第12話 帰還
「一緒に行動したほうがいいんじゃない?」
リアのその一言でそういうことになった。
情報収集にあたる際、彼女が唐突にそう思ったのだ。自分はその手の知識は殆どないので二手に分かれても効率的には変わらないんじゃないかと、そんな理屈だった。
そんな理屈ではあったが、なんとなくそうしたほうがいいような気がしたという。
「たぶん、存在共有の虫の知らせってやつかもね」
「どういうことよヴィエ」
「存在を分割されたわたしたちは、数多の平行世界で同じスタートラインから行動を開始してるわけ。でもその内容や速度、分岐や結果は千差万別。だから、先に存在の定着化やもしくは死亡といった結果に陥った場合、多次元事象的などこかで繋がっている、まだ行動中の全てのわたしたちに、こうしたほうがいいかも、そうするとまずいかもといったふうな実体験に基づく感覚が伝わってくるのかもしれないわ」
だがヴィエ自身はそうしたものを感じたことはない。これは考えてみればいささか不可解なことで、感受するどころか、それがないことすら疑問に思わなかったのは何がしかの影響下にあるからではないのだろうか。
それは程なくして確たるものになった。
調査の結果、元の世界には存在しない廃教会と図書館にあたりをつけ、まず位置的に近い廃教会を訪れることにした二人は御納戸町の街外れへと向かった。先刻までは穏やかな天候だったのだが、廃教会に着く頃には空を暗雲が覆い尽くし、いまにも強風と雷雨が起こりそうな気配にまでなる。
もっと奇妙なのは廃教会で出会った黒人神父との会話だった。
「……なんか不気味な人だったわね。まるで私たちの状況を知ってて楽しんでるみたいなところがあったし」
廃教会を後にしたリアが懸念するのも無理はない。マイケル・マクシミリアンと名乗った神父は饒舌ながらどことなく謎めいた雰囲気があり、会話のふしぶしからは初対面のはずのこちらのことを理解しているかのような態度を匂わせたのだ。
「偶然でしょ、わたしたちの現状を把握してるなんてありえないし。有益な情報を得たんだから、さっそく実行に移してみましょ」
「図書館はどうするの?」
「そんなの後でいいじゃない。せっかくの情報を実践してみるのが先決でしょー」
「私にはあの神父とヴィエの話はよくわからなかったけど、先に図書館のほうも調べてからでも遅くはないんじゃない」
「……んー、それも、そうね」
リアに念を押されて考えを改める。そういえば自分はなにをこんなにも躍起になっているのだろう、そもそも神父との話で得た情報も思い直すと曖昧だし、やはり名状しがたい何かに捉われているのかもしれない。どうやらリアはその影響外にあるらしい。彼女の意見に耳を傾けたほうがよさそうだ。
そうして今度は図書館へ移動したが、不思議なことに廃教会を離れるにつれ、悪天候が嘘のように快晴となり、図書館に到着したときは暖かな気象と陽光に包まれるまでになった。そんな奇妙な天候の変化も、特別閲覧室でマイラクリオンの著書『神代遺産録』を発見した衝撃で吹き飛んだ。施されていた擬似思念による残留伝達を、膨大な魔力を消費して配列変換を行うヴィエ。限られた僅かな時間で一箇所に意識を寄せた彼女の脳裏に、ひとつの項目――『黄金律の監視者』の招来法に関する知識が流れ込んできた。
『私はヤード=サダジ。よくぞ私を呼び出しました、銀虹珠に封じられし者らよ』
中性的な音声が直接脳内にこだまする。
住宅街外れの廃屋内、元の世界ではヴィエの洋館がある場所で、二人の耳にその声は伝わってきた。姿は見えないが、明らかに異質な存在を感じられる。
「わたしたちが銀虹珠で飛ばされてきたことがわかるってことは、元の世界に帰る方法も知っているってことね」
『無論です。その術の名は『金白珠』。時を遡り、因果の起点を断ち切ることができます。あなたがたが平行世界に飛ばされることになった因果の起点に私が送り帰します』
これにはリアのみならずヴィエも色めき立った。方法を教えてもらうどころか、三段跳びに元の世界へ帰してくれるとは、なんとスムーズな事の運びだろうか。
ヴィエが『神代遺産録』で得た知識によればヤード=サダジの役目をの一つはヨグ=ソトースの法則を抹消することだという。二人が元の世界に戻って銀虹珠の発動を阻止することは、黄金律の監視者の目的にも適うことになるわけだ。
「なんか結構あっさりと帰れそうね」
「リアさん、それはわたしたちの運がよかっただけよ。他のわたしたちの行動や結果の賜物ともいえるけど」
『それでは金白珠を発動させます。但し、あなたがたが元の世界に帰れるかはあなたがた次第。願わくば時の障壁を越えて因果の起点を断絶せんことを――』
少女たちの身体を光が包み、視界と声が遠く霞んでいく。
やがて意識が混濁の彼方に溶けた。
上下左右見渡す限りの亜空間を二人は漂っていた。平行世界に飛ばされた影を元の世界へ正しく還す、時封呪により発生した特別な時流。流れに身を任せて無重力さながらの亜空間を進んでいると、眼前に変化が生じた。前方の時流が大きな渦を巻いて歪曲しており、ふたりは漂う身体を静止させた。
「もしかして、あれが時の障壁ってやつ?」
「たぶんそう……」
巨大な時流のうねりを凝視し、ヴィエは暫し無言になった。
いつまでそうしていたか、ふいに表情を曇らせ、ふっと達観した風な寂寥にも似た薄い笑みを浮かべると、訝しげな視線を向けてくるリアにふるふるとかぶりを振った。
「ごめんリアさん、どうやらわたしはここまでみたい」
「は? なに、いきなりどうしたの」
「わたしはここでストップだから、あとはリアさん一人で元の世界に帰って」
「ちょ、冗談にも程があるわよ? わかるように説明してよっ」
「目の前にある時の障壁は、まっすぐな心を持つ者、前に向かって進む性質の者にしか越える事ができないの。だからわたしにはどうあっても無理なのよ」
成長を放棄した自分には時の障壁を通り抜けることはできない。ヴィエのどこか清々しいまでの諦めの態度はそれだ。
「……バカなこと言ってないで、いくわよ」
「わ、無理だって言ってるのにーっ」
じたばたするヴィエの腕を引っ張って前方へ進むリア。
巨大な渦を通り抜けようとした瞬間、強烈な波動に吹き飛ばされてしまった。
「ほら、言ったとおりでしょ? リアさん一人なら元の世界へ帰れるの。わたしのことはいいから気にせず行って」
「あのねえ……はいそうですかって置いていけるわけないでしょ。それに、そんなしおらしいこと口にするなんてあんたらしくないわよ?」
「そりゃわたしだって元の世界に帰りたいけど、できない事の区別はつけなくちゃね。しおらしいんじゃなくて、思慮深く賢明? 不可能な以上は潔く諦めるのが肝要だから」
「なに決めつけてるのよ、やってみないとわからないでしょ」
「だから無理だって!」
珍しく苛立ちを含んだ調子で声を荒げるヴィエ。言外に、リアのそういうところは好きだが時と場合を考えろというニュアンスもある。
「わたしがどんな手段を講じても、リアさんがどれだけ頑張っても、無理なものは無理なの。不可能なの」
「なら私とあんたで何とかする方法を考えてみせてよ」
「え――?」
よほど意表を突かれたのか、ヴィエは二の句が告げなくなって眼をぱちぱちさせた。
「ふたりで協力すれば何とかなるんじゃない? それに、私は絶対にひとりで行くなんてしないから。そんなことをしたら私が私じゃなくなる」
「……リアさんってば、ほんとに、どこまで……お馬鹿さん、なんだから」
腹の底から呆れた声を出し、盛大に溜息を吐く。蔑んだ眼差しはどこか嬉しさを秘めた微笑となり、懐からブローチを取り出してリアに手渡した。
「なにこれ、縞瑪瑙? あ、ひょっとして、以前明石焼きに使ったやつの欠片?」
「そうだよー。その時のデータを基に改良を加えてあるから安心して」
「これをどうしろと」
「リアさんにあげる。それを使ったら何とかできるかも」
言うなり、自分の上着の裾をつまんでたくし上げるヴィエ。突然のことに呆気にとられるリアだが、あらわになった少女の腹部に、みるみるうちにアーチ門が現れたのを見て息を呑んだ。
「な……それ……門?」
「うふふっ、リアさんに見せるのは初めてかしら。普段は魔術で隠してるんだけど」
周囲があやふやなまどろみに侵食されていく。リアはそれが『夢』であると理解できた。
「あのね、わたしがどれだけ魔術を行使しても、リアさんがどれだけ頑張っても、わたしを連れて時の障壁を越える事はできないの。いくら人の精神が膨大な可能性を秘めているといっても、それを包む肉体には限界があるでしょ? でも、門を開いたことでわたしもリアさんも周囲も夢に浸食された。『夢』においては『想像』がすべてとなる。もちろんそれだけじゃ時の障壁を破ることは出来ない……そこでその縞瑪瑙。レン高原産の縞瑪瑙は所持者の性質と認識を著しく拡大させる。良き夢を具現化させるほどにね」
「いや、その、結論だけ言ってよ……」
「要するに想いの力が現実を変えるってこと。どんなことにも理由は必要、理屈抜きで現実を変容させることはできない。――だから、わたしがリアさんの無茶を通す屁理屈になってあげる。現実には夢を、道理には屁理屈を。さあ、あとはリアさんの想い次第、わたしはそれに賭けたから」
「ヴィエ――」
「元の世界に帰りたい。わたしも救いたい。呆れるほどに傲慢な願いを実現したいなら、その意志が本物かどうか、あなたの正義のほどを見せてみなさい」
そう言ってにやりと笑うヴィエ。
もはやそれ以上は必要ない。リアはただ、爽やかに頷いた。
服の襟首にブローチをつけると、独鈷を握った片手を前方斜め上へ伸ばす。
明鏡止水の精神で心を静め、自らの想いを紡ぎはじめる。
確かに自分は傲慢なのだろう。信念ほど厄介でタチが悪いものはないのかもしれない。正義というものは誰もが持っていて、どこにでもあり、結局はそれぞれの正義のぶつかり合いに過ぎない。ヴィエに言わせれば、勝てば官軍、勝者こそが正義ということ。対して自分には確固たる定まりを語ることなんてできない。不器用で、お人好しで、お節介な正義感がどこに向かうかもわからない。
でも、それでいいのだ。
その都度悩めばいい。迷えばいい。そして答えを見つければいい。だから、いまはヴィエを助けることにすべてを――呆れながらも自分に賭けてくれた少女のために、この想いを。
瞬間、縞瑪瑙がほのかに発光し、独鈷が棒状に伸縮した。続いてリアの髪留めがふわりと外れ、ストレートロングの金髪が腰まで落ちる。柄の上部先端にくっついた髪留めが鍔の役割を果たすと、そこから見る間に幅広の青い輪郭が巨大な刃を形成していくではないか。
身の丈以上もある長さの、青光の刀剣が成ったのである。
それこそが彼女の信念のカタチだった。
片手で傍らの少女の腰を抱き寄せる。反応は、少しくすぐったそうな、照れたような顔。リアは清々しい顔つきで正面を見据え、青く輝く刀身を構えて真っ直ぐに飛翔した。その先には逆巻く時流のうねり。
紺碧の刃先が時の渦中に触れる。襲い来る凄まじい波動。全身全霊を込めて必死に抗う。その抵抗を嘲るように勢いを増す荒れ狂う津波。
僅かに弱い考えが滲み出してきたとき、繊細な織手が、柄を握るリアの手に添えられた。
「まだわたしの手助けが必要かしら?」
「ううん……手添えだけで充分よ」
互いに口もとを綻ばせる。
「貫け、蒼き彗星――!」
蒼穹のきらめきがスパークし、刃先が時流の渦を通過した。
迸る一条の青光は、まさしく彗星のごとく時の障壁を貫き通したのであった。
「アフォーゴモンの鎖よ、ウムル・アト・タウィルの門よ、虹色の球体を通して我が力となれ――銀虹珠!」
時空が歪み、透明球体が縮小し、ヴィエとリアの全身が数え切れないほどの残像軌跡を描く。存在が分割されているのだ。
そして閃光と共に時空の縮小に飲み込まれ、二人の少女はこの世界から完全に消え去った。
――直後、再び空間が揺らいだ。
ミィエと隆志が怪訝と眉を寄せる暇もあればこそ、次に生じた出来事には一瞬我を忘れてその光景を見つめるばかりとなった。床上の空間が縦に裂けたかとみるや、青くきらめく巨大な刀身が一直線に突き上がったのだ。
そして見た。目の前で消え去ったはずの少女らが、勢いよく時空の裂け目から飛び出し、ふたり同時に着地する様を。
重量を感じないのか、身の丈を上回る刀剣を軽やかに頭上で回転させるリア。キッとした眼差しを説教壇前に立つ二人に向け、自身の正義を貫く信念の刃――「蒼き彗星」を正面に傾けた。
「金白珠ですか……まさかこんな形で二人とも帰還するとは」
平静とした態度は崩さないものの、さすがに苦笑する隆志。『金白珠』のことはセラエノ大図書館で知り得ていたが、時の障壁を抜けられるのはリアだけだろうと踏んでいた。そして彼女一人で戻ってきたなら危害を加えず、これまでどおり普通に接するつもりでいた。
それが、二人そろって、しかも時の障壁を突き破ってきたのには驚かざるをえない。
「リアさんだけでよかったのに、どうしてお姉ちゃんまで戻ってきたんですか」
がっかりした表情で不満をあらわにして、隆志を庇うように前に出るミィエ。彼女自身の奇妙な純粋さか、やはりその雰囲気から嫌らしさは感じられない。
「文句ならリアさんに言ってね。わたしは諦めようとしたんだけど、リアさんが強引にわたしを連れ帰ったんだから」
「あんたってやつは……」
間違ってはいないが、いきなり矛先を転嫁するヴィエに、思わずジト目になるリアである。
思った以上に仲良くなっている様を見て、隆志はなんとなく感心した。
「ところで、周囲を侵食するこの『夢』はヴィエちゃんのあれですか」
「そうだよー、タカくんもミィエも逃げ場はないんだから。銀虹珠を発動させた直後だから、ふたりとも大幅に力を消耗してるでしょ?」
「否定できないのが辛いところですね」
微笑を浮かべる隆志もその前に立つ少女も、ともに疲労の色が濃い。ヴィエとリア双方を相手にするだけの力は残っておらず、さらに夢の門の効果で、万一のために用意していた逃亡手段も殆ど封じられたことになる。
優位に立っていることを理解したリアは、「蒼き彗星」を構えたまま隆志に視線を向けた。
「あんたに羽丘の血が流れてないってどういうこと?」
「言葉通りです。詳しいことは兄さんに聞くといいでしょう」
「お父さん? お父さんが何か知ってるの?」
「僕を羽丘家に迎え入れてくれたのは彼の父、つまり君の祖父ですから」
リアは当惑した。祖父は自分が生まれる前に亡くなっているし、父からこれまでそんなことを聞かされたことは一度もない。しかし隆志が嘘を言っている風にも思えなかった。
「いまここで説明してくれる?」
「リアさん、そこまでにしてください。隆志さんは疲れているんです」
非難するような口調で会話に割って入ったミィエ。その態度にリアはカチンときた。
「私たちを大変な目に合わせておいてよくそんなことが言えるわねっ」
「うっ……それもそうですね。ごめ……――いいえ! 謝りません、勝つまでは!」
「おいおい」
「それとヴィエお姉ちゃん、わたしたちを今すぐ解放してください。そうでなければ――」
語気を強めた少女の額に翠の燐光が浮き上がりかけ、ヴィエは眉をひそめる。
ハッとした隆志がミィエの肩を掴んだ。
「いけません、消耗したいまの状態でそれは」
「でも……」
「ここは僕に任せてください」
言うなり、隆志は神父服の胸元から何かを取り出した。それは手のひらほどの十字架に見えたが、数秒置いて、ヴィエが驚愕の相で眼を見開き、愕然とした声を震わせた。
「それ……は……銀の……銀の鍵!」
一見して十字架と思しき銀色の貴金属は、鈍くくすんだ表面に奇妙な意匠の装飾が施されており、先端についた細い突起は見方を変えれば鍵のようでもある。
「それでは僕たちはこれで」
手にした十字架を、何もない空間で半回転させる隆志。
カチリと音が鳴った。それは確かに『鍵』だったのだ。
次の瞬間、隆志とミィエの身体がぐにゃりと歪み、鍵穴に吸い込まれるように消えた。あらゆる時空を超える事のできる「銀の鍵」の前では、夢の門といえどもその移動を妨げる手立てはない。
「そっか……タカくんが銀の鍵を」
半ば茫然と見送るしかできなかったが、探し求めていたものの実物を眼にし、所在が判明したことによる興奮で、ヴィエはこのうえなく凄絶な笑みを浮かべたのだった。
「隆志は、夜刀浦市生まれの人間だ」
羽丘家の居間で、羽丘権化が重々しい声でそう言った。娘からの電話を受けた権化は、その内容を耳にするやいなや、深夜という時間にも関わらず地方から駆けつけたのである。ヴィエも同席していることにはあからさまな不快感をあらわにしたが、席払いを促すことはなかった。
「夜刀浦市って、この町同様に、不思議なことや怪事件がよく起こっているって噂の、あの夜刀浦?」
「一般的な認識としてはね。でも真実は、そんな認識を消し飛ばすくらいの秘めたる領域として囁かれてるんだよ。そっかあ……タカくんは夜刀浦の血に連なる者だったんだ」
訳知り顔で納得するヴィエ。リアが詳しい説明を求めると、父が真剣な顔で話してくれた。
夜刀浦は、千葉県の海底群にある地方都市である。強大な祟り神である人頭蛇体の夜刀神を土地神として祀っていたことから、その名前がついたとされる。
歴史的にも古く、室町時代には既に領土争いが繰り広げられたと記述が残っており、争いに勝利した夜刀浦領はその後も領土を存続していく。しかし時が経つと官軍との戦いにより夜刀浦は力を失い、一地方都市として歴史の記述からは消えていった。
陰惨な歴史と事件に昏く彩られた夜刀浦市は、それ自体が特殊な形をしており、一種の呪術都市であるという説も伝わっている。また多くの地元住民がある程度の年齢になると海に還っていくという言い伝えもあり、まことしやかな薄気味悪い噂は後を絶たない。
近代落語の祖と呼ばれる江戸時代の有名な落語家、三遊亭園朝も、実は当時の夜刀浦村が出生地で、訳あってすぐに江戸に里子に出されたという説話は、落語会の一部の重鎮のみぞ知る事実だともいわれる。
そんな、日本の悍ましき魔都として数えられる夜刀浦で隆志は生まれたのだ。
二十六年年前のこと、権化の父である羽丘郡是は、類稀なる神通力を持つ退魔師として夜刀浦を訪れた。その時、海底の神を崇める呪術師の男女が世に害を成す邪悪な儀式を行おうとしており、郡是はこれを打倒して阻止した。かなりの危険度であったため、命を奪う他はなかった。
呪術師たる男女には当時四つになる子供がいた。郡是はせめてもの仏心か、身寄りもなくなったその子供を引き取り、羽丘家に迎え入れた。
「それが……隆志なのね」
「そうだ。父はその数年後に病で亡くなり、臨終の際に私にそれを伝えた」
「どうして、教えてくれなかったの?」
「お前に気を使わせたくはなかった。今となっては、あだになったやもしれぬが」
「どういうこと。今のあいつと夜刀浦に何か関係あるっていうの?」
「それはわたしが説明してあげる。昔、夜刀浦が領土争いに勝利したのは、偶忌荒祝部毒命っていう異国神の使者の援助によるものらしいわ。それでね、タカくんが天封呪を使う前に、僕は『膨れ女』と出逢ったって言ってたでしょ? それはどちらもナイアーラトテップの化身に違いないの。その領域である夜刀浦生まれのタカくんは、羽丘家の人間となり御納戸町へやってきて、そこでトラペゾ教会の先代神父と親しくなった。彼に誘われてタカくんはナイアーラトテップの信奉者になって、さらには星の智慧派の一員にもなった。――つまり、タカくんはナイアルラトホテップに魅入られてるの。這い寄る混沌の掌中で踊らされ、何か途轍もないことをしでかそうとしてるってこと」
「またその名前……邪神だってことしか知らないけど、一体どういったものなのよ」
「うーん、ちょっと長くなるけど――」
地球誕生の遥か以前、宇宙黎明期にまで遡る途方もなき未知なる悠久の太古に、〈旧神〉と〈旧支配者〉と呼ばれる二種の神々が存在した。〈旧神〉は宇宙的な善を体現する全能の存在の総称。〈旧支配者〉は宇宙的な悪を体現する恐るべき邪神の総称。あるとき、〈旧支配者〉たちは〈旧神〉の棲むベテルギウスから、護符、印形、象形文字のようなものが書かれている石盤を盗み、セラエノ星に持ち去った。〈旧神〉はこの謀反に怒り、〈旧支配者〉との間に全宇宙の覇権をめぐる熾烈な戦いが幕を上げた。
人間には理解も叶わぬ想像を絶する戦いは〈旧神〉の勝利に終わり、敗れた〈旧支配者〉たちは罰を与えられた。〈旧支配者〉の指揮をとったアザトースは知性を奪われ窮極の混沌の中心へ、ヨグ=ソトースは時空連続体を超える超次元の彼方へ、クトゥルーは半宇宙的海底都市ルルイエへ、ハスターはカルコサのハリ湖へ、クトゥグァはフォマルハウトへ、その他の〈旧支配者〉たちも宇宙の各所に追放、幽閉された。しかし、ナイアーラトテップだけは封印を免れたという。
そして〈旧支配者〉の中でもアザトースやヨグ=ソトースといった、「外なる神」と称される窮極の神性たちの、その強壮なる使者こそがナイアーラトテップなのである。
「外なる神」の総意でありメッセンジャーでもあり代行者でもあるナイアーラトテップは、恐るべき邪神たちの中でほぼ唯一、人の姿をとって人間的な思考とともに人間社会に干渉することがある存在で、千の異形を持つゆえにあらゆる顕現でこの世に姿を現すという。
人類など簡単に滅亡させることができる力を有していながら、その力を直接振るうことはなく、あくまで人間自身による自滅へと誘うことを好むらしい。そのため、ときに謎めいた神父、予言者、科学者等、様々な化身をとって暗躍し、世界を破滅へと導くのだ。
「――とまあ、こんな感じかな。ちなみにわたしが信奉してるのは〈旧神〉の一柱とされている〈大いなる深淵の大帝〉ノーデンスなの。もっとも、わたしは『宇宙的な善』っていうのはピンとこないんだけどねえ~」
「なんか……スケールがマクロすぎてついていけないわ」
聞き終えたリアが、じっとりとした汗を浮かべて頭をくらくらさせた。
「じゃあ、そのナイアーラトテップをやっつければ万事解決ってこと?」
「……は?」
「ちょ、なによヴィエ。その呆れ果てたような、可哀想な人を見るような眼は」
「いやあ……無知っていうのは恐ろしいというか、あるいは幸せというべきか……」
「わ、悪かったわね無知でっ。つまり、やっつけるのは無理ってことね」
「無理も何もパーフェクトに不可能。この先科学が進歩して想像もつかない兵器が完成しても、進化して超然とした力を得ようとも、たとえ神に近い存在になろうとも、わたしたち人間という矮小な生物が〈這い寄る混沌〉を滅ぼすなんて、絶対にできないの」
「ものすごい卑下の仕方ね……」
「ぜーんぜん。だって、蟻が太陽を破壊できる?」
「そこまで例えるか」
もはや言い返す気も失せたリアだった。ちらりと権化を見るが口を挟む様子はなかった。仲が悪いらしいヴィエの言葉に父が僅かな横槍も入れないということは、肯定すべき事実なのだろう。
「とにかく、あの馬鹿者が大変なことをしでかそうとしている確率は高い。やつを見つけ出して阻止せねばいかんな」
実直な顔で今後の行動を決めた権化。明日からは仕事の合間に調査を始めるようだ。
「わたしもタカくんを探すよ。「銀の鍵」を手に入れて、ついでにミィエとの存在決着もつけて目的達成までまっしぐら♪」
望むことのゴールが見えてきたのか、意気揚々と気合を入れるヴィエ。
リアだけが、どうしていいか自分の気持ちが判然としない困惑した表情を浮かべていた。
世界のどこかに存在する、『星の智慧派』の拠点たる忌まわしくも荘厳な建物。その一室で豪奢なベッドに腰をかけ、薄灰色の眼鏡をかけた青年神父がくつろいでいた。
そこへ、十歳前後の純粋かつ端正な顔立ちをした美少女が入ってきて、彼を気遣うように透明感のある清涼な声をかけた。
「隆志さん、もう体の方は大丈夫ですか?」
「仮眠をとったらすっかり回復しました。ミィエ、心配してくれてありがとう」
優しく微笑を返され、ミィエはよかったという顔になると同時に、ほんのりと頬に赤みがさした。彼に優しい言葉をかけられるだけで嬉しさがこみ上げてくる。
「ヴィエちゃんをこの世界から消し去ることに失敗したのに、まだ僕に協力してくれるんですね」
「事の成否は関係ありません。わたしがこの世に存在を得ることができたのは隆志さんのおかげです。隆志さんは、わたしを道具としてではなく人として対等に接してくれました。わたしはこれからもあなたのためだけにこの力を使います」
その眼差しはひどくひたむきなものだった。
するうちミィエは、強い意志を湛えた瞳で隆志のそばに近づくと、彼の柔和な唇にそっと自分の唇を重ね合わせた。胸の高鳴りを抑えながら、そのまま隆志の上体をベッドへ押し倒し、見下ろす形になる。
「どうしました、ミィエ」
「その……す……好きな人には、こうするん……ですよね?」
「……それが、僕ということですか?」
「はい。わたしは隆志さんのことが好きです。異性として好きです。接した期間は短いですけど、人を愛するのに時間は関係ないですよね。ですから――」
「駄目です」
表情一つ変えずにそう言われ、ミィエの双眸はみるみるうちに哀しみに染まっていった。
「そうですよね。ごめんなさい、勝手なことを言って。ちょっと夢見ただけで――あっ!?」
最後まで口にするまえに抱き寄せられ、驚きのあまり眼をぱちぱちさせる。丁寧にベッドへ横たえられて、さっきとは逆に見下ろされる側になった。
「駄目です――僕のほうからでないと。君が誘ったのではなく僕が君を押し倒したんです」
「隆志……さん」
優しい鳶色の瞳に見つめられ、ミィエは陶然と眼を潤ませた。
「わたしで……わたしでいいんですか? あなたの心の中においてもらって、いいですか」
「ええ。そこには君だけがいればいい」
確かに、人を好きになるのに時間は関係ない。これまで幾度となく行きずりの女性と肉体関係を持ったことのある隆志だが、本気で恋愛を感じることは一度もなかった。自分と合う相手などいないのではないかと半ば諦めにも似た気持ちを抱いていたのだが、いま彼女に想いを告げられたとき、狂おしいほどの愛情が湧き上がった。
この世に生を受けて三十年、初めて人を愛した瞬間でもあった。
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