第10話 平行世界

 意識がはっきりしたとき、リアは自分が街路に佇んでいることに気づいた。一瞬、ぽかんと眼をしばたたかせると、たちまち直前の記憶が鮮明になりはじめ、はっとして周囲を見回した。

「ここは……御納戸商店街?」

 見間違えようもなく御納戸町の商店街であり、前後不覚に陥りそうな困惑の感情に必死に抗いながら気を落ち着け、状況を把握しようとする。

「そうだ、教会――!」

 現場に向かえば何か判明するかもしれない。あの後どうなったのか、隆志は、ミィエと名乗る少女は、そしてヴィエは、どうなったのか、答を得るためにトラペゾ教会へ。

 息を切らせながらひたすら走り、数刻前に友達と認めた少女とふたりで歩いた道を駆け抜け、見慣れた教会の聖堂へ足を踏み入れた。中は無人だった。呼吸を整え、自然と用心深く聖堂内を見渡す。

 人の気配のない座席の間の通路をそろそろと歩き、中ほどの手前で足を止めた。この先でとんでもないことが起きたのだ。慎重に迂回して座席の端に歩を進め、そこから回りこむように説教壇まで辿り着いたが、眼に見える変化も発見もなかった。

「いったい、どういうこと?」

 あれが夢だったとでもいうのだろうか。白昼夢でも見ていたと。

 そんなはずはない。先刻までの記憶は紛れもなく明確なものであり、その実感たるやまざまざと身に残っているのだから。

 そのとき、奥の戸口から誰かが入ってきた。

「こんにちは。教会に何かご用でしょうか」

 声のほうに眼を向けて軽く驚いた。修道女の衣服を纏った小柄な少女だった。この教会にシスターなどいないはずなのに。それに、どこか聞き覚えがあるような声。

 リアが口ごもっていると、少女はじっと眼を凝らしてきて、みるみるうちに親しげな声を出した。

「リアさんじゃないですか。どうしたんですか、こんな真昼間に」

 口もとを綻ばせて頭のフードに手をかける少女。リアは思わず眼を見開いた。栗色のショートヘアー。ダークブルーの瞳。あらわになった爽やかな顔は、ミエシーツ・ウビジュラに他ならなかったのだ。

 途端、リアの感情が爆発した。

 掴みかからんはかりの勢いで接近し、少女に向けて言葉をまくし立てる。その剣幕にわけがわからず眼をパチパチさせながら、シスターの少女はなだめすかすようにたどたどと声を挟んだ。

「リアさん、落ち着いてください、どうしたんですか。はい、わたしはミィエですよ。数年前に隆志さんに引き取られてこの町にやってきたミエシーツじゃないですか」

「落ち着いていられるわけないし、そんなたわごとで納得できると思ってるの!?」

「そ、そんなことを言われましてもわたしにはリアさんの仰っていることのほうがわからないです」

「わからないのはこっちのほうだって――」

「はーい、ストップ」

 横合いから突然腕を掴まれ、リアが顔を向けると、あろうことかヴィエが立っていた。面食らって大声を上げようとしたリアだが、少女の繊細な指先が額に触れた途端、声を失って口をぱくぱくさせた。その間にヴィエが、自分そっくりの顔にぽかんとしているミィエらしきシスターになあなあと声をかける。

「ごめんなさいねー、リアさんわたしと間違ってあなたに詰め寄ったみたい。わたしさっきリアさんと喧嘩しちゃって教会へ逃げ込んじゃったから……」

「ええと……あなたは?」

「わたしはヴィエ。最近この町にやって来てリアさんと友達になったの。ほら、あなたとは偶然にも名前と顔が似てるから、それで勘違いしちゃったのね」

「えっ、でも……」

「ああごめーん、これからリアさんとお話があるから、これで失礼するねー」

 矢継ぎ早にまくしたて、ヴィエは、いまだ口をぱくぱくさせてこちらを睨んでいるリアを引っ張り、有無を言わさぬ調子ですたすたと聖堂を後にした。

 取り残されたミィエが、ぽつねんと呆気にとられたまま立ち尽くすのだった。


「で、どういうことなのか説明してもらえるわよね」

 公園のベンチに腰をかける二人。言い逃れは許さないといったリアの眼差しに、ヴィエは苦笑して頷いた。

「わたし、人にわかりやすく説明するのは苦手なんだけど、つまりね……」

 ヴィエの話によると、現状は次のようなことらしかった。

 自分達二人は、隆志とミィエが発動させた銀虹珠という太古の禁呪により、存在を多数に分割されて平行世界へ飛ばされた。ここは無数にある平行世界のひとつで、いまいる自分達も分割された存在のひとつに過ぎず、また平行世界とは、あくまで元の世界とほんの少し相違点があるだけの類似世界であり、別世界というわけではないらしい。

 そしてここからが重要なことなのだが、一定の期間内に元の世界へ帰る方法を見つけて帰還しないと、自分達の存在がこの世界に定着化してしまい、二度と元の世界へ戻ることはできなくなるのだという。

「それで……その期間って、具体的にいつまでなの?」

「残念だけどそれはわからないわ。ただ、期間内を過ぎたら感覚的に理解するはずよ」

「つまり、わかった時は手遅れだってことね」

「それともうひとつ、たぶん定着化までの期間はそんなに長くないと思うから、急いだ方がいいのは確実だと思う」

「ヴィエは元の世界に戻る方法を知らないの?」

「知ってたら苦労しないわよー。手段があるのは間違いないんだけど、人の理解できる形では伝わってないの」

 お手上げという仕草で両手を開くヴィエ。さらに、元の世界でないとランドルフ・カーターとの繋がりがないため、〈夢の国〉を訪れることもできないのだ。もしそれが可能であればカーターに頼んで何とかしてもらうこともできたのだろうが。

「わかった。あと疑問に思ったんだけど、さっきの少女はミィエよね? 以前からの私の知り合いになってるみたいなのは平行世界ってことで納得できるんだけど……なんで彼女があんたのことを知らないの? いくら平行世界っていっても、何らかの関わりはありそうな気がするんだけど」

「それは簡単。元の世界ではわたしのかわりにミィエが存在権を得ているから、平行世界にもミィエの存在が確立した。でもわたしの存在は無いわけだから、平行世界においてもわたしは誰の記憶にもなく、天涯孤独の身ってわけ。だからわたしのことを知っているのは、一緒に飛ばされてきたリアさんだけということ」

「なるほど……あんたが私に、見捨てないでって言った気持ちがわかった気がするわ」

 いくらヴィエでも、誰の記憶にもあらず、自分という証の存在しない世界での孤独なんか味わいたくはないだろう。

「いやあ、リアさんを引き止めることができてほんとよかった」

「……このやろー」

「あいたたたたたっ。うめぼしはやめてー」

 ジト目で睨めつけながらヴィエのこめかみを両こぶしでグリグリするリアだが、その表情はどこか晴れやかだった。

「そういえば、私たちが元の世界に戻れたら、他の平行世界に飛ばされた自分たちも元通りになるの?」

「リアさんにしてはいい点に気がついたね」

「にしては、が余計よ」

「えーとね……その世界に定着化してしまった存在以外は、元の世界に戻ったほうへ収束するわ。逆に言えば、もし私たちがこの世界に定着化しちゃっても、他の私たちのどれかは元の世界に帰れているかもしれないわね」

「要するに、私たちが失敗しても他の私たちが成功するかもしれないってことね」

「そうそう。もっとも、定着化しちゃったら私たちはこの世界で暮らしていくほかなくなるけど」

「よし、じゃあそうならないようがんばろう!」

 真剣な顔で握手してきたリアに、ヴィエはまんざらでもない笑顔を見せた。


 ヴィエは、街外れにひっそりと建っていた廃教会に足を踏み入れた。あれからリアと二手に分かれて情報収集することに決め、二時間後にまた落ち合うことにしたのだ。色々調査したものの進展がなく、一時間が経過した頃、元の世界の御納戸町にはなかった廃教会を見つけたのである。

 気になるのは、ここへ来る途中から急に空が曇り始め、群雲増す天候になったことなのだが……

「どちら様ですかな」

 ふいに声をかけられた。声質からして日本人ではないが、やたら流暢な日本語。

 振り向いた先には、三十歳前後だろうか、一人の黒人神父が薄く微笑していた。黒い詰襟の牧師服に、白い司祭服を羽織っている。

「……あなたはここの神父さんですか?」

「はい。マイケル・マクシミリアンといいます、美しいお嬢さん」

 押し付けがましさのない笑みで世辞を言われ、ヴィエは感心した。

 白い歯を見せてにこやかに笑うと、若い黒人神父は少女を教会内へ手招きした。この悪天候の中、外で話をすることもない、ヴィエは招きに応じて神父の後に続いた。

 内部は薄暗く、古ぼけた教会とは思えないほどの、精緻な造りの聖堂がそこにはあった。各所に聖書から材を取ったのであろう銅板画がはめ込まれ、荘厳な雰囲気をかもし出している。ヨーロッパの伝統ある教会にいるかのような錯覚さえ覚えるほどの内部には、不思議な香の薫りが漂っていた。少し甘ったるいような、とろみのある匂い。

「それでは話を伺いましょうか? 小さく優秀な魔道の徒さん」

「――へえ、わかるんだ」

「これまでに幾度も本物の魔術師等を眼にする機会がありまして、雰囲気でなんとなく判るのですよ。恥ずかしながら、私自身は魔道士ではないのですがね」

 そう言って神父は照れたように笑い、吸い込まれるような鳶色の瞳を細めた。


 廃教会を後にしたヴィエは、すぐさまスマートフォンに手をつけた。しかしリアは電波の届かないところにいるのか、まったく繋がらず、唇を尖らせて電話を切る。せっかく有益な情報を聞けたというのに。連絡可能になるのを待ってなどいられない、少し疲れるが、上空から広域魔力探知を発動してリアの居場所を調べ、そのまま直行しよう。

 ナイトゴーントを呼び、その背に乗った。幻術を施せば一般人に見られることはない。一気に御納戸町の空に舞う。魔力探知を発動させようとして、ヴィエは体勢のバランスを崩した。夜鬼が上空で静止せず、さらに上昇を始めたのだ。慌てて背にしがみつく。

「どういうこと? 調整はこのまえ行ったばかりなのに……えっ!?」

 視線を落として、ヴィエは愕然とした。自分はナイトゴーントの背に跨っているのではなかった。ぬるぬるとした漆黒の肌は、見る間に不快な鱗へと変貌していき、大きな翼を広げた悍ましい巨体へ変わっていく。

 それは、象よりも巨大で馬のごとき頭部を備える、恐るべきシャンタク鳥であった。

「なんで、どうして――」

 いや、そういえば、自分はあの廃教会で、謎めいた黒人神父とどんな話をしたのだ? どんな情報を聞いたのだ? ほんの十分ほど前のことなのに、思い出せないではないか。

 少女の思考の乱れをよそに、驚くべき馬頭の、邪悪なるシャンタク鳥は一直線に天空へ飛翔する。しかしヴィエは向きを変えることも、その背から飛び降りることとて出来なかった。想像もつかぬ忌まわしき力によって脱出の行動が封じられているのだ。

 やがて穹窿をつきぬけて星の大海が眼前に広がったとき、それでも自身が無事であることを知った。忌まわしき力は宇宙空間を生身で生存できるようにもたらしているのだった。

 暗澹たる星雲の彼方へ速度を増すシャンタク鳥――自分が何処へ連れていかれるのかを理解し、ヴィエは思わず悲鳴をあげた。それは夢も届かぬ不浄の窖を目指しており、あえてその名を口にした者とてない痴愚の魔王アザトースが、無限の只中で泡立ち冒涜の言辞を吐きちらす、深奥の混沌のあの最後の無定形の暗影に向かっているのだった。

 いまこそヴィエはマイケル・マクシミリアン神父の正体を知った。それは遅すぎる察知であったが、いかな人間であろうと気づくわけがない。どれだけその存在のことを知悉していようとも、実際に感知することなど不可能なのだ。

 すなわち時を超越した想像も及ばぬ無明の房室で、下劣な太鼓のくぐもった狂おしき連打と、呪われたフルートのかぼそき単調な音色の只中、餓えて齧りつづけるは、あえてその名を口にした者とておらぬ、果てしない魔王アザトースにして、忌むべき太鼓とフルートの響きにあわせ、ゆるゆるとぶざまに呆けて舞うは巨大なる窮極の神々、盲唖の鬱々たる暗愚の蕃神たちであり、その魂魄にして使者なるは、――這い寄る混沌ナイアルラトホテップなれば。

 そう、ヴィエは「無貌の神」の掌中に落ちたのだ。

「い……いや……嫌だ……いやだ、やだやだ、いやだああぁぁぁっ!」

 一瞬にしてとてつもない恐怖に塗り潰され、ヴィエは死物狂いになって忌まわしい鳥の進路を変えようとするものの、側目だててふくみ笑いをするシャンタク鳥は断固として無慈悲な前進を続け、すさまじい勢いで窮極の縁を突破し、最果の深淵を渡り、星たちと物質の世界をあとにして、茫々渺々たる虚無を彗星のごとく飛びすさり、宇宙の真の造物主たる白痴の魔王アザトースの玉座へ、時間を超越した想像を絶する無明の房室へと向かっていた。

 いまや正気と狂気の狭間でひたすら絶叫を繰り返し、わめきたてる少女の耳に、この状況に不釣合いなメロディーが聴こえた。

 幾分か正気の度合いを取り戻したヴィエは、それが何であるかを知った。

 まさか――スマートフォンの着信音が流れるなど。

 服の内側に手をやって気づいた。レン高原産の縞瑪瑙の欠片。これがヴィエの想いに反応して時空の彼方での受信を可能としたのだ。


 リアは少し苛立ちながら通話を待っていた。二時間を過ぎたのに一向に待ち合わせ場所に現れず、いざ電話をかけてみたらまったく繋がらないのだから。

 これで何度目になるだろうか、いい加減うんざりしてきたとき、電波が繋がった。

「ちょっとヴィエ? いまいったいどこに……」

「リアさん!? 助けて! 助けてリアさん!」

 言いかけた文句は切羽詰まった恐怖の金切り声にかき消された。

「え、ちょ、どうしたの、ヴィエ?」

 リアは混乱した。ヴィエがここまで神経の張り詰めた、おびえた震え声を発するなど、今の今まで耳にしたことがなかったからだ。

「リアさん、怖いよ――恐ろしいよ――こんなの、こんなの」

 一転してしゃくりあげる子供そのものの泣き声が耳に届き、リアは興奮して送話口へ質問を浴びせかけるが、返ってくるのは怖気立った囁き声ばかりだった。

「言っても理解できないよ、わたしだって思考が及ばないんだから。まさかこんなことになるなんて――」

「ヴィエ、しっかりして! いまどこにいるか教えて、すぐにいくから!」

「……無理だよ。もうどうしようもないの。どうにもならないの」

「ふざけないでよ! そんな――」

 妙に狼狽した調子の弱々しい返事に、リアは激しい憤りを感じ、電話越しでしかやり取りできないもどかしさに下唇を噛んだ。

「最後にリアさんと話せてよかった。さようなら、リアさん――友達だって言ってくれてうれしかったよ」

 震えあがっているに違いないヴィエの、諦めきったように落ち着いた囁き声がそう告げたとき、一拍置いて悲鳴となりかわり、恐怖に満ちた絶望感のこもったかすれ声が漏れた。

「聴こえる――外なる神の従者が吹く忌まわしきフルートの音色が――見える――無限の中核に棲む宇宙のあらゆる混沌の窮極的な暗影が――わたしを誘う三つに分かれた燃え上がる眼……ああ……」

 それを最後に、あとは沈黙が続くばかりだった。

 リアは茫然としてその場にへたり込んだ。時間を忘れるほどに、送話口にむかってどれだけ呼びかけようとも、返事はなかった。

 それでも必死に何度も呼びかけを繰り返し続けていると、永遠とも思える時間――実際には数刻程度なのだろうが――が経過してから、信じられないことに、受話器から声らしきものが聞こえたのだ。

「ヴィエ――ヴィエなの!?」

 一心に耳をこらし、叫ぶように呼びかけ、受話口に全神経を集中させる。

 そして、その返事を耳にしたとき、リアは意識を失った。

 闇の底から響くような、何オクターブもある、低くて太い、この世のものならぬ非人間的な、暗黒そのものが形になったような声が、ただ一言、こう告げたのである。

「莫迦め、フヴィエズダは死んだわ」


 あれから数週間が過ぎ、リアは自身の存在がこの世界に定着化し、元の世界へ帰れなくなった事実を感じた。

 ヴィエが戻ってくることはついぞなかった。

 電話越しに交わした最後の会話は、リアの胸にいつまでも去来しつづけることだろう。

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