第14話 明けない夜
星の智慧派本部の広々とした薄明の室内は、壁が天井から床まですべて、黒いビロードのような布で覆われていた。闇のカーテンに包まれた内陣を照らすのは、ほのかな青白い照明。側壁に沿って並べられた背の高い錬鉄の火鉢から香が燃えあがり、奇妙な甘い匂いを漂わせている。
集まっているのは、十数名の司祭たちと一部の信者たち。黒っぽい古びたオーク材の重厚な腰掛に坐り、不気味なほど静かに前方中央の演壇を見つめている。演壇は両側にカーテンがおりて狭い中央部だけが見えるようにされ、背後が闇に包まれている大きな書見台があった。突如として銅鑼の響きが室内の静寂を打ち砕き、黒い服に赤いローブを纏った者が影の中から現れて演壇に立った。
「汝らに安らぎと智慧を」
その漆黒の肌は、まさしく石炭のような、スペードのエースのような黒人だった。
彼こそは星の智慧派の指導者、ナイ神父である。
神父が深紅のローブの下から両腕を出し、白の手袋をはめた手をあげると、会衆が立ち上がり、唱和した。
「安らぎと智慧を」
「星の智慧を」
「星の智慧を」
祈りの言葉と唱和。それが一通りおさまると、説教と教団活動の報告が続き、最後に、ひとりの信者が名を呼ばれた。信者は隣に座っている少女に優しい眼差しを送ってから列を外れると、中央演壇の前まで進み、恭しくその場に跪いた。
「顔を上げるがよい、隆志よ」
信者――隆志が跪いたまま面を上げると、ナイ神父は演壇から彼を見下ろし声をかける。
「汝の実践はしかと確認した。その結果をうけ、汝に「銀の鍵」の使用続行許可と、そして、汝が星の智慧の司祭となることをここに受按せんことを」
軽くどよめきがおこるなか、隆志は再びこうべを下げて眼を伏せた。その頭上に白い手袋をとったナイ神父の手がかざされた。その手は、掌まで黒かった。ピンク色ではなく、漆黒だった。
暗黒の洗礼を受け、たったいま、隆志は『星の智慧派』の幹部となったのだ。
他の司祭たちから祝福の声があがった。その中の一人、マグヌス・オプスも型どおり無表情に祝福の言葉を述べた。隣で、金髪の美少年が腹立たしそうな眼を隆志に向けていた。
「われは汝らに福音をもたらそう」
ナイ神父は手袋をはめなおした手を書見台の後ろに下ろし、収納箱らしきものを取り出すと、書見台に置いた。会衆がざわめき、すぐに静まり返った。ナイ神父がおもむろに箱の後ろを押すと、蓋がはねあがり、金属製の容器の内部から、くるめくばかりの乱舞する光がひらめいた。ナイ神父の顔がその輝きに包まれ、彼は箱を前に傾け、内部で光を放っているものを見せた。
「海底よりのぼってきた旧支配者の贈物を見よ。汝らを自由にする、星たちからもたらされた真実の贈物を見よ」
四インチほどある球形の物体――ふぞろいの平面部を数多く備える、赤い線の入った殆ど黒に近い多面体。その驚くべき結晶体は箱の底面にふれることなく、中心を取り巻く金属製の帯と、箱の内部の上部から水平に伸びる奇妙な形をした七つの支柱とによって吊りさげられていた。
みなが一様にそのまばゆい輝きに魅入った。一番近い隆志はもとより、ミィエも、マグヌスも、アルカへストも、そのほか、この場にいる全員が、めくるめく輝きのまえに恍惚の面持ちで口をぽっかりと開き、謎めいた詠唱のもとに不思議な唱和を反響させたのである。
「隆志よ、汝に〈輝くトラペゾへドロン〉を授けよう――」
信者たちが自室へ散らばってゆくなか、同じく自分の部屋に帰ろうとする隆志の前に、アルカへストが立ちふさがった。端正な美貌を歪め、敵愾心に燃える瞳をきらめかせた。
「ぼくは認めないぞ。お前がそれを授かるに相応しい者だなんて」
司祭の仲間入りをはたし、さらには〈輝くトラペゾへドロン〉を授けられた隆志は、いまや名実ともにナイ神父の後継者候補筆頭にのぼりつめたのだ。
隆志は困ったように微笑を浮かべ、両手で持つ金属製の箱に眼をおとす。
「君がどう思おうとも、事実は曲げられませんよ」
「貴様――」
美少年から爛々とした魔力が燈りかけたとき、隆志の後ろにいた少女が前に出た。
「隆志さんに手を出すつもりでしたら、わたしが相手になります」
清涼と凄まれ、アルカへストは忌々しげに舌打ちした。彼女が本気を出したらとても太刀打ちできない。戦闘力においてミィエを凌駕する者は星の智慧派内にも存在しないのだから。
無言で背を向け、その場から立ち去るアルカへスト。その表情にはこのままではすまさないという意志が溢れていた。
御納戸町。羽丘隆志の行方は杳として知れず、ヴィエはトラペゾ教会を隅々まで調べたが、重要と思われるものは何一つ見つからなかった。隠された地下の地下に、未知のテクノロジーで作られた形跡のカプセルが残照を留めているだけだった。
正月を過ぎたある日、ヴィエとリアは大喧嘩して仲違いした。政治と宗教と野球にくわえてオタク趣味という荒れる話題カルテットでヴィエが盛大に揶揄してのけたため、リアが激怒したのである。
アルカへストは、ある書物を、凝視と呼ぶにふさわしい様子で熟読していた。その本の名は『エイボンの書』。氷れる炎の到来により滅びた古代大陸ハイパーボリアにて、北方の半島ムー・トゥーランで名声と威信を得ていた悪名高き魔道士エイボンにより、ハイパーボリアの言語で記述された魔道書である。エイボン自身はツァトゥグァを崇拝しており、敵対関係にあったイホウンデーの神官たちに追われ、ツァトゥグァの庇護により魔術的な金属で作られた扉から土星へ逃れたという。
『エイボンの書』に記されている内容はハイパーボリア大陸にまつわる詳しい知識が特徴だが、その他、かの『ネクロノミコン』の記述と補い合う記述が多い。超古代の恐るべき禁断の知識や太古の呪文が記された『エイボンの書』であるが、現存するもっとも古い本は九世紀のラテン語版が知られており、いまアルカへストが持っているのは十三世紀の中世フランス語版のものである。彼はそこに記されている呪文の中の一つを解析していたが、今まさにそれを終えたのだ。
「ふ、ふふふ……ついに知り得たり。ぼくの魔力とこの秘術を用いれば――」
目尻に深いしわを刻みながらも、金髪碧眼の美少年は邪悪な哄笑を放った。
夕暮れの瑰麗なる都市で、ヴィエはひとりたそがれていた。
「また、嫌な事でもあったのかね」
「やっぱり顔にも態度にもでちゃってるかぁ」
近づいてきたカーターにひと目でそう言われ、ヴィエは苦笑いで応じた。この数日、サイモンにさえ感づかれて心配されたのだから当然ともいえる。
「……嫌いになった人を理解するにはどうすればいいのかな」
ぽつりと口にすると、カーターが軽く吹きだした。可笑しなことを言っているのはわかっているが、ストレートに笑われると愉快ではない。
「いやこれは失礼。続けてくれたまえ」
「さっき言ったことで全部だよ。カーターはどう思う?」
「嫌いならば理解しなければいい」
「わあー、さすがカーター、真理だね」
まさしく同感であった。人種的な問題において、異文化に対してははじめから理解しようなどとしない彼ならではの簡潔さだ。
「聞くところによると、現在の覚醒世界は「ひとつ」の考え方や尺度の統一に方向が向かっているようだが……それぞれの文化や違う性質のものが現実にわかりあえるはずがない。人間だけが化学反応を起こさぬ道理はないからね」
「だよねえ? 性質の違う人同士が解り合えるわけないし」
おおいに同調しながらも、それゆえに難しい顔で溜息をつくヴィエだった。
「だが、知ることは大切だな」
「まったく異質なものとして認識していても?」
「例えば、異文化に対して「わけがわからなくて怖いから殺してしまえ」ではなく、徹底的な上からの眼差しをもって対峙し、はっきりさせればいいわけだ。理解する必要はない」
ヴィエは眼を丸くした。なるほど、というリアクションだ。
わかろうとしない探究心――つまりはそういうことなのではないか。
「ありがとうカーター。やっぱりカーターはわたしが敬愛するに相応しい人だよ」
満面の笑顔で感謝を声に出すヴィエ。
「あ、そうだ。そろそろヤディス関連のさらなる知識も得たいから、ご教授いただけると嬉しいなー。いまのわたしなら理解できると思うから」
「わかった。喜びをもって聞き及ぶ者がいると、あの体験も貴重なものであったと感じられるものだな」
ヤディスとは太陽系から遠く離れた銀河の彼方に存在する、地球よりも遥かに高度な文明を誇る惑星である。ヤディス星とカーターの関係については、彼の出自から辿るのがいいだろう。
ランドルフ・カーターは、一八七四年十月七日にマサチューセッツ州エセックス郡の地方都市アーカムにて誕生した。エリザベス朝イギリスにおいてジョン・ディーと肩を並べる魔術師であった初代カーターを筆頭に、彼の一族は奇矯な人々が連なっており、現カーターもまた、古代言語の研究や幻想小説の執筆といった風変わりなディレッタント生活を送っていて、趣味を通じて知り合った神秘家等の友人達と盛んに交流していた。
三十歳にして既に熟練した「夢見る人」となっていたカーターは、〈夢の国〉で誰も眼にしたことがないという未知なるカダスを目指し、長い旅の最後にカダスの居城に辿り着く。その直後、彼はナイアーラトテップの姦計により破滅への罠に嵌まるが、意志の力で脱出し、ノーデンスの助力で壮麗きわだかな夕映の都へ降り立つに至ったが、結果的にナイアーラトテップの怒りを買い、その代償として〈夢の国〉への門戸を閉ざされてしまう。
夢見る力を失ったカーターは、現実に意味を見出そうとするが、逆にその存在意義や倫理、物事の価値観自体が何の価値もないということが確固たるものとなり、フランス外人部隊に加わって第一次世界大戦に参戦したりしながら、夢無き人生から逃避する方法を探し求めるに至った。やがて五十四歳になった彼は、一族に伝わる「銀の鍵」の存在を思い出し、一九二八年十月七日に、銀の鍵を携えて「蛇の巣」と呼ばれる洞窟の奥へ赴き、その場所で姿を消した。
銀の鍵を用いて窮極の門を越えたカーターは、ヨグ=ソトースの化身であるウムル・アト・タウィルに導かれ、超次元を遍歴することになる。だが、ひとつのミスを犯していた彼は、その最中で惑星ヤディスの魔道士ズカウバと同化してしまい、超次元に戻ることができなくなってしまった。なすすべなくヤディスでの長久の時間が過ぎていくなか、ズカウバ面を休眠状態にする薬を発見したカーター面は、時空間を飛び元の時代の地球へと帰還する計画を企てるようになる。幸いというべきかヤディス星の生物は途方もない寿命をもっているので、人間の頭脳では把握できないほどの長い歳月と膨大な時間を費やして入念な準備と計画を終えたカーターは、驚異的な時間移動と未曾有の空間飛行をついに実行した。
そして、目指した年のわずか二年後である一九三〇年の地球に到着した彼は、ただちに人間の姿へと戻る方法の解読を始めたが、その最中、急を要する遺産問題のトラブルにより一時的にズカウバ面が現れ、その場でド・マリニーの時計の中へ姿を消したという。
その後のカーターについては、永久に異界を彷徨い続けているとも、〈夢の国〉でイレク=ヴァドの玉座に君臨しているとも言われている。そのどれもが真実なのだ。
ヤディスの知識の一つを教えてもらいながら、ヴィエは、知己の仲であるいま自分の前にいるカーターは、イレク=ヴァドの王になったカーターなのだろうと思った。
現実世界に戻ったヴィエは、気持ちの整理を兼ねた散歩に出かけた。
程なくして、ある種の魔術的境界を越えた感覚が走った。周囲から人の気配が消え、静寂が支配する世界をぐるりと見回すと、数メートル先に立つ美少年と眼が合う。
「お気に召してくれたかな? ここはぼくの世界、この中ではきみは夜鬼を召喚することはできない」
「……エイボンの書に記されていた秘術ってわけね」
「そのとおり、今度こそきみはぼくの餌食となり役立ってもらうことになる」
その声が間近の壁から耳に入り、咄嗟に飛び退いたヴィエは、右手を突き出してエルダーサインを輝かせる。もし体が壁に隣接していたなら飲み込まれてしまっていただろう。
「ふふふ、御納戸町の一部として作りあげているけど、実際はヴーアミタドレス山地下の洞窟世界を模した魔術様式なんだ」
今度は足下から声が響き、再度飛び退いてエルダーサインを向ける。さながらスカートの中を真下から覗かれているような感覚にさらされるヴィエだった。客観的には相手の変態嗜好にも見える行為だが、一度でも捕食されればジ・エンドという状況である。
「ぼくはきみの恋人に関心はないし、手を出すつもりもないから、きみのお腹の『門』でぼくを幻夢境の危険地へと陥れることもできないだろう?」
ヴィエの夢の門による相手の転送は、最愛の人に危害が及ぼうとすることに対する怒りの感情が可能とするものである。ゆえに、サイモンが絡まないと転送機能を発動させることはできないのだ。
捕食を回避し続けていたヴィエだが、ついにタイミングがずれ、集中力の乱れを伴い足もとが崩れる。しかし彼女の足は地につかず、ふわりと空中に浮いた。レヴィテーション――空中浮遊の魔法だ。
ところが、それを見計らっていたかのように背後に粘着質のものが発生し、彼女の身体は空中に張り付いた。
「ぅあ……っ! なにこれ、もしかして蜘蛛の糸?」
「アトラック=ナチャの巣網さ。もう逃れることはできない、チェックメイトだ」
アトラック=ナチャとは、ヴーアミタドレス山中の谷間、地下の広大な空間に蜘蛛の巣をかけ続けている蜘蛛の神である。これはその糸を『エイボンの書』の秘術で模造したものだろう。
「ああ、もうっ、やることなすこと変質的なっ」
魔術で対抗しようにも効果がなく、必死にもがいても完全に絡め取られてしまって身動きできないヴィエ。まさしく蜘蛛の巣にかかった獲物というべき状態であった。
アルカへストは勝利を確信した。これで彼女を触媒にしてミィエを葬り去れば、隆志を失脚させることができる。マグヌス・オプスの地位を安定させられるのだ。
アルカへストは貧民街の生まれで、数年前までは生活のため中年男達の性のはけ口にされていた。そんな彼の境遇を救ったのがマグヌスだった。アルカへストはマグヌスの目的に心を打たれ、彼に心身を委ねることにした。ネフレン=カ復活による、すべての人間の平等なる統治を実現させるため。
「さあ、来るべき時代の礎となってもらおうか」
「そうもいかないわね」
「なに?」
「ヴゥーニェ・ズカウバ」
ヴィエの特殊な魔術詠唱とともに、眼前に小さな香炉が浮かんだ。
「魔道士ズカウバの香だよ」
アルカへストの顔に動揺と驚愕が走った。
まさか、なぜ、ヤディスの民間伝承に連なる知識がなければ扱えないはずなのに。
「逃げられないのはあなたのほう」
「やめろ――!」
香炉から漂う煙が蜘蛛の巣網にまとわりつき、あっという間に周囲へと広がる。獲物を捕食するはずの町は、逆にかぐわしい芳香に溶解され、水に濡れた絵の具のように流れていった。
絶望的な叫びをあげた美少年の全身がどろどろと溶け崩れ、液状の藻屑と化した。
アルカへストの最期だった。
ヴィエはどこか照れくさそうな様子で、呼び出した少女に面と向かった。
「その……わたしはリアさんのことを理解することはできないけれど……もうちょっと知りたくはあるかなと思って……だから、その」
無言で聞いていたリアは、ふっと口もとをゆるめて、ヴィエの頬をぎゅっとつねった。
「ひゅみゅー、なにひゅるのりあひゃんっ」
思わず抗議の声をあげるヴィエだが、直後、ぎゅっと抱きしめられて、言葉を失った。
そのあたたかさを、心地よく感じた。
くだらない喧嘩とはいえ、こうして、ふたりは仲直りしたのだった。
羽丘隆志とミエシーツ・ウビジュラが街外れに姿を現したのは、夜半過ぎのことだった。ぼんやりとした月の下、闇夜に包まれた隆志は微笑を浮かべていた。正面に立つミィエが、世紀の一瞬を迎えようとするかのような緊張感をあらわにした。
「いよいよですね、隆志さん」
「ええ。世界の……人類の歴史が塗り替えられるときがきました」
隆志は、静かに、感慨深げに視線を落とし、両手に持つ金属製の箱を眺めた。
輝くトラペゾへドロン――それは時間と空間全てに通じる窓と言われ、暗黒星ユゴスで作られた後に「古のもの」が地球へと持ち込み、途方もない歳月の後にレムリア大陸で初めて人間の目に触れたという。その後、奇妙な土地や奇怪な海底都市を転々として、アトランティス大陸とともに海中に没したあと、エジプトで暗黒のファラオ、ネフレン=カの手中に収まることになる。
ネフレン=カは、輝くトラペゾへドロンを窓一つない地下礼拝堂に備え、自分の名前が後世のあらゆる記録から抹消されることになる邪悪な儀式にいそしんだ。その後、僧侶と新しいエジプト王が神殿を破壊し、輝くトラペゾへドロンは廃墟の中で眠りつづけたが、一八四三年にイノック・ボウアン教授がそれを発掘し、プロヴィデンスに持ち帰って星の智慧派教会をたちあげ、崇拝の象徴としたのである。一九三五年に、星の智慧派教会の廃墟に残っていた輝くトラペゾへドロンは、ある医師の手で海に投げ捨てられたが、その後、星の智慧派を再興させたナイ神父により密かに回収されたという。
御納戸町のトラペゾ教会、その命名の由縁は言わずもがなであろう。
そしてトラペゾ教会の先代神父は、一年前にいかなる事情でか、輝くトラペゾへドロンを入手するに至り、何らかの目的でそれを行使したが失敗し、悍ましい発狂死を迎えたのだ。何が起きたかは不明だが、御納戸町の怪異や超常が異常に活性化していったのはそれからだった。
――その〈輝くトラペゾへドロン〉が、いま自分の手にある。
「なにか大いなる意志に踊らされている気もしますが……僕は僕の選んだ道を進むだけです。それで人類社会の終焉が訪れるなら、盛大に踊り狂ってみせるまで」
薄灰色の眼鏡の奥で穏やかな双眸が細まり、ぞっとするほどの冷笑に変わった。それを見つめるミィエのほほえみは、どこまでも毒気のない清涼さだ。
やがて、意を決したふたりの口から呪文の詠唱が流れた。これを成すにはミィエの力が必要不可欠なのである。
それからの出来事は、時間にして数分のことだった。
月が雲に隠れた。
原因不明の停電が発生し、町から一切の明かりが失われた。闇の中で金属製の箱が開き、〈輝くトラペゾへドロン〉が開放された。めくるめく光条の真上で「銀の鍵」が浮かび、半回転した。カチリと音が鳴った。
完全な闇に覆われた御納戸町全域は、一瞬で異界の事象に侵食された。それは昨年のある秋の日に起こった現象と全く同じものだったが、侵食の度合いと規模は比較にならないほど甚大だった。
雲が晴れ、満月が姿を現した。
町の明かりが戻った。住民の大半は、睡眠中の者だけでなく、起きている者も眠りについていた。目覚めているのは一部の術者や能力者たちと、「夢見る人」だけであった。
信じがたいことに、御納戸町の三分の一が、踏破あたわざる途方もなき山脈と化した。その峰々の遥か北方の領域は暗澹たる闇に閉ざされ、空が覆い隠されていた。
尋常ならざる事象の変化を感じ、ベッドから飛び起きるヴィエ。
窓の外を眺め、愕然と瞳をふるわせた。
「まさか……そんな」
カーターから聞いたことはあるものの、実際に眼にするのは初めてだった。
凍てつく荒野の未知なるカダス――
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