エピローグ 星の在り処

「お父さんお母さん、おはよう」

 学生服に着替えて食卓に下りたリアが、両親に朝の挨拶をする。

 およそ一年ぶりに羽丘家に一家団欒が戻ってきた。待ち望んでいた生活のはずなのだが、一抹の寂寥感は拭えずにいる。この寂しさはしばらくは消えないだろう。しかし時が経つうちに薄らいでいくにちがいない。食事を終えると、リアは母に見送られて家を出た。

 今日から三年生。春の陽気に様々な期待が充実してゆく時期でもある。

 外を歩くとまだまだ吐く息が白い。雪解けの水たまりに反射してきらめく、淡い空のみずいろ。見上げると、どこまでも緩やかな浮雲が空色の瞳に流れた。


 教室に入ると、明石焼きがクラスメイトの女生徒と真剣な様子で話し合っているのが眼に入った。オオスなんとかの谷とかセレファイスがどうこうとか聞こえてくる。邪魔をしないよう普通におはようとだけ挨拶すると、いつものほがらかな顔と声で挨拶が返ってきた。

「リアっち、おはようさんやー」

「おっはよーございます、リアさんっ」

 明石焼きと話していた女生徒も妙に高いテンションで挨拶してきた。あまり見覚えのない顔だ。ほかのクラスの人だろうか。黒髪を頭の左右で下ろした……

「って、麻生さん!?」

 思わず素っ頓狂な声を出してしまう。それは間違いなく、御納戸学園の制服を着た麻生香月だった。

「え、なに、なんで麻生さんが?」

「実はですね……私、この学校に転校してきたのですよ! 今日からここの生徒です、よろしくっ」

「ええーっ?」

 青天の霹靂。寝耳に水。家族がこの町に引っ越してきたからだろうか、それとも一人暮らしでも始めたのか。いろいろなことが頭に浮かんでは消えていく。

 そのとき明石焼きが香月の肩を掴んで、まじめな表情でかぶりを振った。

「香月ちゃん、嘘はあかん」

 眉をつりあげて嗜める明石焼き。迫力ゼロだったが、とりあえず言葉の意味は分かった。

「あはは、ごめんごめん。そんなわけで冗談ですリアさん。私の学校は始業式が明日なので、せっかくだから明石焼きの学校を覗いてみたいなーと思って昨日こっちにきたんですよ。それで明石焼きからここの制服を借りて着てみたというわけですっ」

「そういうわけですか。でももうホームルーム始まりますよ?」

「適当に椅子持ってきて、明石焼きの隣に座ってても案外バレなくない?」

「いや、気づかれるでしょ……」

 リアがジト汗を浮かべると、香月は「ですよねー」と笑顔であっさり肯定した。

「ほんなら明石焼き、午後に迎えにいくからー」

 ぱたぱたと手を振って教室を出て行く麻生香月。やがて担任が入ってきてホームルームが始まった。

 リアにとってこの何気ない日常こそがなによりの宝物であり、その大切さを実感しながら、これからも前を向いて歩いていこうと心に誓うのだった。



 十歳前後の少女が町を歩いていた。栗色のショートヘアーにダークブルーの瞳を湛えた、純粋そうな容姿をしたこの少女は、記憶喪失であった。彼女がいま憶えているのは、自分がミィエという名前で、チェコ人であるということだけである。しかし不思議と不安はなかった。自分はこの程度の状況では動じることのない人間なのだろう。根拠はないがそう納得するしかない。

 辺りを見回すと、ここが日本だということはわかった。目の前に雑貨屋があった。『七海堂』と看板がかかっている。店員だろうか、金髪三つ編みの少女が店前で掃除をしていた。

 ミィエはその少女に声をかけることにした。

「すみません、ちょっとよろしいですか。はじめまして、わたしはミィエといいます、あなたは?」

「あ、はい、どうもご丁寧に。ええと……私はアクアです」

「アクアさんですか。少しお尋ねしたいことがあるのですが、この近くに教会はありますか?」

「教会? このへんで教会というとあそこしか……」

 そのとき店の中から丸い鼻眼鏡をかけた青年が出てきて、ぽんぽんとアクアの頭を叩いた。

「おいガキ、なに仕事さぼって油売ってるんだ?」

「ななな、楊さん! 人前でガキって呼ばないでください!」

「人前じゃなけりゃいいのか」

「よくありません! 楊さ、いいえ店長、あなたはもう少し真人間としての精神を――」

「いいから黙ってろ。さてお嬢さん、何か用か」

 ミィエがあらためて教会の場所を訊くと、青年はその場で簡易的だがわかりやすい地図を描いてくれ、教会までの道順を記してくれた。

「どうもありがとうございます!」

「むぐー、楊さんが邪魔しなかったら私が教えていましたよ!」

「はいはい、悪かった悪かった」

「子ども扱いしないでくださいっ」

「いや、ガキだろ」

「また言ったぁーーーーッ」

 アクアに対して素っ気ない態度をとっている青年だが、そのふしぶしからは確かな愛情が感じられた。いい仲だなと思うミィエだった。

 二人と別れ、地図どおりに歩いていくと教会に到着した。理由はわからないが、どうしてだか教会に行きたいという強い思いが胸をついて離れないのだ。

「どちらさまですか」

「あ……」

 神父と思しき青年が顔を出し、ミィエはぽかんとした。眼鏡をかけた優しそうな男性。確かに整った顔立ちなのだが、それとは関係ないどこかで胸がときめくのを感じた。

 気がつくとミィエは、頬を桜色に染めて青年を見つめていた。

「は、はじめまして。わたし……ミィエといいます」

 突然自己紹介されても困るだろうと思われたが、神父のほうも少女を見つめていたのか、はっとして穏やかにほほえんだ。

「はじめまして。僕は――」



 いきなりでなんだけど、この日記を見つけてくれた人は、わたしのことを知っているか少なからず関係のある人物だと思うので、まずはこの言葉を書きとめておきます。

『あなたがこの日記を見ているときは、もうわたしがこの世に存在しない人間になっていることでしょう』――って、こう書くと何だか死んじゃったみたいに思うかもしれないけど、その心配はただの杞憂だと安心してくれて結構だよ?

 でも、この世に存在しない、というのはある意味において正しいの。既に消息不明になって久しいだろうわたしが〈夢の国〉の壮麗きわだかな都の住人と成り得ていて、この世――覚醒世界でのわたしという肉体はその役目を終えて、言うなれば死体、遺体、骸という名の只の陳腐な抜け殻としてみんなの目に付いているかもしれないかなあ。

 さて、これからわたしが〈夢の国〉の夕暮れの瑰麗なる都市での永住を決めた経緯を記すけど、興味のない人は読まなくていいよ? こういうのは旅立つ直前に書き残すべきものなんだろうけど、今から数年後にすべての準備が整ったとき、日記なんて書かずにすぐさま実行しちゃいそうなので、いま書いておくことにします。

 日記を書くのは生まれて初めてだから変なところもあるかもしれないけど、その辺はングラネク山よりも高くイハ=ントレイよりも深い心でご愛嬌を。

 わたしはフヴィエズダ・ウビジュラ。チェコ人の少女で現在十二歳。愛称はヴィエ。栗色のややショートの髪とダークブルーの瞳を湛え、シックで可愛らしい黒の洋服に身を包んだ美少女です。わたしがこの世に生まれたのは十月七日。前置きと照らし合わせると妙に合致がいく人もいるだろうけど――


「なにを書いているのだね」

「……わたしの、最初で最後の日記」

 ランドルフ・カーターに覗き込まれ、ヴィエは照れくさそうに笑った。

 イレク=ヴァド神殿内の客室で彼女は荘厳な日記帳に羽ペンを走らせていた。ペンに使用されている美しい羽は、〈夢の国〉南部に棲息するマガ鳥のものである。

「わたしいま日本の町に住んでるけど、若返りの術式が完成したらこっちに永住することになるでしょ? 別れの挨拶なんてする気はないからある日突然姿を消すことになるだろうけど、日記を残しておけば問題ないかなと思って」

「君らしい趣向だ。その覚醒世界だが、日本では春を迎えたそうだね」

「うん、今日始業式を終えてきたところ。わたし小学六年生になったよー。術式を完成させるのにあと数年かかるから、最終的な学歴は中卒あたりになりそうかも」

 ヴィエにとって学校生活は趣味にすぎない。どのみち〈夢の国〉に存在を移せば覚醒世界のことなど関係なくなるのだが、良い思い出はつくっておいたほうがいいだろう。

「ところで、彼は何を悲嘆に暮れているのだ?」

 カーターがちらりと眼を向けた先、部屋の片隅で縮こまって、どんよりと暗い顔をしているのはサイモンだった。ヴィエは苦笑した。

「幻夢境にはアニメもゲームも無いことに落ち込んでるの」

「ふむ、技術発展による産物か。価値観など人間が勝手に作りあげたものに過ぎず、科学の進歩によって真実が明らかになると人間は発狂するしかないというのに……いや、あれはむしろ拠り所といえるのかな」

「そうかも。二次元傾倒は夢に近いものだし、高度な空想の自己否定から逃れることができる媒体だと思うから」

「では、こちらへ永住するまえに彼の憂いを除いたほうがよいのではないかね」

「それなら大丈夫だよ」

 とことこと部屋の隅まで歩を進めると、ヴィエはサイモンの前に立った。

「サイモンくん、顔を上げて」

「なんだいヴィエちゃん……俺はいま悲しみの坩堝に沈んでいるのさ」

 自嘲気味に顔を上げるサイモン。待ち構えていたように唇を重ねるヴィエ。

 びっくりする恋人を見下ろし、少女は嫣然と微笑した。

「ゲームやアニメが無くても――わたしがいるでしょ?」

 瞬間、サイモンは瀕死から全快した勇者のように立ち上がった。

「そうだ! 俺にはヴィエちゃんがいるんだ……こんなに嬉しいことはない!」

「ほら、大丈夫♪」

「確かに。ある意味サイモン君の強さといえるかも知れんな……幸せなことだ」

「そんなだから、わたしはサイモンくんを好きになったんだよね」

 心底嬉しそうに頬を染めるヴィエ。書きかけの日記をぱたりと閉じると、彼女はサイモンを連れて外に出た。高い段庭で寄り添いながら、夕日が沈みつつある黄昏の海を見はるかし、瞳をゆらめかせる。

「ねえサイモンくん。恋愛は永遠なんだよ、それが続いている限りは。――だから、わたしたちの愛は時の威力を破り、未来と過去を永遠に結び合わせるの」

「えっと、ごめん……もっとわかりやすく言ってくれないかな」

 ヴィエはしょうがないなあとサイモンを見つめ、夕陽に照らされたとびきりの笑顔を浮かべた。

「いつまでも、だーいすき♪」


 (了)

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星の在り処 皇帝栄ちゃん @emperorsakae

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