第5話 青山

 夜、遠くに帰る人達の終電がそろそろ終わり始めるような真夜中までもう少しといった頃、いくらバブル真っ最中のこの「日本」にしても、平日の街は良い感じに人が捌け始め、残った者に少しの寂しさと後悔、しかしそれゆえの背徳的な期待を持たせてくれる……

 ——ここは青山。

 骨董通りの途中に止まったタクシーから出て来るのは、ハルオそして夏美だった。

「……本当にこんなとこにあるんですか」

 タクシーから降りるなり夏美が言う。

「お前が見てるようなガイドマップには乗ってないけどな……ここだよ」

「前のがちょっと期待はずれだったので、ここで取り戻しておきたいんです。花山さんのおすすめと言うのを信じて良いかは分かりませんが」

「なんだい、信用しないのならついてこなくて良いのに」

「だめです……花山さんは私を楽しませる義務があります。そうでないと……分かりますね?」

「はい、はい……レイカ様の情報は貰えません」

「『はい』は一回だけ……行儀悪いですよ花山さん」

「はいは……いや、はい」

 どうも今日は調子が狂いっぱなしと思いながら夏美と一緒に青山に立つハルオだった。

 タクシーからでると直ぐ後にニコニコしながら着いて出て来る夏美の姿を見てため息をつき、

「何疲れてるんですか花山さん。夜はまだまだこれからですよ」と怒られる。

 またため息をつくハルオ。

 女のあつかいが特に苦手だと言うわけでもないが、どうも彼のペースにあわない天然系の行動ばかりする、夏美には散々振り回されて、ハルオは、ほとほとに疲れてしまったのだった。

 大久保での買い物は、散々店を巡っても結局何も決まらなかったのだが、最後に通りかかった古着風のデザインの服をショーウィンドウに飾っていた店に惹かれて入ろうとした所でちょうど店舗の営業時間が終了。

 それで、落胆する夏美に「そんな服でよければもっと別の場所に行けばいっぱいあるぞ」と言ったが最後「すぐにそこに行く」と一気にまくしたてられて、そっちももう店は終わっていると言ってもなかなかあきらめず……明日午前中、開店早々に中目黒近辺を案内すると言う事でやっと納得してもらったのだった。

 で、少し不満げながら、しょうがないかと言った表情の夏美。

 それを見て、ともかく今日はこれ以上連れ回される事は無いとほっと一息つくハルオ。

 しかし、「じゃあ明日」と集合場所だけ決めてこのまま解散しようとした所、

「あれどこ行くんですか花山さん。まだ今日は終わってませんが……」と肩口をがっしりと掴まれて引っ張っていかれたのが、まずは、麻布の巨大ディスコだった。

 向かうタクシーの中、お上りさん用の東京ガイドブックを広げじっくりとその紹介をチェックする夏美。

 すると記事中に服装チェックがあってださい服を着ていくと中に入れてもらえないと言うのを見て不安がっているので、

「その服なら大丈夫だろ」とハルオ。「良く見たらずいぶん良いスーツじゃないかそれ、遊びに行くにはちょっと固い感じだけど」

「そうですか……なるべく可愛いの来て来たつもりなんですが……」

「おいおい……なんで落ち込んでんだ。その服なら十分過ぎるだろ……まあ確かに可愛くはないかもしれないが」

「そうですよね。これじゃモテないですよね」

「モテる? お前モテたかったの?」

 言われて真っ赤になる夏美。

「違います……いえそうじゃないけど、そう言う意味じゃなくて」

「……?」

「いえ……本気でそうなりたいかと言うと……でも……そんな体験もしてみたいなって……」

「……なんだかよくわからないけど、とりあえず男の気は引きたいわけだな……ならその服装も結構良いかも知れないぞ、キャリアウーマンとかが着てる服みたいで、クールな感じが男に受けるかも知れない」

 ハルオは、お前が着てるんじゃなきゃクールなんだけどな、と言う言葉が喉元まででかかるのを呑込む。

「……そうですか?」

「そうですかって男にうけるかって言うこと?」

「もちろんそうですよ」

「疑ってるな、安心しなよ。俺が保障する」

「……本当ですか?」

 頷くハルオ。

 まあ保障すると言うのは勢いで言っただけの安請け合いだが、まあ、どんな服着てたって、これだけ可愛い子なら、男の一人や二人は寄って来るだろうから、そこでうまく話を合わせておけばよいだろうとハルオは思っていた。それで、そこでうまく機嫌を取っておけば、情報を少しはしゃべってくれないかと。

 今日は夏美に散々引っ張り回されたあげく……思いどおりの買い物ができなかったと言う事で、まだ情報を渡すわけにはいかないと言われてしまっているのだったのだ。

 明日の買い物がうまく行ったなら何かしゃべってくれるとは思うのだが、それも確実ではないし、この件について紅葉の言う時間が余りないと言うのが本当ならば……

 そして、それが、彼女の言う程の大事なのだとすれば……

 情報を入手して動き出すのはなるべく早い方が良い、とハルオは思った。

 ——紅葉は最悪は四日でも危ないといっていたが明日でその内の二日を使ってしまうのだ。

 昨日紅葉と分かれた後に、朝までかけて集めた情報も、今日はろくに分析できていない。

 この後、この夏美がよこす情報が、有効とは限らないのだ。

 夏美の情報なんて……レイカの好きなカフェでも教えてもらって、逃亡中の彼女は、友達みんなが知っているそんな場所には近づかないとか——彼女にしては大した物だと思っていても、知ったからと言ってどうしようもない情報だけで終わってしまうかも知れない。

 彼女から、知っている事をなるべく早く聞き出して、その情報の判断をしなければならない。彼女からの情報をあきらめて別のもっと有効そうな別の捜索方法を探すか、早急に決めなければならない。

 なので、ディスコでは夏美をせいぜいおだてまくろうと思ったのだが……


「しかし、おまえ、実は男性恐怖症?」

「……違いますよ!」

「でも、さっきのディスコで、声かけようと男が近寄って来そうになったら全部逃げまくってたじゃないか」

「あれは店が悪いんです!」

「店?」

「男達はみんなぎらぎらして、獲物を狙う獣みたいな……」

「そりゃ、そう言う場所だからな」

「そんな場所は許しません!」

「お前に許してもらわなくても、あの店はまったくかまわないだろうけどな、でもそれなら……」

「それならなんですか!」

「ああ言う所嫌いなら……別の店に行くなんて言わずに、今日はもう帰った方が良いんじゃないか」

「そんなわけに行かないですよ。帰ったら今日は終わりですよ」

「終わり……?」

「……いえ、いや、いいんです。気にしないでください……」

「ともかく、良く意味分からないが、夜まだ帰りたくないなら、他の店にした方が良いんじゃないか? ここだってさっっきよりはましだけどナンパ男はそれなりに寄って来ると思うぞ」

 ハルオは店の入り口の青い看板を指差す。

「……っ、いえ、望む所ですよ」

「望む所?」

「当たり前じゃないですか、そんな連中みんな返り討ちですよ。私はお高い女ですからね……」

「返り討ちにしてどうすんだよ……と言うか……お高いねえ……言ってる事と行動があっていないが……」

 ハルオは、ため息をつきながら、このお嬢さんをどう扱ったらよいものか考える。

 さっきのディスコでは、男がよってくるなり怖がって逃げてしまうので、機嫌を取るどころでなく……パニック状態の夏美。

 それでも、店が悪いんだと言う夏美の主張に、この娘でももう少し落ち着けそうな店にと思ってハルオがつれて来たのが骨董通りのこの店なのだが……

 さっきのディスコに比べれば、音楽好きや踊り好きが多く集まり、ナンパなんかも比較的少ないし、平日の、もう日も変わる頃なら人もだいぶ少なくなっているだろうから、過ごしやすい場所のはずなのだが……

 でもあの調子だとこの店でも緊張してあまり楽しめないのではないか、とハルオは心配する。

 何人かは声をかけて来る連中もいるかも知れないし、あの調子だとその度に過剰反応で逃げ回って大変なことになるだろう。

 逆に誰も声をかけてこないと、モテてないと落ち込みそうだし……

 ——声をかけて来たら焦って逃げ回る。

 ……どちらにしても、夏美はここでも、レイカに関する情報を彼女は話してくれないだろうと言う事だった。

 それなら、今晩に話をしてもらうのは半分もうあきらめているとして、ハルオは、さっさと帰って調べてる情報の整理か、明日以降に備えて寝てしまいたいのだが……

 さっきのディスコでの惨状にも関わらず、場所が変われば何とかなると信じきってポジティブにこの店にチャレンジしようとしている夏美を止めることもできず……

 まあなるようになるさ、と思いながらハルオはまたため息をつく。

 ブルーな気持ちになりながら見る、

 ……青山の骨董通り。

 奇抜なモードファッションの若者があちらこちらから集まり、歩いている。

 笑い声、空虚な会話。

 耳に入る、通り過ぎる音。

 通り過ぎる車のステレオから漏れて来る音楽はおしゃれだが中身のない歌詞。

 かっこいい男に、美しい女。

 どこから集まって来るのかまったくここに似つかわしい、内面のない書き割り……のような、表面だけの存在。

 そんな風に思える……完璧な存在。

 ここにいる。

 そこにいない。

 ここにいるのは……影。

 影ならば——厚みのない影ならば——世界の隙間に入り込む事はできないだろうか?

 偽物が——偽物ならば——偽の世界で生きる事はできないだろうか?

 ハルオはこの通りに来るといつも感じる自分でも良く分からない目眩を感じ、立ち止まるが、

「早く入りましょうよ花山さん」

 緊張しているのがありありだが、それゆえ、店の前にいると決心が鈍るとでも思っているのか、焦っているような雰囲気の夏美に後から軽く押されルハルオ。

 二人はそのまま、入り口の階段を下りて店の扉を開ける。


 流れ出す重低音。

 会釈をする受付の女性に金を渡し、ドリンクのチケットを二人分もらう。

「随分低音でてるね」とハルオ。

「今日はドラムンですよ」と受付の女性。

「ドラ……?」と呟く夏美。

「ドラム・アンド・ベース。音楽ジャンルの名前だ。イギリスの一部でしかはやってないマイナーな音楽だ……まあ、いいからさっさと入るぞ」

 二人はまずはラウンジへ。

 そこでハルオは、「酒は同じので良い」と言っていた夏美の分もドリンクカウンターで酒をとると、空いているソファーを見つけて渡す。

「スプモーニでよかったか」

 頷く夏美。

 自分一人だったら、もっときつい酒を飲むつもりだったが……同じのと言われて、この子にウォトカのストレートとかもないかと思い……

 しかし、こいつ?

 ハルオは少し疑問を追求することにする。

「お前、酒を飲みに行く事くらいあるよな」

「……な、何言ってるんですか、花山さん」

「……いやふと思ってね。スプモーニで良いなんて言う奴がまだ俺の他にいるのかと思ってね」

「……?」

「聞いた事無いの?」

「何をですか」

「これが恐ろしい酒だってこと」

「え?」

「十九世紀のヨーロッパで中毒者、廃人を散々だした酒なんだぞ、これは。飲むとやたら楽しくなって、崇高な感じとか、陶酔感があって、芸術家とかならすごいインスピレーションを刺激されるわけだが……」

 ハルオは一瞬言葉を止める。

 次の言葉を出しあぐねているかのような、深刻な顔のふりをする。

 すると、沈黙に耐えかねて、

「……が、どうしたんですか?」と夏美。

「世の中にはそんなうまい話はないんだよ。悪魔はかならず対価を要求する」

「……魂ですか?」

「……そうその通り。この酒を飲んだ芸術家達は精神を病み、狂気に蝕まれ、自ら命を……」

 ハルオはそこで言葉を止め、思わせぶりな表情の後、スプモーニの入ったグラスを握ると一気に飲み干すと、テーブルに勢い良く置く。

「さあ、じゃあ飲んでもらおうかな夏美さん」

 まだ口のつけられていないグラスを持ってぐいと夏美の前に突き出すハルオ。

 固い表情でそれを掴み、少し手を震わせながら口に持って行こうとしている夏美。

 心の中でにやにやしながらも深刻そうな表情をして、

「さあ、せっかく注文したんだ、早く」とハルオ。

「……は、はい……」と決心したような顔をして夏美はグラスに口をつけて……


「あれれ……こんな子だましちゃだめだよハルオちゃん」 


「……トモ!」と嫌そうな顔でハルオ。

 ハルオの横に妖艶な風貌の美女が座る。

「ハルオちゃん、誰? この子……また純情そうな子を騙そうとしてるの?」

「……また?」少し厳しい顔で夏美。

「……おい、でたらめな、人聞きの悪い事言うな……それにこれは」ハルオは横目で夏美を見る。「仕事なんだ」

「仕事? ホストでも始めたの? 今はアフター?」

「私、そんなとこ行きません!」

 思わず立ち上がって叫ぶ夏美。

「……そうよね、スプモーニとアブサンを騙されてる子が行くわけないわよね」

「騙された……?」

 横を向くハルオ。

「ハルオちゃんが言ってたのはアブサンっていうもう禁止されたお酒の話よ。いえ、今でも同じ名前の酒は売っているけど昔の狂人いっぱい出した時のものとは成分がちがって……」

「花山さん!」

「悪い」ハルオは手を合わせ少し顔を伏せながら謝る。「あまりに奇麗に騙されるから調子にのった」

「もお……」と、少し顔をふくらませながら夏美。でも、安心した顔になって持っていたスプモーニを飲むと「……甘い。美味しい」と。

 機嫌が直った夏美に安心するハルオ。

 そこに、

「……で仕事って何よ。こんな可愛い子と一緒に遊ぶ仕事って、どれだけおいしい仕事よ」とトモと呼ばれた女。

「……詳しく話せないが、今はこうやってこの子の夜遊びに付き合ってるのが仕事だと言うのは否定しない」

「ふうん……」

「なんだよ、なにか疑ってるのか……」

「いえ、疑ってなんかいないわよ。仕事なのは信用しましょ。でも、ただ遊ぶだけの仕事なんてあんた受けないんじゃないかと思ってね、そんなつまらないもの」

「いやそうでもないぞ。遊ぶのと大差ないような、そんな仕事は大抵大した金にならないから普段受けないだけで、それが割にあう物なら俺はその仕事は受ける」

「……ならこれは金になると?」

 ハルオは、しまった、少し話し過ぎたと言った風な顔。

「……まあ、でもあんたの言う通りね」

「何が?」

「遊んで大金がもらえるような仕事なんてそうそうあるわけはないでしょ……どうせまた、なんかややこしい事にまきこまれてるんでしょ?」と、にっこり笑いながらも鋭い目つきでトモ。

 ハルオは、軽く頷き、

「まあたぶん今後そう言う事になるのだと思うけど……今はややこしいどころか……事態は至極シンプルでね」横目でちらりと夏美を見ながら「こちらのお嬢さんを楽しませないと次のステップに僕は進めないと言うわけだ」と。

「ふうん……良く分からないけど、それなら、これじゃまずいんじゃない?」

「ん?」

 ソファーの隅に行き、縮こまっている夏美。

 薄暗い店内では良く分からないが、少し顔が赤いように見える。

「おい、どうした……」と少し怪訝な声でハルオ。

「だって……」

 夏美の目の方向には、ハルオにぴったりとくっついて肩に手を回していたトモ。

「……あれいつの間に」

 気づいたハルオはあわててソファーから立ち上がるが。

「……この人……花山さんの彼女……?」と夏美。

「はあ?」

「随分親しそうで……」

「あら……」

 少し頬を赤らめ、横を向くるトモ。

「こらトモ、紛らわしい反応をするな!」

「紛らわしい?」

「こいつとは何ともないよ……と言うか、こいつは……」

「……?」

「……本当は男なんだぞ!」


 フィラッシュライトの瞬くフロア。その真ん中で楽しそうにまるで日本舞踊と言うか、正直に言えばお遊戯のような、そんな多少場違いな踊りを踊っている夏美。稚拙にも見えるが、真剣なのが、楽しく踊っているのが、決して誰もちゃかす気持ちなどは起きない。そんなタイプの踊りだった。

 周りも楽しそうに踊るそんな彼女を微笑ましそうな目で眺めている。

 夏美は最初は恥ずかしがっていた。しかしどんな踊りでも良いんだと言われて踊っているうちに、どんどんと楽しく、また周りも気にならなくなってきたらしい。

 ハルオは壁際で手をふってくる夏美に苦々しげな顔で手を振り返す。

「あの子、最初、ハルオは男が好きなんだと誤解してたわね」笑いながらトモ。

「まったく、思い込みが激しい子だ」

「でも、気にいってるみたいじゃないの」

「誰が? 俺が? あの子を?」

「そうよ」

「なわけ、ないだろ。あんなめんどくさいの。仕事でなきゃ一分でも一緒にいるか」

「そうかしらね、あなたがもっと色っぽい女の人達と一緒の時よりも、随分生き生きとしてると思うけど」

「おい……」

「何?」

「それあいつにいうなよ」

「それ? 色っぽい女の人と一緒の事?」

「そうだ」

「いいじゃない、事実なんだから」

「いや、またいろいろ曲解して話がややこしくなる」

「あれ、それはきっと、曲解じゃないと思うけど」

 図星をいわれて黙るハルオ。

 別に清廉潔白な生活をしているなんて思ってもいないが、この乱痴気騒ぎの続く東京での自分みたいな半端者にとって極端に乱れているわけでもないと思っているのだが……

 どうにもあの娘のまっすぐな瞳に見られるとどうも……

 混乱する感情。

 ハルオは自分の今の気持ちの、その意味がどうにもわからないが……

 どっちにしてもこの件が終われば二度とあわないだろうお嬢様だ。

 その意味など深く考えなくても良い。

 必要も無い。

 そう思い、彼はその事を考えるのを忘れる。

 ——忘却。

 それは物事に深入りはしない。この表面しか無い「日本」の中で彼が生きるために身につけた習慣。

 虚無の深みに落ちない為に無意識で行う行動。

 何時のように、少しの苦みを噛み締めて、飲込んで——それで終わりのはずだった。

 ……しかし、何時もはこれで終わりになるはずの感情が、再び心の底から沸き上がって来てハルオは立ちすくむ。

 まるでそうしなければ床の下に沈んで行ってしまうと思っているかのように、足を踏ん張って、緊張する。

 混乱するハルオ。

 自分でも良く分からない、始めての感情に——もしかしてこの自分の薄っぺらい「表面」の下には虚無でなく、確かな内面があるのではないか——そんな事を思い、迷う心。

 もしかして?

 しかしそれを確かめる勇気のないまま、忘れ、虚無より軽く浮かぼうとして、

 しかし……?

「いったい何者なのあの子」とトモ。

 その言葉に我に返るハルオ。自分でも正体不明の感情の追求を止めてもらったことを感謝しながら、

「今回の仕事の協力者だ……と言う事以上の事は言えないよ」とハルオ。

「へえ、あんな子に頼むなんて、何の協力なのかしらね……あそこまでそれっぽくない人が協力者だと返って裏がありそうな感じがするわね」

「そう、たっぷり裏があるみたいだ。でも実のところまだ良く分からない。でも、今のこの間抜けな状態がかえって怖いと言うのは同意だよ……僕も多くを聞かされているわけではないけれど、カンで言わせて貰えば、今回の仕事は相当にヤバそうな予感はする」

「へえ……」ふざけた調子のハルオの言葉の真意を組んで真面目な目になりながら「まあ、そんなヤバい話なら、あえて聞いて巻き込まれたいわけじゃないけど……あのお嬢様のおもりをしてるのがそのヤバい事の一部なわけ?」とトモ。

 頷くハルオ。

「……と言っても、それが目的と言うわけでなく、クリアする条件の一つと言うか……」

「つまり、あの子が夜遊びに納得したら次のステップに進めるってわけなのかな?」

「納得しなきゃ行けないのは、夜遊びだけじゃないが……まあだいたいそういうことだ」

「ふうん、情報提供条件ってわけね」

「ああ……」

 それ以上は聞くなと言う顔のハルオを見て、

「まあ、あなたが困るなら、私もこれ以上詮索するきはないけれど、でもあれ……」

「……あれ?」

「……あれマズいかもよ」

 トモの指し示す方を見れば、夏美は胸に例の造花のチューリップを挿したソフトスーツを着た二人組の男に声をかけられていた。

 夏美は下を向いてうつむいて拒否をしても、男達は無視して話しかけているよう。それで困って、後ろを向いても、一人がそっちに回り込んで話しかけようとして……

「やれやれ……今日はここはドラムンベースで人が少ないからあんまりナンパ男もいないかなと思ったけど」

「あんな無防備な獲物が転がってたらそのままのわけが無いでしょ」

「そうだな……」

 気乗りしない様子で夏美の所に歩いて行くハルオ。

 近づくハルオに気づき、ぱあっと瞳の色が明るくなる夏美。

「ええと、お前……」

 ハルオの声に振り向いてはっとなる二人の男。

「……そろそろ休まないのか」

 ただの学生風の男二人は、あやしい探偵もどきの仕事をしながら様々な修羅場くぐり抜けたハルオのかもし出す迫力に、思わず後ずさる。

「……休む?」

「ずっと踊っているとばてるぞ。夜はまだ長いんだし……」

「……そうね……是非ともと頼むんなら、そうしてやってもいいわね……私はまだ全然大丈夫なんですけど」

 安堵の表情を浮かべているのに、強がってる風の夏美を見て、ハルオは思わず笑いがこぼれるのを我慢しながら言う。

「ぜひ、そうお願いするよ。君なら全然大丈夫と思うが、僕は少しソファーで休みたい気分でね」

「なに……どうしてもと言うなら付き合ってやっても良いわ。話し相手がいないとあなたも退屈でしょうから」

「ああ、是非ともお願いするよ……それで君ら」ハルオは、絶対について来るなよ、と言った風の迫力ある目つきでナンパ男二人を睨めながら「……君たちも一緒に休むかい?」と。

 しかし、

「いえ! 僕らはいいです……」

 とビビりながら、逃げるように消える、二人。

 その逃げ際、

「ありゃやくざだぜ。あの女は大丈夫か」とか言っているのが調度ビートの隙間に聞こえる。

 ハルオは、それを聞いて、まあ確かにやってることはそんなもんだな、と心の中で呟く。

 とは言え、だからどうと言うわけでなく、普段はそんな事は、自分のやってるモンキービジネスの事などは、何も気にもしないのだが……

 ——どうも今日はへんな感じだ。

 調子が狂ってしまう。

 何かそう言われると自分が反省しなければならないような気分となって。

 ……と言うのも、

「こいつのせいだな……」と夏美を見てハルオ。

 きょとんとした表情の夏美。

「私のせい……?」

「いいや、なんでもない。どうでも良いことだ。……まあ休もうじゃないか」とハルオは言って、ラウンジに向かって歩き出し、それについて行く夏美。

 ソファーでは先にドリンクを取ってから座っていたトモが手を振っていた。

 さっきと同じので良いと言うので夏美にはスプモーニを、自分はウォットカのストレート。

 歩き、トモの隣に座る夏美とハルオ。

「王子様が、うまくお姫様を救って来たと言うわけね」

「言ってろ……」苦虫を噛み潰したような顔のハルオ。

「では、ところで……」全くハルオの言葉は聞かずに「お姉さんは、実は君にとても興味をもってるのだけど」とトモ。

「わ……私ですか?」 

 お姉さんじゃないだろ、と言うハルオの言葉をやはり全く無視してトモは話を続ける。

「そう、君。なんで君みたいな子がこんな男と一緒にいるのかと思って」

「……こんな? ですか?」

「そうよ、こんなよ。こんな社会の底辺這い回ってそうな男と……」トモの言葉にハルオの繭がぴくりと動く。「君みたいなお嬢様がなんで一緒にこんなところに来ているのかなと思って」

「お……私はお嬢様じゃありません」

「あら、それは否定しても分かるわよ」

「何でですか?」

「……それは女のカンよ」

「おまえは女じゃ……」

 話しかけた言葉を、口を抑えられて黙らされるハルオ。

「カンと言ってもね……やっぱり、君はばればれなのよ。見るだけでピンと来ちゃうから。隠せない上品さっていうか、なんか心底自由に振る舞えていなさそうなとことか」とハルオの口を押さえながらトモ。

 すると、一瞬、言葉につまりながら、

「……分かっちゃうんですかね」となぜか悲しそうに夏美。

「そうね、そのとおりなんだけど……はい、ひっかかった!」とトモ。

「え……」

「自分で今お嬢様だって言ったじゃん、でそれを嫌がってると」

「……」

「まあ、どのくらいのお嬢様なのか知らないけど、私は相当の家と見るわね。これこそは単なるカンだけど、あなたは成り上がりの金持ちにはだせない品みたいなのを持ってるように私は感じる……」

「そんな事は……」

「……ほら図星言われたみたいなキョどりかた。やっぱりね」

「……」

「おいおい、トモ、そんな追求するな……さっきヤバいって言っただろ」

「そうね、聞いたわよ。この件深入りするとヤバい事になるって……」

 夏美の顔色が変わる。

「あら、この子も知ってるわけね……これがなんかきな臭い話な事」

「だから、あまり深入りするなよ」とハルオはトモの追求を止めさせようと制止をする。

「でも気になるじゃない。いや別にハルオはどうでも良いのよ。こんな男が今の東京の何処かでのたれ死にしたら、それは日本にとっても喜ばしい事だから……」

「おいおい……」

「でも、このお嬢さんはちょっと引っかかるのよね。なんか思い詰めていると言うか、無理に楽しまなきゃ行けないと自分を追い込んでいるようで……私はこんな風な友達いままでいっぱい見て来たけど……」

 うつむく夏美。

 もう止めろと、少し怒った顔で目で合図するハルオ。

 しかし、トモは話すのを止めず、

「……そんな友達達は、その後みんな自分で死を選んでるのよね」と。


 すると、


「うるさいです!」


 突然どなった夏美の言葉にあたりはシーンとなる。

 隣のソファーの連中も何が起きたのかとびっくりしてハルオ達のソファーに振り向く。

「……それ以上止めてください。分かってます。私なんて、そんな資格無いんです。友達達と楽しく生きたり、暖かい家族団らんで過ごしたり、好きな人ができてドキドキしたり……そんな事はできないんです」

「おい、まてこいつの言う事気にしすぎるな……」

 あわてて必死にフォローするハルオ。

「あら、資格無い? でも今日は楽しんでいるみたいじゃないの」

「許してください……今だけなんです」

「今だけ? 昼もお前そういってたけど……」

「なんだか良く分からないけど、あなたは今の関わっている事件終わったら、どうする気なのかしら?」ぴくりと体を一瞬震わせる夏美。「まさか? 本当に死ぬ気なのかしら……あなた……?」

「おい、トモいい加減にしろ」

「止めないわよハルオ。私はこういう子嫌いなのよね」と鋭く目で睨みながらトモ。

「……お願いします。もうそれ以上言わないでください。私は今だけなんです。許してください」と伏せ目がちになりながら夏美。

「あら、ますます思い詰めちゃって、気に食わないわね」とトモ。

「トモ!」

 ハルオはトモの胸ぐらを片腕で掴んで、もう片腕は今にも殴り掛からんばかり拳を握る。

 しかし、

「まったく、可笑しいわよね。あなた、なんで逃げないの?」とトモはまったくきにしてなさそうな様子で更に話を続ける。

 すると、

「逃げる……?」

 夏美はハッとしたような顔になる。

 トモはそれを見てやさしく微笑む。

 ハルオも思わず掴んでいたトモの胸ぐらを離す。

「どんな事情があるのか知らないけど、もしあんたみたいな小娘に理不尽な責任負わされているのならそんなのは、追わせた方がまぬけなんで、あなたはそっから逃げても私は良いと思うわ」

「だめですそんな事はできないです!」

「あら、責任感の強い事……」

「私は勇気をもって進まないと行けないんです。そうでないとこの国は……」

「国? あなた、なんかとても大きな話をしてるみたいだけど、でもどんな大きな話でも逃げる時に、逃げないのは勇気といわないわよ……」

「だめです、そんな無責任なことはできないです!」

「あらら、やっぱりそうなるか……でも結局責任なんて開きなおればどうにでもなる物よ。例えば……」トモはハルオを目で指し示す。「こういう男に押し付けちゃうとかできないかしら?」

「え……」

「なんだかわからないけど、あなたの責任なんて、そんな大事なものなのかしら?」

 と言う問いに対して、少し逡巡してから、ゆっくりと頷く夏美。 

 それを見て、あきれながらも、少し優しげな顔になるトモ。ため息を着きながら、

「はあ……そうだとしても……こいつに『助けて」といって騙しちゃえば良いのよ。可愛い子の言う事ならほいほい騙されるのがこの男だから」

「可愛いなんて、そんな……でも……」

「いいから、いいから。大変な事は、こういういなくなっても困らない男に押し付けた方がいいわよ」

「おい、トモくどいぞ……」

 ハルオはトモの話を止めさせようと、言葉を挟もうとするが……

 しかし、

「……ありがとうございます。私なんかに気をつかってくれて……でも……」と頭を深く下げながら夏美。

 それを見て、思わず次に言いかけた言葉を飲込むハルオ。

 それを見てやはり言葉を飲込んで黙る夏美。

 二人とも次の言葉がでないまま。

 ——沈黙。

 ちょうどフロアから聞こえるドラムロール。

 大きな歓声があがって。

 ちょうど今夜最高の盛り上がりを迎えたこのクラブ。

 ……しかし、

 その瞬間、


 ——店のスピーカーは突然その音を止めたのだった。


「みなさん、すみません今日は終わりです」

 スッフの声。

 入り口から入って来る制服警官が数人。

「風営法か」とハルオ。

「まったくこの日本で風紀を乱すのものなら他にいくらでもあるのになんで残ってるのかしらこんな法律」

「風営法?」

 事態をさっぱりと分かっていない、夏美の問いに、

「日本ではな。夜十二時以降に店で踊るのは禁止なんだ」とハルオ。

 すると、それは、なんでと更に問う夏美に、

「そんなの他の深夜営業の職種に比べてちゃんとした理由はないよ。きっと偉い人が気に入らないからだろ……」

 とかハルオが言ってる間にも警官がラウンジの中にどんどんと入って来る。

 その足音。フロアに残る客達に出て行くように指示する声。

 客達の少し抵抗する声。しかし、すぐに追い立てられ、不満たらたらな声でラウンジにくる彼ら。

 音が消えたが前よりも騒がしいような感じさえするクラブの中だった。

 間接照明ばかりだった薄暗いラウンジに蛍光灯の明かりも点き、客達のしらけたような顔もよく見える。

 ハルオは自分も同じような顔をしてるんだろうなと思いつつ、今日はもうここは駄目だなと思い、

「ここにいてもしょうがないみたいなんで……もう、出ようか」と言う。

 それを聞いて残りの二人も腰を浮かすが、

 しかし、

「あの君たち、ちょっと良いですか」と三人のそばにやって来た警官が呼び止めて言う。「よければ署に来てもらって話を聞かせてもらいたんだけど」

 呼び止めた警官を嫌そうに睨みながら、

「それは任意と言うことですか?」とハルオ。

「……ああ、ええと、君たちが何か悪い事したとかそう言うんじゃないんだ。……ええ、この店の話を少し聞かせてもらいたいんだ。どんな営業をしていたとか、不良グループとかそんな連中が入り浸っていないかとか……」

「任意でしたら……予定があるのでお断り……」

 とハルオが任意の拒否を伝えようとした瞬間——警官の目の奥に光る残酷な光り。

 ハルオは身をかがめ、床に転がり逃げた。

 その瞬間、ハルオがいたソファーに食い込むのは、その警官の振り下ろした重い警棒。

「こいつら偽物だ! 逃げろ!」

 いきなり警棒で殴り掛かる警官等いるはずが無い。この連中が警官でないのは確かだった。

 しかし警官でないとすると何者なのか分からなかった。

 何のために、こんな事をして、自分達に近づく?

 自分達?

 違う。自分にそんな価値などある訳は無い。

 ならば……

「夏美!」

 ハルオは床に転がる彼に向かって打ち下ろされてきた警棒をまた転がりながら逃げ、立ち上がりざまに、近くのテーブルから落ちたコップを拾って思いっきり投げた。

 悲鳴。

 夏美の手を掴み、連れ去ろうとしていた、偽警官の頭に当たったコップは砕け彼の顔を切る。

 男は痛みに一瞬夏美の手を離す。

 そこに駆け寄って、呆然と立ちすくむ夏美と偽警官の間に入るハルオ。

 怒りに燃えた目で振り下ろして来る警棒をかいくぐり、警官にタックルして床に倒すハルオ。

 ラウンジは大騒ぎになっていた。

 三十人位はいた客の、ある者は逃げ惑い、ある者は偽物と分かった警官に向かって逆上した感じでなぐりかかってゆく。

 偽警官達は皆筋骨隆々の大男。客達が一人二人殴り掛かったくらいではびくともしないのだが。三人四人とどんどんと飛びかかられると、次第にその動きを拘束され、手や足を締め上げられ床に押さえ込まれる。

 しかし、素人の拘束など彼らは直ぐに跳ね返し……

「危ない!」

 馬乗りになった偽警官を殴り失神させたところのハルオ——その彼に後ろからまた警棒が振り下ろされる。

 トモの声に注意を促され、ハルオは背中に気配を感じながら、タイミングをあわせて横に転がる。

 床を叩く警棒。

 しかしその彼に向けて別の偽警官からもう一度振り下ろされる警棒。

 床から立ち上がりきれていない彼の脳天に、それはまっすぐに打ち下ろされる所なのだが……

 ——偽警官はそのままその場に崩れ落ちる。

「これは貸しね」倒れた偽警官の後ろには、警棒を握って立っているトモ。「……でも、もうちょっとこれ以上は駄目かな」

 ハルオが、トモの見る方向に振り返れば、ラウンジの入り口から増援の偽警官がさらに数人以上入って来て、その近くにいた連中ともみ合いになっている所だった。

「……狙われているのがあのお嬢さんなら、これ使いなさい」

 手を引いて立ち上がらせながら、トモは何かの鍵をハルオに渡す。

「私のバイクが裏にあるから、それで逃げなさい」

「トモ、恩に着る」

「……高いわよこれ」

「ああ……今度埋めあわせは」

「そうじゃなくて、あの子をちゃんと救いなさい。それがこの代償よ」

 ハルオは真剣な表情で頷き、

「……高くつきそうだな、それ」

 と言いながら見失った夏美の事を探すハルオ。

 ラウンジに姿はない。

 何処だ、

「夏美!」ハルオは叫ぶ。

 カウンターの向こうから上がる華奢な手のひら。

「そこか!」

 ハルオは駆け出す。それを見て、偽警官達はハルオを追う。しかし、そいつらが、興奮した客達にもみくちゃにされて、少し足止めされている間にカウンターを飛び越えるハルオ。

 そこには屈み震える夏美。

 そして、

「逃げるぞ!」と彼女の手を取り言うハルオ。

「はい」

 夏美の返事とともに動き出す二人。

 しかし、

「あれ……」

「どうかしましたか?」 

「いや……なんでもない」

 ハルオは、逃げようとした瞬間に夏美の顔に表れた、迷うような、逃げるのを嫌がっているような、その微かな表情の変化に、何か言いようも無い違和感を感じる。

 彼女は何を、何故、迷う必要がある。

 まるでこのまま連中につかまって、このまま進む事から逃げてしまいたいかのような……

 それがもしかして、彼女にとって本当の意味で逃げる事?

 ならばもしかして彼女はここで拉致された方が「逃げる」事になり……

 ——いや、余計な考えはやめだ!

 ハルオは夏美の表情に関する余計な詮索をやめる。

 夏美を逃がし彼女から情報を聞き出す事が彼の仕事だった。

 仕事——そう思えばハルオにやる事は一つだった。

 それならば——彼はそうしたのだった。

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