第9話 満ちた月

 羽丘隆志はかれこれ半月以上、中国の上海にいた。

 いま高級ホテルの一室で彼と会話しているのは、四十前後ほどだろうか、オールバックの灰色の髪に、恐ろしく顔色の悪い、しかし眼光の鋭さたるや只者ではない片眼鏡の男と、十代前半の見目麗しき金髪碧眼たる美少年だ。同士ではあるようだが、和気藹々とした空気にあらぬ様子なのは容易にみてとれた。

 美少年――アルカへストが、嘲るような調子でねめつけてくる。少なくとも隆志に対して一片の好意をも含んでいないのは確かだ。

「経過は順調なのかい? あれを顕現させることに繋がる事を証明できるというから、きみに預けるのを許可したんだ。けれどそう長くは待てないのはわかっているだろうね。今月中に結果を出せなかったら直ちに返還してもらうよ」

「順調、とまでは言いかねますが、あと一押しのところで足踏みしているという状況ですね。僕としてもここが正念場ですから全力を尽くすまでです」

 あくまで柔和な表情を崩さず、穏やかに答える青年神父。再び挑発的な態度をとりかけた少年を手で制し、モノクルの男が、淡々と鋭利な視線を投げかけてきた。

「別に君を非難しているわけではない。我らの大願のため、重要なものをいつまでも預けておく猶予がないことは理解しているとは思うが」

「ええ、必ず証明してみせます。暗黒のファラオ、ネフレン=カの神官の末裔たるマグヌス・オプスよ」

「期待しておこう。海底郡・夜刀浦の血に連なる者、隆志よ」


 会話を終えた後、隆志はひとり市街をぶらついていた。

 その顔に余裕の色は見受けられず、さしもの彼も焦りを覚えているらしい。

「あと一歩。されどその一歩が遠い……ままならないものですね」

 人々の喧騒の中でぽつりと呟く。

 今年の夏にセラエノの大図書館で得た知識は非常に有益なもので、時間を作っては没頭していたあることへの理解力が大幅に向上したことにより、帰還してからは解析作業が格段に進展した。しかしそれでも全容を掴むには至らず、足踏み状態が続いているのだ。

 さらに先日入手したものの所持期限はこの十二月一杯。あと半月と少ししかない。焦燥の念を抑えるように、人差し指で眼鏡をくいと押し上げているところへ、ふいに声がかけられた。眼を向けると、黒い扇を目の前にかざした中国人女性が彼を凝視していた。長身の、スリムで美しい容姿の持ち主だ。

「お悩みのご様子ですわね、東洋の若き神父さん」

「僕に何か?」

「悩める子羊を導くのは神父の務め。なれば、悩める神父を導くは――」

 すっと、扇が閉じられた。

 瞬間――美女の姿は、どことなく太った人間の女に似ている『何か』に変貌した。

 腕と鼻に当たる部分に触手がついている。 弓のような形をした五つの口があり、そこから牙が束になって突き出している。 黄色と黒の上質の絹のような材質の長衣を纏い、ベルトに六本の鎌をぶら下げた、体重三〇〇キログラム、身長二メートルある生き物。

「――『神』の務め」

 それは刹那の瞬間だった。

 隆志の五感を、第六感を、人としてのすべての感覚を、亜光速の粒子が駆け巡った。


 Man must be prepared to accept notion of the cosmos,

 and of his own place in the seething vortex time,

 whose merest mention is paralyzing.


 白昼夢だったのだろうか。女の姿は何処にもなかった。

 だが、見るがいい、街路に佇む青年神父の、叡智に研ぎ澄まされたような表情を。

 その口もとには啓示を受けた者の歓喜がみなぎっていた。


 日本に帰国してから一週間。トラペゾ教会の地下にあるミニガーデンのさらに地下。誰も存在を知らぬその一室で、隆志は不敵に微笑を湛えていた。未知のテクノロジーで設置されたカプセルの中には、太古の装飾に身を包んだ人間の男が眠っている。この教会を継いだときに偶然にも発見したものだった。

 隆志の両手に淡いゆらめきが生じ、眼前のカプセルが開かれる。セラエノ大図書館で得た知識を完全なまでの理力で知覚した祝詞を口ずさむと、淡いゆらめきはカプセルの中の眠れる男へ漂っていった。吸い込まれるというよりは、覆いつくすといったほうが正しい。

 そして何が起こったか。カプセルの中に霧状の白いスモークが充満し始めた。

 待つこと二分弱。煙が収まると、隆志は眼前の人影を捉え、最高の充足感に満たされた。腰を二つ折りにして、今まさに目覚めたばかりの人物へと恭しく優雅に一礼する。カプセルから上体を起こしたのは、栗色の髪と、闇の昏さを湛えた濃紺の瞳をした、十歳前後の、全裸の少女だった。


「なんで私があんたと一緒に隆志の晩餐なんかに行かなきゃいけないのよ」

「招待されたのはわたしとサイモンくんだけなんだけど、残念なことにサイモンくんは、大晦日前後に休みを貰うためバイト先の店長に直談判を申し込みに行ってて、深夜までかかるかもしれないみたいだから……それでリアさんを誘ってあげたんだよ?」

「あー、冬コミかあ。サイモンさんらしいわね」

「わたしは行ったことないけど、リアさんは行くの?」

「私は同人誌には興味ないし。ああ、でも、あんたと隆志に囲まれて食事するくらいなら人ごみに揉まれたほうがまだましかしら……はぁ」

「愚痴を吐きながらも付き合ってくれるリアさんの人の良さに感謝♪」

「うるさいうるさいっ」

 ちょくちょく付き合わされたり巻き込まれたりする身にもなってほしいが、それでも何故か拒絶しきれない自身の不器用さに内心溜息をつくリアだった。隣町の無人聖堂まで救助へ向かったときに眼にした、ヴィエのぼろぼろの姿が強く印象に残っているのかもしれない。


「ようこそヴィエちゃん……と、リアちゃん?」

 教会に入ると、出迎えた隆志が怪訝な声で自分の名前を呼ぶのが聞こえ、リアは手短に事情を説明した。

「というわけでサイモンさんが来れないみたいだから、私がかわりに来たのよ」

「それは、困りましたね」

 線目になり指先で頬をこする隆志に思わずクエスチョンマークを浮かべる。

 教会堂の中ほどまで歩を進めたとき、突如として、ふたりは透明な球体状のフィールドに包まれた。発生する気配も前兆もなく、完膚なきまでに唐突にして一瞬だった。

「これは……――まさか、銀虹珠!?」

 記憶の片隅にあった知識が呼び起こされ、ヴィエが驚愕の相を見せる。

 銀虹珠。それは対象をその時空から消し去り、存在そのものを幾重にも分割して数多の平行世界へ消し飛ばすという失われた術。遥か太古、神代に創られたとされる伝説の禁呪である。

 何が起こったのかわからず呆気に取られるリアを尻目に、ヴィエは舌打ちして隆志を見やった。

「人の手には決して扱いきれない筈なのに、どうやって発動させたの? ううん、その前に、タカくんは如何にしてその起動法を知ったの? 仮にセラエノの大図書館でそれが記された碑文があったとしても、解析するには長い年月が……」

「僕はほんの刹那ですが、『膨れ女』と出逢ったのですよ」

「! もしかして、中国で――」

 さらなる驚愕と戦慄に声を震わせるヴィエ。

 なんということだ。『膨れ女』とは、ナイアーラトテップの顕現の一つではないか!

「下劣でくぐもった音を出す太鼓の狂おしい連打と、呪われたフルートの奏でるか細くも単調な音色が耳に届いたとき……僕はひとつの答えを得た」

 眼鏡の奥でうっすらと細まる鳶色の瞳と、どこか薄ら寒い冷笑。それは間違いなく羽丘隆志のものであり、リアは十年前のあの日を思い出して声も出せないでいた。

「紹介しましょう。知り合ったのは最近ですけれど――僕のパートナーです」

 すっと一礼した隆志の後ろから、一人の少女が現れる。

 茫然としていたリアが思わず目をパチクリとさせ、ヴィエは面白半分に眉をひそめた。

 少女はヴィエに視線を向けて爽やかにほほえんだ。

「初めましてヴィエお姉ちゃん。わたしはあなたの妹、ミエシーツ・ウビジュラです。ミィエって呼んで下さいね」

 ミエシーツはチェコ語で月を意味する。少女の顔も、髪と目の色も、背格好さえも殆どヴィエと変わらない。髪型と服装が少し違う程度だ。

 その自己紹介に驚いたのはリアである。以前サイモンから、ヴィエの母親は彼女が幼い時に二人目の子を宿して流産し、その心労がたたって死んだと聞いたことがあった。だとするなら、目の前の少女は?

 だがヴィエは困惑する様子もなかった。

「成程ね。あなたは生まれる事ができなかったお母さんの二子が、何らかの形で概念として意思を持ったものかしら? そして何がしかであなたを発見したタカくんが、わたしの容姿をベースにして形を整え、仕上げにホムンクルスあたりを器として用意し、血肉を備えた人間として受肉させたってとこかな」

「さすがお姉ちゃん。付け加えておくと、わたしは二年前のお姉ちゃんをベースにしているから、性格ひねくれてない純粋な爽やかさんなのです」

 確かに、ミィエの表情や態度には厭らしさや毒気というものが感じられない。純粋ゆえのものか、あるいは姉に対してのものだからか、毒がないかわりに遠慮もない。

 そんな姉妹の邂逅に割って入ったのはリアだった。

「ちょ、ちょっとまって、話が見えないんだけど? なにこれ、何がどうなってるのよ」

「リアさん、簡単に言うと、わたしたちはこの世界から消滅させられようとしてるの。わたしと彼女……ミィエは、この世界に長いこと同時に存在することはできないから」

 ヴィエの説明を肯定するようにミィエが頷く。

「そういうこと。存在的にはわたしとお姉ちゃんは同じものだから、そのうちどちらかは消えることになる。だから……お姉ちゃんにこの世界から消えてもらうね。あ、リアさんには関係ないんだけど、とんだとばっちりだと思って、諦めて一緒に消えてください」

「ええーーーーっ!?」

 さっぱりと言われ、さすがに素っ頓狂な大声を出してしまうリアである。そこへ隆志が待ったをかけた。

「リアちゃんは見逃してあげます」

「えっ?」

「ヴィエちゃんひとりだと寂しいだろうから、せめて恋人と一緒にと思ったんですけど、リアちゃんが来るのは予想外でした。そういうわけで、リアちゃんは見逃してあげますので、そこから離れてください」

「い、いきなりそう言われたって……」

 動揺の眼差しが周囲をさまよう。隆志は本心から言っているのだろう、こういうとき彼が嘘をついたことは一度もない。その傍らに寄り添うように立つミィエは無反応だ。もともと彼女とリアの間に何の因縁もない以上、隆志の決めたことに反対する気はないのだろう。

 戸惑い迷う双眸の行く先は、すぐそばの少女へと辿り着いた。

「だ、駄目だよリアさん! リアさんがわたしを見捨てるなんて絶対ダメ!」

「ヴィエ……?」

「ほかの誰を見捨ててもいいけど、わたしだけは助けて!」

 こぶしを震わせ、ヴィエは正面切ってそう言ってのけた。なんという自己中心的な、利己のみを最大限に追及した発言であろうか。

 たちまちリアの顔から迷いが消え、その瞳はみるみる据わっていく。

「ごめん、私にはヴィエを見捨てることはできない」

 隆志のほうを向き直り、はっきりと返事した。傍らでヴィエが息を呑んだ。

「これは意外ですね。なぜですか?」

 心底意外だったのか、眉を寄せて小首をかしげる隆志。

「なぜって……」

 リアは少し、考える仕草をした。もしヴィエが自分の心の隙間に訴えかけるようなことを言ったなら、きっと答えは違ったものになっていただろう。賢しいことをしてきても同じだ。しかし彼女は、打算無くストレートに気持ちを伝えてきた。だったら自分も応えねばならない。

 理由付けはいくらでもできるが、ふっと心に湧いた言葉を口に出すことにした。

「友達――だからかな」

「リアさん!」

 湧き上がる感動を歓喜に弾んだ声に乗せ、ヴィエはリアに抱きついた。

 ひどく残念そうな顔つきで、しかし納得いったように苦笑の吐息を漏らす隆志。

「では、やむをえませんね。リアちゃんを巻き込むのは不本意ですが、ミィエの希望を叶えないわけにはいきません」

 目配せされ、ミィエはさわやかに頷いてみせた。二人の全身から魔力が溢れ出す。

「まって! 不本意とか言いながら決意は固いくせに、なんで私を助けようとしたのよ」

「家族だからですよ」

 魔力を収束させながら答える隆志の顔は生真面目このうえない。

「どんな状況でも肉親を庇い、想うのが家族というものでしょう? そう――たとえ僕に羽丘家の血が流れていなくとも」

「え――」

 最後の言葉に、リアは耳を疑った。

 唖然とした彼女が何か口にするより早く、術式を完成させたミィエと隆志の声が重なる。

「アフォーゴモンの鎖よ、ウムル・アト・タウィルの門よ、虹色の球体を通して我が力となれ――銀虹珠!」

 時空が歪み、透明球体が縮小し、ヴィエとリアの全身が数え切れないほどの残像軌跡を描く。存在が分割されているのだ。

 そして閃光と共に時空の縮小に飲み込まれ、二人の少女はこの世界から完全に消え去った――

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