第11話 アルダタ・エルの樹
二手に分かれて情報収集を開始してから一時間になるが、調査は一向にはかどらない。そんな折、ヴィエは街外れに古びた教会が建っているのを発見した。元の世界の御納戸町には存在していなかった建物で、これは何かあるかもとにらんだ。
そうして足を伸ばそうとしたときである――スマートフォンの着信音が鳴ったのは。
「リアさん? え、なに……ふんふん……わかった、しょうがないなぁ」
やれやれと息を吐くヴィエ。入り組んだ路地裏のほうに元の世界にはなかった図書館を見つけたが、難しい書物に関しては自分じゃよくわからないから来てほしいという。
ヴィエは図書館の場所を聞き、すぐに向かうと伝えてから電話を切った。ちらりと廃教会を一瞥し、
「……まあいいか。図書館のほうが手がかりのある確率高そうだし」
そう呟いて背を向けた。あとでまた来ればいいことだ。
今のリアからの電話が、この世界における自分にとって、およそ考えうる限り最悪の結末を回避できた幸運に他ならないことを、無論のことヴィエは知る由もない。
図書館前では、電話を終えたリアが壁を背にして立っていた。
ヴィエが来るのを待つ間、現状について思いふける。
確かにここは元の世界とは微妙に違った平行世界のようだ。隆志に会ったときなどは、羽丘家の血が流れていないということについて激しく問いただしたい気持ちを必死に押しとどめた。平行世界の人間に元の世界の事柄を訊いても、それは著しく無意味なことであるとヴィエに注意されたからだ。
「考えてみれば、あいつのほうが大変な状況だしね」
居場所すらないヴィエのことを思い浮かべ、さすがに可哀想に思った。住宅街外れの洋館は十数年前の廃屋のままで、サイモン・コウという男など影も形もない。いま彼女のそばにいてやれるのが自分だけだと思うと、妙に親近感が湧いてくるから不思議なものである。
「なるほどー、ここがその図書館なんだ」
ナイトゴーントに乗ってきたのか、ヴィエは随分と早く到着した。
「リアさんはもう中を見てみたの?」
「ううん、ヴィエが着いてからのほうがいいかなと思って」
「じゃあさっそく入ってみよー」
ヴィエとリアが館内に足を踏み入れると、図書館特有の、あまねく蔵書がかもし出すかび臭さが鼻腔をついた。ふたりがまず不思議に思ったのは、まったく人の姿がないことだった。気配どころか、本当に誰一人として視界に映らないのだ。
入り組んだ路地裏というわかりにくいところに建っているとはいえ、暇つぶしを楽しむ老人の姿くらいはあってもよさそうなものだが。
「えーと……まずどうするの」
「図書館で一般的でない調べ物をするときは――」
館内を見回したヴィエが一角に眼をとめ、すたすたと歩き出す。あわてて後に続くリアは、やがて「特別閲覧室」と明記されたプレートのかかったドアの前に立った。
ドアノブに手をかけるヴィエ。鍵がかかっていたら開錠の魔法を使う気であったろうが、ドアは何の抵抗もなく開いた。中に入った二人は、ここにも利用客の姿がまったくないことを怪訝に感じたが、それよりも眼前に広がる書物量に眼を丸くした。
「うわあ、すごい量……」
「ふうん……これは当たりかもね」
リアはただその数に圧倒されているだけだが、ヴィエは意味深に笑んだ。普通は一介の図書館が有する特別閲覧室はそんなに広くない。一般の眼から遠ざける稀覯書の類がこれほどの数に昇るのは驚くべきことであり、しかもそれが、ぱっと見て魔術・神秘関係の本を中心に集められているのだから、ほくそ笑みたくもなるものだ。
と、そこへ、唐突に人の気配がしたかと思うや、一人の女性が近づいてきた。
「特別閲覧室に何か御用ですか?」
淡々とした綺麗な日本語で話しかけてきたのは、館内の者らしき白人の女性だった。見事な灰褐色の髪をした、鮮やかなブルーの衣服に身を包んだ女は、黒いフレームの眼鏡越しに赤茶色の瞳を向けてくる。容姿は三十代半ばに見えるが、年齢の特定しにくい不思議な雰囲気を漂わせており、どこか得体の知れない老獪さを感じさせるのだった。
「貴女はここの方ですか?」
「ええ、私はシンディ。シンディ・デ・ラ・ポーア。この図書館の司書を務めてます」
シンディと名乗った女性司書は、その物腰同様に抑揚のない声で眼鏡に手をかける。
「ようこそ特別閲覧室へ。あなたがたはどんな知識をお求めですか?」
「ワケあって、魔術や神秘学に関する書物を閲覧したいの」
「それはそれは。ではお任せください、ここはそういう著書を多く取り扱っているのですから。ことオカルトの貴重な蔵書に関しては、ハーヴァード大学のワイドナー図書館やミスカトニック大学の附属図書館にもひけをとりませんわ」
リアにはよくわからないが、ヴィエはますます感心をあらわにした。
「本来なら特別閲覧室の利用には手続きが必要なのですが、あなたがたは久しぶりの閲覧者ですから、手続きなしで構わないわ」
よほど利用客が縁遠かったのだろう、シンディ女史は軽くウインクしてあっさりと許可を出した。但し、貴重な書物ばかりなので貸し出しは禁止ということだった。
「よし、それじゃあわたしはさっそく調べ物に取り掛かるから、リアさんはその辺で適当にくつろいでて」
「……わかった」
渋々と頷くリア。手持ち無沙汰になるのはいやだが、この手のものに関しては足手まといにしかならないことを承知している。邪魔にならないところで興味を向けてみたものの、置かれている書籍の殆どは外国語で書かれたものばかりなので読むことなどできなかった。英語やギリシア語、ラテン語どころか、アラビア文字やタミル文字で書かれた超難解な書籍まであるのだ。
せわしく多数の本棚を移動しながら、ぎっしりと詰まった書籍を丹念に調べつつ、ヴィエはその膨大な数の魔術書、魔道書、魔術研究書に舌を巻いた。他にも神智学に関する本や印形に関した書籍など、実に多岐に渡った、まとまりのない稀覯書の宝庫だといえる。
ざっと確認しただけでも、『侵入の書』と書かれたドルイドの魔術書、ウェイド・ジャーミン著『アフリカの地域的観察記録』、フレイザーの『金枝篇』原本、レミギウスの『悪魔礼拝』、マダム・ヴラヴァツキーの『アエテュル尊厳書』、ウォード・フィリップスの『ニューイングランドの楽園における魔術的驚異』、暗号解読書らしき『ロガエスの書』、ロジャー・ベーコンの『化学宝典』、その他にも『金武蜀異聞記』、『西洋における魔女崇拝』、『世界開始の科のお伝え』、『人工失楽園』、『レイサナ大阪紀行』等……
「ドイツ語版『ドジアンの書』にダレット伯爵の『屍食教典儀』、『エイボンの書』まで」
氷河期以前に地球にあったとされるハイパーボリア大陸の、ムー・トゥーランで名声と威信を得ていた魔道士エイボンにより、ハイパーボリアの言語で記述された魔術書――それが『エイボンの書』である。翻訳につぐ翻訳を重ねて現在に伝わっているため、数多くの言語で記述された写本や手稿などが現存し、不完全な断片の幾つかがミスカトニック大学附属図書館に収蔵されている。いまヴィエが手にしたものはラテン語版の刊行物であるが、こんなものまで保管してあるとは。じっくり読みたい気持ちを必死に抑えて書棚に戻し、ヴィエは元の世界に帰る方法に関連ありそうな書籍を探すことに専念するのだった。
やがて、ひとつの本に眼がとまった。
書名は『神代遺産録』とあり、かなり古い書物のようだ。
「著者は……マイラクリオン!? 伝説の古代大陸ティームドラ最高の魔道士と謳われるあの!?」
これだ、と思った。銀虹珠は神代に生み出された禁呪だから、神代に近い時代を生きたマイラクリオンの著した書物の記述なら、平行世界に飛ばされた者を元の世界に戻す方法についても記されている可能性が高い。
手早く本を開いて、ヴィエは眉根を寄せた。
「神代の文字? 写本だろうけど、まいったなあ」
さすがに神代の文字は読めない。解読しようにもかなりの準備と期間が必要で、貸し出しが禁止なのではどうしようもない。仮に持ち出しが可能だったとしても、解読を試みているうちに存在が定着化してしまうだろう。
パラパラとページをめくりながら、ふと紙面に手を触れた時、思わず取り落としそうになってしまった。
――指先を通じて感覚的な何かが伝わってきたのだ。
「これは、もしかして……擬似思念による残留伝達?」
本の内容を擬似的な思念で内包して残しておき、強い力を持つ者が紙面に触れた時、文字が読めなくても理解できるような反応措置が施されてあるに違いなかった。マイラクリオンならそういうことも可能だろう。
これならとばかりに、適当なページを開いて慎重に手を触れる。たちまち指先から感覚的なヴィジョンが流れ込んでくるが、空間思考的な文字配列がめちゃくちゃで理解できない。さすがに一筋縄ではいかないようで、優れた認識能力を要求されているのだ。
ここが腕の見せ所――ヴィエは膨大な魔力を消費して伝達の配列変換を行う。それでも数分ともたないため、限られた時間内に幾つかの箇所を関連付けて解読する。
「うぁ、もう、らめえっ」
ろれつの回らない舌で声を発し、半ば眼をくらくらさせながら本を閉じると、ぐったりした様子でその場にへたり込んだ。
「あ……あるだたえるの樹ぃ」
リアに抱き起こされつつヴィエが口にした言葉はそれだけだった。
図書館を後にした二人は、公園のベンチで一休みしていた。
「大丈夫?」
「うー、なんとか……」
ヴィエが相当に疲労したらしいことは声の調子からも明らかだ。
彼女が『神代遺産緑』の一箇所を解読して得た知識は「アルダタ・エルの樹」という宇宙樹のことについてである。
「会って話を聞くことができれば、わたしたちが元の世界に帰れる方法がわかるかもしれないわね」
「でもその樹がどこにあるかわかるの?」
「それは目星がついてあるから、実際に行って確かめてみましょ」
リアと落ち合う前に御納戸町の調査をしていたとき、ある山奥の村にて、太古の昔に星々の世界から運ばれてきた神樹が祭られているという噂と、ある程度の確証をも掴んだ。その情報がアルダタ・エルの樹の項目と結びついたのかもしれない。
「もう日が落ちたし、明日の朝になったら出かけるということでオーケー?」
「いいけど、あんた今日はどこで一夜を過ごすつもりなの」
「その辺は気にしないで――って、リアさん、なんでわたしの手首をしっかりと掴んでるのかな? なんで睨めつけるような眼で見るのかな?」
「……魔術か何かを使ってホテルに不正宿泊でもする気でしょ」
「わかってるなら話ははや、い、いたたたたっ、リアさんへるぷー!」
「ああ、もう、私の家に泊めてあげるから一緒に来るっ」
ヴィエの手首をぐいぐい引っ張って、赤黒く染まった空の下を闊歩するリアだった。
「で、なんでリアさんの部屋で一緒に寝ないといけないの?」
「しょうがないでしょ、この世界だとお父さんもお母さんも家にいるんだから」
「まあいいか。じゃあ遠慮なく……」
「おい。なに堂々と一人でベッド占領しようとしてるのよ」
「わたしお客さんだからベッドで寝るのは当然でしょー」
「私はどうなるのよっ」
「ベッドが使えないなら、床で寝ればいいじゃなーい?」
「てめー」
「あはは、冗談冗談。使わせてあげるから感謝してね」
「私のベッドだってば!」
羽丘家二階の一室で交わされるやり取りは、どこか楽しげな響きを伴っており、その夜、ふたりの少女は、パジャマ越しに伝わる互いの肌の温もりを感じながら眠りについた。
風が谷を吹き抜ける音がびょおびょおと鼓膜を通り過ぎていく。
粉雪が風に流される谷沿いの山道を、二人の少女がざくざくと突き進む。
「すごい風ねー。本当にこんな山奥の谷間に村なんかあるの?」
「偵察から戻ってきたナイトゴーントによれば間違いないみたい」
「まあ、なんにしても冬休みに入ったばかりでよかったわ。そうじゃなかったら理由つけて何日か学校休まないといけないところだし」
季節や時間経過は元の世界と同じらしいことに感謝するリアだった。
朝早く出発し、半日ほど電車に揺られて寂れた駅に到着した。そこからバスで一時間半もかけて終点まで移動後、徒歩で山中に踏み入ってから、さらに二時間は経過した。
そんなとき、風に運ばれて打楽器の音が聞こえてきた。
「太鼓の音だわ」
ようやく村に着いたのか視界がひらけ、太鼓の音はより一層強まった。
七、八歳だろうか、巫女装束を着たおかっぱの少女が正座し、四隅で年輩の男が腰を下ろして小太鼓を叩いている。そのリズムに合わせるように少女は眼前に置かれた神酒を口に含んだ。
「何やってるのかしら」
「祭礼の儀式あたりじゃないかなあ」
どうやらここは村の広場らしく、何がしかの祭儀を執り行っている最中のようだった。周囲を見ると、遠巻きに眺めていた村人たちが、「かわいそうに」とか「今年はあの娘が生贄か」と声を交わし始めた。
「いけにえ!?」
リアは思わず大声を発してしまい、たちまち視線が集中する。だが、秘密の祭事でもないようで敵意を向けられることはなかった。祭事を取り仕切っている老婆が近づいてきて、事情を説明し始めた。村の長老だった。
「一〇〇〇年前、この村では毎年のように大きな雪害が起こっては何人もの死者が出ていたそうじゃ。ところが、ある年の初冬、村の幼き娘がひとりで山の神の前に祈りを捧げに行き、気づいた村人らが発見したときは、凍傷で死んでおった。するとその年は雪害が起こらなんだったというのじゃ」
「それから雪害はないの?」
「そう伝えられておる。ゆえにそれ以来、その娘が死んだ時期になると、幼き娘を山神様に捧げるのが村のならわしとなったそうじゃ。今がちょうどその時期でな、明日、あの娘、葉月が山の神に供されるのじゃ」
「村のならわしですからしかたありません」
閉じた障子を背に整然と正座して、少女――葉月がそう答えた。巫女装束から普通の着物に着替えたばかりだ。
「生贄なんておかしいですよ。村のことは何も知らないけれど、誰かの命を犠牲にしなくちゃいけないなんて正しくないと思う」
畳の上で少女同様に整然と正座したリアが、囲炉裏を挟んで彼女の祖母に苦言を呈する。ヴィエはその横で座布団の上に体育座りしていた。長時間の正座も平気なリアと違い、一分とたえられない。
祖母は心苦しい顔で眼を伏せた。
「村の掟なもので……」
「でもなんで葉月ちゃんに決まったの?」
「なんでも祭事の時期に水面の揺らぎを見て長老が決めるそうで……」
「要するにテキトーってことね」
固焼きをバリバリ頬張りながら、身も蓋もない言い方をするヴィエ。
「ちょっとヴィエ、生贄の風習を止めさせるいい知恵ないの?」
「んー? まあ、なんていうか……誰が殺したコック・ロビン?」
「なんでクックロビン音頭なのよ」
「いやわたしが言ってるのは、誰がコック・ロビンを殺したか? それは私とスズメが言った。誰が死ぬのを見届けた? それは私とハエが言った。誰がロビンの血を受けた? それは私と魚が言った――……まあいいや」
「人の顔見て溜息つかないでよ」
「わたしリアさんのお節介に付き合うつもりないし。それに、べつにいいんじゃないのー? 本人が村の慣わしだからって納得してるんなら」
「あんたねえ……」
また文句が口をついて出そうになったとき、びょおおおおお、と風の音が通り過ぎた。
と、それまで眼を伏せたまま黙していた少女がにわかに震えだし、そして、
「いいわけないでしょ!」
いきなり怒声をあげたかとみるや、だんっと立ち上がって眉をつりあげたではないか。
呆気に取られるリアを尻目に、彼女の怒りの矛先が祖母へと向く。
「何が掟よ! 私は葉月なんてどうなってもいいけどさ、巻き添えで死ぬこっちの身にもなってほしいわよ。だいたい孫が可愛くないの!? 図体ばかり大きいだけの木のほうがそんなに大事ってわけっ」
「卯月……なんてバチあたりなことを」
「バチ? 当ててごらんなさいよ!」
癇癪を起こしたまま、性格の豹変した少女がのしのしと畳を踏みしめて部屋を出て行き、障子の叩きつけられる音が残った。ぽかんと眼を丸くするリア。
「ど、どうなってるの?」
「二重人格でしょ」
こともなげに煎餅に手をつけるヴィエに、祖母がそのとおりですと肯定した。
「葉月は赤ん坊の頃、大きな風の音をたいそう怖がりまして、それを耳にすると性格が入れかわってしまうのです。暫く経つと元に戻るのですが……さっきの娘は卯月といって、気の強いもうひとつの人格なのです」
勝ち気で山の神のことも信じていないため、村の厄介者なのだという。
しかし、彼女が悪い子のようには思えないリアだった。
しんしんと雪が降る月夜。近くの木々の手前で、少女が雪の上に大きな石を三つ縦に積んでいた。積み終えると、活発そうな顔を綻ばせた。
「何してるのかな、卯月ちゃん?」
「なんだ、さっきの人かぁ」
リアに傾けた表情は普通のやんちゃな少女のものだ。
「葉月お姉ちゃんのお墓を作ってたんだ」
「お墓……」
「いけにえになった娘はお墓も作ってもらえないんだよ」
「へえー、あんたやさしいじゃない」
「おとなしくて自分の意見も口にできないやつだけど、それでも私のお姉ちゃんだからね」
少し頬を赤らめてそっぽを向く少女に、リアは口もとをほほえませた。
「でもなんで葉月ちゃんのお墓なの? 彼女とあんたは同じ体じゃない」
「私は本人格じゃないから……だから私にお墓は必要ないの」
「卯月ちゃん……」
「そんなことより、明日、葉月お姉ちゃんはあの山の上にある大木の前に捨てられるんだ」
そう言って少女は眼の前にそびえる山を指差した。
「ふうん、あそこにアルダタ・エルの樹があるってわけね」
ひょっこりとリアの背後から顔を出したヴィエが、妖しく微笑した。
松明を掲げた村人に先導され、駕籠をかついだ村人たちが続く。
木々にまぎれて後をつけるヴィエとリア。駕籠の中で揺られている少女を思い、リアはなんとか隙を見て助け出そうと心に決めた。やがて彼らは古ぶるしい巨木の前で立ち止まり、丁重に駕籠を下ろした。
「あれがアルダタ・エルの樹かぁ」
木陰に身をひそめながら、興味津々の顔つきになるヴィエ。長老が声を張り上げた。
「山の神がお出ましになるぞ」
次の瞬間、村人たちから畏怖の声があがり、皆一様に「山神様」と口にしてひれ伏す。
「……何も見えないんだけど?」
「共同幻想ね。信じている人には山の神に見えるのよ。村人達はみんな現実逃避したがり屋さんばかりなわけだ」
ヴィエが嘲るような口調で眺めている間にも、駕籠から出された葉月が大木の前に差し出され、手足を拘束されていく。今にも飛び出しそうなリアの服裾をつまみ、ヴィエは様子を見ることを促した。
そのとき、びょおおおおおおお、と風が吹いて長く尾を引いた。
眼を見開いて体をびくつかせる少女。
「何をうろたえておる! 神事を続けんか!」
どよめく群集に向かって長老が叱咤の声をあげた直後、
「何が山の神よ! ただの大きな木じゃない!」
威勢良く立ち上がった少女の言葉に、村人たちは茫然として立ちすくんだ。長老が声を荒げる。
「卯月! お前に何がわかるか」
「ばっかじゃないの!? お姉ちゃんだってこんな枯れ木の肥やしになるなんてまっぴらだと思うわよ!」
「卯月ちゃんの言うとおりよ!」
我慢できず、勢いあまってその場に飛び出すリア。後ろでヴィエがやれやれと苦笑した。
場が混乱の模様を呈してきたとき、異変が生じ、村人が悲鳴をあげた。巨木がほのかに発光するや、突風とともに四肢を生やした怪物が無数に飛翔してきたのだ。
「風の精? なーるほどね」
ヴィエが納得いったとばかりに笑んだ。
怪物の一匹が生贄の少女へ飛びかかり、鋭い爪を振るった。
「卯月ちゃん!」
素早く印を結び真言を唱えるリア。たちまち怪物は火天の炎に包まれる。残りの怪物を牽制しながら、倒れ伏せた少女に駆け寄り治癒促進の術を施すと、リアは村人たちのほうを向いて声を張り上げた。
「何ぼうっと突っ立ってるのよ! ここは退魔師の私に任せて、あなたたちは卯月ちゃんを村まで運んで手当てして!」
「あ……ああ!」
夢から覚めたように冷や汗を流し、村人たちははっきりと応じた。すぐさま少女を抱きかかえると、一目散に山を下りはじめる。あとはリアの真言密教術とヴィエのナイトゴーントで程なく片がついた。
人の気配がなくなり場が静まり返ると、ヴィエが巨木に向けて不敵に笑んだ。
「随分手荒い歓迎だったわね、アルダタ・エルの樹。それとも、マイラクリオンによってイタクァの複製品と化したものと言ったほうがいいかしら?」
『私を知っているのか――! 何者だお前達は。何故邪魔をする』
脳裏に直接響く声は年輩の男のもので、力ある人間にのみ聴こえる声だった。
「邪魔するつもりはなかったけど、結果的にそうなっちゃったかしら? まあタイミングが悪かったと思って。――わたしたちは銀虹珠によってこの世界に飛ばされてきたの」
『ほう、銀虹珠とは……なんと久しき言葉か』
「それで、元の世界へ戻る方法があったら教えてほしいの。あなたなら何か知っているんじゃないかと思って」
『それなら知っている。だが、銀虹珠に飛ばされし者を還すための金白珠は、「黄金律の監視者」にしか扱えぬ』
「金白珠……それが元の世界に戻るための術なのね。黄金律の監視者とやらはどこにいるの?」
『残念だが期待には添えぬな。私に彼の者の居場所はわからぬ』
嘘をついている様子はない。しかし情報としては十分すぎるほどの収穫だった。
満足げなヴィエと入れ替わるようにリアが前に出て、アルダタ・エルの樹を見据える。
「ねえ、さっきの村人たちのことなんだけど、一〇〇〇年前から村に雪害が起こらないようにしているのはあなたなの?」
『そうだ。大きな雪害の兆候が生じたときは私がその発生源をコントロールしているのだ』
「そのために生贄を必要としているの?」
『……間接的にはそうなる』
「? どういうこと」
『私は悠久の昔、大魔道士アルダタ・エルに連れられて宇宙の各地に据えられた樹のひとつ。時が流れ、私はティームドラ大陸でマイラクリオンによってイタクァの模造として存在の延命を得た。しかしティームドラがなくなり世界を転々とするようになると、信仰者がいなければ存在できぬようになった。一〇〇〇年前にここへ流れ着いたとき、ひとりの娘が犠牲になってくれたおかげで、村の人間が私を山の神と崇めた。そうして私は今に至るまで生き長らえる事が出来たのだ。神事が行われなくなれば私は死んでしまう。そんなのはいやだ!』
「だからさっき、怪物を呼び出して無理に生贄の儀を成そうとしたのね」
『そうだ。私が生きていれば彼らも雪害に悩まされなくてすむ』
「でも、毎年幼い女の子が犠牲にならなくちゃいけない理由があなたのエゴのためだというなら……やっぱりそれは間違ってると思う」
激しい憤りを抑え、リアは丹念に自分の言葉を選ぶ。怒りに任せて非難するのでは何もならない。話し合いでわかりあえる状況なら、まず理解したうえで気持ちを伝えないと。
暫しの沈黙のあと、一転してかすれるような声が漏れだした。
『やはり役目を終えた私は消え去るのが定めなのか? 私は死が怖い……自分という存在がなくなってしまうことが怖い。教えてくれ。「死」とは何なのだ?』
切実なる訴えに、今度はリアが沈黙した。それに対する答を自分は持っていない。
「死の恐怖は、解決されない生の矛盾の意識にすぎない――」
そう返事したのは、退屈そうに眺めていたヴィエだった。
彼女の意図はわからないが、かすかに地面が揺れ始める。
『それが答え……そんなことが? 人間はみなそうだというのか!? 人間もこれほど悩み苦しむというのか?』
震動は耐えがたいまでに強くなり、ふっと静まった。
巨木の発光がみるみるうちに弱々しくなり、やがて夜闇に包まれる。
最後に『ありがとう』という声が残った。
朝陽が差し込む寝室で、少女は眼を覚ました。
「私――」
「目が覚めたかい、葉月」
よかったと安堵の息を吐く祖母。リアもホッとしたように口もとを綻ばせる。
少女がぽかんとしていると、びょおおおおおお、と風の音が通り過ぎた。
しかし彼女が震えだすことはなく、かわりに涙を流した。
「夢の中で卯月ちゃんが出てきたの……私をたくさん励ましてくれて……最後にさよならって……」
「葉月ちゃん……」
「私、これからはもう少し前向きにがんばってみようと思います」
そう言って、少女は涙で頬をぬらしたまま、さわやかにほほえんだ。
「卯月ちゃんのお墓になっちゃったわね」
雪が降るなか、三つ積み上げられた大きな石の前に花を供えるリア。今回の出来事により、村では来年から娘のかわりに、わらで作った人形で山の神を供養することが決まったという。
御納戸町に戻ったヴィエとリアは、「金白珠」と「黄金律の監視者」の情報を得るため例の図書館へ向かったが、不思議なことに特別閲覧室があった場所は普通の書籍スペースになっていた。図書館の人間に話を聞くと、特別閲覧室など存在せず、シンディ・デ・ラ・ポーアという司書は最初からいないと断言された。
街外れの廃教会にも足を踏み入れてみたが無人で、使われている形跡はなかった。
ふたりが存在の定着化を感じたのは、その日の午後だった。
数日後、ヴィエは御納戸駅のホームに立っていた。
どうせこの世界で一生を終えることになったのだからと、色々な所を見て回ることに決めたのだ。魔術が使えるならどこでだって生きていける。自由気ままに各国各地を旅するのも悪くないだろう。
そんな彼女に近づく影があった。金髪碧眼の少女が、旅行鞄を両手に提げて眼前に立ち止まった。
「学校に退学届けを出してきちゃった」
と口にしたものだから、さすがのヴィエも呆気に取られる。
「家族にはちゃんと話して理解してもらったから大丈夫。退学のことも、これから旅に出ることも」
「……ほんとにリアさんってば、お馬鹿さんなんだから」
「拒否されてもついていくわよ」
「ふう、好きにすれば? わたしも話し相手がいたほうが楽しいし」
「決まりね」
そうして少女らは電車に乗り込んだ。
発進音が鳴り響き、車体がスムーズに動き出す。車窓に映ったのは、向かい合わせに座って会話するふたりの姿。
空は快晴。新年の幕開けにふさわしい旅立ちだった。
※11話は山田卓司『ベルセゾン』のエピソードをベースにしています
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