第3話 大久保
この「日本」には、繁栄が、全国津々浦々、どんな小さな町の、どんな小さな通りまでも、浸透している。
転がる小さな石ころまでにも。
本当に——そこにある富。そこらにある富。
あらゆる場所にあるそれ。
たまたま拾った光る石が無造作に捨てられたダイヤであることも決して珍しくないようなこの世界。
札束がゴミ捨て場に捨てられて、ふさわしき者に見つけられるのを待つこの世界。
富は、自分を見つけたいと言う欲望のある者を待っている。
富は偏在し、眠り、自らの未来の主人を待つ。
魂を売ってでも自らを求める者を。
富はその獰猛な目で通りを睨む。
富は、信仰を、生け贄を待っている。
自ら進んで犠牲者となる者を待ち構えている。
自らの寄身となる者達を、その蟻地獄のごとき、何人も這い上がれぬくぼみの中心で待ち構えている。
何処にでもある。
富などどこにでも転がっている。ひたすらに増殖を続けて行くこの世界での経済は、自らを自らで食らいながら、膨張する。
……富、
——それは呪い。
それは、無から有を引き出す魔術、それはこの世界にかけられた呪いだ。
幻をいくら食べても腹に満たぬと言う呪い。
マイダス王の伝説のごとく、触るものすべて黄金に変えるその呪いの長く伸びる腕は、どこへでも入り込み、人々から大事なものを次々に奪うと、すぐさま黄金へと変えて行くのだが……
心までも黄金となった人々ははそれに気づくことは無い。
——欲望の罠。
それはこの「日本」ではあらゆる場所に仕掛けられている。
何処へでも。
まさしく、何処へでも。
そう——この通り、新大久保駅から少し歩いた場所にある小さな通り、この場所にもその罠はあったのだった。
この「日本」にして富とはほど遠く見えるこの場所にも罠は仕掛けられていた。
駅を降り、乱雑だがにぎやかな繁華街を横目に薄暗い裏道に行けば、そこには客引きのたちんぼやアル中のホームレスがうろうろとする物騒な雰囲気の薄暗闇……
一見、繁栄よりも見捨てられた様に見えるこの場所だが。
——その罠は抜け目無く獲物を狙う。
それにひっかかったのは、少し前から姿の見えなかったあるホームレスの男であった。
先週この場所から突然消えたその男であった。
彼は、「その」夜に、消えた時と同じように突然現れたのだった。
彼が富に捕われた獲物——この後行われる祭事の供物であった。
そのために男は帰って来た。
それを好奇の目でこの通りの者達は見つめる。
二週間以上も消えていたこの男は、きっと何処かでのたれ死んだのだろうと、皆思っていたのだが……
いったい彼に何があったのかは分からないけれど、先週までの汚れた姿からは想像もつかないような奇麗な格好で彼はこの場所に戻って来たのに皆一様に驚いたのだった。
その男は、薄ら笑いを浮かべながらこの通りの入り口に立っていた。上等だがサイズの合っていない少しちぐはぐなスーツ姿であった。
男はまるでしゃっくりのような不気味な笑い声をたてていた。それは狂気じみた様子に見えたが、もともと少しおかしな様子であった男の事なので、通りの者達はそんな事はとりたて気にもしなかった。
だが、彼がこぎれいな格好で現れた事に皆酷く興味をそそられていた。
おい、いったい何があったんだい。
どんなうまい事やった。
札束でも拾ったのか。
それともヤバいことに手を出したのかい。
しかし通りの者達からの次々の質問にも、男は黙って薄ら笑いを浮かべているだけだった。
いつもの垢に汚れた顔はきれいに洗われているが、長年の肝臓障害で黒ずんだ顔はそのままに、男の顔は、笑みに、残酷な笑みに満ちていた。
それはあまりに酷薄で、人間の物とは思えないような——それは心有る者の表情とはとても思えないしろものだった。
それは男の顔の表面に張り付いた仮面の造形であるかのような、感情の無い——笑い。
男は、薄暗いこの通りを一度ざっと見渡した後、その不気味な表情のまま、自信満々な足取りで歩き始めた。
皆はその男の事を、物珍しそうな表情で、隙あらば何か盗れないかとでも言うような鋭い目つきで、男の後ろについて歩いていた。
……奴が帰って来たぞ。
誰かが叫ぶと、泥まみれのどてら姿で道路に寝転がりながら裸の女の油絵を描いている老人が体を起す。この老人はこの男と通りで最も仲の良かった者だったのだが、そんな彼にも男はまったく感心を払わない様子。
そんな男を呼び止めようと、老人は思わず立ち上がり、男の前に立つと、
「おいおい、どうしちゃたんだい。いなくなった後はてっきりどこかでくたばってしまったんだのかと思ったら……その変わり様」と。
男は老人を無視してさらに先に歩く。
「まって、まって。ちょっと話してくれても良いじゃないか。どうやってそんな良い目にあったんだい。俺にもちょっとはおこぼれはないのかい」
すがりつくように手をつかむ老人を振り払い、男は更に歩き続ける。
「おいおい、自分だけ、良い目見て、俺の恩忘れたのか、お前は……」
老人は更に手を伸ばすがその手は、後ろをついて歩いている別のホームレスに払われて、老人はバランスを崩して倒れそうになる。
「この恩知らずのおまんこやろう!」
老人の叫びにも男はまったく反応を示さない。
しかしその時、男の少し前方で、山手線の土台のコンクリートにペンキで意味不明の詩を書いていたフルフェイスのヘルメットを被った若者が、ペンキを持ったまま男の前に立ちふさがった。若者は、まるで動物のようなかん高い奇声と笑い声を上げ、刷毛を片手に持ちペンキを男に塗り付けてやろうとばかりに近づいてくる。
「あらあら奇麗なおべべが台無しだい」老人がうれしそうに言うが、男はその声など無視をして、前に進む。
若者は、まるでビビらない男に対して、更に甲高い、怒ったような声を上げ走り寄るが、次の瞬間足をひっかけられて地面に転がり、腹を踏まれ悲鳴をあげた。
次に、肩の辺りをけられ、骨の折れるような音がした。
「おい、おまえ、なんてことすんだい」
老人は男に向かって叫ぶ。
しかし男は無視したまま進み、そのまま面白そうにこの騒ぎを眺めていた太った街娼のところに歩いて行く。
街娼は暴力を振るわれるのかと思って、びっくりしたような顔をしていたが、男が尻のポケットから数枚を畳んだ1万円札を出すのを見ると、
「なに、あんた、私に会いたくて戻って来てくれたの」とうれしそうに言う。
男は女に金を手渡すと、そのまま押し倒し事を始めようとする。
「あんた、がっついているのは分かるけど、ホテル行きましょうよ」
女は抱きついた男を逃れようともがくが、男は女の頬を叩き、馬乗りになりながら自分のベルトのバックルを外す。
「おい、ふざけんな」街娼の口調は荒くなる。「こんなことしてどうなるか分かってるの、あんた」
男は無視をして女のドレスをまくり上げる。
「おい、やめろ、この変態、アニさんを呼ぶよ……」周りで事態を注視しているこの路上の住人達に女は呼びかける。「おい誰か、組の者呼んで来てよ。こいつ狂ってるわ」
しかし女の脅しにも男はまったく怖がる様子も無い。
平然とした表情で、馬乗りになったまま、にやりと笑うと、胸のポケットから札束を取り出し、紙テープを外すとそれを女の顔の上にばらまく。
「……何、これ全部くれるって言うの」との女の言葉に男は頷く。「なんだ、最初からいってよ、金持ちは変態って呼ばないのよ、私は」
その言葉を聞いて男の口が微かに動いた。
「なんて言ったのよ。聞こえなかったわ……もしかして『変態じゃなくてなんて呼ぶか』って言った?」
男は頷く。
女は身体を起こし、男に抱きつきながら、
「それじゃあ教えてあげる。金はを持って来てくれる人、それが、コ……イ……ビ…… 」
——爆発!
女の言葉が終わらないうちに、男は胸に下げていたスイッチを押し、男の体中に仕掛けられていた爆弾は、周りで見物していた連中も巻き込んで、当たりを粉々に吹き飛ばした。
飛び散った火の燃え移ったその周りの一画は、あっという間に燃えあがった。
もしかして、何物かに何か燃えやすい物でもあらかじめ置かれてあったのか、信じられない程素早く火は燃え広がり辺り一帯を焼き尽くすのであった。
あっと言う間であった。
何度か更に爆発が起き、この火事の防壁となりそうだった鉄筋コンクリート建ての建物も崩れ去った。それは、後で聞くには、漏れたガスに引火したのだと言うが……
それにしても都合が良くそんなガス漏れがたて続けに何件ものビルを吹き飛ばし、火の広がるのを助けているかのように見えるのは、明らかに不自然な様子だった。
まるで計画されたかのように、邪魔となりそうな障害物は爆発で消え去って、とどまる事無く日は燃え広がって行った。
その火は、まるで消える様子が無かった。駆けつけた消防車が道に放置された謎の車の移動に手間取ったのもあり、初動での鎮火に失敗したこの大火事は、まるで手のつけられない有様で、そのまま夜中、止まる事無く燃え続け、夜が明けたそこにあったのは——元の街並は全て消え去り——がらんとした焼け野原だけであった。
なんでいったい、と周りの人々は噂した。こんな奇麗に燃え尽きるなんて、と。きっと、あの爆発した男だけの仕業じゃない、誰かが計画して火をつけたのだ、と。
誰もが確信していた。誰の目にも明らかだった。誰もが、ある会社の名前を、陰でこっそりと口にした。それは、この辺の土地の権利を持つある会社で、立ち退かない住民を追い出す為にあの男を雇って火をつけさせたのだと。
しかし実行犯が爆発で跡形も無く消え去っていたとあっては、うわさの計画の真偽をそれ以上警察も追う事はできなかった。
街も証拠も何もなくなってしまった。炎が何もかもすべて焼き尽くしてしまったのだった。人も建物も、そして罪も消え去った。
そう、もともと、前の震災で相当の被害を受けていたこの街は、今度こそ完全に消滅してしまったのだった。
そして数年後、この大久保の街は未来的なガラス張りのビルの建ち並ぶ、奇麗なショッピング街に変貌していた。焼け野原に新しく建てられたのは元の街とはまるで異なった無機質なビル街であった。
この街は変わった。
新宿から少し足を伸ばして、家族連れでもやってこれる、この「日本」の何処にでもあるような街へ。
奇麗で、能率的だが、表面だけであり、それゆえに欲望を呑み込めず、それを流し続けるしかない街へ。
さて、そんな街……新しい街……夕暮れの大久保の街。
老人が、照り返すビルの光に目を細めながら通りを見渡す。
それはあの日、男に最初に気づいたあの老人であった。
火傷のため変わり果て、もし知り合いが姿を見ても、とても彼とは気づかないであろうその姿。
もっとも老人の知り合いなどとっくに、あの日、火の中に飲み込まれていってしまっていたのが、老人にはまるで何もかもそのままであるかのように、かつての路上の仲間達がそこにいるかのように語りかける。
幻に向かって?
いや、消えないのは欲望だった。
彼らの残して行った宙に漂う欲望だった。
それにむかって老人は語りかける。
「消えないよ、何も。なにもかも昔のままだ。くそいまいましい現実のままだ」
老人は目を瞑り、それでもまだ見える亡霊達に向かい、悪態をつき続ける。
しかし、日暮れ。
——暗闇。
そして、
「でもそれも終わる。私は光を持っている。それはもうすぐ……」と言いかけて、
——そのまま息を引き取るのであった。
*
新大久保の駅改札前、ハルオは時間の十分程前にやってきたのだが、約束の女——夏美——はすでに待ち合わせの場所に立っていた。あの写真の女性と——ハルオはすぐにそれに気づいた。もちろん、人探し仕事も多いハルオは、雑踏の中から人の顔を見つけ出すのに慣れていたのだが、そうでなくても、目立っていた彼女を見つけるのは、誰にでも容易だっただろう。
ハルオが渡された写真に写るよりも、実際のその姿は、ずっと絵になる女性であった。奇麗だとか、可愛いだけでない、何かキラキラとしたオーラを纏った女性だった。歩く者が思わず見蕩れるような、作られた美しさではなく、生まれつきの透明感、光る結晶のような美しさを纏った儚くも純粋そうな女性であった。
ハルオは思わず、足を止め、夏美を見つめてしまっているが、その視線に気づき、振り向いて目があった彼女は、軽く会釈をしてきた。
ハルオも会釈をし、そして夏美に近づこうと一歩足を踏み出すが、
夏美の方が先に歩いて来て、
「……あれ? ええと、花山さんで間違いないですよね」と。
花山——と名字で呼ばれたハルオはまた無表情で頷く。
「……そう、よかった。まちがっていたら赤っ恥かいてしまったかドキドキしてしまいました」
てへっ、と言った表情で笑う彼女は純朴そうな感じで、物でつられて友を売るような女性には見えない。
女が第一印象で判断すると落とし穴にはまるのはハルオが職業柄散々に経験したことであるが……
しかし、とは言え、底に何も持っていないような無邪気な表情で笑う夏美につられてハルオの顔も少し緩む。
「すまない、待たせたようで……」
「そんな、まだ約束に十分前ですよ……全く問題ないですよ。あたりまえですよ……というかあやまられるとこちらが恐縮してしまって……それで……」
一気に話し出して止まらない、と言う様子の夏美を見て、その人懐っこく一生懸命な様子に、ますます会う前に思っていた印象とずれて行くのを感じるハルオ。
「……なのでとにかく、気にしないでくれてもらえればな? なんて思ってるので……」
ハルオが後に来た事を気にかけないようにと言葉を尽くす、その顔は真剣そのものでこの子の本当の気持ちを一生懸命に表現しようとしているように見えた。そんな姿を見て、ハルオは、この子が今見たままの子である——友に何か害を与えるような事を好んでする子ではないとますます確信をするが……それであるならば、何故彼女はそんな事をする?
そう思うと……
警戒しろ——。
ハルオは、心の底に違和感を感じる。自分の今の状況に、事前のシミュレーションからずれて行くこの状況に、そして目の前の女のまるで悪意の無い笑顔に、目眩のような感覚を覚える。それは彼の職業上の必須の能力、何かがずれているそれを敏感に無意識に感じ取る能力であった。その警戒のベルが今心の中でなり響いているハルオは少し疑わしげな目で夏美を見ているのだが……
夏美は、そんなハルオの様子などまるで気にもせずに、
「……今日はわざわざ来てもらってありがとうございます」とにっこりと笑いながら言う。
それに、
「仕事だからね」と少し皮肉っぽい口調で返すハルオ。
「あらら、その言い方って私に会うの楽しみだったって感じじゃないですね」
「楽しみかどうかはどうでもよくて——仕事に私情は挟まないのでね……君がたとえどんな可愛かったとしても」
ハルオの言葉に夏美は、少し赤くなる。
「……それって、私の事可愛いっていってます!」
「……いや……」
「え、『いや』って違うんですか……残念だな」
「……いや、そう言うわけでもなく」
「……じゃあ、やっぱり可愛いって思ってます?」
一気にまくしたてられて、言葉につまるハルオ。
彼は予想と違った夏美の性格に少し呆気にとられている。
ハルオは、自分が御しやすい、実利的な娘がやってくるとばかり思っていたのだが、やって来たのは彼が一番扱いに困る天然気味の女。
渡された資料では、二十歳になったばかりと書いてあったが——その歳にしてはすれていない雰囲気、表情、この狂躁の「日本」でこんな子がふらふらと歩いて大丈夫なのかと心配になるような……
「……ごめんなさい……調子乗りました」
おもろそうな表情をしながら、ペコリと軽く礼をする夏美。
あきらかにハルオの困っているのを楽しんでいる様子だが、底意の悪さも感じられず、うっかりハルオも笑ってしまいそうだった。
そんなハルオを見て夏美も嬉しそうに笑い、
「なんか花山さん……面白いですね」と。
面白い? からかいがいがあってと言う意味だろうと分かりハルオは少しムッとした表情になるが、それではますます夏美のペース。
「まあ、怒らないでくださいよ、今日は楽しいお買い物なんですから」
夏美は、少し顔をそらし気味のハルオの目の前に回り込むと、少し腰を曲げて指を一本たてながらまたにっこりと笑い、
「買い物ですよ! 忘れてないですよね?」と続けて。
「買い物……ああそうだったな」とハルオ。
「はい!」
「それじゃ……出発するかな」
「はい!」
嬉しそうに、スキップするような足取りで進み出す夏美。
そして、それにあわててついて行くハルオ。
ハルオは会ったばかりのこの数分で、どっと疲れを感じていた。
このまま彼女のペースで、振り回されたら帰る頃には疲労困憊となってしまいそうな……なんでこんな子を俺に対応させるのか——もっとこういう子の扱いのうまい奴はいくらでもいるだろうにと——紅葉の顔を思い浮かべながらハルオは心の中で悪態をつく。
しかし、そんな彼の様子なんてかまいもせずに夏美はくるりと振り返りながら、
「花山さん、遅いですよ」と。
ハルオは小走りで夏美に追いつきながら、
「そんな急がなくても店は逃げて行かないよ」と。
すると、
「そりゃ店は逃げないかもしれませんが、品物が売り切れるかも知れないじゃないですか」と少し口を尖らせながら夏美。
「今はセールでもないし、そんな売り切れなんか簡単には起きないんじゃないの……」とハルオ。
すると、
「何言ってるんですか花山さん!」と声が大きくなりながら夏美。「そんな油断して良いのが売り切れてしまったらどうするんですか。ちょっとの間に最後に残った服が売り切れてしまうかも知れないじゃないですか」
「でもそんな急いでも、ゆったり歩いても、数分の違いじゃないの」
「その数分が買えるか買えないかの明暗を分けるかも知れないじゃないですか」
「いや、確かにそういう可能性はあるけれど、そんな時は縁が無かったと思えばいいんじゃないかな……すぐにまた別の気に入ったのがみつかるよ。君はまだ二十歳だろ、これから一番遊びの盛りになって、バイトでもすれば、いくらでも買い物なんて……」
「いえ……花山さん」何故か少し暗くなった声で「今しかできないんですよ」と夏美。
「えっ?」
いままでのふざけたものから少し深刻な様子に変わった口調に、その言葉の突然のリアルな感じにどきりとして、ハルオは思わず次の言葉を呑込む。
なにか触れてはいけない、それ以上突っ込んでは行けないような気がした。
なので気の聞いた冗談でも言おうとして、
しかし、
「いや……」
ハルオは、言うべき言葉を見つけられずに、喉の奥で、声にならない声がぐるぐるとまわるまま、夏美の顔をじっと見つめていたら……
そんな困ったような顔のハルオを見て、面白そうに、またにっこりと笑う夏美。
「……なので早く行きましょう花山さん。善は急げですよ」
小走りに進み出す。
「おいおい、それは善なのか?」慌てて追いかけながらハルオ。
「もちろん善です……女の子のこんな一日は——今日の私は全部正しいのです!」
東京を襲った未曾有の震災による被害、そしてその痛手もいえぬ頃に何者かに仕組まれたと噂される大火事の後に更地同然となった大久保の街は、明治通り沿いに伸びて来た新宿の再開発の拡張と重なり、東京の中でも有数の一台ショッピングゾーンを作り出すこととなった。
ガラス張りの奇麗なビルが続き、内外の有名ブランドやらレストランやらに埋め尽くされ、元の雑多な街並等思い出す事さえできない、小奇麗で、しかし無個性な場所として生まれ変わったここ——商品なら何物でも呑込むような巨大さを持ちながら本当になんでもある——でもそれだけ。
ここには結局、ある物しかない。それだけだ。
まるでこの東京の、「日本」の縮図のような、元の土地を同じ色に塗りつぶし、同じような物で埋めて行くこの街。それだけの街。
この街では歩く人々もまるで人形か何かのように見える。
この「日本」を構成するビット。内面は無く量だけがある。それがここには満ちている。あるのは量だけ——消費への欲望だけ。そのための街。それがここだった。
駅から、ペデストリアンデッキを通って、直接に続くタワービルに入って行けば始まる……そこは、欲望が集まり、演算され、そして作り出されたリアルな物で創られた仮想世界……
何処にでも無い故に何処でもある街であった。人々は、迷路のように続く果ても知れぬ店舗から店舗へと次から次へと入り、次から次へと消費を繰り返す。
胸に例の安っぽいチューリップを挿した人々の群れが動く。
このブランドから、あのブランド。このレストランから、あのカフェに。
十階の吹き抜けを挟んで果てしなく続くショッピングゾーンはまさしく迷宮で、そこを抜けてこそ達する事ができるだろう自分を捜すかのように、消費をする以外にやることのあるはずの、本当の自分を捜して、人々は何処までもこの中を巡るのだが、その迷宮はけっして終わりはしない。
一日中歩きづめ、疲労困憊して結局はその迷宮から抜け出ぬままに、迷宮の中にある現実に戻って行く。そんな出口の無いこの場所に入り込んだ、人々の楽しげな表情とは引き換えに、その内面は次第に矛盾と苦悩に満ちて行くのだが……
どうも表情もそれほど楽しそうではない二人組がいた。
ハルオと夏美であった。
今はヴィトンの店に入っていたのだが……
「気に入るのが無いのか?」少しあきれ顔、と言うか疲れた顔のハルオ。
「……まあそうなんですけど」鞄を裏返しながらじっくりと検分するように眺めながら夏美。
「直営店のここなら偽物ってこともないだろ」
「いや、この前に入った店の、別のブランドだって偽物ってわけじゃないですよ……ただ」
「ああ……さっきたっぷり聞いたよ。日本を馬鹿にしてるって」
「あのブランドが作った服には間違いないですが、日本人がブランドなら何でも買うと思ってるのかあの縫製はないですよ。後でローマの本店に文句言っておきますから」
「ローマ? 本店? お前が?」
「あれ、私じゃ頼りないですか、あそこの支配人にはいつもひいきにはしてもらってるのだけど……確か怒っても私じゃ迫力不足かもしえませんね。その時は……花山さんお願いできます?」
「なんで俺が? それにイタリア語なんて話せないぞ」
「大丈夫ですよ。相手が日本語話してくれます。ああ言うブランドは今や日本が無いと商売できませんからね。向こうから日本語覚えてくれますよ」
「それはよかっった……ってそう言う話じゃなくて!」
「……? 何が問題なんですか」
「なんでお前の替わりを俺がやらないと行けないかと言うのはひとまずおいておく……」
「……?」夏美はなぜそれが問題なのかわからないような表情。
「でもなあ、お前それは無粋だよ」
「ぶ・す・い?」
「そう無粋だ。双方がわかって「ごっご」やってるんだ。日本に少し品質が悪くても、『あの』ブランドでそこそこの値段の、『こんなかわいい服』を欲しがる連中がいて、向こうもそんな需要が分かっててあんな製品を送って来るんだ。『あの』ブランドにしては手頃の値段だけど、中身はそれでも値段なりではない……でも買う奴だって騙されていると言うわけじゃなくて、分かって買ってるんだし、長く着るわけじゃないからそれでいいんだよ……デザインはお前も『これ可愛い』っていって飛びついたじゃないか」
「ええ、デザインは好みと言うか、ああ言うのが欲しくて今日はやって来たんですよ。家にデパートの外商部から品物持って来てもらう時には母親がああいう浮ついたデザインのものは省いてしまうんです、あのブランドも、可愛い服だしてるんだと喜んで飛びついたのですが」
「……デパート……外商部、家に」
「どうしました花山さん? そんな買いたい物も買えない不自由な毎日だから、今日を凄い楽しみにしてるんじゃないですか」
「……まあいい、お前もあの娘の友人らしくお嬢さんなんだな……」
「……あの娘?」夏美はポカンとするが、少し考え、そして、はたと思い出したと言う顔。「……レイカちゃんの事ですか」
「……おいおい、今日買い物できてるわけを忘れてるんじゃないだろうな。」
少し焦ったような顔の夏美。
「そんにゃわけないじゃないですか! シっっかり覚えてますよ、わたしゃ計算だかい女ですから、金の為に友を売るんですよ!」
「……金に困ってなさそうだけどな」
「……か……買いたいものじゃけを買えるのはこういう悪に身を染めないといけないんですよ……」
「ふうん、お嬢様も大変なんだな」
「お嬢さんなんて……じゃなくて……いや……そう……そうですよ、どうです私が怖くなりましたか。くぁく……違う……悪の女ですよ」
「確かに渡された資料にはそう書いてあったけどな。お前……」
「……なんですか?」
「さっきからずっと言葉噛んでるぞ……何焦ってるの」
思わず下を向き、少し赤くなっている夏美。
ハルオは、笑う。
あまりにもあからさまな夏美の動揺。
ハルオは思う。
ああ、自分は何かにはめられてる。紅葉は何か嘘をついて、この件を依頼している。
いや、そもそも、この依頼全体が、嘘と言うにはあまりにずさんなホラみたいな話だった。
単に人探しにしては、「日本」が死ぬとかやたらと大げさで、まともに考えたらとても額面通りには受け取れはしない。真面目に考えるだけ馬鹿らしいのかもしれない。
でもそれがブラフにしても、その嘘に見合いそうな高報酬を提示して来た案件なのだ。
確実に裏がありそうな案件だったが——自分を本気で騙す気なら紅葉はもっとまともな事を言うだろう。
会えば直ぐばれるこの夏美の嘘。。
こんなものは嘘とは呼べない。
彼女は金目的で友達の情報を売りにきた女ではない。
それがすぐにばれる事も織り込み済みでの依頼。
謎は——本当の嘘は他にある。
依頼のレイカの捜索とは別に——あるいはその捜索そのものに織り込まれて……
それを俺は見つけなければならない。
ハルオは考える。
それが紅葉が自分に課した挑戦だ。
ハルオを信頼した上で、試して来ている。
そんな気がして……
——面白いじゃないか!
ハルオは思った。
自分はそれを承知で受けて、こんな風に謎の中に放り込まれ、この天然気味の女子大生に困惑している。
それならそれで……
どうせならばとことんこの状況に乗って楽しんでやろうじゃないか。
紅葉の挑発を受けてやろうじゃないか、と。
このお嬢さんの決まらない買い物にももう少し付き合って(いや、正直なところ、それは結構もう疲れているんだが)この依頼の隠された目的を暴き出し……
と思っている所、
「……あの」
夏美の声にハルオは我に返る。
「……っん?」
「私の怖さが花山さんに伝わらないのはともかく……この店はそろそろ出ようと思うのですが」
「いいけど、ここにも思うようなのが無かったのか?」
「ここは物はちゃんとしていたのですが、それだけで……」
「今日わざわざ買いたいような物は無かったということか?」
頷くようにうつむく夏美。
そして、
「……今しかないんです」とうつむいたまま暗い声で。
「……?」
「今しか……」
なんとなくその言葉につっこみを入れれないような気がしたハルオは「『今しか』の意味は何か」と喉元まで言葉がでるがそれを飲込む。
「だから……」顔を上げ、思い直したように明る声で「さあ、次行きましょう花山さん!」と。
二人の歩く回廊は迷宮。きらびやかな店舗に囲まれた、何でもあるようで結局は欲しい物は無い。何処までも求めれば、欲しい物はその先に逃げて行く、まるで迷宮のようなショッピングセンター。
それは「日本」。何でもあるはずなのに欲しい物だけにはなぜかたどり着くことができない。何物でもあるが故に何物もない。
なぜなら「我らは」欲しい物が自分でも何なのか分からない。なので人は決めれないままに永遠に彷徨う。
ここは地獄巡りなら第何階層?
もし二人がが出口を求めて——もしここを抜けたいと思うのなら……
そこに迷い込んだ先達の語る通り。
——この地獄の底の先ににまで行かなければならないのだった。
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