳を叩き込んで来る。
「花山さん!」
夏美の声が聞こえた。
間一髪拳をかわしたハルオは、さらに数回転して、立ち上がる。
騒ぎに人がはけた路上に、三人の男がハルオの前に立ちふさがって、その向こう川岸の柵の直ぐそばで、残り二人の男が夏美を捕まえている。
「花山さん、いいんです……もう」と夏美。
「ばか! あきらめるな」罠に捕らえられ、もがく、荒らぶる獣のような目をしながらハルオ。
「いえ、ありがとうございます……良いんす、これでこれ以上ご迷惑は……それよりも言わなければならないのが……」
「知ってるよ」
「えっ?」
「お前が、レイカだ」
虚をつかれたような顔の夏美、いやレイカ? 彼女は何も言わない。しかし深く頷きながらその仕草は——答えは明らかだった。
ハルオも深く頷き、
「お前がレイカなら——僕はお前にまだ用がある」と。「お前を見つけて、連れ戻すのが、僕の仕事で……」
言い終わらないうちに、前にいた三人が一気にハルオに飛びかかる。タックルにあわせて腰を引きながら、顔面に膝をあてる。倒れる飛びかかって来た男。
ハルオは残りの二人を警戒しながら、
「……お前は、こんなので満足なのか! 遊びも買い物も、こんなんで十分なのか」
しかし、じりじりと、近づいて来る残りの二人。
「——満足なんてしてません。でもしょうがないんです。これから——運命から——いつまでも逃げるわけにはいかないんです」
「運命? 何の運命だと言うんだ!」
「そんな事言えません。言えないんです。でも……花山さん、もう、やめてください、これ以上は危険です、私から離れて、全て忘れてください」
「忘れる? これは仕事だって言ってるだろ。その途中で、全部忘れて放棄なんて、僕の職業倫理にもとるんでね」
ハルオは一度言葉を切る。
残りの二人がまた仕掛けて来た。
今度は二人同時にタックルを仕掛けて来るのをハルオは横にステップをしてかわそうとする。
しかし、片方の男に足をつかまれ倒れるハルオ。
「花山さん!」
心配そうな顔で叫ぶレイカ=夏美。
「……お前はそれでいいのか!」
倒れたハルオの背中に馬乗りになるもう片方の男。
ハルオは、頭の後ろを掴まれて、顔面を地面に叩き付けられる。
「それでいいのか! それで……」
ハルオは顔を踏まれ言葉を途切れさせられる。
「だめです。でも……」
ハルオは体を回転させ、男の胴体を足で固めると、殴り掛かって来る拳を手でガードしながら、
「でもじゃない……お前は何をしたいんだ」と。
「したい事はいっぱいあります、でも……」
「あるなら、あきらめるな……あるなら、本気なら……覚えてるか昨日……」
レイカ=夏美は思い出したような、ハッとしたような、顔になる。
「本気なら、言うんだ、僕に……」
「でも……」
「でもじゃな……」
ガードの隙間から、顔を殴られ、また言葉を途切れさせるハルオ。
しかし、ハルオは話すのを止めない。
「……ここで言わないと、お前は一生その言葉を言えないぞ」
「いいんです……私は……」
「だめだ」
「だめ?」
「だめだから、だめだ」
「なんでだめなんですか。花山さんは何も知らないでしょ。なんでそんな事が言えるんですか……私には責任があるんです。だから……」
レイカは涙を流していた。それは何の涙なのか。本人以外知る由もないが、ハルオにはそれは、とても満足してここからいなくなる者の様子とは見えなかった。
横の男が耳打ちをして、レイカは頷く。
「レイカ! 『助けて欲しい』といえ」
「いえ……言えません」
「それじゃお前はこのままずっと助からないぞ」
「いいんです、私は……それでみんなが……」
レイカは横の二人の男に両腕を掴まれて、その導かれるまま、抵抗もせずに川岸の欄干を越える。
「レイカ!」
ハルオの叫び声もむなしく、レイカは二人の男と一緒に、いつの間にか男の仲間が堤防に架けた縄梯子を降りて行った……
——そして、水上バイクのエンジン音が高くなり、遠くなり……
その音を聞いて——ハルオは頭を蹴られて遠のく意識の中——レイカが連れ去られた事を知るのであった。
*
レイカを乗せた水上バイクはそのまま目黒川を下っていった。
とは言えそれは逃走経路としてはあまり良いものではないように思える。
川は、道路の渋滞等関係なく、素早く逃走できるのは良いのだが、最後に海に注ぐ河口まで一本道——分岐して逃げる場所も無い。
騒ぎで誰かが通報したため、あっという間に河口には警戒線がしかれたし、もしかして途中で川から上がって逃げるつもりだったのかもしれないが、緊急でパトカーが川沿いの道に検問をしいた。
まさしく、このままでは、一団は袋のネズミのはずだった。一見良い逃走経路にも見えるのだが、まったく短慮な行動のようにそれは思えた。
——しかし実はそうではなかった。
——それは十分に考慮された逃走経路であったのだ。
——結局レイカとその誘拐者達は警戒網に引っかかることは無かった。
見つかったのは、大崎付近に到着したパトカーの前を無人で漂い流れて来る水上バイク。
彼ら、レイカを誘拐した一団は、目黒川から流れ込む地下放水路のメンテ路を通じてとっくに別の場所に逃げ仰せていたのだった。
その放水路の中にもあらかじめ人員が配置され、レイカを確保した連中はその支持により、複雑な管路の中を迷う事無く進み、そこから出た地上にも車が待たせてあり——
あっと今に何処かに消える。
どこかか遠く——ハルオには手の届かないところへ。
少なくとも——ハルオ一人の手では届かない……
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