第8話 プライオリティ・ワン

 優しかった母。

 出産のときが近づくほどに、うれしさの度合いは増していった。

 わたしも、妹ができるということによろこびを感じていた。

「名前も決めてあるのよ」

「なんていう名前?」

「ミエシーツ」

「わあ、わたしとおそろいだね」

 ミエシーツはチェコ語で月を意味する。フヴィエズダは星だ。

 星と月。姉妹で奏鳴曲を響かせたら、さぞかしすてきかもしれない。

 母のお腹に耳を澄まし、命の鼓動を感じながら、温かく心地よい手に頭を撫でられる。

 数年前の、色褪せた記憶。

 もし子供が無事に生まれて、母も健在であったなら、わたしの今は違っていただろうか。

 そう思うことがたまにある。


 まさかという驚きと、やられたという舌打ち。

 荒らされた自室を再度確認し、ヴィエは矛盾するふたつの感情を同時に表した。ハーケン宅を後にして家に帰ってきてみたら、泥棒に入られた痕跡を目の当たりにすることになってしまった。まさか結界を解除されるとは。

 ヴィエは屋敷全体に力押しでは破ることの難しい複雑怪奇な結界を施してある。それが短時間で解かれるとは、犯人は信じがたい技量の持ち主なのか。そもそも結界が破られた場合は即座にわかるようになっているのだが、それが伝わらなかったのは、考えるにハーケン宅で終始消えなかった奇妙なもやもや感によって遮断されていたのだろう。やられたというほかない。

「すまないヴィエちゃん! 俺に悪漢どもを押さえる力がもう少しあれば……サイモンアルティメットバーストの使用許可さえ承認されていれば、むざむざ賊どもを捕り逃すような真似はなかったというのにっ」

 傍らで悔しそうに妄言を吐くサイモン。彼はずっと専用のゲーム部屋で新作ゲームをヘッドフォン着用で夢中になってプレイしていたため、まったく侵入者に気づかなかった。

 普通ならこのバカとなるところだが、

「うんうん、そうだね。サイモンくんが無事で本当によかったあ……」

 安堵の吐息を漏らして恋人に抱きつくヴィエ。泥棒に入られたと知った彼女が真っ先に心配したのはサイモンの安否であり、ゲーム専用部屋でのんきに新作RPGをプレイしている彼を見つけたときは心底胸をなでおろした。

 念のためサイモンの全身を魔術探査してみたが特に異常は見当たらなかった。屋敷の結界を破るほどの侵入者ということを考慮すると完全に異常なしとは断定できないが、少なくとも生きているのは確かである。それだけで十分だ。

「ヴィエちゃん、とりあえず警察に電話を……」

「だめ」

「えっ? でも泥棒に入られたんだし」

「国家の狗に家の中をまさぐられるなんて絶対いや!」

 そんなことでいいのだろうかと思うサイモンだが、むーっとした顔で怒鳴られては引き下がるしかない。この家の主は彼女だ。

「それにしても被害にあったのがヴィエちゃんの部屋だけなんて不思議だな。俺の部屋なんか全然無事だったのに」

「そりゃサイモンくんの部屋にはオタクグッズしかないし……不思議でも何でもないよ、犯人は盗むものの目星をつけてたわけだから」

 改めて自室の惨状を眺め、はーっ、と溜息を吐くヴィエ。

 無理もない。盗まれたものはすべて魔術関係の代物ばかりだったのだ。

「まいったなあ、これじゃナイトゴーントの調整もできないよ。タカくんはまだ上海から帰ってきてないし、どうしようかな」

 羽丘隆志は半月ほど前に中国へ出かけたきり音沙汰がない。初夏の季節にセラエノへ行って帰ってきた後から留守が頻繁になってきている。大図書館で得た知識を用いて何らかの事物に没頭しているのかもしれない。

「ゴンゲーに物を頼むくらいなら不貞寝したほうがまだマシだし……と、その手があった」

「急に指を鳴らして、どうかしたのかい?」

「うふふっ、折角だからサイモンくんもついてきて――〈夢の国〉へ♪」


 美と神秘の偏在を誇示する静まり返った夕映の都を見渡し、サイモンはぽかんと立ち尽くすばかりだった。以前共に訪れた水の名前を持つ少女とほぼ同じ反応に、くすくすと楽しそうに笑んでみせるヴィエ。

「いつか話したことあるよね。ここがイレク=ヴァド。わたしとサイモンくんが永遠をともに過ごすことになる壮麗きわだかな夕映の都だよ」

 燦然ときらめく日没の通りや古風な瓦屋根のあいだの謎めいた丘の小路を、ヴィエは恋人の手を取って幸せを謳うように軽やかに歩いた。縞大理石の宮殿に足を踏み入れ、先頭のヴィエが恭しく挨拶の言葉を述べた。

「イレク=ヴァドの王は在宅ですか?」

 程なくして、淡々とした顔立ちの、細身の白人紳士が姿を現す。

「おや、これはヴィエ君。覚醒世界の時間で約二ヶ月ぶりかな」

「御身におかれましては御無沙汰いたしております。ご息災にてなによりです」

「どうした、君にそういう言葉遣いをされるとかえって気持ちが悪い。用は何かな?」

「まずはご紹介。こちらはサイモン・コウ、わたしの最愛の恋人です」

 少女の横で萎縮しているサングラスの男に視線を移し、紳士はとても興味深そうに声を弾ませた。

「これはこれは。ヴィエ君に笑顔を取り戻させたのは君か。私はランドルフ・カーターだ、よろしく」

「こ、こちらこそ」

「それでは取り敢えず上がりたまえ。このまえセレファイスでクラネスから良いお茶を貰ってね、ご馳走してあげよう」

「それは楽しみ。ああ、用件だけど、レンのガラスの欠片を含めた魔術品一式を貸してもらいたいの。作業はここでさせてもらうから」

「ほう? それは構わんが、夜鬼の調整用なら消費が少し前倒しではないか?」

「あはは……実はちょっとワケありで」

 後頭部を手でさすり、ヴィエは苦笑してみせた。


 客室の貴やかなテーブル上で曇りガラスを魔術用具で細工する作業を続けて十数分、ヴィエがうんと背筋を伸ばして手を休めた。

「ふー、ちょっと休憩」

 セレファイス謹製のお茶を味わい、テーブルから離れてソファに体を横たえる。

 自然、カーターとサイモンが残される形になる。するうち、前者が関心を寄せて質問等を交え、後者があたふたしながらぽつぽつと答える、傍目にはぎこちない会話が始まった。

「ふむ、成程。ヴィエ君が君に恋情を抱く理由がわかった気がするよ」

「……えっと、カーターさんはヴィエちゃんとはどういった関係なんですか?」

「友人……とは違うな。理解者、あるいは知己の仲、といったところか。あれはもう何年前だったか、用事で魔法の森に赴いたとき、幼少時の彼女と初めて出会った。それから何度か交流して今に至るというわけだ。間違っても男女の仲ではないから安心したまえ」

「あ、いや、その……すみません」

 そういうつもりではなかったのだが、あせあせと頭を下げるサイモン。初対面ということもあるが普段の調子が出ず、どうにも緊張してしまう。

 そんな彼を見据えて、カーターはふっと笑い、ややまじめな口調で言った。

「君は是非そのままでいたまえ。君が彼女のことを好きでいるなら、社会性を得て成長してはいけない。現実の事物の虚ろさと軽薄さは夢見る人において禁忌に他ならず、停滞こそが君たちにとってユートピアの光だ」

 難しいことを言われてもさっぱり理解できなかったが、一応頷くサイモンだった。

 そうこうしているうちにヴィエがテーブルに戻ってきて作業を再開する。

「ところでカーター、こっちで最近なにか変わったことあった?」

「さて、こちらの猫たちと、土星からの猫たちが、月面の一角で久しく大きな一戦を交えて痛みわけに落ち着いたくらいか」

「わ、そうなんだ。あとでウルタールに労いにでも行こうかな……」

「その際は私もご一緒しよう。ああ、そうだ、ちょうど今はハテグ=クラの山頂に大いなるものどもが往来して舞い踊る時期らしい」

「大地の神々かぁ。一度その姿を見てみたい気もするけど、賢人バルザイの末路は辿りたくないし、思いとどめておくに限るわね」

「それに越したことはない」

 カーターにしても大いなるものどもの姿に関しては、ングラネク山に刻まれた顔容を眼にしただけに終わったのだ。それでも、大地の神々の住処である未知なるカダスの居城を訪れることができたただ一人の人間であるカーターを、心から敬愛せずにはおれないヴィエであった。


〈夢の国〉から戻ってきたヴィエは、自宅の洋館を出ると軽く気合を入れた。

「さーて、盗まれたものを取り返すために調査開始といこうかなあ」

「その必要はない」

「え、いきなりどうしたの、サイモンく――」

 恋人が発した抑揚のない声にきょとんとして振り向くと、サイモンの近くに見慣れぬ黒いセダンが停車していた。運転席には帽子を目深にかぶった、前かがみの男がハンドルを握っている。ひと目で食屍鬼だとわかった。

「一緒に来てもらおう。下手な真似をすれば、俺は死ぬ」

 意思の介在せぬ声音で自身を指差すサイモン。

 どうやら侵入者はしっかり彼に術を施していたようだ。ヴィエの魔術探査に反応しなかったのは、家の外に出たら発動するタイプのものだったからだろう。ハーケン宅での一件も魔術実験の失敗によるものではなく、第三者の干渉の結果だということが明確になった。

「こんな形でサイモンくんとドライブしたくはなかったなあ……」

 ここで何かアクションを起こそうとしたら間違いなくサイモンは即死する。おとなしく従うほかはなく、ヴィエは観念して首肯した。


 隣町の廃墟に建てられた大きな聖堂。結界が張られているため一般人が近づくことはない。禍々しくも荘厳な堂内では、ヴィエの左右に食屍鬼が縦に整列し、正面の祭壇脇にはサイモンが微動だにせず突っ立っている。そして祭壇前に、深紅の着物を纏った美女が悠然と立っていた。

「わたしをこんなとこに連れてきてどうするつもり? 恋人の前で食屍鬼たちに陵辱させようってことなら、趣味が悪いとしか言いようがないけど」

「あら、私がそんな野蛮なことを仕向けるような女に見られるとは心外ね。フヴィエズダ・ウビジュラ――チェコ第五の魔道士さん?」

「……ええと、あなた名前は何て言ったっけ?」

「私は錫。新参者だけど、『星の智慧派』の末席に身を連ねる者よ」

 星の智慧派。

 それは、一八四三年にエジプトでネフレン=カの墓所を発掘調査したイノック・ボウアン教授が、その翌年にプロヴィデンスのフェデラル・ヒルの丘に建つ自由意志派の教会を本拠地として設立した新興宗派である。

 ボウアンが持ち帰ったという『輝くトラペゾへドロン』を信仰の基盤におき、ナイアーラトテップを主神として、「旧支配者」および〈外なる神〉を崇拝した。一八六三年には信者が二〇〇名以上に達する大きな宗派となったが、その十数年後、当局の摘発により解散に追い込まれ、多くの信者が街を離れた。

 そうして一時は滅び去ったかに見えた星の智慧派だが、実際には多くの信者が各地に潜伏しており、一八九〇年代にはジェームズ・モリアーティ教授の協力でイギリスのヨークシャーに教会が設立されており、アメリカ国内では一九七〇年代にカリフォルニア州ロサンゼルスの南ノルマンディーにおいて、ナイ神父と呼ばれる謎めいた黒人神父が教団を再建するに至った。

 ナイ神父に率いられ復活を果たした星の智慧派は、一九八〇年代にはインスマスのダゴン秘密教団とも協力関係を結び、驚くべき勢いで世界の陰にその勢力を伸ばし暗躍している。

 現在ではナイ神父の後継者が模索されていて、幹部の一人であるマグヌス・オプスという魔道士が有力候補のひとつとして挙がっているらしい。

「わたし、星の智慧派に目を付けられるようなことしてないんだけどなあ」

「あなたに用があるのは私個人の趣によるものよ、フヴィエズダ」

「じゃあハーケンの家から『銀の鍵』を持ち去ったのはただの嫌がらせ?」

「あら? あなたが探していたものってあれだったのね。残念だけどもう私の手元にはないわよ。仲間にあれを欲しがっている男がいてね、その人に渡したわ」

 意外なところで銀の鍵の手がかりを聞くこととなり、暫し口を閉ざすヴィエ。

「ふふふ、考え込んでいるところ悪いんだけど、そんなことを気にする必要はなくなるわよ。何故なら、あなたは今宵この夜、私の忠実な愛玩人形になるんだから」

 ねっとりとした眼を少女へと注ぎ、錫と名乗る女は、厭らしく舌なめずりをした。

「愛玩人形ねえ。わたしを食屍鬼にして意のままに操ろうってことでしょ?」

「そんな勿体無いことはしないわ。あなたはショゴスになるの、光栄に思いなさい」

 ヴィエは眼をぱちくりとさせた。

「人がショゴスを使役しようなんて、おこがましいとは思わない? 人類より遥かに高度な文明を築いた「古のもの」でさえ手を余すに至り、絶滅寸前にまで追いやられる要因の一つになったのに」

「人間は無力なだけの存在ではないわ。人を異形化させオリジナルに近いものを使役できる魔術は、私の力量をもって見事な成果をあげているもの」

「確かに人間は無力じゃないけど、無力でもあるのよ」

「ふふ、つまらない議論をする気はないわ。私はあなたを思い通りにして弄びたいだけよ」

「ふうん……」

 嫌な笑みを浮かべる美女を、ヴィエは意味ありげな視線でじっとりと見つめ返した。

 そして、言った。

「苦労してるね、わざわざ女性の姿になってまで世間から自分を隠すなんて。――そんなに悔しかったの? オタッツ」

 オタッツはチェコ語で「父」を意味する。

 一瞬、小さく唇をすぼませ、錫という名の女は高く哄笑した。図星だと認める風に。

「優れた魔道士のはずのハーケンがあっさりとあんな有様になったのは、久しぶりに訪ねてきた友人に魔術実験を持ちかけられ隙を見せたから。そしてわたしの屋敷の結界が短時間で解除されたのは、相手がその基礎を教えた本人だと考えれば合致がいくしね」

「ふふふ……流石は我が娘。そうだ、私はロンダルキアだ」

 女がパチンと指を鳴らす。一瞬で、優美な鬚を生やした中年の紳士へと変貌した。

 錫の正体は、ヴィエの父ロンダルキア・ウビジュラであった。

「星の智慧派は世俗から私を隠蔽するいい潜伏先であると同時に、様々な知識と介入力をも得ることのできるところであったよ。そして、私の復讐は今こそ果たされる」

「わたしへの逆恨み? そんなことで……」

「そんなことだと!? エルダーサインを体内に融合化させる秘術を完成させるのに二十年もかかったのだぞ! それを……お前が……私ではなくお前が! 何故だ!」

 激昂する父を冷めた眼差しで眺め、ヴィエはひどく呆れた。

 これが聡明で立派だった父か。尊敬していた父なのか。二十年かけて完成させた成果が自分のものにならなかったのが、それが娘のものになったことが、ここまで成り果ててしまうほどにショックだったのだろうか。いや、そうなのだろう。自分だって性格がひねくれてしまったではないか。

 ヴィエはどっと重い息を吐いた。それが心情の全てを表しているかのようだった。

「しょうがないでしょ? 選ばれたのはわたしだったんだから。お父さんには天運がなかったのよ」

 天運。そう、天運だ。〈旧神〉に願いが聞き届けられ、加護が降りたのなら、それを受けられなかった父は、まさしく天運がなかったとしか言えないのだ。

 ロンダルキアは暫し沈黙していたが、やがて昂揚を落ち着かせると手で何かを指図した。命令に従うように、左右に整列していた食屍鬼どもが全員、聖堂から出て行った。

「父の優しさだよ。初めては恋人に捧げさせてあげよう」

 ロンダルキアが指を鳴らすと、祭壇脇で棒立ちになっていたサイモンがゆっくりとヴィエのほうへと動き出す。

「呆れるほどの優しさだね」

 そうくることは予想済みだ。ヴィエはやや緊張を交えながらも、サイモンが近づいてくるのをじっと待った。タイミングを見計らうかのように。術をかけた相手が近くにいることは、逆に即死発動を阻害することも可能ということだ。

 サイモンが目の前まで来た。集中して魔力を発動させた。術の解除を試みる。

「!?」

 愕然とした。まさか、解除できない?

 ロンダルキアが冷笑を浮かべる。

「私も見くびられたものだな。かの『ナコト写本』に記されていた人心操舵の術だぞ、解除できるわけがなかろう。ウビジュラ家の栄光はやはり私にこそ相応しい」

 見くびっていた。精神的に堕落したとはいえ、父が優秀な魔道士であることにはいささかも変わりないのだ。純粋な実力だけでいえば彼のほうが上だ。

 サイモンに強く腕を掴まれ、ヴィエは思わず声をあげて痛みに顔をしかめた。

「サイモンくん、駄目だよこんな……きゃっ」

 頬を張られ、その場に倒れ付す。眉一つ動かさず、一言も発さずに覆いかぶさり組み伏せてくるサイモン。声を荒げ、手と足をばたつかせてヴィエは必死に抵抗した。普段の冷静さは微塵も感じられない。

「やめて……だめだってば。わたしはサイモンくんが望むなら喜んでそうしてあげるけど、でも、これはちがうよ。こんなのは――ぅあっ!」

 頭を押さえられ、後頭部を床に打ちつけられ、衝撃に一瞬目眩がした。抵抗する意思と力が急速に抜けていく。術により筋力も増強されているのか、服が薄紙のように引き裂かれ、純白のキャミソールがあらわになる。さらに破られた黒タイツからは上の下着と同色の淡いショーツが覗いた。

 淡々と眺めるロンダルキアは、暗く冷たい笑みを口もとに張りつかせているだけだ。その瞳には感慨の炎が揺らめいている。

「前戯も愛撫も要らん。一気に貫け」

 その命令どおりに、サイモンは屹立したものを、ずらしたショーツの隙間へ無造作にあてがい、まったく濡れていない幼き秘泉へと無慈悲に挿入した。

 一拍置いて、甲高い悲鳴があがった。


 事を終え無表情に立ち上がる青年と、茫然と横たわる少女。

 一部始終を観賞したロンダルキアが狂ったような形相で、それまで抑えていた歓喜の高笑いを発する。

「ははははは! 素晴らしい! 最高だ! 実に甘露だ! よし、良いものを見せてくれた褒美に、お前をショゴスにしたら最初にその男を食い殺させてやろう。ははははは! うむ、いいな、それは見物だ!」

 そんな父の言葉も耳に入らず、ヴィエはうっすらと上体を起こして恋人を見上げた。

 ダークブルーの瞳からとめどない涙が溢れた。

「ごめんね」

 ひっそりと漏れたのはその一言だった。

「ごめんね、サイモンくん……サイモンくん純愛が好きなのに……それなのにこんなことになっちゃって……ほんとうに、ごめんなさい」

 しゃくりをあげてぼろぼろ泣き出す。最愛の人を想うゆえの悲しみの涙だ。

 意図を伴わない純粋なるそれがどう作用したか、

「……許せねぇ」

「――え?」

「なに!?」

 ヴィエとロンダルキアが信じがたいふうに眼を見開いた。確固たる重みを湛えた呟きと同時に、全身をぶるぶると震わせるサイモン。

「女の子を、ヴィエちゃんを泣かせるなんて、てめぇ許せねぇー! 出て行け、俺の体から出て行けだぜー!」

 がすがすと自分で自分の顔を殴り始める。あまりの怒りにサイモンの自我が目覚めたのだ。

 これだけ憤怒したサイモンを見るのは初めてである。しかし、その怒りが自分のために発せられたのだと思うと、胸の奥から嬉しさがこみあげてくるヴィエだった。

「馬鹿な……私の術は完璧だ。それが何故?」

 うろたえる父を尻目に、ヴィエは思い出していた。サイモンとの出逢いを。

 初めて会ったとき、彼は驚異的な妄想力で、彼女の幻術すら自分に都合よく変化させたのではなかったか?

 だとするなら、寸止めではなくしっかり事が終わった後で助けが入るという、陵辱系アダルトアニメでは理想的な展開に倣ったようなこの事態も、サイモンの嗜好に反するとはいえある意味彼らしい都合の良さといえるのではないだろうか。

「ええい、なめるな若造!」

 ロンダルキアが魔力を強めると、瞬く間にサイモンの反乱は治まり、もとの操り人形に戻った。

「ふふふ……所詮は無駄なあがきだったな」

「そうでもないよ」

 よろよろと立ち上がるヴィエ。太ももから一筋の血が伝い落ちた。破瓜の痛みを堪え、サイモンに向けて魔力を集中させる。次の瞬間、これも瞬く間に、サイモンが意識を失い、ぐらりとふらついた。彼にかけられていた『ナコト写本』の術が解除されたのだ。

「なんだと!」

「どんなに強力で完璧な術でも、一度でも綻びができたら脆いもの……お父さんが教えてくれたことだよ?」

 恋人を優しく床に横たえ、ヴィエはぞっとするような微笑を父へ向けた。

 ボロボロになった衣服から覗く瑞々しい素肌。その腹部に、アーチ状の門が現れるや左右に開き、門の中の暗澹たる星空がきらめくと、たちまち周囲が『夢』に浸食されていく。

 それこそはエルダーサイン融合化の成功時に誕生した副産物、夢の門。

「さあて、お父さんは幻夢境の何処でどんな末路を迎えたい? ナスの谷で恐るべきドールの餌食となるか、地底世界でガグどもに八つ裂きにされるか……」

「くっ、ショゴスよ!」

 これはまずいとばかりに、ロンダルキアは使役するショゴスを呼んだ。

 しかし、数十秒が経過しても何も起こらなかった。

「よかった、ちゃんと助けに来てくれたみたい」

「――まさか!」

 どこかホッとしたような喜びの表情を浮かべるヴィエに、ロンダルキアは事態を察した。

 ちょうどいまこのとき、聖堂の外では、リアと権化が食屍鬼どもやショゴスを相手に奮闘しているのだった。ヴィエが密かに召喚したナイトゴーントが、親子水入らずで夕食をとっていた羽丘家を訪れ、主人の危機と居場所を伝えたのだ。権化は無視したが、リアは、助けを求めてきた以上は放ってはおけないと複雑な心境ながらもヴィエを救出しに向かった。たどり着いた聖堂の敷地内で食屍鬼どもを相手に善戦していたが、敵の侵入に刺激されたショゴスが現れ攻勢が逆転したとき、愛娘の跡をついてきていた権化がやれやれという感じに参戦したのだった。

 調整用の魔術用具を盗んだ以上、すぐには夜鬼を召喚することはできないだろうと踏んでいたロンダルキアの目論見は、もろくも崩れ去ったことになる。

「あのね、いま幻夢境ではハテグ=クラの山頂に大地の神々が往来しているみたいなの」

 にっこりとほほえむヴィエ。意図を理解した父は蒼白となった。

「まっ、待て! 私が悪かった! やり直そう、以前のように!」

 恥も外聞もなく、みっともない顔で許しを請うロンダルキア。

 哀れなまでの醜態をさらす父を見据え、娘はふるふると首を左右に振った。

「一年と十ヶ月くらい遅かったかな? いまのわたしの一番はサイモンくんなの。これから先もずっと」

 さようなら、お父さん。

「賢人バルザイの末路を辿らせてあげる」

 一瞬で、長身の紳士の姿は夢の門に吸い込まれて消えた。


 気がつくと、ロンダルキアは、何処とも知れぬ崖の頂に立っていた。

 きわめて薄い霧の彼方に複数の人影が見える。それは、翳った月光の下、夜闇のなかで舞い踊る大いなるものどもが戯れる姿。そうと認識するや、ロンダルキアはつぶさに恐れおののいた。

「ち、違う、これは違うんだ……私は何も見ていない、見に来てなどいない!」

 彼が恐れるものは大地の神々ではなく――

 ふいに、上空に気配が燈った。幾つもの、名状しがたい真なる窮極の恐怖。

 苦悩に苛まれた終生の恐怖と苦悶を、凄まじくも一瞬に集約して響かせる悲鳴が迸った。

 かの賢人バルザイの最期の言葉をここに残そう。

『蕃神だ。蕃神どもだ。弱々しい大地の神々を護る外なる神々だ……目を向けるな……引き返すのだ……見るな……見てはならんぞ……これこそ無限の深淵だ……わしは空に落ちていく』


 夜も更けたゴシック様式の洋館の寝室で、ヴィエは潤んだ眼差しを恋人に向けた。

「い、いいのかい、ヴィエちゃん……あんなことがあった後なのに。それに、俺は……」

「うん。サイモンくん自身でわたしを愛してほしいの。だいじょうぶ、サイモンくんは気にすることなんかないよ? ううん、むしろその気持ちを包んでほしい」

「……わかった。そ、その、俺の意思でするのは初めてだから、うまくできないかもしれないけど……」

「もうー、それ男の人が言うせりふじゃないよー」

 半年近く前の蛇女事件のときと、今回の一件。確かにサイモンが自分の意思で性行為に挑むのはいまが初めてなのだが、だからといってもう少し女心を考慮してほしいと思う。

 それでも心音の高まりを感じ、ヴィエはベッドの上ではにかんだ。

 そんな少女にたまらなく愛おしさをおぼえ、サイモンは横たわる可憐な肢体へ近づく。

 肩に触れると、ひっと小さな声が漏れて体を震わせたため、思わず手を離す。

 ヴィエは眉を下げて苦笑してみせた。

「ご、ごめんね。まだ感覚が消えてなくて……えっと、できれば、優しくしてもらいたいかな?」

 いじらしい仕草に、サイモンはひとつ頷くと、ぎこちない口づけで応えた。

 それだけでふるえはなくなった。

 やがておずおずとふたつの影が重なり、あたたかい吐息が絡まっていく。

 衣擦れの音がして、明かりが消えた。

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