第7話 渋谷

 早朝の渋谷。いくら眠らないこの「日本」、ましてや騒がしきこの渋谷でも、少しは微睡む——ふと気を抜いたなら思わず眠ってしまいそうなそんな時間。ハルオは二十四時間営業のハンバーガーチェーンの二階の窓から、朝の渋谷を眺めていた。

 いつも通りのこの街の朝だった。

 祭りの後のような——夜の騒ぎを思い起こさせるが、なんとなく疲れたような、少し薄汚れたような、街の光景。

 時々、テンションの高い若者の集団が大声をたてながら通り過ぎたりもするが、それが妙に周りから浮いた感じがする。

 静寂と言うよりは、弛緩と言った感じの、惚けたような感じのする、気怠さの中でしかたなくリラックスしているような、そんな感じのする光景であった。

 朝日に照らされ物事がやたらとリアルに見える路上であった。

 ガードレールの微妙な曲がり具合が気になってくるだとか、街路樹の葉っぱ一枚一枚が妙にしっかりと細部まで認識できるだとか、歩道にちらばったゴミが微かな風で少し揺れている様子だとか……

 ——降り立ったカラス達が一心不乱な様子でゴミをあさっていたが、その横を自転車に乗った巡回の警官が通り過ぎると一斉に飛び立った。

 鳴き声がガラス越しにも妙にはっきりと聞こえて来て、はっきりと聞こえ過ぎて、ハルは少し気持ち悪い感じがした。

 どうにもリアルすぎる。

 物事があまりにはっきりと感じられると、なぜそれが少し気持ち悪く感じるのだろうかとハルオは不思議に思いながら、そのリアルさから逃れるように……

 ——空を見る。

 すると、薄らと光りさす——夜明け。

 駅前を囲むビルの窓に朝日が反射する。

 まぶしくて視線を少し下にして、少し目を細めるハルオ。

 彼が見るのはこの「日本」の渋谷。

 立て替えられた渋谷駅とそれに続く二十階建て程のビルが立ち並ぶ壮観だった。

 駅のまわり数百メートル以上も続くビルの連なり。

 それらのビルの十階より下の壁はすべてワイドビジョンとなっていて、そこに映る映像は、どこかの高原の遠くに高峰を抱く爽やかな朝の風景だった。

 目の前一面に立ち並ぶビルの壁面が全て映像となる。それがハルオの視界を占有してるのならば、彼にとってはまるでそれが現実の風景のように感じられた。

 目の間に聳えるのは本物の風景であるかのように思えた。この渋谷が高原に変わり、遠い空を鳥が飛ぶ、朝日がまだ雪を残す山を照らす、そんな風に思えたのだった。

 しかし、それは本物ではない。あくまでも映像ではあった。

 しかしただの映像と言うには、あまりにリアル。

 リアルから逃れたハルオが見るのはもう一つのリアル。

 ハルオが今見ているのは、メディアが現実となっって取り囲む、現実とも虚構とも言い切れない、そんな風景であった。

 メディアが環境そのものとなってしまったような、仮想が現実を取り込んだかのような街の姿であった。

 メディアランドスケープ——それはもはや比喩ではなかった。

 見る景色はメディアそのものであった。メディアこそが、それこそが実在する環境であった。

 君らの世界の渋谷の駅前の巨大スクリーンに囲まれた風景など、牧歌的にさえ見えるような近未来的な風景。

 それは、二十世紀末に君らが夢想したようなブレードランナー的な、汚れたサイバーパンク的なローレゾな未来ではない。ハイレゾな、あまりにリアルで気持ち悪くさえある——綺麗だがそれゆえに深みの無い、表面だけの世界。

 記号でさえも無い。有るのは戯れ。

 有るのは、有る物だけ。

 でもそれで十分。この「日本」にはそれ以上は必要がない。それ以上を知ったら戻れなくなる。表面に浮かべなければ、虚無はあくまで深く……

 ——おはようございます。

 巨大な画面を横に動くテロップの後ろで、ビルの壁面に映る巨人は、この街の支配者であるかのように慈愛と酷薄に満ちた目つきで街を睥睨する。

 その薄っぺらい表情にかぶさるように、映像がインポーズされて今日のニュースが流れて行く。

 まずは列島各地から届けられる、桜のニュース。

 もう桜が散ってしまった南の国から、まだつぼみも開かない北の国まで。すでに花を懐かしんでいる所から、まだ開かぬ所まで。

 花への思いも様々な列島の様子。 

 桜を切り口に見る様々な「日本」の様子だった。

 その住人も、ついつい、狭い島国と思ってしまう「日本」だが、こうして季節の移り変わりにその姿をあらためて俯瞰したならば、それなりに広い国土であることが分かる。

 この東京にいると気付きにくいものなのだが、様々な人が、様々な思いを持って生きているだろう。そんな風に思わせる桜前線のニュースであった。

 しかし、今、列島中の人々の思いが一つになっているのは桜ではなく……

 ——画面は、今週末オープンの東京スカイタワーのオープンのニュースに変わる。

 まずはタワーの遠景。

 そして、今週末に開幕式のテロップが入ると、また画面が変わり、東京湾上を飛ぶヘリコプターからレポーターが視聴者へ何か呼びかけている様子が映し出された。

 彼女は、ヘリコプターの高度よりさらに高く聳えるタワーを指差しながら何ごとかを話している。

 ワイドビジョンからは音は出ないが、画面にはテロップが出てハルオはその話している内容を知る。

 朝のニュース番組などで良く顔を見るそのレポーターは少し涙ぐみながら、震災から今までの復興の日々を語り、そして感極まって、少し言葉を詰まらせた様子の後……

 ——我々は遂にここまで来たのです。

 と。

 ハルオはその言葉を見て軽くうなづく。

 その通り……

 ハルオは思った。

 「日本」は復興した。

 過度なまでに——。

 不遜なまでに。

 その象徴としての巨大な聖塔を造り、それによって名を成そうとするまでに。

 「日本」は発展した。

 と。

 まったく奇跡のようだった。

 首都にあれほどの、壊滅的な被害を追った「日本」がここまで立ち直ったのだ。

 その前の繁栄を軽く凌駕するまでに。

 バブル期の繁栄など児戯に見える程に。

 全く信じられないくらい。

 現実感の無いまま、経済は膨れに膨れ、終わる様子を見せずに何処まで発展が続く。

 それならば——これほどまでに成れたのならば……

 我々は更に高く高く空にむけて伸びて行くことができるのでは?

 その思いが聖塔に集まり、それはその本当の高さ以上に、この「日本」の空に聳え立つ。

 思いがあれば、何処までも高くなれるのだと。

 信じる力さえあれば、この未曾有の経済的発展を越えて、「日本」はどこまでも高く高く昇れるのだと。

 レポーターは語る。

 視聴者に呼びかける。

 ——あなたたちはどう思いますか。

 我々は何処まで行けるのだろうかと?

 その問いに、

「どこまでか……」

 ハルオが考え答えを呟く前に…… 

 画面は今週のヒットチャートに変わる。

 ——虚をつかれた感じだった。

 ハルオは、自分が今まで考えていた答えが、なにか馬鹿にされたような気持ちになり、その言葉を呟くのをやめて、ビルから目を離し、路上を見る。

 下の通りには、夜中遊んでいたのだろう、疲れきった顔つきの若者が集団で歩いている。

 その横を通り過ぎる車の音。重低音を響かせるスピーカーから流れるハイエナジーサウンド。

 中年の酔っぱらいが信号の支柱に捕まりながらゲロを吐いている。

 通りに睨みをきかせながら派手な女と手を組んだその筋らしき者が歩く。

 ——渋谷。

 ああ、いつも通りの渋谷だ。昔からかわらない。

 外側が変わっても、そこには生々しい肉体があって——渋谷は渋谷だ——そう思い少しほっとして、ハルオは窓から目を離す。

 そして、テーブルに向かって振り返る。

 すると目の前には、その上に突っ伏して、気持ち良さそうに眠る夏美。

 その弛緩しきった表情に、少しクスリとしてしまうハルオ。

「この、お嬢さん、昨夜は随分と張り切ってたからな。こんな場所でもあっさりと寝てしまう程に疲れたのもしょうがないかな」

 そうハルオは呟きながら、夜の事を思い出す。彼の顔に少し緊張感が戻る。

 昨夜の事。それを考えると、思わず手を握りしめてしまう。

 あの青山の店での偽警官ども何者なのだろうか? 

 あれだけの人数を用意して、騒ぎを起こす事も厭わずに夏美を連れ去ろうとした。

 抵抗する者にはかまわずに警棒で打撃を加えていたし、目撃者も負傷者も沢山のあんな状態で——たとえ夏美をさらったにしてもたちまち足がついてしまいそうなものだが……

 構わずにあの騒ぎ。

 何故だ? 

 あれだけの準備をして来る連中がそんな事も分からないとは思えない。

 後の事はどうでも良いのか。

 どんな騒ぎになってももみ消す自信があるのか?

 それとも……

 ハルオは考える——いや感じた。

 言葉にできない感触を奥へ奥へとたどる。論理的に考えても分からない、自分の心の底にある、微かな違和感の正体を探った。

 あの連中の目的は、夏美を連れ去ろうとしたのは——紅葉の言葉を信じればだが——レイカの居場所を探る為なのだろう? それは、女の居場所を知ると言う事は、少なくても、あんなリスクを冒しても構わないような何かなのだ。

 レイカと言う女が、いったい何を持っているのか、何を知っているのかは分からないが、日本の今後を左右するとまで言われた女を探して、ハルオ以外の何者か達も動いているのだ。

 いやそんな話を丸ごと信じているわけじゃない。

 日本の明暗がいくら名家のお嬢様とは言え女子大生一人にかかっているなんて事が本当にあるかどうかなんて怪しいもんだと思う。しかし紅葉がディケムを飲みながら依頼して来た話だ……相当に大きな話である事は間違いはない。

 その目的の為に、ハルオにレイカの捜索を依頼した勢力と対抗する勢力が、なりふり構わないやり方で実力行使に出て来たのかも知れない。そう考えれば、あの地下の店の、出口を押さえ踏み込んで来たのは、目立ちすぎる事を除けば良い作戦だった。後の騒ぎの収拾の事など考えず、夏美を取り押さえる事だけを考えていたのなら、それは確実を狙った合理的なものであった。

 フロアから続く非常口の出口にも人を配置して、そちらから逃げる事もできないように、袋のネズミとする作戦だったようだ。

 普通ならそれで終わりだった。多勢で一気に押さえる。人も手間もかけられる組織の仕業のようであった。逃げ道は無いはずであった。

 ——しかしハルオ達には地の利が味方したのだった。

 彼が勝手知ったる店であったから辛くも逃げ果せたのだった。

 夏美の手を引いてスタッフルームに入ったハルオは、そこにある、スタッフと常連以外にはしられていない階段で一階に上り——ビルの間にある窓からまんまと脱出——そして裏の路地に止めてあったトモのスクーターで包囲をなんとか突破して逃げ仰せたのだった。

 なんとも幸運であった。もう一度同じ状態から逃げろと言われても二度とはできないかも知れない程に。

 思い返してみると——冷静に分析できるようになってみると——ますます彼らが万全を期してあの場に現れたのが分かる。

 バラバラなようでいて統制されていた動き。暴れるクラブの客達を連携して捌きながら確実にターゲットにせまれるように道を作り出していた。

 確実にプロの仕事。あれが自分達がクラブに入った後に即席でつくられた作戦なのだとすればなおさらに、状況に応じて融通無碍な作戦の組める手練たちの仕業なのだと思えた。

 しかし……

 それならば、とハルオは不思議に思った。

 レイカ本人でなく、その友達の夏美の確保の為にこれほど大げさな事をするとはなんなのだろうと。

 この夏美はレイカの居場所のかなり確度の高い情報を知っているのだろうか。それとも、微かな可能性でも逃さない為に、あの手の者を集団であちらこちらに配置させているのか?

 でも、この夏美の確保の騒ぎが何処からか漏れたならレイカに経過させてしまうのではないか。そんな事を構ってられない程、彼らはレイカに関する手がかりを欲している?

 こんな騒ぎを起こす事なんて全く厭わないほど、レイカは重要な秘密を知っている?

 本当に「日本」を殺すような……?

 ——ばかな!

 ハルオは、混乱していた。

 この街の表も裏も駆け抜けて来た自信のある彼にしても予測のできない事が起こっている様だった。

 何もかも曖昧模糊としてはっきりせず、見通しがきかない。気味が悪い。

 しかし、

 それならば、

「別に何が答えでも良い」

 ハルオは声に出して呟いた。

 奴らは必死で、そして俺の仕事の邪魔をしようとしている。

 それならば俺はそれに必死で抵抗をしないといけないだけだ。

 そう思うと、ハルオの顔からは笑みがこぼれ——その事に気づいた彼はそんな自分の事がおかしくて更に笑う。

 なんとも、

 自分は、

 ——楽しいのだった。

 この「日本」で、こんなゾクゾクした体験をするのが楽しくてたまらない。

 そう思うと自嘲気味の笑みがハルオの顔に浮かぶ。

 大嫌いだ、こんな街。しかし、そんな大嫌いな街でしか、彼は自らを楽しませる術をしらない。全く、大嫌いだが楽しくてたまらない——自分。

 ハルオはそんな自分をあざ笑いながら、視線をまた窓の外に移す。

 視野一杯に広がる大モニターには、東京湾から山手線内に移動したヘリコプターが上空から映した、東京の姿が映し出されていた。

 まるで、自分も上空からこの街を、果てしないビルの連なりを眺めているかのような、錯覚をする大きな映像。

 ひたすらに高層ビルの続く、この単調にも見える風景は、ビルの間を縫うように走る高速道路の上の車のブレーキランプで真っ赤になった曲線により縁取られて行く。

 その風景にオーバーラップして映される、今日の日本の株価。ひたすらに右肩上がりに上がって行くその曲線は、様々な色合いで街を切り裂き、そしてフェイドアウトして消えて行く東京の映像。

 少子化対策だとか言う名目で流されている噂の、薬物防止とか公共道徳を説いたりする小ドラマの中でセックスを暗示させるシーンばかり出て来る妙にエロティックな映像。

 そして、また株価のグラフ……

 ハルオは映像を眺めているうちにぼんやりとしてきて危うくその映像の中に、その薄っぺらい表面の中に自分が入り込んでしまって行く……

 逃げようとするが逃れられない、そんなあり地獄に入り込んだ蟻ででもあるかのような気分になっていた時。

 ——テーブルの上のハルオの携帯が震えた。

 トモからの返信のメールだった。

 ハルオがバイクの置いた場所を知らせるのと一緒に、彼がその時思いついたある仮定を確かめるのを頼んだメールの返信であった。

 その仮定が正しければ夏美は……と、

 ハルオはそう思いながらメールを読み、

「ああ、やっぱり」と呟くのだった。


 すると……


「あれ、朝になりました?」と夏美の声。


 確かに——いつのまにか——ハルオがメールに気を取られていたほんのこの数分の間で——夜が完全に明けたのか街はすっかり明るくなっていた。

 明るくて目が覚めたのか、いつの間にか顔を上げていた夏美が、寝ぼけ眼をこすっている。

 それを見て、あの騒ぎの後でこんな本気で寝れる夏美の度胸にむしろ感心しながら、

「……起きたか」とハルオ。

 頷き、

「何か……」と夏美。

「何か? ……取りあえず何も起きてないぞ今の所」とハルオ。

 すると、ほっとした顔の夏美は、

「あ……そうでした。良かったです」と。

「下手な所に潜伏して、いつの間にか囲まれるより、こういう人目の多い場所にいた方が奴らも手を出してこないのでは思ったけど——取りあえず今の所見つかった様子も無いな」

 ハルオは今座っている二階席の窓際から、ずっと油断無く街を見張っていたのだが、今の所あやしい動きをする連中が見える所に現れている様子は無い。

 もちろんここから見えない場所で彼らの様子を伺い、中から出て来る瞬間に夏美を捕らえようとしているのかもしれないが。

 どちらにしてももう少しして街の人通りが増えて来たならば、あの連中もそんなに大げさな騒ぎは引き起こせないのではとハルオは考える。

 もう1時間ちょっとはここにいてそれから動き出そう。

 そしてこの子との約束を果たし……


「昨日は面白かったですね」


 考え込んでいるところを虚をつかれ、

「お、おもしりょい!」少し噛みながらハルオは言う。

 冷静なハルオが噛んだのがよほど可笑しかったのか、声を出して夏美は笑う。

「なんですか花山さん……間抜けな反応ですね」

「お……おい、面白いって」

 あの騒ぎを面白いと言う夏美の度胸にあきれながらハルオは言う。

 すると夏美は、

「だって面白かったじゃないですか。そりゃ途中ははらはらしましたが、終わってみればなんとやらですよ。バイクで逃げまくるなんて、あんな興奮……私いつの間にか叫んでました」

 と話しているうちにまた興奮して来た様子。

 そして、目立つから止めろとハルオが目で合図するのにも気付かずに、

「『うわぁ——!』 って」

 とそのまま本当に叫ぶ。

 慌てて口に手を当てて静かにと示すハルオ。

 てへっと言った感じに、舌を出す夏美。

 まったく——ため息を出しながらも、怒る気もうせるハルオであった。

「でもほんと良く逃げれましたね。あんな状態から」

 とハルオの嘆息に気付かないのか、無視をしてか、続けて話をする夏美。

 それに、

「ああ、まったく」とハルオ。

 この言葉は、彼のまったくの本心であった。

 本当に良く逃げれたものだ。

 あのクラブから脱出した後も、連中は車を飛ばして追いかけて来たけれど……

 骨董通りから、二四六。そこで、車が入れないビルの間を抜け、外苑西通りから原宿方面に向かう。代々木公園でバイクを乗り捨てると、そのまま公園の中に忍び込んで、ほとぼりが冷めたと思えた当たりで渋谷の街へ下りて来た。

 夏美はせっかく隠れていたのに何故また街中に戻るのかと不思議がっていたが、それは様々な場を経験している、ハルオ一流の判断の結果だった。。

 相手がどう言う規模の組織か分からないまま下手に東京を動き回って見つかるよりも——むしろ見つかった後の事を考えてハルオは逃亡先を選んだ。

 夜でも人通りの絶えない渋谷に行き、もし彼らがハルオ達を見つけたにしても、目撃者が満載の大立ち回りをしないと捕まえられないようにと考えたのだ。

 連中がどれだけの決意をもって事に当たっているのかは分からない。

 しかし——ハルオには確信があった。

 連中は、昨日、あの青山のクラブの他にも、二人に接触し夏美の誘拐をするチャンスなど沢山あったのに、あえて手間がかかっても、芝居をうって——騙そうとしていたのだ。

 結果、企みはばれて騒ぎになってしまったにしても。

 騒ぎが起きてしまってからはそれを気にしないでいたにしても……

 奴らは無制限に目立って良いと思っているわけではないし、無意味に賭けを打って来るわけではない。周りに介入されたり、邪魔されたりしないような、確実な方法を仕掛けてこようとしている。

 ——ハルオにはそう思えた。

 なので今晩は、なるべく人の多い場所に居れば良い。奴らが望まないような不確定要因の多い繁華街にいればよい。と、そこでやって来たのが渋谷だった。

 俺たちは人のごったがえすこんな場所で堂々としてればよい。木を隠すには森。次々に押し寄せる人の波に隠れて人間一人一人の比重の軽くなる場所。

 そう思いハルオは、このハンバーガーショップにやって来たのだが、

「お前疲れてないのか」

「え?」

 夏美には少し悪い事をしたかと思っていた。

 何とかソファー席は取れたものの、こんな騒々しく、落ち着かない場所で夏美はテーブルに突っ伏して眠っていたのだ。

 そんなんじゃ疲れは取れないのではないだろうかとハルオは思う。 

 元気そうな様子ではあるが、もしかして空元気になってはいないだろうかと心配していたのだった。

「いや、疲れられて、足手まといになられても困るなと思ったからな」

「……? 大丈夫ですよ? 一眠りしてすっきりしました。あの人達がまたやって来ても元気一杯で逃げれますよ」

 にっこりと笑う夏美。

「こんなテーブルで寝ても大丈夫だなんてさすが若いな」

「大学のテストの一夜漬けで徹夜は慣れてますから。これだけ寝れればもう十分ですよ」

「ああ、なるほど——おまえはそう言う奴だろうよ。たいしたもんだよ」

「へへぇ」

 一夜漬けを揶揄する発言に、褒めていないのに勘違いして自慢げな夏美の表情。

 それを見てハルオもくすりと笑ってしまう。

 いかにも計画性のなさそうな、しかしそれでもなんとかしてしまいそうな、そんな勢いを感じる夏美。

 一日一緒にいただけでも分かる、素直で一生懸命で、もの凄くポジティブな性格……

 しかし、それだからこそ、ハルオは、そんな夏美が昨日から時々見せる影が気になる。

 違和感。

 なぜこの子はそんな表情を見せる?

 必死に楽しもうとしている。

 痛々しいまでに何を求めている?

 いや、何に追われている?

 それは、この子の正体が……ならば?

 ハルオは彼女を見つめたまま色々と考えを巡らせるが、

「ところで……」

 と言う夏美の言葉で、考えを中断させられる。

「ん?」 

 夏美の真剣そうな顔に彼の考えが感づかれたのかと身構えるハルオだが、

「——若いな、なんて花山さんは何歳なんですか。よっぽど年寄りなんですか……そういや少し年齢不詳ですが」と気の抜ける夏美の言葉。

「まだ三十だよ。でもな二十代後半で体力はいちどどんと落ちて来るんだよ……若さにまかせてこんなとこのテーブルで寝ていたりしたらあっという間だぞ」と内心ほっとしながら答えを返すハルオ。

「あっという間?」

「体力がどんどん落ちて、あっという間に無理ができなくなってしまう。こんなのは今日だけにしておきな」

「今日……はい……そうですね」

 少し悲しそうな夏美の表情。

 ハルオにまた走る違和感。

「でも、嬉しいです」

 嬉しいと言う、夏美の言葉に、虚をつかれるハルオ。

「嬉しい?」

「——今日だけにしても、こんな風に一晩中騒がしく動いて、こういう所で居眠りしたりして……こんな友達達がやってるような当たり前のこと私もやってみたかったんですよ」

「……お前」

 ハルオは、夏美もお嬢様なりに抑圧された青春で苦労してるんだろうなと、彼女になにか元気づける言葉でもかけてやろうとするが、それが出てこない。適当な、気が利いた言葉ならいくらでも口からすらすらと出て来るのだが、それではいけないような気がしていたのだった。

 良くは分からなかった。何がハルオが軽口を叩くのを止めているのか。しかし、思い当たらなくても——何にしても、ハルオは口を開く事ができない。

 その結果、しばらくの沈黙。

 騒がしい店内で、この一画だけが妙に静か——騒がしいまわりから浮かび上がるかのように、ますますその静かさが浮かび上がる。

 何か話さなければならない。

 ハルオはそう思って口を開くのだが、本当に話すべき言葉は現れず、頭の中から脱出する事ができないままぐるぐるとその周りを回り……

 すると、

「あの……お話してしまった方が良いと思います」

 沈黙を破ったのは夏美の方からだった。

「何を?」

「花山さんがこんな私に一日つきあってくれたのはレイカのためですよね」

「レイカのため……って、少し語弊のある言い方だが……お前がその情報を教えてくれると言われて……と言うのでこうなったのは事実だな」

「彼女の事、話したいと思います」

 ハルオは思わず息を飲む。

 何故?

 それは、夏美からレイカの居所を聞き出すと言うのは、今回の依頼の目的どころか、途中の通過目標に過ぎない。夏美からレイカの情報を聞き出すと言う、そのこと自体は大した話では無いはずだった。

 夏美をうまくおだてて、なるべく早く教えて貰えたら、さっっさとレイカの捜索にかかる。そんな風にハルオは思っていたのだった。昨日は——夏美に会う前は、友を金でうるような女から、どうやってうまく情報を引き出そうかと考えていた。

 しかし、どうも案件は、事前にハルオが考えていたのよりも複雑であるようだ。この謎の依頼の中で、レイカを探す手段と言うだけでない、もっと重要な役割がこの夏美にある。

 ハルオは彼女に在った瞬間から、彼のカンはそう伝えていたし——メールでトモに頼んだちょっとした調査から——実はその真相もの一部も分かり始めていた。

 だからハルオは知っていた。

 この後の夏美の話す言葉の重みを。

 だから、

「いいのか?」と真面目な顔をしてハルオは言う。「まだ約束を果たしてないぞ」

「約束?」

「まだ買い物が済んでないだろ。お前が満足する買い物できたら教えてくれる約束だ」

 夏美はその事にはあまり関心のなさそうな表情。

「……ああ、そうでした。でも今、話した方が良いような気がしたんです」

「何故? 俺は話を聞いてしまったら、約束なんてやぶって、お前を放っておいて、さっさとレイカを探しに行ってしまうかもしれないぞ」

「花山さんはそんな事するんですか?」

「……するかもしれないぞ」

「そうでしょうか? そんな人には見えませんけど」

「お前人を簡単に信じすぎるだろ」

「そう……でもないと思いますが……結構人を疑ってばかりの環境にいると思いますが」

 少し悲しそうな顔の夏美。

「そうなら、なおさら俺なんて信じるのはおかしいな。人を騙すのが商売みたいな俺を」

「あれ、紅葉さんから、探偵だときいてましたが、詐欺師でしたか花山さん」

「ああ、その二つあんまり違わないかもな、騙して人から情報を引き出すか、金を引き出すかの違いで……正直、仕事でも、プライベートでも散々と騙して来たのが僕だよ……そんな男を信じない方が良いと言う事だ」

「でも……」

 夏美はにっこりと笑い、

「今の花山さんは私を騙したりしないでしょ。それは信じてます」

 沈黙。

 思わず頷いて、少し照れて、黙ってしまうハルオ。

 それを見て夏美は更ににっこりと笑う。

 そして、

「それじゃレイカの事ですが……」

 改めてレイカの事を話し始める夏美。

「私はあの子の事は嫌いです」

 唐突な夏美の言葉にびっくりした表情のハルオ。

「いつも自分を飾っていて、自信があるふりをして、でも弱くて、嘘つき。人の事気遣ってるつもりでも、結局自分のことしかできない」夏美は一気呵成にここぞとばかりに話し始める。「周りに助けられてばかりなのに、意地を張って自分でやろうとしてうまく行かない。助けを求めるところで言わないからです。でも尻拭いをするのは周りの人たち。全くひどいもんです。そんな自分の事は自分で一番分かっているのに、決して変わろうとしない。怖いんです——変わるのが。今のちっぽけな自分が、その持っているちっぽけな領土まで失うのが怖くて、その中に閉じこっもって、そこより他にはどこにも出ていかない」

 堰を切ったように話し出す夏美に呆気にとられて黙ってしまうハルオ。

 夏美は更に話を続ける。

「……甘えているんです。他の人たちみたいに自由に生きられないことを恨んで、羨み、自分が悲劇の主人公にでもなったつもりになっている……まったく、レイカなんて大嫌いです」

 ここまで言うと夏美は下を向いて一瞬の沈黙。

 ハルオはそれを見て、すこしあきれたような表情になりながら、

「なるほどな……」と。「お嬢様なりの苦労があるのかも知れないが——あんまり良い奴じゃないようだな。レイカと言う女は」

「そうです」頷く夏美。

「じゃあ、確かに——そんな女の居場所はさっさと僕に言ってしまった方が良いんじゃないか。そんな女を売るのに何の罪の意識もないだろう。紅葉はお前にいくらでも小遣い渡してくれと言ってたんだ、教えるのをこのまま渋ったって、それで何か変わるわけでない。ここでさっさと教えて貰った方が、仕事的には確かに僕も嬉しいが……」

「が?」

「仕事柄、どうしても疑うことから考えを始めてしまうんでね……なぜ唐突に心変わりしたような奴を、俺は信用しないのでね」

「いえ……違います。心変わりでなく……」

「でなく?」

「もう十分に花山さんには迷惑をかけたので、このへんでもう終わりにした方が良いのではないかと思ったのです」

「まあ、そう言うのを世間では心変わりと言うが……理由は俺に迷惑がかかるからか?」

 頷く夏美。

「はい」

「じゃあ——だめだな」

「だめ?」

「俺の迷惑なんて関係ないからだ——約束をまだ果たしていないのに——結果だけ貰うなんてだめだな」

「なんでですか? 花山さんだって早くレイカの居場所が分かった方が良いんじゃないですか」

「ああそれはそうだが……お前は良いのか」

「良いのか? 俺に気を使うのは良いがレイカに気を使わなくても良いのか。確かに、お前にはレイカの居場所を教えてもら絞ければならないのだが——今日、ここでばらしてしまうことはレイカに悪くはないのか」

「いいんです!」

 少し声が大きくなる夏美。

「いいのか?」

「いいんです。あんなやつなんか……本当の友達なんて誰もいないんです、誰にも近づこうとしないで、自分を守ろうとばかりしている臆病者……」

「で? それが、裏切っても良い理由には聞こえないけどな」

「……でも」

 言葉が詰まり、少し顔を伏せる夏美。

 気づくと大声になっていた二人の事を店内の全員が横目で見つめている。

 夏美が話をやめると、物音ひとつない静かな店内。

 顔を上げ、自分が注目を浴びているのに気づき少し頬を赤くする夏美。

 それを見てハルオは微笑み、

「なあ、まだ一日の付き合いだけどな——らしくないと思うぞ」

「らしくない?」

 夏美は虚をつかれたような顔。

「今のお前の言ってる事は——お前らしくない。お前は友を裏切るような奴じゃない」

「そんなことはないです! 私は……レイカを売る為にこうして花山さんと……」

「いや、最後はレイカの居場所をお前が教えてくれるにしても、それは裏切りじゃない」

「そんなわけは……」

「なくはない!」

 勢いに推されて一瞬言葉をとめる夏美。

 にやりと笑うハルオ。

「……なんか、花山さん、言ってる事が意味不明な上に、強引すぎます」

「いや、俺みたいな商売をやってるとな……人のつく嘘には敏感になるんだよ——ましてや間抜けな奴のつく嘘にはな」

「間抜け?」

「もちろん、お前の事だよ」

「そんな——」少しムッとしたような顔になる夏美。「そんな事言われたら私、レイカの居場所を話さないかもしてないですよ」

 顔ににやりとした表情が浮かびながら、

「それでいい」とハルオ。

「それでいい?」

「今は——だ。お前はまだ嘘を隠している。そんな嘘の中からでてくる回答はいらないね、そんなものは偽の正解だ」

「——そんな、私はすぐにレイカの居場所を教えますよ。嘘なんてつきません」

「いや、その嘘じゃない」

「いえ——居場所の話をすれば、どういうことか全部はっきりと……」

 ハルオはまた優しく微笑む。

「それでもだ……」

「それでも……?」

「お前がらしくない行動をしてるとすれば、それは不自然な結末にたどり着く。それで表面上の謎は解けたとしても——僕は心の奥にやもやとした解けない謎をその後残してしまうのさ。なので——らしくない回答なんてお断りだね」

「……でも」

「——でもだ」

 ハルオの真剣な目を見てため息をつく夏美。

「まったく……紅葉さんの言った通りですね」

「紅葉?」

「ええ、紅葉さんは言いました。花山さんは『あなたの嘘なんて全部見破るから』と」

 頷くハルオ。

「なので『心配しないで私の元カレに精一杯甘えて来なさい』と」

「……は?」

 夏美の言葉に照れたハルオが黙ってしまうと、夏美もなんとなく次の言葉を出せなくなってしまった。そして二人とも静かになると——それに反比例するかのように騒がしさを増す店内。

 いままでの二人の言い合いなんてまるで気にしていなかったとでも言うような様子ではあるが、逆に二人を無視しすぎる事でまだ意識している事が丸分かりの周りの客達。

 少し目立ち過ぎた。

 ハルオは思う。

 注目——それは追手に見つかる危険の増加と言う意味でもまずいが——なによりちょっと恥ずかしい。何か、恋愛のもつれで修羅場でにでもなっているカップルででも眺めているかのような他の客の様子に気づき、夏美も思わず下を向き、赤くなり、

「ここ、出ませんか」と。


 二人は店を出る。

 すっかり朝になって、人通りも多くなった渋谷駅前。

 これだけ人が増えて来たのなら、あの連中もそんな簡単に手出しはして来れないだろうとは思いつつ、しかし油断する事無く周囲に目配せをするハルオ。

「まだ中目黒の店が開くまでだいぶあるけど、それまでに行きたい所はあるか」

「いえ、特には無いですが……このまましばらく散歩なんてどうですか」

「散歩?」

「ええ、夜遊び開け、こんな風な朝方の若者の街を目的無くぶらぶら歩くなんてやってみたかったんですよ」

「『若者の街』ってお前はおばさんか……」

 ハルオの言葉に、またほっぺたを膨らませる夏美。

「おばさんってひどいです花山さん……私なんかよりずっとオジサンのくせに」

「おいおい、そう言う意味じゃなくてな……」

「じゃあどう言う意味ですか」

「いやそう言う意味でもなくて……」

 しどろもどろになるハルオ。

「じゃあ意味は言わなくても良いかわりに——散歩に文句は無いですね」

 もはや何に腹を立てたかを忘れかけているような夏美。

 それをみて微笑ましくなって笑うハルオ。

 幸せそうな様子。

 楽しそうな二人。

 風はまだ肌寒いがぽかぽかと照る太陽が心地良く、さわやかな……

 しかし——この日。

 この後起こるだろう事件の数々を思えばあまりにも静かな——静かすぎるためかえって不気味な感じを覚える朝なのであった。

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