第5話 水のまどろみ

「普段はテレビや映画の観賞、書物の拝読などを嗜んでおります」

「まあ、どのようなものをお読みになられているのですか。文学的なものや詩集とか?」

「そうですね、太宰治とか川端康成などを……ああ、連れを探しておりますので僕はこのあたりで」

 嘘八百を並べ立て、ぎこちなく頭を下げたサイモンは、そそくさと席を立つと会話の華やかなその場を後にした。白の高級なスーツでかろうじて僅かな品を出しているサイモン・コウは、内心冷や汗たらたらで紳士淑女の集う会場内を足早に歩いていた。

「うう、財界の人間が集まるパーティなんて俺には向いてないよ……ヴィエちゃん何処にいるんだー」

 きらびやかな盛装を纏った、いかにも上流階級といった面々が、広く豪奢な会場内の各所でおのおの自由に雑談、食事、カードゲーム等を楽しむ只中を、およそ似つかわしくないこと甚だしい庶民全開の自分を実感しながら恋人の少女を探すのだが、なにしろ人が多いため見つけることができない状態だ。

 そのときヴィエは、黒のサテンドレスという盛装で、会場の一角にある席にて年代物のワインを片手に、ひとまわりふたまわりも歳の離れた数名の男女と談議に興じていた。

「それにしましてもミス・フヴィエズダにおかれましては、この一年余りの業績著しく、心から祝辞申し上げます」

「いえ、これもたまたま先見の明に恵まれていただけです。諸方から格別のご援助を賜らなければ今の安泰はありえませんもの」

「ご謙遜を。ロンダルキア殿が失踪なさって傷心さもあらぬところ、そのお歳でこの短期間にて持ち直すばかりかさらなる好調、まさに感心の極み」

「お褒めに預かり光栄です。若輩者ゆえ何卒お手柔らかにお願い致しますね」

 そうして社交界の夜は過ぎていった。


「ヴィエちゃん、新聞ここに置いとくよ」

「んー」

「それにしても一昨日の夜会は緊張で胸が飛び出しそうだったよ」

「ふーん。サイモンくんはほんと小心者なんだから」

 適当に返事するヴィエは、細い丸眼鏡をかけて何がしかの作業に没頭していた。眼前に浮かぶ1/8スケールの漆黒の怪物らしきホログラフィを眼鏡越しに凝視しては、ぶつぶつ言いながら手元の羊皮紙に難解な方程式を書き込んでいく。

「ところで、さっきから何やってるんだい」

「ナイトゴーントの調整。わたしが使役するナイトゴーントは特殊な性質を付与してるから、定期的に調整しておかないとおかしくなっちゃうの。それよりサイモンくん、イベントの準備はできたの?」

「ああ、バッチリさ。あとはもう明日出陣するだけだ」

「まあせいぜい楽しんできてね」


 真夏の陽光にじんわりとした汗が浮かび、人々の足が日陰に沿って進む、そんなある日。

 御納戸町の住宅街外れにひっそりと建つゴシック様式の大きな洋館。その玄関でチャイムを鳴らしたのは、なめらかな金の髪を三つ編みで左右に垂らした十代前半の少女だった。

 待つこと数分、しびれを切らした繊細な指が再びチャイムへと伸びたとき、ゆっくりとドアが開かれた。澄んだ空色の双眸に映ったのは、栗色のショートヘアーにダークブルーの瞳を湛えた小柄な少女。歳の頃は同じくらいか、シックな黒の洋服に身を包んだ姿がお嬢様然とした容貌を印象付ける。

「どちらさまですか〜」

 うちわでパタパタあおぎながら、まったりとしただるそうな表情で、洋館の主であるフヴィエズダ・ウビジュラことヴィエはそう会釈した。

「あ、あの、私はアクエリアス・ロックといいます。羽丘隆志さんにあなたのことを教えられて、それで訪ねてきました」

「タカくんに? それはともかく、全身にミネラルと糖分が補給できそうな名前ねー」

「……は?」

「いえいえ。それで、アクエリアスさんは何用でわたしのところに」

「ええと……少し変わった話で、長くなりますので……玄関でお話しするには少々」

 困った風に瞳を左右させる三つ編み少女のワケありげな物言いに、暑さでたるんでいたヴィエの顔にみるみる生気がみなぎってきた。興味深々というわけだ。

「それはそれは。わかりました、客間へお通ししますのでどうぞ中へお上がりください」

「はい。あ、私のことはアクアでいいですよ。フヴィエズダさん」

「わたしのこともヴィエでいいよー。じゃあ普通にくだけた話し方でいーい?」

「ど、どうぞ。――あの、ヴィエさんはこのお屋敷に一人で住んでるんですか?」

「ううん、もう一人いるけど今は東京に遠征中。まあお金のことは全部わたしがなんとかしてるんだけど」

「すごいですね……そんなに若いのに」

「うふふ、先立つものさえあれば、頭を使ってうまく資産運用すればわけないよ。あ、いま冷房故障してて部屋の中が暑いけど我慢してね。でもアクアって冷たくて涼しそうな名前だねー、あと美味しそう」

「はあ……」

 このひと大丈夫なんだろうかと内心不安になるアクアだった。


「――で、現状がいったいどうなってるのかを判明ならびに解決したいと」

 確認するヴィエに、テーブル越しにこくんと頷く金髪碧眼の少女。

 話を聞き終えた結果、事情は次のようなことだった。

 アクアはとある雑貨屋のアルバイトで、いつものように倉庫の整理等をしていたところ、陳列する品物の中に置かれていた、商品ではない見慣れないランプを発見した。不思議に思って手に取りじーっと眺めていると、突然幻惑的な明かりが燈り、気がついたら見知らぬ場所で目を覚ました。それがトラペゾ教会というわけだ。

 突然現れた少女にも隆志はさして驚きの態度を見せず、互いに自己紹介を済ませた上で状況の理解を模索することになった。しかし隆志は私用で忙しいらしく、知り合いにその手のことに詳しい専門家がいるからと言われ――そして現在に至る。

「どうです、何か分かりましたか」

「うーん……ちょっと心を楽にして、じっとしてて」

 きょとんとしつつリラックスする少女へ、ヴィエはすっと手の平をかざした。

 一拍置いて床いっぱいに青光を放つ魔法陣が浮かんでビクッとなるアクアだが、言われたとおりじっとしていると、程なくして魔法円はすうっと消え、眼前の娘は得たりとばかりに微笑した。

「やっぱり、どうも波長が違うなって思ったんだ。アクアはこの世界の人間じゃあないね」

「え――それって、えっと……ここは異世界ということですか?」

「あなたからすればそう。さしずめそのランプが原因でこの世界に次元跳躍したってところかな」

「ええーーーーーっ!」

 大きな目をまんまるにして驚くアクアを眺め、蒼茫の瞳を楽しげに細めるヴィエ。

「うふふ、これはなかなか面白そう」

「ちょ、面白そうじゃないですよっ! ここが別の世界って、そんな」

「いろいろ興味深いわね。あなたの世界のこと詳しく聞いてみたいし、折角だからこの世界に滞在しちゃわない?」

「じ……冗談じゃありません! ふっ、ふざけないでください! 人の難儀な状況を愉快がるなんて、いけないことですっ。人生は長いんです、悔い改めてください!」

 拳を握り締めて憤りを表し、アクアはビシッと指先を突きつけた。清涼なる水の瞳が純粋な怒りに揺らめいている。そんな彼女の態度を見たヴィエは一瞬ぽかんとして、すぐさま聖歌隊の合唱のごとき爆笑を吐き出したではないか。腹を抱えて笑うとはまさにこのことだ。

「あ、あははっ、ひ、ひひう……ぜえぜえ。あー……おなかがよじれそうになったよ。アクアいい人だねー」

「ひ――人を馬鹿にするのもいい加減にしてください!」

 怒りの大声もどこ吹く風、にんまりとテーブル越しに上体ごと顔を近づけて、

「馬鹿になんかしてないよ。アクアがあんまり可愛いから、その純真さを汚してあげたいなーと思って」

「いやああああっ!」

 パシーンと張りのある音。

 ひりひりと赤くなった左頬を押さえながら、ソファに腰を戻したヴィエは線目で涙の粒を浮かべた。

「いたーい……もう、冗談なのに〜」

 冗談には聞こえなかったアクアの背筋は、まだ寒気で震えていた。

「あああ、私には楊(やなぎ)さんを真人間に更生させるという使命があるのに、私がいなくなったら彼が完全な駄目人間の坩堝に沈んでしまうっ」

 思わず頭を抱えるアクアであるが、対面の少女は別のことで眼を輝かせた。

「その人って、アクアが働いてるお店の店主なんだよね。アクアより七つ年上の男性だっけ」

「そうですよ。私は楊さんをまっとうな人間に生まれ変わらせるために、押しかけでバイトになったんです。本当なら私、両親のもとで十二歳の青春を謳歌しているはずだったのに……」

「ふうん、それで、アクアはその楊くんのことが好きなの?」

「……はい?」

「だからあ、楊くんのことを異性として意識して好意を抱いてるのかって訊いてるの」

 耳年増な子供のようにワクワクした顔でそう言われ、水の名前を持つ少女は僅かに呆けた。

「な……なにふざけたこと言ってるんです! どこをどう結びつけたらそんな根も葉もないとんちんかんな戯言を口にできるんですか!?」

 無意識の動揺からきているだろう大仰なリアクションがことのほか可笑しく、ヴィエは謳うように厭らしい笑みで視線を濃くした。

「えー、でもいくら更生させるためだからって、普通は嫌なヤツのそばにそんなに長いこといられないよ。大体他にも駄目な人っていると思うし、なんでその人だけなのかなー」

「そ、それは……別に嫌なやつだなんて思ってませんし、確かに他にも人間的に問題のある人はいましたけど……一人の人間が救えるのはせいぜいが一人の人間なんですよ」

「ふうーん、そうなんだあ、うふふふっ」

「……そ、そんなことより! 私が元の世界に戻れる方法はないんですかっ」

 もうこの話はここで打ち切りと言わんばかりの剣幕。さんざ楽しんだヴィエはようやく真面目な表情を見せて思案をめぐらせた。やがてそれは難しい顔へと変わっていく。

「次元を越えるっていうのは簡単なことじゃないんだよ。何かを召喚、送還するくらいなら可能だけど、別世界へのゲートを開いて無事に向こう側へ辿り着くとなるとね。準備も大変だし方法のそれも非常に手間がかかる。まあ、わたしならできないことはないけど成功や安全は保障できないし、ちょっと――面倒かな」

「面倒……って、そんな――困ります! わ、私にできることならなんでもしますから、お願いします! 元の世界に帰れるなら、ここにしばらく留まってもいいですから」

「うふふ、その申し出は非常に嬉しいんだけど――いや、まあ、わたし色に染める……もとい、手取り足取りしつけるにはその方が都合が良いかな?」

 じっとりと妖しく光るダークブルーの眼で凝視され、アクアの瞳にはっきりと恐れが浮かんだ。それは、知ってしまえば欲しくなる、手の届く所にあるのではないかと錯覚する、うらやましい、あやしい、何とも名状しがたい怖気だった。

「え……と、あの……」

「あはは、そんな怯えなくても。わたしとしてはそうしてしまいたいのは山々なんだけど……でも小さな乙女の仄かな想いを朽ち果てさせるのは勿体ないしねえ」

「だから、そんなんじゃ――」

「いいからいいから。さて、今すぐというのはわたしには不可能ね。わたしの知り合いでそんなことが可能なのはただひとり……でも、お願い聞いてくれるかなあ」

 うーむと腕を組んで悩む見目幼き美少女を、水色の瞳はぽかんと見つめるばかりだ。

「まあ、訪れる口実としてはちょうどいいか」

 ふっと緩まるヴィエの口もとは、軽い感慨を湛えていた。


 ロマンチックなデザインの寝室で、少女二人はベッドの上で寄り添うように仰向けになっていた。

「ど、どこへ行くのかわかりませんけど……なんか怖いです」

「うふふっ、ドキドキしちゃってるんだ。大丈夫、わたしがついてるから」

「あ……」

 ぎゅっと手を握られ、アクアはなんともいえぬ安心感を覚えた。ヴィエという少女は人間性に問題があるが、それでもこういうときは温かさと頼もしさが伝わってくる。

「それじゃあ、行くよ――」

 数秒後、手を繋いだ二人の少女は安らかな眠りへと誘われ、意識は急速に深い昏睡へと溶けたのだった。


 其処は、まさしく、一言でたとえるならば、壮麗きわだかな都としか形容できぬ場所であった。

 夕日を浴びて貴やかに金色燦然とした光輝に包まれる都は、縞大理石を用いた迫持造りの橋、柱廊、神殿、皓壁を擁し、虹色の水煙をあげる銀水盤の噴水を大きな広場や香たつ庭園に配して、幅広い通りの両側には優美な木々や花にあふれる壷や象牙造りの彫像が輝かしい列をつくる一方、北面の急斜面には赤い屋根や古さびた尖り破風が幾重にも層を重ね、草色の玉石敷きの小路をかきいだいている。

 意識を取り戻して幾許か、三つ編みの幼き娘などはその淡い緩やかな水面の瞳を、ただただ感動の波紋に広げるだけで、あたかも夕暮れの瑰麗なる都市の異様な美しさに魅せられているのだった。

 その傍らでは、こちらは眼にすること幾分か慣れているのだろう、栗色ショートの娘は呆けずともせず、しかし、闇の暗さを添えた蒼き双眸は、うっとりとした絶え間ない悦びをいっぱいに湛えている。

「ヴィエさん……ここは」

「幻夢境と呼ばれる〈夢の国〉だよ。そしてこの邑は、〈夢の国〉に存在する数多の都市の中でもひときわ類稀なる壮麗きわだかな夕映の都――中空のうつろな硝子の断崖に広がる小塔林立する伝説の都市、イレク=ヴァド」

 およそ眼にしたこともない光景と聴きなれない固有名詞に、半ば茫洋として身の置き場も判然としないでいるアクアに、ヴィエはさぞかし満足の吐息を鮮明にしてみせた。

「イレク=ヴァドこそはわたしの目指すいつか辿り着く彼方であり、〈夢の国〉の住人と成って永遠を過ごすことに決めた都市なれば……それこそがわたし、フヴィエズダ・ウビジュラという少女の目的にして大願なの」

「え、と、いつか辿り着くって?」

「うふふ、わたしたちは裏口を通ってここに来ているに過ぎないんだよ」

 ヴィエはイレク=ヴァドの王と特別な関係にあるため、「深き眠りの門」を通さず、直接イレク=ヴァドを訪れることができる。

「はあ……よく分かりませんけど、そうなんですか。――それで、今ここに来た理由は何なんです」

「それはね――」

「やあ、お見限りだね、ヴィエ君」

 ちょうどヴィエが口を開いた刹那だった、近くから男性の声が介入の挨拶を通してきたのは。そこに立っていたのは、やや淡白な風貌の、三十代にも五十代にも見える不思議な雰囲気を漂わせた紳士だった。

「カーター!」

 たちまち晴れやかな顔になって一声叫ぶヴィエに、紳士は薄く微笑んだ。

「覚醒世界の時間で一年ぶりか。少し驚いたよ、君が少女としての明るさを取り戻しているのだから」

「うふふ。あれから程なくしてね、とってもいいことがあったの。近いうちに機会があれば話してあげるね」

「それはそれは、楽しみにしておくよ。ところで――そちらの子は?」

 ちらりと一瞥され、アクアは微妙に畏まった。

「は、初めまして、アクエリアス・ロックです。アクアで結構です」

「アクア君か。私はランドルフ・カーターだ」

「カーターはこのイレク=ヴァドを統治する王なんだよー。蛋白石の玉座に就いてるの。それでねアクア、カーターならたぶんあなたを元の世界に帰してくれると思うから」

「ほ、本当ですか!」

「どうやら何か訳有りのようだね。話してみたまえ」


 事情を聴き終えたカーターは、ふむ、と納得の表情を見せた。

「ヴィエ君、それでアクア君の世界は時空連続体に連なるところなのかね?」

「うん、それは問題ないよ、ちゃんと探査したから。何とかなりそう?」

「元の世界へ送還すること自体は大丈夫だが……揺り戻しが発生してしまうな」

「うーん……やっぱりそうかぁ。防止しないといけないかな」

「どんな些細なことであれ、不確定要素を持ち込むのは絶対に避けたいな。私だけでなく、ここを永住の地と決めている君のためにもね」

「わかった。じゃあ揺り戻し防止に必要な現在の周期でのそれを教えて」

「うむ。暫し待ち給え」

 両眼を閉じ、カーターが瞑想を始める。それはあたかも夢想の真理を追い求める永遠の旅人が、いっときの真実を夢で垣間見ているかのような光景であった。

 眉をひそめる三つ編み少女の肩を、傍らの美少女がポンと叩く。

「カーターは、あなたを元の世界に帰す手段を実行したときに生じる事象の揺り戻しを防止する方法を探ってるの」

「はあ……ごめんなさい、よくわからないです」

「要するに、それを防止することができたらあなたは元の世界に帰れるってこと。一応わたしも手伝うけど」

 もしナスの谷のドール退治とかだったら正直お手上げかなと、これは口に出さずにおくヴィエ。もともと興味本意で協力しただけなのだから無理と分かれば付き合う必要もない。諦めないようであれば周期が変わるまで待ってもらうまでだ。

 するうち瞑想が終わり、カーターは二人の少女へ淡々とした顔を向けた。

「アクア君の世界へ連なるゲートを開く際の、いまの周期における揺り戻しの防止は――」

 みるみるうちに開花するかのごときヴィエの表情よ。きょとんとするほかないアクアにとって、しかし吉と出たようではないか。


 レン高原。隠されしレンとも呼ばれるこの謎めいた高原は、かのアブドゥル・アルハザードが著したキタブ・アル・アジフ――『ネクロノミコン』をはじめ、数多くの書物の中で言及されるも、その全ての記述が相矛盾する、正確な位置についての定説が存在しない場所である。

〈夢の国〉におけるレンは、北方の都市インクアノクの背後に聳える忌まわしき灰色の山脈を越えた彼方に存在する禁断の領域で、凍てつく荒野の広がる悍ましい不毛の地そのもの。

 そんな、まっとうな者が訪れることをしない、暗澹たる雲の天蓋の下に灰色の荒涼たる平原が果てなく続く、朦朧とした不気味な薄明の丘陵地帯に、小柄な二つの人影が降り立った。すなわちヴィエとアクアに他ならず、カーターに協力的な食屍鬼が提供してくれた二匹の夜鬼に乗ってここまで来たのだ。

「うう……やっと解放された……」

 疲れの滲み出た声色で、ふらふらと足をよろつかせる三つ編みの少女。あまり気分的によろしくないゴム状の肌をした漆黒の魔物に乗せられ、結構な距離と時間を飛翔した心情たるや言葉に表せぬものがある。

 空を移動している間は体をぶるぶるさせながらずっと目を閉じていたアクアだが、

「アクアったら勿体ないんだから、上空からの景観を堪能しないなんて。インクアノクに入るまでの眺めなんかもう心ときめくものがあったよ?」

「そ、そんなことより、ここで何をすればいいのか教えてくださいっ」

 がっかりした風なフヴィエズダ某へ口早にまくしたてた。

「カーターから聞いたでしょ。レン高原にいるムーン・ビーストをどれでも構わないから一匹だけ仕留めることって」

「仕留めるって……なにを?」

「だからムーン・ビースト。あ、ちょうどあそこに一匹いた」

 ヴィエが指差した先、前方の渺茫たる空間の岩や丸石の隅にうっすらと見えた輪郭は、遠目にも判るほどに人間の形をしていない。よく目を凝らして視認に至るや、たちまち恐怖と嫌悪の念がつのりはじめた。

 自在に伸縮する大きな灰白色のぬるぬるしたものの姿は蟇蛙じみており、目はなく短いピンク色の触角が集まって震える妙なしろものが、太くて短い鼻らしきものの先端についていた。

「あれがムーン・ビーストだよ。〈夢の国〉の月の裏側に存在する悪臭漂う都市に居住しているらしい怪物。あれをやっつけるの」

「……誰が?」

「あなたが」

 あっさりと言われ、アクアは顔面蒼白になってかぶりを振りまくった。

「む、むむむ、無理です! 絶対無理です! 私、なんの力もない普通の人間なんですよっ?」

「安心して。わたしがアクアに一時的な魔法の力を与えてあげるから」

「い、い、い、嫌ですよっ! ヴィエさんが何とかしてください。それかそこの夜鬼さんたちにやらせるわけにはいかないんですか」

「事象揺り戻しの防止は当人が行わないといけないの。わたしにできるのは、あなたの手助けだけだから」

「そ……そんなぁ……」

「元の世界に帰りたいんでしょ? さあ勇気を出してゴーゴー!」

「ひゃううっ」

 ヴィエに背中を突き飛ばされ、慌てふためきながら前へよろめき出るアクア。

 蟇蛙めいた冒涜的な生物がゆっくりと迫ってくるのが見え、淡い水色の眼差しが恐怖に怯えた。

「コチュカ・ウルタール」

 魔術詠唱を口にしたヴィエの全身から夜空のきらめきのごとき魔力が溢れ、足がすくんで動けないでいるアクアへと降り注いだ。三つ編みがしゅるりと解けるや、なめらかな金髪が腰までふわりと下り、衣服が光の粒子となって拡散した。

 そして見よ、あどけない肢体を星空のスピカが包み込み、まさしく魔法の神秘に彩られた衣装を少女の柔肌に形成していくではないか。やがてパステル調の水色螺旋が渦巻き、揺らめくような淡い飛沫がぱあっと散った。きらめきが収まると、所謂ネコミミ魔法少女コスプレっぽい格好をしたアクアの姿がそこにあったのだった。

「……思わず決めポーズまでしちゃいましたが、こ、これはいったいなんなんですかーっ」

「魔法でウルタールの猫の力を一時的に与えたんだよ。〈夢の国〉における猫は覚醒世界では発揮できない行為を可能とするの」

「知りませんけど、だからってなんでこんな恥ずかしい格好しないといけないんです!?」

「たまには恋人の趣味に付き合ってあげようと一緒にアニメを観たんだけど、その影響が出ちゃったかも」

「そんな理由でっ」

 理解もできない魔術的理論による結果ならまだしも納得できたものだが、これはあまりにも馬鹿馬鹿しい。正直どうでもよくなりかけたところに、近づく怪物の気配を敏感に感じ取って咄嗟に身構えた。その反応に自分でも驚きを隠せないのだが、それこそがヴィエに与えられた魔法の効果ということなのか。

「うふふ、実感できた? さあ目の前の汚穢な生き物にその力を存分に振るってあげて」

「そんなこと言われても、どうやって」

「自然と判るから。それより戦わないと、ムーン・ビーストに捕まったらサディスティックな拷問を受けることになっちゃうよ」

 その言葉が効いたのか、身震いして決意を固めるアクア。目前まで迫っていた蟇蛙めいた生物が、言葉を発することなく奇妙な形の長槍を振りかざした。それを俊敏な動作で円を描くように避け、信じがたい跳躍で怪物の後ろに着地してのけたアクアは、そこはかとなく静かな感動に震えた。

「す、すごい……考えるより先に身体が」

 猫を殺してはならないという驚嘆すべき法律が制定されている町ウルタールは、その為に多くの猫が集まり、地球の〈夢の国〉における猫の拠点となっている。ランドルフ・カーターは多くの猫と友好関係にあり、かつてカーターが悪臭漂うガレー船に乗せられ囚われの身となり、月の裏側にあるムーン・ビーストたちの居住区まで連れ去られたときは、ウルタールの老いた将軍猫が勇猛果敢な猫たちを統率し、星間を渡る大跳躍で地上から月までジャンプしてカーターの元に駆けつけ、彼の窮地を救ったことがあるという。その際には優美かつ凶暴な鉤爪と歯で何匹もの月の怪物を葬り去った、そんな畏敬に値する猫の力ならば、今のアクアの動作も何ら不思議なことではないのだ。

「さあアクア、ハンティングタイムだー♪」

「わ、わかりましたっ!」

 こぶしを振り上げて声援を飛ばすヴィエ。それに応じるよう気合を込めた両手が瞬時に大きなネコハンドに変化し、アクアは、ゼリー状の月の怪物に、驚愕のいとまも与えず跳びかかった。

 一気に優勢となったネコミミ魔法少女の戦闘を楽しそうに眺めつつ、ヴィエは周囲の寂寞とした凍てつく荒野に細心の注意を払っていた。

 悪名高き驚くべき馬頭の邪悪なるシャンタク鳥が現れたとしても、天敵である夜鬼が二匹もいる以上は迂闊に手を出してこないだろうし、〈夢の国〉の中ですら伝説上の存在である、ずんぐりとした無窓の石造りの修道院からも距離があるため、黄色の絹の覆面をつけ、一人きりで蕃神と這い寄る混沌ナイアルラトホテップに祈りを捧げるという名状しがたい大神官の脅威も遠く、凍れる巨峰の未知なるカダスを目指す謂れもないゆえ、司教冠を戴く恐るべき双頭の守りが動き出すこともないだろう。だが想像もつかぬ脅威と恐怖が凶風を伴って忍び寄る危機にいつ何時晒されるとも限らない。一刻も早く目的を達して、この邪悪と神秘にとり憑かれた地を離れたほうがいいのは明白だ。

「しょうがない、もうひとつ手助けしてあげるかなあ」

 ヴィエが右手を突き出し五指を広げると、掌に燃え上がる五芒星形が浮かんだ。エルダーサインの純然たる白の光輝に、ムーン・ビーストは器用にたたらを踏んで恐れおののいた。

 その隙を逃さず巨大なネコハンドを振りかざすアクア。蟇蛙めいた月の怪物はついに一言も発しないまま、悪臭放つ緑色の脳漿を致命的に流して息絶えたのである。

 あまりの不快な匂いに十歩は離れてから、水色の瞳の少女はどっと息をついた。

「ふう……こ、これで、いいんですよね」

「おめでとう! ミッションコンプリート♪」

 パチパチ拍手しながら近づいたヴィエは、怪物の死骸のそばで何かきらめくものを発見した。

 注意深く手にとってみて、思わずダークブルーの双眸を輝かせる。

「こ、これは――」

「なんですか、それ」

「縞瑪瑙の原石だよ。それも純度の高い……いやはや、棚から牡丹餅とはこのことね」

 レン高原の縞瑪瑙は覚醒世界において優れた魔術媒体となる。高純度なものは超一級の稀少品に他ならず、ヴィエの少なからぬ興奮具合からもその価値が判るというものだ。幻夢境の物を覚醒世界に持ち帰ることは基本的には無理だが、カーターに頼めば何とかしてくれることをヴィエは知っている。彼女の力とカーターの協力がそれを可能たらしめるのだ。

「よしっ、早くカーターのところへ戻るわよー」

「ま、待ってください、こんなところに置いて行かないでーっ」

 縞瑪瑙の原石を持って意気揚々と帰還用の夜鬼へ駆け出すヴィエの後を、魔法が解けて元の服装に戻ったアクアが、月の怪物を仕留めた時の威勢もどこへやらの情けない声を上げて追いすがるのだった。


 三つ編みの少女がおずおずとしたほほえみを浮かべる正面に、蛋白石の玉座に就くカーターと、傍らに立つヴィエの姿があった。

「お別れなんですよね」

「元の世界に帰りたくなくなったのなら、わたしが面倒見てあげてもいいよ?」

「けけけ、結構ですっ」

「ざーんねん。アクアなら色々とわたし色に染められたのになあ」

 くすくすと可笑しそうに残念がるヴィエには、別れの名残惜しさというものが微塵もなかった。アクアとしては少なからず一抹の寂しさがあったが、おかげで湿っぽくならずに済んだようだ。ヴィエの行動や態度には辟易させられたものの、過ぎてみれば気分的にそう悪くはない。

「ヴィエさん、私、今日のこと忘れませんから」

「わたしも、アクアのこと忘れないよ。ぜったい、ぜったい忘れないからっ」

「……ものすごい棒読みで言わないでください!」

「別れの挨拶はそれくらいでいいかね? では、始めるぞ」

 カーターが手の平を上向けると、長さ五インチ近くある、光沢のない大きな銀色の鍵が現れた。

 謎めいた奇妙なアラベスク模様のほどこされた銀の鍵。

 くるめくほどに非人間的な宇宙の、その大いなる目的と謎とが、ことごとく象徴されているかもしれないその鍵を、ヴィエは胸が切なくなるほどの憧れに満ちた眼差しで見つめるばかりであった。

 何となれば眼前に浮かぶそれこそが、彼女の探し求めている物なのだから。

 カーターが銀の鍵に回転を加えた。呪文を口にするとアクアの輪郭がぼやけた。

 アクアが小さく手を振った。ヴィエが適当かつ大雑把に手を振り返した。

 それでも満足そうな少女の三つ編みがふわりと揺らぎ、そして、跡形もなく消えた。


 夜の帳が下りたイレク=ヴァド。カーターが夜霧に濡れる高い段庭に登ると、斑岩に彫刻をほどこしたベンチに座って星を眺めているヴィエが目に入った。

「彼女に言わなくてよかったのかね、元の世界に戻ったらすべて忘れ果てるということを」

「何も知らせずに帰すってところがわたしなりの気遣いかな」

「殊勝な物言いだが、君の場合はただ単に面倒なだけだからだろうね」

「うふふっ、当然♪」

 楽しげにベンチを離れると、ヴィエは青白い欄干から身を乗り出して、都の北方の切り立った 斜面に目を向けた。古びた尖り屋根の小さな破風窓が素朴な蝋燭の穏やかな黄色い光でもって、一つまた一つと輝いていくのを眺めてうっとりとする。

「やっぱりここは最高……はやく住人になりたいなあ」

「準備が整ったらいつでも来るといい。新たな永久の居住者を謹んで歓迎させてもらう」

「えへへ、わたしのこと認めてくれたんだー」

 欄干から身を引っ込め、近寄ってきたカーターへ心底嬉しそうにほほえみかけるヴィエ。

「その笑顔を取り戻した君に私が否定する必要性はどこにもない。だが、まだ手段を実現できてはいないようだね」

「うん、銀の鍵はまだ手に入ってないよ。今はとある日本の町に滞在してるんだけど、なかなか探査が進展しなくてね……とりあえず若返りの術式の完成を進めながら調べてるところ」

「急がずとも覚醒世界での生を存分に愉しみながら頑張るといい」

「もちろん! あっそうだ、覚醒する前にウルタールへ行って猫たちにお礼をしないと」

「ふむ、彼らの力を借りたのか」

「事象揺り戻し防止の際に、アクアにウルタールの猫の力を与えたの。これもみんなカーターのおかげだけどね」

 ウルタールの猫やド・マリニーの時計といった、ヴィエが扱う魔法の中でも極めて特殊な部類に値するこれらのものは、すべてランドルフ・カーターにまつわる事柄である。すなわちカーターと親睦な仲にあり、かつ優秀な魔道士であるヴィエだからこそ可能とするものなれば、カーターの存在なくしてそれらを行使する事あたわず。

「あまり持ち上げるな。私はただの夢想家に過ぎないよ、君のような秀でた特技もない身の」

「ううん、カーターの真髄にはかなわないわ。確かにわたしは学識も魔術も天才だけど、ただそれだけのこと。熟練した賢明なる至高の夢見る者がつくりあげたる、かつて現れた如何なる幻よりも美しい奇想と不思議なる空想の具現――壮麗きわだかな夕映の都が魅せる驚異には遠く及ばないわ」

 お世辞抜きで述べる少女の賛美に、壮麗きわだかな都の王は、まんざらでもなさそうな苦笑を浮かべたのだった。


 目を覚ましたヴィエは天蓋付きのベッドに腰をかけて部屋を見渡すと、一人きりになった室内を少しの間立ち歩き、この世界の時間にして幾許か前に隣で手を繋いで横になっていた、水の名前と瞳をもつ少女のことをいっとき幻視した。

「泡沫の水の、微睡のごとく――なーんてね」

 小さく呟いた後、それきり彼女のことは心の片隅に追いやった。

 終わってしまえばどうでもいいことである。

 そうしてヴィエは、自身の手に握られているものに新たな関心を移して微笑した。

 繊細な手の平の上で縞瑪瑙の原石が彩光を放っていた。


 サイモンが帰ってきたのは翌日の晩だった。

「ヴィエちゃん、ただいま」

「お帰りサイモンくん。イベント楽しかったー?」

「ああ、今回はいいものが多くて豊作だったよ」

 サイモンが床に下ろした複数の紙バッグには、主に薄っぺらな本が沢山入っていた。彼は夏コミという日本最大の同人誌即売会に一般参加してきたのだ。

「ふーん、サイモンくんこういうのが好きなんだ」

 バッグの中から数冊を取り出してパラパラ眺めるヴィエ。十八禁のものが多く、俗に萌え系美少女系と言われる内容の同人誌が殆どだった。

 あわてて隠そうとするサイモンの手を掴み、ヴィエは彼のサングラスを外した。

 意外に精悍な恋人の素顔をじっと見つめるダークブルーの双眸。

「純愛が好きなんだね」

「あ、ああ……無理矢理なんてもってのほか、ピュアーなラブこそが俺の求める愛さっ」

「そっかあ。じゃあ楽しみにしてるね? サイモンくんが求めてきたら、いつでも応えてあげるから♪」

 含みのある言葉に気が動転してあたふたするサイモンに、くるりと背を向け、ヴィエは愉しそうに満面の笑顔を浮かべた。

 いつかくるそんなときをそっと夢見るかのように。

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