第4話 お台場

 冬の真っ最中、のんびりとした正月も終わり街がやっと普通通りに動き出そうとしていた頃に、あの地震は起きた。 

 それはかつての関東大震災にも比する大災害をこの「東京」にもたらした地震であった。

 もう十年も前になるだろうか、荒川河口先の東京湾を震源とした、その地震は、地震としての規模はマグネチュードにして七の半ばを越える程度であり、君らの世界で起きた東日本大震災のマグネチュード九に比べれば何桁も少ないエネルギーしか持たなかったのだが、震源が東京湾のど真ん中であった事もあり——東京の震度は関東大震災をもしのぐ震度七を記録した。

 高度成長期に立てられた施工の悪い建設物を中心に、様々なビルや橋が崩壊し、一般家屋の集中する都下では大規模な火事による被害も出た。埋め立て地帯では液状化でぼろぼろになった道路が交通を寸断し、土の中でもライフラインが途切れて、復旧には数年以上かかった所も多い。

 また、海溝で起きる巨大地震に比べれば規模は小さくはあったが、津波も発生し、地形の影響もあり所々で他よりも盛り上がった濁流により流された家屋や人等もいた。起きた時間が早朝であったこともあり、海際を散歩中の者もほとんどおらず、その被害は最低限に収まったのは不幸中の幸いとでも言うべきだろうが——とは言えその日、生死はまさしく細い稜線のどちら側に踏み出したかで決まった者も多い。例えば後の東京都の報告書でA氏として語られている中年男性の場合もそうだ。


 彼——A氏は、その日の早朝の地震が起きるちょっと前の時間、あるオフィスビルからお台場の街に出た。彼は、普段のさぼり癖の報いとして、徹夜で明日締め切りの資料を作っていたのだと言うが、報告書には「業務のためと」一言淡々と書かれているのみであった。

 ともかく、早朝まで仕事をしていた彼は、資料の完成のめどがたった為なのか、あるいはもうあきらめの境地に達したためか、会社からいったん外に出て気分転換をしようと思ったようだ。

 早朝のお台場。昼ともなれば、観光客とサラリーマンが混ざり合い、ひどく混雑するこの通りも今はさすがに人通りもほとんどいなかった。彼は通りを見渡して、通り過ぎる車を数台眺めてから、ため息をつき、そのまま海に向かった。

 特に目的があるわけでは無かった。寂しげな街中をただ見てるよりは、と海に向かっただけであった。

 なので、何をするという訳でもなくただあるき、そして大通りから裏道に入り、人工の砂浜の手前まで歩くと、そこにあったベンチに腰をかけた。

 その時地震は起きたのだった。

 激しく揺れる大地に彼はベンチよりずり落ちた。そのまま激しく揺られ、危うく砂浜へ続くコンクリートの階段を転がり落ちてしまいそうなところであったが、とっさに掴んだベンチの足のおかげでなんとかそれはまぬがれる。

 揺れは時間にしてほんの十数秒の物であったのだろうが、必死にベンチにしがみついている彼にはそれは何分にも何時間にも感じられた。

 思いっきり力を込め、緊張して、揺れに耐えていたため、地震が終わった後も、しばらくその場で立ち上がる事ができなかった位だった。

 揺れが治まり、少したち、回りが液状化で水浸しになり、自分がその中で寝転がっているのに気づいた。服が水浸しだった。その冷たさが彼を正気に戻し、そして命を救ったのだがこの時の彼はまだそれをしらない。

 彼はたちあがり、その後すぐに轟音を聞いた。

 音の方角に男が振り返ると、そこには崩れるビルの姿があった。壁に亀裂の入り、半ばから折れ、地面に崩れるビルが。

 それは一つだけでは無かった。

 複数のビルが地下で共有した地下街がつぶれ、連鎖反応的に次から次へとビルが崩れる。まるでドミノ倒しのように。

 轟音が辺りを支配し、悲鳴のような叫び声が辺りを支配した。

 この早朝に、どこにそんな人がいたのか分からないが、十数人がこの海岸で立ちすくみ、恐怖のため叫び声を上げていた。ある者は指差し呪詛を喉の奥で繰り返しながら、ある者はただ口を開け顔を恐怖に引きつらせながら、崩壊を見つめながら——みな一様に、崩壊に見入ってしまって、その場から動く事ができなくなっていた。

 しかし、

「逃げろ」

 沈黙を押し破る勇者の声が聞こえた。

 その声をきっかけに十数人ほどのその場にいた者たちは一斉に駆け出した——海の方へ。

 くずれ落ちる街並から逃げるように、人々は何も崩れ落ちる物のない砂浜に向かって駆け出していた。

 一人が走り出すと、もう一人、それを見てもう一人。またたくまに砂浜に集まる人々。

 砂浜に降り、崩れる街から遠くなり安堵する人々。

 ——しかしその中の一人から悲鳴があがる。

 その悲鳴の方向を振り返る人々。

 盛り上がる海。

 考える暇もなく津波は人々を飲み尽くす。

 海面は人々の頭上はるか高くまで盛り上がり——そのまま落ち——呑込む。

 人々は暗闇に消える。

 街灯も消え、何者もいない砂浜がそこにある。

 一瞬の静寂がその瞬間にあった。

 何もかもが飲み込まれたその瞬間——そしてすぐ後に鳴り響く引き潮の轟音——遠くのサイレンの音。

 ——暗闇。

 その中で——男は——報告書でA氏と呼ばれたその男は、崩れ落ちるビルの方角に向かって駆け出していた。

 自分でも何をしているのか分からなかった。

 恐怖に震えながらも、男は瓦礫の弾ける崩壊するビルの方向に走り出す。

 走り出した男の後ろで直ぐそばまで達した津波が引いて行くが、目の前には転がってくるコンクリートの固まりを彼は避けきれず足に当て倒れる。

 しかし、多分その時に既に足の骨が折れてしまっていたはずなのに、異常な興奮を持ってさらに彼は進む。

 立ち上がり、その瞬間自分が何をしようとしているのかを知る。

「資料が……」

 無意識に呟いた言葉で、彼は、自分が、朝締め切りの資料の入ったパソコンを崩壊するビルから救おうとしてしていたのだと、その時に気づく。

 そんな事、この今に、どうでもよい……

 男は、そう思う。しかし勢いのついた身体は止まらない、彼は、混乱し、そのまま走り何か多き亜物にぶつかり、ひどい痛みが走り、意識はそこで途切れる……

 ——後日、都の災害調査のインタビューに答えたA氏の覚えているのはここまである。

 ビルの崩壊からも津波からも助かった生はまさしく境界線上にいたのだ。夜が開けて瓦礫の中から助け出されたA氏は、数日間生死の境を彷徨いつつも、遂には意識が戻り、半年後には普通に生活ができるまでに回復した。

 危ない所だった。しかし彼は助かった。

 戻って来た。

 この世界に。

 境界線上にいた彼はそこにいたからこそ助かり、そのまま踏み入った生死の境界線にも踏みとどまり、最後にはこちら側に戻って来た。

 彼は自分の幸運を思い返す。

 崩壊するビルと海岸、どちらにいても命が無かったはずの自分が、その間にいたことに。

 それはもちろん悪い事ではない。

 あの地震の日以来数年経ち、やっと、その時に自分がいた境界線上に行って見る決心がつき、こうやって新たに作りなおされた街並を眺めつつ、海岸に沿ってゆっくりと歩きながら彼は思う。

 こうやっまたここを歩くのは、良く晴れた冬の日、透き通った太陽の光を浴びながら微かな潮風に吹かれるのは——悪くはない。

 来る前はだいぶ思い悩んだのだが、ここに来てみると、意外な程あの時の恐怖を自分が覚えていないのにびっくりした。

 時間が何もかも解決したのだろうか。

 自分はこの場所を、ただここに今ある場所として今歩いている。

 地震の後、この狂躁の日本ならば、あっという間に再建された、前以上に壮麗に、未来的なビルの建ち並ぶこのお台場の街並を歩きながら、A氏は、自分がこの場所を歩くのを楽しんでいる事に正直少し驚いていた。

 日本は、東京は、あの地震から奇跡的に復活した。

 過剰なまでに。

 復興と言う名の東京の新開発は、震災のあとの空白を埋め、それでも止まらずに、前世紀末の土地バブルの時の放蕩さえ飲み尽くす勢いであった。

 街並は刻一刻と変わった。新たな発展が古い発展を飲み尽くした。

 このお台場も恐ろしくその姿を変えた。

 一見元の姿が分からない程に。

 それが自分がここを恐怖しない理由なのかもなとA氏は思った。自分の記憶の中の風景はまったく消えてしまった。ここはあの場所とは思えないのだった。

 まるでここにいた頃とは別の世界のようだ。

 あの後、震災のあおりを受けてA氏が勤めていた会社は潰れてしまったのだが、止まらない好況の続くこの「日本」で次の就職先はすぐに決まったし、ちょうど復興景気に乗れたその会社は瞬く間に発展して、結果的に前よりもよい給料の地位につけたくらいだった。

 まったく、A氏に取ってはもう何もかも昔の話であった。この場所は、もう過ぎ去った地、過ぎ去った時間だった。

 それは救いであった。過去は、その恐怖とともに消え、今はこの海岸に何も彼の心を騒がす物はない。

 救い——?

 しかしA氏はなにか違和感を感じていた。

 この世界に。助かった自分に。

 なにか本当の生がここにあるのか、あの境界線を越えて戻って来たこの世界は果たして、自分のものだったのだろうかと。自分は別の世界に戻って来てしまったのではないかと。

 A氏はもう一度、海岸を眺めながら、目眩を感じる。

 彼は思わずそばにあったベンチに座る。

 すると、彼は突然泣きした。

「これはあのベンチじゃないか」

 地震にも津波にも、そしてなによりもその後の開発にも耐え、自分が地震の時にしがみついたベンチはそこに残っていたのだった。

 A氏は自分でもなんで何か分からないくらい長く、座り、泣き、叫んだ続ける。まるで、生まれたばかりの赤子のように。

  

   *


 アキラは東京湾に浮かぶクルーザーのデッキから、その海上にそびえ立つ巨大なタワーを眺めていた。お台場の埋め立て地の少し先、海面から直接姿を現す高さ一キロにもなるタワーであった。それは、10年前に震災に襲われた首都の中でも特に壊滅的な被害となったウォーターフロントの復興の象徴として作られているものであった。

 いや、復興などとうに終わり、かつての閑散とした埋め立て地の様子はかけらも残っていない、この「日本」、お台場であった。

 復興の為等と言うお題目そのもの自体は今となっては実効的な意味は失ってると言っても良かった。

 その意味では、このタワーの元々の役割を今となっては果たす事もないのではあった。

 しかし、このタワーの完成が残っている限り、本当の意味での「日本」の回復は無い。そう思っている人も多いのであればそれこそが真実であり、それがこのタワーの今の役割だった。

 この「日本」を完成に導く最後のピースとして多くの人々に完成を待ち望まれ——人々の希望とそれが変質した欲望を一手に集めそれを天に向かって誇示しようとする——バベル、その塔であった。

 そして、それは完成間近。実にこの週末にもオープンする予定なのであった。

 いや、完成間近と言っても、実のところ、それはもう殆ど完成していると言って良い。

 最後の追い込みで行われる内装やシステム工事、この手の建設物にはつきもののやって見て始めて分かる壁の補修やら配管の修整やらのマイナーなトラブルの解消、そんな小さな作業は残っているものの、おおむね、もう完成していると言っても差し支えないような状態ではあった。

 しかしそれはまだオープンしていない。

 それが重要なのであった。

 象徴としてのこのタワーは、つまりその意味では——まだここにあるのは空白なのだった。

 殻、空であるが、それ故の聖なる空白。

 この周りに集まる物達を集め天に導く事を期待される空蝉。自然は真空を嫌うの格言のごとく、その空白に引き寄せられて埋めようとするかのように都市が生まれた都市の中心にそびえる無である。

 しかしその無から有が出でる。その実例がこの周りの変貌した海上であった。

 無を埋め尽くす人工の大地であった。

 「君ら」の日本のお台場を超えるさらなる海上の埋め立てに、メガフロート、それらをつなぐ橋脚、その上を走る新交通システム。

 東京が広がる、海の上に、自らを増殖させて行く、世界を浸食するその最前線、それがこの「日本」の21世紀ウォーターフロント、お台場であった。海に、無主の地に、広がる「日本」であった。

 そこに土地が無くても——なんなら世界が無くても良い。

 欲望と金がそこに「日本」を作り出してくれさえすれば良い。

 波の上にできる幻の都市。

 海に、その上に、触手のように広がる高架に運ばれる欲望は、人は、都市は、このまま空に飛び立ってしまうのではないかとさえ思える——その力の集まる——焦点にそのタワーはあった。

 東京スカイタワーと言うなんの面白みも個性もない名前のついた建造物であった。いろいろな命名案がでて、様々な企業や団体が自分の推薦する案を推してひかずの混乱の中、調整の結果で落ち着うのは凡庸なものだったと言うのは良く聞く話であるが——結果的にはその方が、この様々な思いと欲望を受け止める塔に関しては正解であった。

 何ものも意味しないような名前であるから、個性の無いない名前の塔であるから、人々は、それに向かって様々な思いを託することができた。

 だからこそ様々の思いを受けて、塔は虹色に輝くことができた。ただの入れ物でしかないはずの、この建築物は、その空であることにより、神性を帯びてさえいるように見えた。

 あの旧約聖書の有名な神話のように、名を託し生まれたバベルの塔は、この繁栄の元に話されるただ一つの言葉、「欲望」の元で、この東京にすべての繁栄が集まる事を願って高くそびえた。

 人々はそれを睥睨し、願った。その名ができる日を。溢れ出る東京の欲望を受け止めてあぶくのように海に浮かぶこの街から、天にむかって不敵に挑戦の指差しをする英雄の立ち上がる日……

 待ちわびたその日。

 それが遂に、今週にひかえているのであった。

 それはかなり遅れ気味のスケジュールではあった。

 いや、この規模の建設物を作るにしては専門家に言わせるのならば実は十分に早く完成したとも言えるのだが、人々の期待に引くに引けずに多大に希望的観測から作られたスケジュールから比べたならば、その完成はざっと三年は遅れていた。

 日本の土木建設技術の粋を集め、不眠不休の急ピッチで工事は続けられていてもそれであった。

 希望的観測が全て良い方に当たっていれば、一年遅れの六年もあれば完成するはずであったのだが……しかし、様々な新技術への挑戦や、予想以上の地盤沈下等のトラブルに悩まされ、完成はずるずると遅れる。

 その間にタワーの周りの海上都市の方がどんどんと先に完成して行き——復興の象徴の為に作られるはずの建物が復興の方に先回りされると言うのも滑稽な話だったが——しかし人々はそれを笑う事は無かった。

 天変地異に鞭打たれた「日本」が、もう一度、これほどまでに短期間に復活を遂げるなんて、あのころは誰も思ってはいなかったのだ。

 そんな氣持ちのまま、その繁栄の現実に心が追いついていない人々にしてみれば、爛熟の経済の中で遅れてやっとできあがるそれは、同じように遅れて時代に追いついた自分の心が形になり、それほどまでに聳え立つ。

 そんな風な共感を持って見る。

 まるで自らが誇り高く立ち上がっているかのような共感をもってタワーの完成を見つめるのだった。

 自分自身も知らなかった、自分の中にあった何物かが目の前に現前するのを知り、溢れるばかりの感動と喜びの中、この海の上までも包む繁栄の中で、その塔はもうすぐにそこに現れるのであった。

 名を示すのであった。

 それはまさしく日本の再生の象徴となる。

 人々は、この塔を復興ではなくこの「日本」が次の段階へと進むための象徴として捕らえ、その公開の日を待ちわびていて——そしてそれはもうほんの数日先——今週金曜には一般に開放となる予定なのだった。


 公開のその日は盛大なセレモニーとなる予定だった。

 タワーに隣接するスタジアムでのイギリスの大物ロックスターのコンサートをメイイベントとして、国内外より招かれた政財界、ショービジネス界のセレブ達が他に行われる様々なイベントが行われる。集う人出は初日の金曜でも数十万人、休日には百数十万人を越えるだろうと予想されていた。

 そのため、このタワーへのメインのアクセス手段となる海底トンネルでつながる地下鉄の他に、連絡船、あるいはお台場の埋め立て地からかけられた1キロの斜張橋を介してアクセスする予定のシャトルバスなど、様々な移動手段がその日に臨時で設けられ、またその道中も海上や橋の上でも幾多のイベントやイルミネーションで盛り上げられる予定であった。

 それはこの狂躁の首都ででさえ、かつて無い程のカーニバルとなる予定であった。

 かつて無い程の祭り。それは、この日本にできる新たな神殿に我らの神を、欲望を心置きなく注ぎ込み、そして……

 ——ああ、馬鹿な騒ぎになりそうだ。

 ——かつて無い程盛大な。

 ——いや、そうなら無ければ困る。

 ——なにしろ祭りが大きければ大きい程、自分達の計画もうまく行くのだから。 

 アキラはそんな事を考えながら、クルーザーのデッキに置かれた寝椅子に深く腰掛けながら眺めている。

 何を思っているのか——野心に満ちた目と不敵な笑い。それはまるで、これから行われる戦いの為の戦場を下見する将軍ででもあるかのようだった。

 彼は、瞬きもせずに、厳しい目つきでじっとタワーを見つめている。それが敵、倒すべき怪物ででもあるかのような激しさで。端から見れば、風車を前にしたドンキホーテででもあるがごとく——滑稽な程夢中にも見えただろうその様子であった。

 しかし、そんなアキラに、

「ついこの間まで半分くらいしかできていないような気がしてたんだけど……気づいたらあっと言う間ね」と、アキラを笑うどころか、彼以上に真剣な目つきをした、トウコが話しかける。

 トウコは両手に持っていたグラスの片方をアキラに手渡す。

 アキラはそのグラスを掲げ、そのボランジェのシャンパンの金色の泡を通してまたタワーを眺め、しかし少し顔つきを緩めながら、

「こういうのは土台ができれば早いもんだ」

「でもやっぱり『あっと言う間に』とみんな思うわね……人々は土台つくるとこなんて関心無いから、お役所や大企業の怠慢で散々遅れてたのが、最後に大慌てで工事して、やっと完成したとかしか思わないわよ」

「……そう言うもんだ。土台を作る事なんてだれも関心なんて無いもんだ……土台……いままでの積み重ねた努力の歴史無しに、泡のように世界が『今』に浮かんでると思っている」

「あら、あなたらしくも無い言葉ね。土台とか、地道な努力、みたいな地味なこと言い出すなんて似合わないわよ」

 アキラは何も言わずに頷く。トウコの言葉を承認したのでも否認したのでもない、曖昧な表情で、アキラは立ち上がり、少し前に歩き、デッキの欄干に肘をつけると、海面を眺めながら持っていたグラスのャンパンを一気に飲み干す。

 すると横について来たトウコは、空いたグラスに、新たなボランジェを注ぎながら、

「……もしかして迷ってるのかしら?」と。

 アキラは何も答えない。

「……いままでの先人の努力……土台まで全部壊しちゃうのは惜しいとか思ってる?」

 やはりまた無言のアキラ。

「もしあなたが、途中でやめちゃっても、私は全然かまわないのだけれど……それなら私は私のやり方でやるだけなので」

 少し試すような目でアキラを見つめるトウコ。

 しかし、その目にもまるで動じた様子も無く。

「いや……」とアキラ。「……やるなら最後までやる、それは始まった……もう後戻りはない」 

「そう……」アキラの言葉を聞いて、ぞっとするような冷酷な笑みを浮かべたトウコは言う。「それを聞いて安心したわ」

「ああ、大丈夫だ。信用しろ。俺は途中で投げ出したりはしない……今の問題は……」

「分かってるわ……あの子がどう動くのかと言う事でしょ?」

「そうだ」

「まあ、純な娘なので、結局は最後まで我々の側についてくれるかは分からないけど、ともかく……今日のところは大久保で買い物を楽しんでるって報告来てたわよ」

「一人で?」

「違うわ。ボディガードのつもりなのか紅葉が彼女の良く使う探偵をつけているみたいだけど」

「探偵? ……それは可哀想だな」

「可哀想? 探偵なんかと買い物しなきゃならないあの娘が?」

「違う……その運の悪い探偵君がだよ」

「なんで?」

「獰猛な獣どもの闊歩するこの日本で、探偵などと言う馬鹿な職業を選択したその彼に僕はまったく同情はしないけど……しかし獣の前に立たないといけないにしても……買い物ンに餓えた獣の前に立つのは……ご愁傷様と言う事さ」

 そう言いアキラは皮肉な笑みを浮かべ、その笑みが夏美の買い物に付き合わされる探偵に向けたものだと気付いたトウコは趣味の悪い笑みをたしなめるように顔をしかめる。

 しかし、それで終わりであった。

 話はこれで終わり。二人はその後は何も言わず、少し陽の傾いて来て赤みの差す光に照らされた、海面をただ眺めている。

 この不敵な二人にしては緊張した表情の、アキラとトウコの乗るクルーザーはゆっくりと進む。この東京湾に浮かぶ他の沢山の船達の間をそれは漂うように進む。外洋にも港にも向かう気はない様子で、湾内で同じような場所をひたすらぐるぐると回っているその船は……何かを待っているのだろうか。

 この二人さえ緊張させるような何かを?

 そのまま、ずっと椅子に座りただ海を眺めるアキラ。クルーザーの運転をしているトウコは時々デッキに出てきてはアキラに声を掛けまた戻るその姿は、少し焦燥感に駆られているようにも見える。二人は明らかに何かを待ち、その何かに緊張していた。名の知れた会社や小国を傾かせる事も厭わないような、それを瞬きもせずに行うような、この二人がである。それは——待っているのは——そんな二人を緊張させる程の事なのだろう。

 とは言え、まだその時間では無いようだった。特に何も起きる様子がないまま、そのまま数時間が経つ。

 しかし赤く染まった海に暗闇が落ち、もう灯火無しでは船の居場所も良く分からなくなった頃……アキラとトウコの乗るクルーザーに、いつのまにぴったりと寄り添う、小さな船がいた。

 灯りもつけずに、陸から死角になるほうの側に静かに近づいたその船は、クルーザーの上のアキラから投げられたロープの先に大きなアタッシェケースをくくりつけると、現れた時と同じように

、いつの間にか、闇の中に消え去るのであった。

 アキラはそのアタッシュケースを開けると中に入っていた一枚の契約証らしき紙をじっと眺めたら、頭上に聳えるスカイタワーに向かって乾杯をすると——残りのシャンパンをゆっくりと飲み続けているのであった、

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