第16話 未知なるカダスを現に求めて(後編)

 黒々とした山脈の下、霧にまぎれた寂寞とした荒野で、隆志は詠唱をつづけていた。これはカダスの具現を早めるものであり、あと一時間もすれば世界が塗り変わる。

 その場にひとつ、気配が現れた。予期していた人物だった。

 十メートルの距離を挟んで対峙したのは、錫杖を手にした長身禿頭の偉丈夫。

「来ましたね――兄さん」

 恭しく両手を広げ、隆志がうっすらと冷笑を浮かべた。

 渺茫とした、凍てつく荒野。十メートルの距離を挟んで対峙する兄と弟。

「邪神の敷いたレールの上に乗っていると気づきながらも、軌道を変えなかったのだな」

「僕はこの世に生まれたその時から、大いなる意思の下にあったのです。無貌の神の掌中に落ちたものは決して逃れられないことを、兄さんもわかっているでしょう?」

「すべてはナイアルラトホテップの計画通り……か。だが、行動するのはお前の意志だ」

「そうです。僕は僕の意志でここまできました。神の掌で踊るしかないのなら、華やかに踊り狂うまで。そして、ここでそれを阻止されるわけにはいきません。――だから、僕が、この羽丘隆志が……兄さん、あなたを葬ります」

「いいだろう。ならば私も心置きなくお前を断つことができる」

 錫杖を構える権化。今、彼は隆志を打ち倒すべきものと認めた。

「オン・バザラ・タラマ・キリク」

 錫杖の大輪にかかる飾り輪が無数の刃となる。避けようとも防ごうともしない対象めがけて四方八方から飛翔したが、命中する前にすべて粉々に砕け散った。不可視の何かに払い除けられたかのようであった。

 冷笑を浮かべる隆志の背後にぞっとするほど巨大な影が降り、権化は反射的に防御結界を張るや、立て続けに真言を唱えた。

「オン・ソンバ・ニソンバ・ウン・バザラ・ウン・パッタ!」

 直後、信じがたい圧力が一撃で結界を打ち砕く。錫杖を構えた権化の背に明王の姿が浮かび、結界を砕いた圧力から身を護る。しかし、それでも完全には防御しきれず、険しい表情で地に膝をついた。

「ぐ……なんという力か」

「ふふふ、見えますか? 僕の背後に聳えるものが……この力の源が」

「――!」

 眼を凝らしてそれを視認した途端、権化は激しい戦慄を覚えた。山脈の上にまで及ぶ朦朧とした輪郭は、途方もない広がりをもって宇宙的恐怖を示しており、その全貌を眼にするや、権化の心には完全にはぬぐいさることのできぬ冷気が押しよせた。

 それはカダスの彫像山脈が生をもった想像を絶する歩哨であり、その化け物じみた双頭のいただく丈高い司教冠が、地上より数百メートルの空中で揺らめき、途轍もない巨大な姿をあらわして右手を振り上げていたのだった。

 防御結界を一撃で打ち砕き、明王憑依による護りをもってした権化さえも地に膝をつかせたのは、間違いなくその右手なのだ。それこそ、未知なるカダスの恐るべき双頭の守り。

「ご覧の通り、今ここに立つ僕にはカダスの歩哨の力が宿っています。兄さんに勝ち目はありません」

 全身をわなわなと震わせながらも悲鳴を口に出さず立ち上がった権化を見つめ、隆志は寂しげに瞳を揺らめかせた。


 窓一面に広がる星のまたたき。カダスの居城の房室では、ヴィエとリアが有利に戦闘を展開させていた。

「むー、思ったよりやりますね」

 押され気味なミィエは、しかし一切の余裕を崩してはいない。

 ミィエはこの世に存在を得た瞬間から、膨大な魔力と、現存する殆どの魔法をその身に秘めている。一般的に知られている武術や格闘技も達人レベルで行使することができ、さらには、あらゆる超常の力と物理攻撃に対して強固な抵抗力と防御力を兼ね備えているという、反則まがいの能力を個人で有しているのだ。

 二対一とはいえ、ヴィエ側が優勢なのは、ひとえにヴィエとミィエの相性の差に他ならない。存在的に同一であるゆえ、本存在であるヴィエはミィエの行動に対してある程度のイニシアチブを発揮することができる。くわえて、エルダーサインでミィエの攻撃威力を大幅に軽減可能なため、リアと共闘することで互角以上に戦えるのだった。

 そしてついに、青く輝く刃の一撃が、ダメージの蓄積していたミィエを吹っ飛ばした。

「あいたぁ……いまのは結構ききましたよ?」

 軽く頭を振りながら起き上がる少女に、リアは驚きを通り越して呆れた。時空すら切り裂く直撃を受けてこれでは、頑丈すぎるにも程がある。対するミィエは楽しそうに笑った。

「しょうがないですね、本気を出すことにします。少し寿命が減ってしまうのであまり使用したくはないんですけど……」

 ミィエの額に、翠光を放つ紋様が浮かんだ。迸る七色の閃光が幾重にも彼女を包み、今まで感じたこともない膨大な未知のエネルギーが収束していく。その光り輝くオーラにヴィエとリアは圧倒されて立ちすくむばかりだった。

 閃光がはじけ、翡翠の粒子が散った。

 輝きがおさまると、ミィエの衣服がやや扇情的なものに変容していた。しかしなによりも眼についたのは、額で淡い光を放つ紋様と、濃いエメラルドグリーンの双眸である。

 どこまでも清涼な空気を漂わせていた少女が、初めて不敵な表情を見せた。

「お姉ちゃんなら、わかりますよね」

「ただのホムンクルスじゃないだろうとは思ってたけど……まさかあなたの肉体が『星辰兵』だったなんて」

 ヴィエは慄然とした様子で声を震わせた。

 星辰兵――それは神代に造られた不老不死の超戦士。神代の破壊技術の粋を集めた結晶であり、絶大な力を有しているという。単純な戦闘力においてなら下級の旧支配者に対抗できるほどだ。

 星辰兵たちは神代の戦争終結時に役目を終え永い眠りについたのだが、稀に目覚める者もおり、正常な者は比類なき勇者として、暴走した者は恐るべき魔王として、それぞれ遠い昔の伝説に名を残している。

 経緯は不明だが、隆志は眠りについていた星辰兵のひとりを発見し、セラエノの大図書館で得た知識を用いて、ミィエの存在をその星辰兵に上書きすることに成功したのだろう。

「では、わたしのターンということでよろしいですか?」

 周囲に浮かぶ無数の碧玉。閃光状の刃を両手に形成し、ミィエが深い翡翠の瞳をきらめかせた。


 荒い息をついて、権化がその場にうずくまる。折れた錫杖が地に転がり、衣服はずたずた、全身はぼろぼろだ。獅子奮迅の勢いで戦い続けたが、カダスの歩哨の力は圧倒的だった。

「残念です、この手で家族を殺さなければならないとは」

 悲しげな声で胸に手を当てる隆志。

 権化はハッとなった。何かを理解したような、そんな顔で、ふらふらと立ち上がる。

「そうか……そういう……ことか」

 朽ちかけていた意志の炎を再びたぎらせ、ゆっくりと前進する。もはやまともに戦うことすらできない状態で、一歩、一歩、前を見据えて。隆志は、そんな彼を哀れみの眼差しで見つめた。

「これで終わりです。さようなら、兄さん」

 巨大な影が揺らぎ、不可視の壊滅的な一撃が空気を振動させた。ノーガードで完膚なきまでに叩きつけられる権化。いかな生物も即死は間違いなく、隆志は黙祷のつもりで眼を伏せ、そして、そっと開いたとき、予想外の光景に思わずたじろいだ。

 権化は立っていた。こぶしを握りしめ、重い足取りで、確かな一歩を進ませていた。

「そんな……そんなばかな……く……来るな!」

 冷や汗を流し、隆志は再び双頭の守りの力を繰り出す。その顔には明らかな狼狽が、恐怖の色が滲み出ていた。

 どれだけ直撃を食らおうとも足を止めず、よろめくことも、倒れることもなく踏み進み、権化はついに隆志の前に立った。

「無駄だ。私はお前の兄だぞ」

 その一言にすべてが集約されていた。

 がくがくと足をすくませる隆志。いま眼前に立つ男の姿が、とても大きく見えた。

「十年前のあのとき、やりのこしたことがある」

 頬を張る音が寂寞とした荒野に響き、薄灰色の眼鏡が地に落ちる。

 隆志はぼろぼろと涙を流して泣き崩れた。彼もまた悟ったのだ。

 もし隆志が家族というものに対する想いを捨て去っていれば、決して負けることはなかっただろう。彼が羽丘の姓に執着した時点で、この結果は決まっていたのかもしれない。するうち隆志の懐から、十字架の形をした銀色の鍵がふわりと浮かび上がり、自動的に回転して消え去った。

「さらなる持ち主のもとへ跳んだようですね」

 眼鏡を拾ってかけ直すと、隆志は静かに立ち上がった。そして、兄をじっと見つめる。

「いまの僕には、僕を必要としているひとがいます」

「……ならば、その者のためになってやれ。決して悲しませるな」

「ありがとう――兄さん」

 隆志が無邪気に笑った。遠い昔に戻ったかのようだった。

 翼のはためく音とともに、忌わしい馬頭のシャンタク鳥がやってきた。ナイアーラトテップの崇拝者は、この鱗ある恐怖の巨鳥を使役することができるのだ。隆志が鱗に覆われた背にまたがると、シャンタク鳥はふくみ笑いをして空に舞い上がり、果てしなく上昇していった。

 権化は、これが今生の別れでもあるかのように眼を凝らして見送った。


 緑光の刃による一閃が青光の刃を真横に両断した。その余波は刀身から柄まで及び、蒼き彗星を粉砕する。はじけた水飛沫のごとく粉々に砕け散る様は、燃え尽きて崩れる彗星の塵さながらであった。

 信念のかたちが打ち砕かれ、リアはがくりと倒れ伏した。その後ろでヴィエが力なく縞瑪瑙の床にへたり込む。星辰兵の力を開放したミィエはあまりにも強く、どうあってもかなわないのだ。

「ずっとわたしのターンでしたね」

 戦闘続行が不可能なほどに疲弊状態のふたりと違い、ミィエはどこか闘いを愉しんでいる感すらある。

「ごめんヴィエ……ここまでみたい。こいつにだけは絶対に勝てない……」

「うぅ……まあ、しょうがないかなあ」

 不屈の闘志も意志も朽ち果てるリア。こればかりはどうしようもないことであり、ヴィエも諦めの吐息を漏らした。

「せめてもの情けです。あなたたちに、ここで世界が変わる様を見せてあげます」

 勝敗は決した。なすすべはなく、もうなるようになるしかない。

 万策尽きたまさにそのときである――ヴィエの眼前に「銀の鍵」が現れたのは。

「そんな……どうして……どうしてそれがここに!」

 最初に反応したのはミィエだった。隆志が所持しているはずの銀の鍵がこの場に出現したということは、その理由はひとつしかない。

「どうやらタカくんがやられたみたいね」

「嘘です!」

 甲高い声がヴィエの言葉をさえぎる。

「隆志さんが負けるはずありません! そんなの、そんなの嘘です! 隆志さんが、そんな……あ、あ、あぁあぁぁッ」

 情緒不安定になって取り乱し、頭をかかえて苦しみだすミィエ。そんな少女の様子を困惑の眼差しで眺め、何とか立ち上がったリアが、あっと声を発した。ミィエの額から翠光の紋様が消え、瞳の色も衣服も元に戻った。精神的な動揺が大きすぎて星辰兵の力を維持できなくなったのだ。

 へたり込んでいた腰を上げ、一転して余裕の笑みを浮かべるヴィエ。

「逆転勝利……いや、試合に負けて勝負に勝ったってところかしら?」

「っ……まだ終わってません。星辰兵の力がなくてもわたしはお姉ちゃんなんかに負けません! カダスが完全に顕現するまでのあいだ、わたしがここを守りきれば……」

「ううん、終わりだよ。それをみせてあげる」

 ヴィエは探し求めた「銀の鍵」をいとおしそうに手にとり、詠唱を始める。手のひらに浮かんだ鍵に五芒星形の純然なる輝きを重ねた瞬間、房室の窓に広がる星の海にオレンジの色彩が現れた。

 それは夕陽を浴びて金色燦然と燃えたつ、壮麗きわだかな都。

「あの黄金と大理石からなる驚異の都こそ、ランドルフ・カーターが幼き頃に見て愛したものの集積にしてわたしの目指す永遠なる在り処なれば……夕日に燃えるボストンの丘陵の屋根や西向きの窓、あまた橋のかかるチャールズ河が眠たげに流れる菫色の谷間にひしめく破風や煙突、丘陵の大円蓋、花の香り馥郁たるコモンの壮観にほかならぬ……この美が長の歳月にわたる思い出と夢想によって形造られ、具体化され、磨きあげられ、とらえどころのない夕映の段庭の驚異となっているのだから――」

 謳うように語りつづけるヴィエ。いまやカダスの居城の目前には夕暮れの瑰麗なる都市が広がっており、それこそは彼女が銀の鍵とエルダーサインを用いて一時的に具現化させたものだった。

 ミィエが愕然とした声を上げた。房室の天井を漂っていた幾つもの球体が、ひとつ残らず窓を通り抜け、壮麗きわだかな夕映の都へと飛翔していったのだ。その球体は大地の神々に見立てたシンボルであり、現におけるカダスの具現を成す核であった。

 かつて大地の神々は、カーターの夢想が創造した壮麗きわだかな都の不思議なる美しさに魅了され、それを渇望するあまり、未知なるカダスの城を離れて神の道を放棄したことがある。ヴィエはそのひそみに倣い、擬似的にそれを再現させたのだ。

 そうしてすべての球体を内包した驚異の都は、星の海に霞んで消えた。

「はい、おしまい」

 なかば放心して立ち尽くすミィエに、すっかり調子を取り戻したヴィエが笑いかける。

「これであなたの存在意義もなくなったわね」

 その一言に、ミィエがびくっと肩を震わせた。

「あなたには誰もが持つ物語が無い。誰の物語にも関われない。あなたがいてもいなくても影響はない。だから、誰かにすがることで物語に溶け込もうとした。あなたにそれを与えてくれたのはタカくんだった。理由なき存在――それがあなた」

「わたしだって――わたしだってお母さんのお腹から生まれたかった……っ!」

 ミィエは、あらん限りの気持ちを声色に乗せて感情を爆発させた。

「わたしはまだ負けるわけにはいかないんです、そうです、まだ」

「いえ、もう命運は決しました。僕たちの負けです」

 新たに加わった声。三人の少女が振り向いた先に、羽丘隆志が立っていた。

 ゆっくりとした歩調で、一番背丈の低い少女のそばに近づいてゆく。

「あの……わ、わたし……わたし……」

 おどおどと身体をすくめるミィエを、隆志はそっと抱きしめた。

「君が僕を必要としてくれているように、僕も君を必要としています」

「隆志さん……!」

 ミィエは涙を溢れさせ、隆志の胸に顔を寄せて泣きじゃくった。境遇、拠り所、求め合うもの、それらを考えると、互いに似た者同士なのかもしれない。あるいは、めぐり合わせさえもが意図されたものに過ぎないのだとしても、充足を得るには充分だった。

「ヴィエちゃん。リアちゃん。本来ならここで別れの長台詞といきたいところなんですが、時は待ってはくれません。この抱擁シーンを締めの言葉とさせていただきまして……それでは、ごきげんよう」

「さようなら、リアさん、お姉ちゃん」

 それはあっという間のことだった。ふたりの足もとにぱっくりと異次元の穴が開き、隆志とミィエは、抱き合ったまま次元の狭間に落ちていったのである。

 あまりに唐突であっさりとした出来事に、リアは即座に反応することができなかった。

「いきなり出てきてラブラブ見せつけて……何の感慨も残さずに……最後まで好き放題してくれちゃって」

 空色の瞳からこぼれた涙が縞瑪瑙の床をぽたりと濡らす。

 そんなリアの背中を、ヴィエがぽんぽんと叩いた。気を遣ってくれたのだろうか。

「ありがと、ヴィエ」

「いやそうじゃなくて。早く脱出しないとここやばいわよ?」

「え?」

 きょとんとして周囲を見渡すと、房室のあちこちに次元の穴が発生して渦を巻いていた。それどころか広大な縞瑪瑙の城全体が薄れかかっているではないか。

「カダスを現に具現させていた核が消失したことで、御納戸町を包んでいた事象の崩壊が始まっているの。あと数分もしないうちにすべてが次元の狭間に飲み込まれるわね」

「ちょ、ちょっとまって。ならナイトゴーントに乗って急いで地上に戻らないと!」

「幻夢境の物理法則が消えかかってる状況で降下なんかしたら、途中で現実の法則をもろに受けちゃうことになるけど」

「じゃあどうするのよっ」

「うふふっ、大丈夫よリアさん。いまのわたしにはこれがあるんだから」

 にこりとほほえんだヴィエの手のひらで、鈍くくすんだ銀の鍵が異彩を放っていた。


 幻夢境の物理法則から解放された御納戸町が元の姿を取り戻していく。怪物たちも次々に消え去り、能力者たちから安堵の息が漏れた。空を見上げる明石焼き、香月、サイモン、権化。誰の顔にも杞憂はなかった。あのふたりはきっと帰ってくると信じているのだから。

 ふと顔を下ろした香月が、あっと叫んだ。みなが一様にそちらを見る。

 眼前の空間が歪み、二人の少女が現れた。歓声が上がった。


 黒々とした山脈が霞んでゆく光景を、丘の上から眺める者がいた。

 それは平行世界の廃教会にいた若き黒人神父だった。

 近くで新たな気配が燈った。振り向いた神父の黒瞳に映ったのは、女の姿をした者だった。

 それは平行世界の図書館にいた白人の女性司書だった。

「これはこれは……シンディ・デ・ラ・ポーアさん」

「そういう貴方は、マイケル・マクシミリアン……それとも、ナイ神父と呼んだほうがよろしい?」

「はっはっは。後者はまだ現在進行形でして……このあと星の智慧派本部で、帰還したマグヌスから報告を聞くことになるでしょう。ゆえに過去形であれば前者ですな。それで、何か御用がおありですか?」

「落し物を届けに」

 開いたままの金属製の箱が司書の手に現れ、宙を漂って神父の手元に移る。

「おお……後で回収するつもりでしたが、わざわざご親切に。流石は人間達から善の体現と称される方々の一柱。かつて我等を破りさった旧き神の慈悲はいかにも顕在」

 淡々とした揶揄には取り合わず、司書は様子を窺うように碧眼を細めた。

「今回は双方ビショップをメインに据えたけれど、パートナーにクイーンを用意してくるとは思わなかったわ。それもこちらのビショップに関係するものをこしらえるのだから、相変わらず芸の細かいこと」

「少し強めの一手をと思いまして……まあせいぜいが余興ですがね。しかも急ごしらえが裏目に出たか、ビショップに精神的な依存をしすぎてあの結果です。それに比べ、貴女が用意したナイトは、脆弱ながら実にいい働きをしたものだ」

「彼女らが得た結末は彼女達自身の決断と行動によるものよ。私達は裏から誘導して、事態を自分に有利なほうへと運ぼうと画策しただけ」

「そのとおり。だからこそ人間というものは愚かであり面白い。なにしろ、その愚か者だけが世界を変えることができるのだから……我等の神々が許すなら、いつまででも観察を続けていたいところです」

 深淵の底からいずるような嘲笑とともに、神父の周りを暗黒が染めていく。

「今回はここまでにしておきましょう。……この「世界」という小さなチェス盤には、まだまだ駒が散らばっているゆえ、次の機会を御楽しみにいただくとよろしい。我こそは這い寄る混沌――ナイアルラトホテップなれば」

 闇の中で〈輝くトラペゾへドロン〉の蓋が閉じた。太陽すら浸食しそうな暗黒のなかで哄笑が遠のいてゆく。神父の姿が完全に闇と同化し、ほんの一瞬、三つに分かれた燃え上がる眼が暗闇に燈った。

 対照的に、女性司書の姿は純然たる光輝に包まれて淡い粒子と化してゆく。

「人間の運命は、ルール通りに行われるチェスより、むしろ風に似ているものよ」

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