第8話 霞ヶ関

 霞ヶ関の間を練り歩くデモ隊をさけて、男は少し遠回りをして日比谷公園まで歩いて行こうとしている。と、彼は顔をしかめる。通りの反対側をシュプレヒコールを上げて練り歩く集団を横目でちらりと眺めているようだった。

 ——何に反対してるんだ、この、何でも物があって、職もありあまってる国の何が不満なんだ。

 男は心の中で舌うちをしながら、顔にはみじんもそんな様子は出さないまま、通り過ぎるデモを遠くから見つめていた。でも遠くからでもなんとか読み取れた連中のプラカードに、ああ、海外派兵反対なのかと合点が行くと逆に興味が無くなった男はデモの事なんてわすれてそのまま公園へ向かう交差点を渡り始める。

 男は優秀な官僚だった。

 大蔵省のキャリアとして、三十年ちかくの間の宮仕えをそつなく勤めあげ、省のトップレベルまでは届かなかったけど、そこそこの地位は得た男だった。

 三十年か。と、男は、歩きながら、ふと自分の半生を振り返って見る。

 男が駆け出しの一九八○年代。日本の上り調子に合わせて自分の人生もずっと上り調子。九十年代バブル崩壊のあとの数年の構造改革の時代は多少冷や飯も食わされかけたけど、日本経済の復調に合わせて、勝ち組の部署に配属された後はとんとん拍子。

 まったく、まじめに勤めて来ましたよ、と男は思う。面白い事ばかりではなかったが、まあおおむねバランスよく生きて来れたのも、ずっと滅私奉公を続けて来たおかげ。この後も、もうちょっとだけ我慢しさえすれば、安定した老後が待っていて、たまに海外旅行でもしながら、子供たちが孫をつれて訪ねてくる日を心待ちにして過ごす……と男は自分に向かってこころの中でこの先の平穏無事そうな余生のことを考える。しかし、男はその自分の考えに何か自分でも説明できない違和感を感じる。自分は、本当にそう思っているのだろうかと。

 いやもちろん、時々、仕事に行き詰まったり、プライベートでも、子供の学校の心配だ、だ近所付き合いだと日常の面倒くささにため息をついたりした時には、自分にはもっと面白い人生があったのではないかと無想することもある。やりたい事をやって好きな所に行く人生。人の事を気にする事などなく、好きなように振る舞う人生。

 でも本当に好きな事をやったとして——自分に何がやれただろうか。男はふとそんな事を思う。

 高校までいた田舎町では勉強は常に学校の上位にいたし、第二志望とはいえそこそこの大学に入ってからも要領よく単位をとって、キャリア試験にもうまく合格した。官僚になってからも仕事をそつなくこなし、エリートたちの中でもそれなりの地位を得る事ができた。

 それは過度に誇る事でもないのかも知れないが卑下する事でもないだろう。自分は日本の為にがんばり、地味かも知れないが成果も残して来た。日本のために頑張った、そう言っても、そのくらいで男をうぬぼれていると言う知人がいない程度には頑張って来た。それはそれで男は自分の人生に満足はしていた……

 しかし、それは自分の力ではなく、この日本、この繁栄する日本の中で、そつなく立ち回って来たからこそできた事ではないか? その他に自分に、この日本がどんな「日本」でも、自分の力で何かやれた事はあったのだろうか。

 男はいつの間にか下をむいて、アスファルトを見つめていた。自分が今、自分に向けてした質問に、自分の中で答えが無い事に自分でも呆然としてしまっているのだった。自分には、自分が何処の世界ででもやれたであろうことなんて思いつかない——その事に気づいた時、彼は自分でもびっくりするくらいの大きなため息を漏らすのだった。

 男は、この繁栄の日本を離れては、自分が何も思いつかない事に少し、憂鬱となったのかもしれない。それは男の足を止め、路上で思わず立ち止まってしまう。自分の足元が何か危うい、ぬかるんだような気がしてしまい、足を踏み出すのが怖くなってしまったのだった。

 いや、目の前の地面は、夏の暑い季節でもないこの時期には、ぬかるみようも無いアスファルトだ。自分は何をやっているのか、馬鹿らしい、と男は思うが、しかし彼は、その一歩を踏み出せないでいる。何か世界が、自分のいる世界がとたんにあやふやな、その中の自分もあやふやな物となってしまったような気がしてたまらなかった、その中にその曖昧な足取りでは沈み込んで行ってしまうように感じてしまうのだった。

 そんな男の膠着状態を救ったのは、目の前で点滅する歩行者用信号だった。

 何かチカチカするものが見えるような気がして、良く見てみると点滅をしている青信号。それに気づいた男は反射的にあわてて駆け出し、その瞬間、何故か、世界は一瞬前に感じていたような曖昧さを捨て、突然リアルなものに見えて来たのだった。

 その瞬間、男は、はたと思い出したのだった。

 そう言えば、中学校までは自分は結構足が速かったんだと。クラスでは一番で、地区大会でも三位に入った事がある。中学三年になって塾通いが始まってからはまともに練習する事も無くなって、その後は学校の代表になる事もなく、高校では陸上を続ける事は無かったのだけど、もしかしてあのまま続けていたら?

 男は、通りを渡り終わって日比谷公園に入っても、そのまま走り続ける。

 ——そういえば中学の陸上部の顧問には才能があると良く言われたっけ。まじめにもっと練習したら君は全国区の選手になれるかもしれない……とか。

 男は、自分のもう一つの人生を夢想しながら、そのまま革靴の音を響かせながら公園内をそのまま走る。すると、デモの声がさっきよりも大きくなったなと、男は思うが、気にせずに走り続ける。

 風が、自分の作る風が気持ちよかった。

 桜のつぼみが結構大きくなっている。さくら前線はもう名古屋くらいまで来ていたはず。もうすぐ日比谷公園も花に包まれて華やかになるだろうな、と男は考えながら、木々の間から漏れてくる光を見つめる。

 この光。どこかで——そう新米官僚の頃、何かむしゃくしゃした事があってこの公園を歩いていたとき、同じ光を見た事を思い出して、思わず男は足を止めた。気づくと息が上がっていて思わず近くのベンチに座り込んだ。

 何に怒っていたんだろう、と、男は薄れたその記憶を思い出そうと努力するが、なかなか思い出す事ができない。当時の上司と言い争いになって……

 しっかりと思い出せないまま、男はベンチから立ち上がって、ゆっくりと歩き始めた。もう呼吸は乱れていなかったが、心臓は少しまだドキドキとしていた。立ち上がる瞬間、目に光が入って、目をつむり、その瞬間、

「ああ、思い出した」と男。

 まだ青臭い正義感を持っていた男は、ある地方の開発に対して上司と言い争いをしたのだった。ある港湾開発反対の陳情をしにきた団体とあってなだめる役目を受け持ったのだが、話しているうちに彼らの理も感じてしまい、その疑問を上司にぶつけてしまっていたのだった。

「我々は国民の為に働いているんじゃないんですか」

「当たり前だ」

「じゃあなぜ彼らの言葉に耳を傾けないんですか」

「傾けているよ」

「傾けているのならなんでこんな事が許されるんですか」

「許してないよ」

「許してるじゃないですか」

「違う、避けられないんだよ」

「意味が分かりません」

「大人になれと言う事だ。分かるか」

 男はその後、階段を駆け下りて、そのまま日比谷公園に来て、ベンチに座った。

 立ち上がり光が目に入り……

 デモの声が聞こえた。それは男の心の何か秘密の部分をくすぐった。

 男は公園から霞ヶ関方面へ、丸の内線入り口近くの歩道に出て、向かいから近づいてくるデモと向かいあっていた。公園の出口、門のあたりに立ってメモを取る公安らしき数人の姿が見えた。それをじっと見ていると、そのうちの一人がじろりと男をにらんだ。

 男は誰に見られていても気にせずに、そのままデモの方へ歩いて行った。デモの先頭にで旗をもって叫んでいる、それが彼だった。自分がそこにいた。近づくにつれ、その二人の分身たちはさらに引かれ合い、重なり、溶け合い、叫ぶ声、男は手を振り上げて、ワイシャツの裾が乱れるのもかまわずに叫んでいた。その叫び声の中、男は自分の叫びの意味を知るのだった。


   *


 アキラは霞ヶ関の官庁街から坂を下り、午前中の日比谷公園へと歩いていた。

 通産省の課長レベルの朝会に呼ばれ、彼の会社の今後のビジネスプランを例としてハイテク投資業界動向についてディスカッションをしてきた後の事であった。

 アキラは会議の内容を思い出し、思わず失笑をもらす。

 ここ数年来の傾向のまま、今月もハイテク株への投資は好調で、とりたて会議で話すような内容はない——この好調にいかに乗り有言実行するのかと言う、出席者の意気込みと度量の大きさを競い合うような、中身の無い空虚な時間であった。

 どうせ何をやっても、大なり小なり、成功するのだ。

 果てしなく発展するこの世界なら。

 そこでプランを語るというのは、最低限の方向さえ間違わなければ、どれだけ大きな話をしてもビビらないのか、と言う度胸の程度を周りに誇示する儀式に過ぎない。

 不良のガンのつけあいとかわらないとアキラは思う。

 果てしなくつり上がる掛け金にビビらずに、最後まで我を貫ける者の勝ち。

 そんな世界がここだ。

 発展が続く限り、いかに巨大な自我を持ったかが勝敗を分ける。

 そしてそこで勝ち残って来たのが、今日の会議のテーブルに並んでいた者達だった。

 霞ヶ関の内と外が、半々ぐらいにいたその出席者たちがこの日本の膨れ上がった自我のよいサンプル。

 果てしなく膨らんだ自我——こいつらのその自我に画鋲でもさして弾けさせたらずいぶんと派手に爆発するだろうな……。

 アキラは、自分が知らない間に声を出して笑ってしまっている事に気づく。

 そして自戒する。

 ああ、いけない——笑うのはまだ早い。

 まだ隠さねばならない。

 自分の企みを、その心の中を。

 笑ってはいけない。

 ——笑うのは全てが住んだ後、その後には気が狂うまで笑ってやろう。

 しかしまだ……

 交差点の信号が替わり、登庁して来る人の波に逆らいながら、アキラは日比谷公園に入る。

 春のさわやかな公園は、桜も満開で、気持ちの良い気候と風景が絡み合ってとても居心地の良さそうな様子だった。

 そんな公園の中をぐるりと見渡しながら、

「奴はいるかな」とアキラ。

 しかし探し人はいなかった模様で、それではと、適当なベンチを見つけて、

「今日の話を奴に確かめて見たいのだが」とアキラは言いながら座る。

 ——今日の話。

 アキラは、朝会の後に、アキラは帰りがけ、調度その時に登庁して来た馴染みの人物に声をかけられた時の事を思い出していた。

「……あれがまた出たよ」

 声をかけてきたのは、どこか地方の県庁から出向してきてた人の好い人物で、確か鈴木とか言ったなとアキラは思い出す。あるプロジェクトで一緒になった時に、本庁勤務者との距離を感じていた彼は、むしろ部外者のアキラに親近感を感じていたのか、そこで仲良くなって以来、アキラに何かと情報をくれる男であった。

 ただし情報と言っても、出向の立場の人物の知る情報では——その殆どは、他にも官庁にいくらでも情報源を持つアキラにしてみれば既に知っている話ばかりではあったのだが……

 しかし、彼から聞いた情報のうちアキラが大いに興味を持ったものが一つ。

「……どうせ捨てるだけだからまた持ってくかい、これ」

 鈴木がアキラに渡したのは、二○○八年の日付の書いた報告書。その年のいろいろな産業の分析をした報告書であった。

 アキラは手渡されたその書類を礼を言いながら受け取る。

「いや、おかまいなく……というかゴミを渡しただけで礼をいわれても、この間もあんな良い酒もらっちゃって、かわりがこれじゃ……」

 鈴木は、さらに礼を言おうとするアキラに、

「いや本当にかまわないでくれ」と言いながら歩き去る。

 アキラはそれを見ながら一礼をしてそして庁舎を出る。

 そして日比谷公園のベンチ、鈴木にゴミと呼ばれた報告書をぱらぱらとめくるのだった。

「リーマンショックか……」

 報告書には、この「日本」のある世界では決して起きなかった事が書かれていた。

 二○○八年に書かれた、その報告書の前年二○○七年。低所得者向け不動産ローンの破綻から大混乱に陥っていたアメリカ経済は、リーマン・ブラザーズの破綻により不況が始まり、その後の世界的な大不況へとつながって行く——それがリーマンショックと呼ばれていた。

 こちらでは、この「日本」のあるこの「世界」では、まったく起きなかった事であった。

 この「世界」のリーマン・ブラザーズはと言えば、七年程前、いつまでもITバブル後のデフレから脱却できないアメリカ経済の中、業績不振のため、分割され、日本のメガバンクらに買われてしまっていた。なので、破綻も何も、その時は既に実態が無く名前だけが残っていたような金融機関が、二○○八年に破綻するわけは無いのだった。破綻するべき実態等とっくに無いのであった。

 しかし、その事件がこの報告書では世界経済をそのあと酷く苦しめる不況のきっかけとなった事件として語られているのであった。

 その事件はその報告書の中の日本をひどく苦しめていた。

 その中の日本は、失われた十年と呼ばれたデフレが、さらにもう十年も続く中、その出口も見いだせないままに、少子高齢化が進み、さらに抜け道のないスパイラルに陥って行た——その中でのリーマンショックであった。

 日本は、リーマンショックを皮切りに始まった連鎖的世界的不況の中、ますます追いつめられ……

 ——アキラはその先も知っていた。

 同じように鈴木から貰った別の報告書やら稟議書から、アキラはその後の日本の混迷もすでに知っていたのだった。

 相も変わらず続く不況の中で起きた東日本大震災とそれに続く原発事故。それは大量の放射能漏れを起し、人々はその処理を巡り、果てしない論争を繰り返し、国政は混乱する——この「日本」では起きなかった不況と閉塞の二十年。

 アキラはその二十年を知っていた。

 失われた日本を。

 ——君らの世界から紛れ込んで来たと思わしき数々の文書によって。

 それらは、見かけは本物の各省庁の報告書にしか見えない。場合によっては実在の人物の署名さえされていた。しかし、まるで本物にしか見えないのに、この「日本」ではありあえない出来事が書き連ねられているそんな怪文書。 

 それを最初に見付けたのが、今しがたアキラが会った鈴木なのであった。

 虚々実々の取引をしなければならない国家戦略の最前線においてはいまいち朴訥すぎる、真面目一方の彼。しかしそんな彼だからこそ、こんな文書を見つける事ができたのだった。

 こつこつと何事もやるが、臨機応変がまるで効かない、そんな彼の取り扱いに困った上司が命じたのが書類整理であったからこそ——官庁の山ほどある報告書の中に時々こうした怪文書が混じるのに彼が気付く事ができたのだった。

 さもなくば、それらは見過ごされていたかも知れない。

 それらはそれほどさりげなく、普通に日々の文書の中に混ざっていた。

 ただぼおっと見たならば、誤記か、取り違えの類と皆思った。

 語尾が変わったり、書いた本人もしらない一行が挿入されていたりしても、それだけを見れば何かの勘違いかで事は済む。参考資料が日本の「デフレ」の経済状況のグラフに一枚だけ取り替えられていても、それは単に題名を間違えただけではないか、そんな風に認知のバイアスをかけて、異変を日常の方に都合をあわせて見てしまう。たまに一冊まるまる衰退する日本の報告書が書類の山の中に転がっていたりもするのだが、大量の文書の中からわざわざ意味不明の報告書を取り上げて検証しようとする者もいない。

 忙しい官僚達には、そんな——細かいどうでも良いような——事に関わっている暇などはないのだった。なので誰もそんな怪文書の存在に気付かなかったし、薄々気付いた者がいたにしても——関わっている暇などはない——無視をしたのだった。

 しかしそんな本庁の官僚達から外れ、素直に実直にものを見ていた鈴木はそれに気付いたと言う事なのだった。

 そして、一度その事を指摘されたならば——言われてみればと言う奴だ——そう言う認識で見れば誰でも直ぐに怪文書に気づいた。中国の台頭とかソ連の崩壊のようなこの「日本」においては考えられない出来事が書かれているのだ。それが資料の中にさりげなくまざっているのだった。

 それは明らかに、たちの悪い悪戯に見えた。きっと、中央官庁の激務に疲れ果てて、少し周りをからかってやることで精神の平衡を保っている、そんな馬鹿者でもいるのだろうと皆思った。きっと、その誰かが、資料を精巧に偽造しては紛れ込まして人々がびっくりするのを見て楽しんでいるのだろうと。

 そんな悪戯者を見つけ出して懲戒を加えてやろうと、各部門には周知が出され、怪しい行動をしている者がいたら必ず報告するようにとされていたのだが……

 しかし犯人は見つからない、

 ——まあそれも当たり前。

 発展につぐ発展で官民あげてひたすらに忙しいこの「日本」で、そんなつまらない悪戯の犯人探し等、皆、真面目に行うわけも無く……

 遂には、あまりに突飛であるために誰もが直ぐに偽物と気づくその資料達は……

 見つけたら「ああまたか」と思われて捨てられるだけとなっていたのだった。

 しかし、そんな話を鈴木から聞きつけたアキラは、鈴木が警戒しない程度の付け届けの見返りに、そういう資料が出る度にもらう約束を取り付けていた。

 アキラにはこれらにピンと来た別の理由があったのだった。怪文書達はある意味の「本物」であると。

 なぜ彼がそう思ったのかと言うと……


「どうかな、今度も本物かな……」

「リーマンショックね……聞きたくない言葉だな」

「君が聞きたくないか。じゃあ本物と言う事だな」

 日比谷公園のベンチに座るハルオの横にはいつの間にか一人の浮浪者が座っていた。

 その男は軽く頷きながら、

「まったく酷いもんだったよ。いっぱしの社長のつもりだった俺んところが潰れたのも、あれが原因でね」と言う。「——金融会社がめちゃくちゃになったせいで家業の土建業が黒字でも金を貸してくれる奴がいなくなって——すべてパーさ。それ以来家族も社員も捨て、俺は浮浪者に身をやつして現実から逃げまくっているんだ」

「現実から逃げてここに来たんなら——ここは現実じゃないのかな」

「ああ違うね、こんなとこは現実じゃない」

「不況に苦しみ、会社をつぶした日本が現実ね——君はそれで良いのか」

「良いのか?」

「いや——そっちの方が良いのが不思議だと思ってね。この景気の良い日本の方が君のいた所よりも良い場所じゃないと思ってるのが」

「どっちが良いとかじゃなくて、自分にとっての現実はそれで——ここは偽物だね」

「まあ、僕は、あなたの考えている事に、どうこう言う気はないけどね——ああサブプライムローンと言うのがあったのか」と、アキラは資料を捲りながら言う。

「あったのか? あったに決まってたじゃないか。低所得者用の住宅ローンとかのクズ債券をまとめて——そんなのが金融工学で安全になったとかの目くらましされて——みんなで渡れば怖くないで、全員そろって出来損ないの橋を渡って、一気におじゃんだ」

「……こっちの世界にはそんな事件は起きてないね」

「こっちの世界ね……まあ、どうでもいいやね。もうどっちの世界でも、俺はこんな風になっちまったんだ。のたれ死にするまでのあいだ、何もかも捨てて生きることにしたんだ」

「なるほど」アキラは資料を閉じて鞄に入れながら、「でも、俺ならあなたを助けられると言ったら」

「はあ?」

「いや、こんな風に色々教えて貰って感謝してるのでね。あなたの再起の助けをしても良いと思っているのだけど」

「俺に仕事をくれるって言うのか?」

「ああ、望むなら、僕の買った会社の一つに適当なゼネコンがあるので、その子会社を君に任せてみても良い」

「ずいぶんとうまい話だな……うまい話にはなんとやら……」

「今の日本、いくらでも土建工事があるので、あなたみたいな土建会社経営の経験者はいくらいても足りないくらいだからな……別に哀れみとか酔狂でばかり言ってるわけじゃない」

「ふうん……」

 浮浪者は少し考え込んだような顔。

 立ち上がるアキラ。

「どうだい?」

 アキラは答えが分かっていて問いかけたのだが、

「遠慮しとくよ」と浮浪者からは予想通りの答え。「もういいんだ、俺は降りたんだ。今いるのがどの日本でも関係ないさ」

 ズボンのポケットから万札を取り出し渡すアキラ。

 受け取りながら、

「ヤニも……」と浮浪者。

 ジャケットの胸ポケットからタバコの箱を渡すアキラ。浮浪者はその内一本を抜き取ってアキラに返す。

「全部やるのに」とアキラ。

「いや、それはいけない」

「何故?」

「俺は降りたんだ。そして、金を求めて金に追いまくられる生活から逃れて……やっと平穏を得たんだ。それなにのこんな世界に来ちまって……神様の最後の試練だと思ってるよ。ここでまた悪魔の誘いにのらないかどうか確かめられてるんだよ。だから、必要以上のものは誰からも貰わない。タバコだってさ……」

「ああなるほど……それも生き方だ」

 アキラは自分もタバコを取り出して口にくわえながら浮浪者のタバコに、そして自分のタバコに火をつける。

 そして浮浪者に軽く会釈をすると、公園の出口の方に向かい歩き出そうとするが、

「おい、あんた」と浮浪者が声をかける。

 何だと言った顔でまた振り返るアキラ。

「公園の外は千代田区は禁煙だぜ」

「ほう……なるほど……」

「罰金とられるから気をつけな」

 アキラはにやりと笑いながら、

「君の日本ではそうだったんだろうな……へえ、まあそれも良いか」と。

「良い?」

「そんな日本ならタバコの量も減って良いのかもって思ったんだよ」


 東京の浮浪者達の間に妙な噂が広がっていると言う事をアキラが聞きつけたのはもう五年近く前の事であった。それは、アキラの会社が震災後復興の遅れていた都内東地域の土地開発を受け持った時、開発予定地に居座っていた浮浪者の追い出しのための事前調査を行っている過程のことであった。

 噂では、他の日本からこの「日本」へ紛れ込んだ者達がいると言うのだった。

 その噂に、何か引かれるところがあったアキラは、さらに調査を命じた。

 その結果分かったのは、そう言い張っている浮浪者は、一人二人では無く、何人もいて、さらにそれはぽつぽつと増えて言っているらしい。そしてそれらの者達は、この世界が偽物で、彼らの世界からうっかりと紛れ込んでしまったと本気で信じ込んでいると言うことだった。

 この事にはアキラ以外にも気づいた者はおり、ゴシップ誌の記事になったこともある。

 都内の浮浪者の間で広まる妙な噂。様々な話者の語る不況に苦しむ日本の様子、妙に整合性のとれたその噂の妄想の中の日本を、記事ではこう称していた……

「発展からしっぽを巻いて逃げた負け犬の日本」

 記事に寄稿したあやしげな識者達は言った。

 経済学者は不況はさらなる投資での発展で乗り切るしか無いと言う、この「日本」では今の所うまく言ってるように見える自分の理論を述べながら、二十年も発展に向かっての冒険を忘れた日本と言う妄想の気力の無さを嘲った。

 社会学者は、日本の過度の少子化を笑い、この「日本」での少子化の傾向の押さえられている原因の分析をした。

 また、右翼と左翼の論客は奇しくも、同じ結論を出した。それはいろいろな言葉の装飾を取り去ればとてもシンプルなもので——そっちの日本の世の中も間違っていると……

 そして、その記事の最後、怪しげな心理学者は、

「社会から転落した浮浪者達による、破滅の欲望が作り出したシンクロニシティ的ヴィジョン」

 意味不明な結論を出していた。

 ともかく、彼らの話にいくら整合性があろうが、不況に苦しむ別の日本から紛れこんで来た人々等と言う馬鹿な話をまともに折り合う事などできないのだから、ゴシップ誌の記事の結論としては適当な学者にそれっぽい事を言わせておけばよいと言う事なのだろうが……

 アキラはそうは思わなかった。

 いや彼にしても、そんな路上の噂の世迷い言を都市伝説以上に本気にしたわけでは無いのだが、その不況の日本のヴィジョンに妙に惹かれた彼は、それが別に本当に存在する世界でなくても良い、しかしその世界になぜかこの「日本」よりもリアリティを感じてしまうのを押さえることができなくなってしまっているのだった。

 そして、そんな彼の周りに集まる異世界の断片。官庁の謎の報告書だったり、古書店に紛れているこの「日本」の歴史と一致しない出来事のかかれた本であったり……

 もしかして、そんな正体不明の異物は、今までも我々の周りには常にあり、それに気づいていなかっただけなのかもしれないが……

 とにもかくにも、アキラはこれらの断片に魅了され、そして心がその世界の中に取り込まれる中、この馬鹿げた日本にもそのリアルが必要なのではないかと思うようになった。発展を担保に無限の発展をしようとしているこの「日本」。それがとても馬鹿げた偽物に見えてきた時、彼はその中にリアルを作り出す必要があるのではないかと思えてきたのだった。

 そして、

 そのリアルをずっと考え続けたアキラは……

 ——「計画」を開始した。


   *

 

 トウコはホテルのカーテンを開け、もうだいぶ遅くなった午前の光を室内に入れる。

 その光に照らされて小さなうめき声のようなものを漏らすのはベッドの上に全裸で転がる男。

「あらまぶしかったかしら——閉めましょうか」

 男からの返事はない。口から、またうめき声のような音が漏れるばかり。

「まだお疲れのようね」

 トウコは男に毛布をかけながら言う。

 男は、いくら激しい情事があったにしても、果たしてそこまでとなるかと思われる、憔悴しきった顔で眠っていた。しかし疲れきりながらも頬には薄笑いを浮かべ、夢の中で快感にまだ震えているかのような顔のその男。

 財界の大物である彼が、一夜をともにしたトウコのことを思い浮かべながら——盛られたクスリの影響が取れないのか体をぴくぴくと小刻みに震わせている。

 生意気な若造のそばにいつもいる、それ故に余計に征服欲を刺激されるのか、余計に魅力的に思えたトウコをついにモノにした——そう思ったときにすでに彼は蜘蛛の巣の中に入り込んでいたとも気づかずに——この朝の醜態をさらしている。

 その姿を見て、絶えられず吹き出すように始まる笑い声。

 トウコは、男を見て馬鹿にしたような笑いを浮かべると、振り返り、窓際の机においてあった十枚程のパスカードを手に取る。

 それはこの週末にある東京スカイタワーのオープンイベントの一つのファッションショーのバックステージに入って行くためのパスカード——今このベッドの男の会社の後援するイベントへの出入りを保証する物であった。

「ありがとう、これが欲しかったのよ……あなたの会社の秘密も散々教えて貰ってけど、思ったよりしょぼかったので期待はずれだったけど……本当に欲しかったのはこっちよありがと」

 トウコは、そのカードを指で弄び、酷薄な笑いを浮かべながら、もはや用済みとなった男を見て言う。

「だから——もう手に入れたので——なんならあなたは用済みなのだけれど……」

 トウコは薄笑いを浮かべながら、ベットまで歩き、男の首に手を伸ばし、少し力を入れて——絞める。

 苦しそうなうめき声をあげる男。

 それを見て興奮したような顔になり、さらに手に力を入れるトウコ。

 もう一度上がるうめき声。

 更に手に力を入れるトウコ——男の紅潮した顔はまるで絶頂に達する時の快感に震えるその姿のようにも見え……

 しかし、それを見て、トウコは手を男の首から離し、

「馬鹿らしい」と。「そんな価値がある男じゃないわよね。こいつ。私がそうしたいのは一人だけ……」

 トウコじゃ窓を開け冷たい空気を入れる。

 眼下には官庁や周りの会社に向かう人々の通り過ぎる朝の日比谷公園。

 トウコはその公園にいるはずのアキラに向かって、

「さてこれであなたを出し抜けるかしら」と面白くてたまらないと言った表情で言うのだった。

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