第6話 銀座

 新橋駅から海側の、すっかり高層ビル街となった汐留側ではなく、銀座に向うと現れる、昔からのビルが立ち並ぶこの界隈は、「君ら」の世界の雰囲気をいまだ色濃く残したエリアだといえる。

 昭和の昔よりある古びたビルの中には、大きな会社や小さな会社様々であるが、昔ながらの日本の会社が、昔ながらの看板を掲げて商売をしている。

 もし君らが突然この世界に紛れ込んだとして、そして現れた場所がここならばその事に——君らはこの「日本」に紛れ込んでしまったと言う事に——気づかないのではないか?

 つまり、そんな、昔から変わらぬ、街並みがそこにある。

 全てを狂躁の経済の中に取り込んで変貌させるこの世界の魔手も——この「日本」も——ここまでは手が出なかったと、一見、見えるだろう。

 しかし、違う——。 

 ここにも、確かに「日本」は浸透し、この街をも満たす。

 街並が変わらなければ——いや外見が変わらなければなおさらに——その違いはその中に、その内側に現れる。何しろ、この「日本」と言えば、あのバブル経済の時がおままごとに見えるような馬鹿騒ぎだ。いくらもとは真面目な会社だったにしても、少々たがが外れてしまうのはしょうがないことであった。

 例えばここ、社員百数十人ほどの創業四十年の業務用ユニフォーム製造会社も、そのたがが少し外れ気味の会社のひとつであった。この銀座近くの本社事務所と別に構えた板橋区の工場敷地の転売で財をなし、そのまま製造拠点を海外に移したが最後——本業の製造で培った質実剛健の社風も乱れている真っ最中なのであった。

 何十年も必死に働いて得た儲けの何十倍もの収入が、一時の土地売却で出てしまうとなれば、苦労人の社長、いや苦労人だったからこそ、自らの価値感がひどく崩れ去るのは同情の余地はあるとは言え……

 ——ともかく、この狂躁の経済の中での自らの微力に少々自暴自棄気味となった彼の社長は、持ちなれぬ大金を持って通いだした銀座の高級クラブ、そこでで知り合った、環境デザイナーとかいう肩書きの持った男の言うとおりに、社内は改装され、イタリアの新進作家の作だとか言われた妙に華美な家具やら照明やらを置きまくられる事となる。

 美しく、華美で、中身の無い内装。妙に豪華な雰囲気に、古くからの社員はどうも居心地の悪そうな表情であった。

 しかし、この「日本」でこのくらいの贅沢は——みすぼらしい社内で取引先に馬鹿にされては商売にもかかわるだろうと、古参の社員達もむりやり自分自身を納得させるのだが……

 これだけは……と彼らがいまだ慣れないもの、それは、職場に突然入って来る、妙な格好の連中であった。

 古参の課長の顔つきが厳しくなる。

 入ってきのは六人。全員同じ格好だった。

 どうもその服装は制服らしいが——妙に未来的でキラキラと銀色に光るつなぎの服。

 持っている道具から見るとこのフロアの掃除に来たようなのだが、一見掃除の作業者には見えないやたらと眉目秀麗に見える若者達。

「皆様こんにちわ」とリーダーと思しき、若者たちの中でも特に押しのつよい風貌をした男が言う。「本日のインシデントチェックです。ご協力よろしくお願いします」

 若者達は男女のペアで三組に分かれると、社員の間を練り歩き、ゴミ箱の中身をポリ袋に入れたり、不在の社員の机の上をふき取ったり、つまり——掃除をしていた。

 しかしこの掃除をしている会社、INTS社、インテグラル・セキュリティ社によれば、これはPSD、つまりプロアクティブ・セキュリティ・デザイアーとか言う、この会社以外からは誰も聞いたこともないような作業との事であった。

 会社内のセキュリティ事故を未然に防ぐプロの仕事とは言うが、見ているものには、勿体つけた掃除にしか、正直なところ見えないし、実体もそんなもの。

 事の発端は、半年前、誰かが、取引先からもらった商売相手の名簿を何の気もなしに雑誌と一緒にゴミ箱に放り込んだ時の事であった。

 ——それを見つけたある取締役が、この個人情報に厳しい世の中で(ここは君たちの日本と同じ)、何をやっているのだと、激怒したとの話しを、何処からか聞きつけて現れたのがこのINTSと言う会社であった。

「最近ではセキュリティの有る無しが会社の明暗を分けます」と営業にやってきた中年の男がもみ手をしながら言う。

「その通りだ」と取締役。

「我々に任せてもらえればまったく心配ありません」

「問題ない、やれ」

「問題ない? ……それはご採用と言うことでしょうか」

「どう聞こえた」

「そのように……でも、まだ料金もお伝えしておりませんが」

「金で良いならいくらでも出すぞ」

「そう言いましても我々のサービスは少々お高いのですが……とりあえずお値段をお伝えさし上げてもよろしいでしょうか」

「ああ、言って見なさい」

 INTS社の営業は、取締役の顔色をうかがいながら、

「ええ……それではこちらの希望ですが一千万円でどうでしょうか」

 取締役の顔色が少し厳しくなる。

「ああ、もちろんもう少し値引きはできると思うのですが」

「値引き? 何の話だ」

「……え?」

「値引きしろなんて誰が言った? で、その一千万とかいうのは一日の値段か?」

「……まさか一ヶ月でございます」

「安物じゃないのか」

「はい?」

「それは安物じゃないのかと聞いてるんだ」

「……もちろん安物なんかじゃありません。我々は万全なセキュリティを絶え間ない企業努力でご提供ささせていただきます。ご紹介差し上げたプランでも十分な安全を保障差し上げることが出来ると考えております。しかし……」

「しかし?」

「先進的かつ確実なイノベーションを目指す御社にはこれではとても満足いただけないのではと私も考えました」

「で?」

「通常のお客様にはご提供差し上げていないのですが、特別なお客様向けの特別のプランがございます。一ヶ月三千万円でいかがでしょうか、内容は、まず私どものトップクラスのセキュリティコンダクターが一日二回訪問して……」

「いやもうよい」

「もうよい?」と、少し吹っかけすぎたかと落胆の表情で、営業。「いや、内容をもう少し説明させていただければ、きっと価格分の内容が入っていることがご納得いただけるかと……」

「いや説明はいらない。それでよい」

「は?」

「ずいぶんと良い値段だ。それならば良いものだろう。そうだろう?」

「……もちろんでございます、当社の最大限の人材を投入し、必ずやご満足を……」

「まあ、内容は後で担当に伝えてくれ。ともかく、それでよいのでやってくれ」

「ありがとうございます!」

 ——と言うわけで、この会社にはやたらと派手なゴミ掃除会社が来ることになったのだった。

 今日もまた現れたモデルのような清掃員達を見て課長はまゆをつり上げる。

 しかし、だんだんと彼のような者は少数派になっていた。

 なにしろやたらと美形の男女が妙に身体の線を強調したような服装でゴミ掃除にやってくるとあっては。

 実際にそれが始まってみれば、最初は反対していた、おじさんおばさん社員の評判もすこぶる上々で、それがこの会社の効率をあげているのだと若手管理職達に説得され続ければ、

「まあ良いか、金などいくらでも沸いてくる」と、

 胸の谷間を見せた服装で机を拭いてくれる美女を前にして、退職間近の課長の質実な信念も、あっさりと曲がってしまうのであった。


   *


 アキラとトウコは、夜の銀座に、こんな時に目立たないように移動する為に所有している白いトヨタのマーク2で乗り付ける。

 数寄屋橋を越え、路地に入ると、運転手に指示して、路地を何回か曲がり目的地につく。

 すると、店の入り口で立って待っていた仲居は、穏やかな表情ながら、油断無く当たりを見渡すと、

「大丈夫でございますよ」とスモークガラスを少しだけ開けた車の後ろの座席に向かって話しかける。

 ドアが開き、アキラが、そしてトウコが中から出て来る。

「美森様はもうおつきになっております」

 アキラは無言で頷く。

「それではご案内いたします」

 仲居について二人はビルの中に入る。

 地下に階段で下り、日本料理屋の入り口をくぐり、一番奥の個室へと入る。

「おお、アキラ君ついたかね」

 話しかけて来たのは、仲居の言っていた美森と言う男だった。

 座敷に胡座をかきすわり、日本酒を手酌で杯に注ぎながら、赤ら顔に満面の笑みを浮かべていた。

「座りたまえ……いや飲みたまえよ、さすがこの店の選んで来る酒は逸品だな」

 座り、席に用意されていたお杯に美森が注いだ酒を一気に飲み干し、

「うまいですね」とアキラ。

 すると、自慢げな表情になって、

「ああそうだろ。今の日本にこんなまじめな酒作ってる所がまだあるんだな。酒蔵なんて今の時代、目端が聞く所は、みんな蔵つぶしてマンション建てたりばっかりに一生懸命で、酒作るの忘れてしまったかと思ってたがな。酒なんてそんな金儲けに出遅れた貧乏な蔵から買いたたいてくれば良いしな、あれそれじゃでも最後は酒造る所なくなってしまうか……はは、どう思うかねアキラ君」と美森。

「……でも日本も、東京みたいな場所ばかりじゃないですから」

「ああ、そうだな。このふざけた東京にばかりいると、日本中が金儲けばかりしてる気になるが、田舎はこういう伝統を大事にして」美森はまた手酌で自分のお銚子に酒を注ぎながら「……真面目に生きてて欲しいな」と。

 伝統か——ハルオは心の中で舌うちをする。

 幾多の地方の伝統を、開発の名の下につぶして来た、こいつにだけは偉そうに言って欲しくないと思いながら——もちろんそんな感情はおくびにも出さないで、美森の言葉に微かに頷いてみせる。

 それを満足げに眺めた後、

「どうだね。トウコちゃんも飲んでみるかね」と続けて美森。

「はい」とトウコ。

 美森は自分の飲んでいた杯をトウコに渡す。

 トウコの席には彼女の分の杯は用意されていたのだが、深森は自分の口をつけた杯で飲めというのだった。

 相変わらずの下衆め……とアキラは思う。

 まるでトウコに嫌がられるのを期待し楽しみにしているかのような表情だ。

 嫌がる相手が自分の立場に屈服するのに倒錯した喜びを感じている男。

 アキラは心の中で悪態をつくが、しかし、もちろん、トウコは嫌そうな顔一つせずに注がれた酒を飲み、

「おいしゅうございますね」

「おお、相変わらずトウコちゃんは飲みっぷり良いね。どうだね、もう……」

 気分良くなって、さあもう一杯とつごうとするところ、

「いえ、いえ私がおつぎしますわ」 

 逆にトウコに注がれた酒を一気に飲み干して良い気分そうな美森。

 その瞬間、仲居に目配せをするアキラ。

 仲居は軽く頷き、

「それじゃ始めてくれ」とアキラ。

 ふすまを閉め、いなくなった仲居のかわりにすぐにやって来る給仕の若い女性。

 テーブルには次々に手間のかかった日本料理が並べられ、一同は舌鼓を打つ。

「ほう、これは! 自分のような貧乏役人風情が飲むような酒や料理じゃないなこれは。まったくアキラくんにはいつも世話になるよ」

 上機嫌の美森。

 まったく俗物だ。アキラは思った——しかしだから利用できると。

 こいつの俗物さに感謝しなければならないなと思いつつ、

「どうですか、近頃のご調子は」とアキラ。

「調子? 俺んとこか? 変わらないぞ。次から次へと仕事がやってくる。日本のあちこちから次々にわが町の開発お願いしますってやってくるからな」

「それだと休む暇もなさそうですね。この日本で開発が止まる事なんでないですから」

「そのとおりだよ、アキラくん。まったく心休まる暇も無くてね——いっそのこと日本が壊れてしまえば、俺も休めるのかな……なんてな」

「じゃあ、壊しちゃいますか」

「はは……そりゃいいや、やっちゃうか」

 アキラのふった話に面白がって乗って来る美森。

「あなたなら、できるかもしれませんね」

「そうだな、でも日本は無理でも今手間がかかっているあの地方をつぶすくらいはできるかもな……あの地方の議員連中の鼻をあかしてやるには……ため込んだ秘密をぱあっとばらしちゃって……そしたら……」

「——それ高く買いますよ」

 一瞬、美森の言葉が止まる。

 息を飲み込み、

「おい、おいアキラくん……きつい冗談はやめてくれよ」

 アキラは美森を一瞬にらみ、

 その目力で目をそらした彼を所詮その程度の男かとさげすみながら、

「はい、もちろん冗談ですよ」と。

 美森は、少し引きつった笑い顔になりながら、

「いやこんな話あの議員に聞かれたら……せっかく反対派も押さえ込んだと言うのに」と。

「押さえ込んだ? あの原発の話ですか」

「ああ、そうだよ。今度の誘致では五年前の新潟地震での停電事故を問題にされて随分揉めたからね」

「『電源車が間に合わなかったらどうなっていたと思う』ですか?」

「そうそう、だから今度は十分に安全対策をしてるから大丈夫なんだって、ボイラーも高台に作ったし、もしもにそなえて防波堤の建設も続いている」

「でも『それで百パーセントといえるのか!』と……」

「あれ、君もあの突き上げの場にいたかのようだね……そうそう、そう言われたよ……もちろん百パーセントなんてあり得ない、しかしね、世の中に百パーセントなんて物は何にも無いんだよ」

「そうでしょうね……そんなものは無い」

 だから、とアキラは思う。だから、と心に言い訳のできたとき、人はその元々の問題点も危険も一緒に忘れ、あっさりと逆の極論に走り、禁断の果実に手を出してしまうのだと。

「だろ……まったくあのの時もなんとか大丈夫だったんだ。この後もきっと何とかなるよ。そのくらいのリスクは発展の為にとるべきだとは思わないか」

「そうかもしれませんね」

 明言をさけて曖昧な返事をするアキラ。

 美森はそれが気に入らないのか更に続けて何か言おうと口を開きかけるが、

「でも美森さんは原発だけじゃなく、自然エネルギー開発も進めているとお聞きしましたが」とトウコが話に割って入る。

「——おお、トウコちゃんその話聞いてるのか。それ私の自慢でね。地球にやさしい開発を一生でなんでもよいから手をつけなければと思ってね。故郷の北海道に太陽光発電のプラントを……」

「素敵ですわ……」

 トウコのおべっかに機嫌治す美森。

 酒をつがれ、環境に自分がいかに気を使ってるかを語りながら機嫌良く杯をあける。

 免罪符だ。

 アキラは思う。

 美森はそうやって自分が善行と思える事をすることで、後ろめたいことの沢山ある自分の心を許している。自分の中にいつのまにか澱のように溜まっている罪の意識を洗い流すことができる物を深森は求めているのだった。

 そして彼にとってはこの太陽光発電がやっと見つけたそれなのだった。

 しかし、それは——彼の自慢の免罪符は——アキラには馬鹿らしく感じられる。この「日本」でも、まだまだコストパフォーマンスに劣る太陽光の開発は、他の発電方法にくらべ競争力も無く、それを成り立たせるため、税金で支えている状態なのだ。

 違うのは「君ら」の世界とけた違いにあふれている金により、自然エネルギープラントの建設は、君らの世界の何十倍も盛んであるという事。

 そこに集う金も何十倍でもあること。儲けも何十倍でもあることだった。

 しかし、それでも増え続けるエネルギー需要を満たすには遙かに足らないのだ。

 将来の太陽光発電への努力は決して馬鹿にするような物ではないし、今それを作る事も決して無意味な事ではないが。

 もしそれを善行と感じているのなら——馬鹿らしい。

 罪が善行で上書きされるわけでもない上に、善行もまだあやふやな物で——それで贖罪のつもりなのだとしたら……

 まったくなにもかも茶番にすぎない。

 アキラは心の中で舌うちをする。

 しかし、そんな話をしだして、場の興をそぐような無粋な事をする気はアキラにはない。

「今度、そっちの方も一度見てみたいですね」

「そっち?」

「太陽光発電の施設ですよ」

「意外だな」

「意外?」

「君が、こんな……自然エネルギーなんかに興味を持つのかと思ってね」

「そうですか?」

「だって……」

 少し言い淀む美森。

「こういうのは嫌いなんじゃないかと思ってね」

「何でですか」

「だってね……」

 美森は言ってしまえば、自分の心の矛盾を、さらけ出してしまうことになる言葉を——言わずに呑込む。

 彼も分かっているのだった。

 自分は、自分のやっている事のうち、善行と思える物にすがって心の平安を少しでも得たいと言う事。

 そしてそれが完全な善であるとは自分でも断言できない事。

 いや。将来のエネルギー多様性への投資。太陽光を誘致した地方への経済効果。それは彼が誇っても良い事だ。

 それは国民の税金を投資する、相応なリスクのある賭けなのだにしても、太陽光発電が現在に置いて無意味だなんて事は無い。

 それを選択して、エネルギーの可能性の一つとして追求する事は国家戦略としても不自然ではないし、国民の支持も得られているだろう。

 なので美森はそれを誇っても良い。

 その職務を有能にやりとげたのだから。

 その宮仕えの様々な苦労の上のなかから出て来るありがたい言葉なら、そんな言葉なら、アキラ素直に聞くはずだった。

 しかし、彼はそのような卑近な話でなく、もっと崇高な地球環境改善への寄与、のような事を褒めてもらいたいようだ。

 善行を積む自分を、自分自身が信じたいのだった。

 そのために自分が信じたい自分を、他者に再確認して欲しがっていたのだ。

 美森は頭の悪い男ではない。自分のやっている事が、この「日本」にとって、今どう言う意味を持つものかなんて良く分かっている。

 しかし、それ故に、彼は自分で自分を騙さねばならなく……

 だから……

 ——不安そうにアキラを上目遣いで見る美森。

 アキラはその視線から目をそらさずに、射すくめるように美森を睨んだ後、

「……いや、これだけ補助金がうなる施設は、いったいどんなもんなのか見たいと思って」と。

 すると、虚をつかれたような顔になって、

「……やっぱり君はそういう男だね」と美森。

 アキラはニヤリとする。

「ええ、もちろん。それに行くにしても、直ぐにはやっぱり無理ですね。ちょっとしばらくは忙しくて東京を離れるわけにには行かない。話をこちらからしておいててで申し訳ないですが、見学をお願いするのはもうしばらく後でで……」

 アキラが悪役になってくれたおかげで心の平安を得る深森。

 もちろん、アキラはそんなことは計算づくで、彼の逃げ道を作ってやったのだったが……

 しかし、それは美森への気遣いなどで出は無く、彼がこの後行うことに彼が最後に怖じけづいてしまわないように、彼の心の悪などアキラの心の虚無に放り込んでしまえるようにと思って行った行動だった。

 なので、

「ところで……」と美森に一瞬隙のできたこれが絶妙のタイミングと、狙いすくめた目でアキラは言った。

「何かね」と美森。

「例の物は?」

「ああ……」

 美森は自分の席の後ろに置いていたバックから、A3番の厚い冊子を取り出す。

「酔う前に、忘れないようにもらっておいた方が良いのではと思いまして」 

「いや、忘れないって……」

 美森がテーブル越しに渡す冊子をアキラは受け取ると、

「……これ手に入れるの大変だったんだからな。だから……」

「分かってますよ、来月、我が社がハワイでやるシンポジウムの際には期待しておいてください……」

「ああ……」

 美森はだらしない笑みを浮かべる。

 まったく、単純な奴。

 アキラは思う。

 酒と女と小金でも与えておけば、あっさりと倫理を曲げる。

 欲望の為に心を簡単に売る。

 そんなちっぽけな物の為に、ちっぽけな誇りを売り渡す。

 いやそれは、大した事ではない。この「日本」では、空気を呼吸するかのように誰もがやっている事だ。

 しかし、彼は、美森は知らない。

 自分が本当は何を売り渡し、何に加担しているのか。

 その代価はあまりに安い事をまだこの男は知らない。

 いや、こんな冊子くらい大した事はないと思っているのだろう。

 タワーの設計図。建設マニアのクライアントがいてそれを渡すとまとまる商談があるから。それがアキラの頼んで来た事であった。

 美森はそれくらいならと気軽な調子でアキラに設計図を渡すが、それが、まさか「日本」を悪魔に売り渡していると言う事も知らず……

 美森は笑う。

 アキラも笑う。

 杯が進む。

 少し口を付けただけで直ぐに下げられて、新しい肴が次々に運ばれて……

 更に飲む。

 夜は更けて行く。

 騒々しい夜が。

 様々な思惑と、策略の動く夜。

 ——そんな夜に、

 売り渡そう魂を。

 アキラは呟く。

 できるならば今夜悪魔は——ダダの時とは違い——他の事で忙しくありませんようにと。

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