第4話 一四〇〇光年の彼方
鏡があった。磨き上げられた青銅の枠に、悪魔や食屍鬼などが見事に鋳込まれた、知識があれば古代エジプト王朝の代物と酷似していると見て取れる、古ぼけた鏡が、教会の一室にひっそりと掛けられたのはつい最近のことだった。
トラペゾ教会は御納戸町の一角に建つ小さな教会である。
先代神父が半年前に亡くなってから、彼と深い交流があった一人の青年神父が教会を引き継ぎ、数ヶ月前に新しく赴任してきた。
その青年の名を羽丘隆志という。
穏やかな物腰と親切丁寧な態度、ときにユーモアを交えた言動と人当たりのよさは老若男女問わず好感を得るにふさわしく、近隣からの評判はすこぶる上々だ。また艶やかな黒髪と、灰色の丸眼鏡から覗く柔和な顔立ちはなかなかのハンサムといって差し支えなく、礼拝には若い女学生も少なからず足を運ぶようになった。そんな風に快く周囲に溶け込んでいる隆志であるが、少し付き合いを重ねた者ならば彼の人どなりについて、時折飄々とした面を窺わせるのに気がつくだろう。説法を述べるときも、たまに奇妙なまで哲学めいたものを饒舌に話し聞かせることもあり、その内容たるや不可思議たる難解さを有しているため、聞く者によってはまったく反応が違うことも珍しくはない。
それが羽丘隆志の通俗的な人柄だった。
甘味処『白鷺』は御納戸町の商店街にある和風喫茶で、雰囲気ある内装と四季折々の甘味で甘党を中心にそこそこ評判の店だ。下が袴風のミニスカートという和洋折衷のデザインである女子店員の制服も店内とマッチしている。
「いらっしゃいま……せー」
入ってきた客に元気よく愛想を向けようとして、腰まであるストレートロングの金髪と空色の瞳が可愛らしい、小学生とも見まごう背丈のアルバイト娘の声が、みるみるうちにトーンダウンした。
席についた客のテーブルにぞんざいな動作で湯飲みを置き、
「なんであんたがここへ来るのよ」
メイド喫茶に来た客であれば間違ってツンデレ喫茶に入ってしまったかと困惑するだろう態度で、アルバイトの娘――リアライズ・羽丘はジト目を向けた。
眼前の客は、彼女の父親の弟、羽丘隆志だった。神父服は彼の普段着でもあるらしいが、その格好で居酒屋やパチンコなどにも足を運んだりするから困る。
「リアちゃん、店員として客に接する態度ではないですよ」
いつもどおりの微笑で穏やかにそう言われ、リアのこめかみがぴくぴく動いた。
「あんたに敬語を使うくらいならクビになったほうがマシよっ」
「髪を下ろしたリアちゃんも魅力的ですね」
「聞けよ。ていうか、バイト先には来ないでって言ったでしょ?」
「可愛い姪が可愛い制服を着て勤労に励んでいる姿を見たい……ささやかで真摯なる欲求を、大いなる神々も認めてくださりましょう」
「はぁ……で、ご注文は?」
溜息ひとつでスルーしてオーダーに入る。不毛なのはわかっているのについつい相手をしてしまう、そんな不器用な自分がときどき嫌になるリアだった。
隆志が注文したのは「おふくろクリームあんみつ」。季節を問わず店の人気メニューだ。
席を離れたリアの胸中は、どうにも判然としない苛立ちに満ちていた。隆志のことを快くは思っていないが、心底嫌いかというとそうでもない。さりとて普通に接するには遠く、ましてや異性として意識していたりすることなど毛頭ない。
ではなぜか。考えるに性質的な問題と、なにより『家族』に溝が出来た原因だから。
結局のところ、これに尽きるのかもしれない。
リアの記憶にある隆志という人物は、彼女が物心ついてからの数年間と、彼が海外から帰国してきてからのここ半年だけだ。したがって、疎ましく思う気持ちは年月を重ねたものではなく、実際にはそれほど要因は多くないといえる。
幼少時のリアの目に映る隆志は、少し変人っぽいところはあるが、基本的には気さくで優しく頭もいい素敵なお兄さんだった。それは今でも変わらない――ように見える。少なくとも表面上は。
十年前、ひとつのことが羽丘家の内にて発覚した。
羽丘隆志は邪神の信奉者であった。
それを暴いたのは、彼の兄でリアの父親である羽丘権化。いつからそうであったのかは不明だが、隆志は自分をナイアーラトテップの信奉者だということを認めた。その時の薄ら寒い冷笑は、十年たった今でもリアの脳裏から離れて消えない。
ナイアーラトテップ。ある種の魔的な稀覯書に見受けられるその名は、「這い寄る混沌」「無貌の神」「大いなる使者」「百万の愛でられし者の父」「ニャルラトテップ」「ナイアルラトホテップ」など、幾つもの異名で畏怖される存在の呼称で、人類にとって「邪神」と定める他ないという。
リアは今もってよく知らないのだが、父はそのあたりの知識と、かの存在がどれだけ破滅的に危険なものであるかをよく心得ていたため、直ちに改心を試みる説得にあたった。しかし隆志は心を変えることはなく、そのときの兄弟の有様たるや古典落語の「宗論」をシュールにしたようなもので、ついに羽丘権化は実の弟を勘当するに至った。
隆志は気にした風もなく家を出て、どこ吹く風とばかりに海外へ渡って行ったのである。
父が凄腕の退魔師であるということをリアが知ったのはその後で、彼女が退魔師を目指すことを決意したのはこの事がきっかけなのだった。
クリームあんみつを隆志の前に置き、
「食べたらさっさと帰ってよ?」
「じゃあゆっくり味あわせてもらいます」
「ふんぬー」
小さくうなり声を上げて踵を返したリアは、ふと、彼が自分や父を悪く言ったことは、これまでに一度もないということに気づいた。
夕刻の川辺を歩いていた隆志がふいに足を止めた。草むらの一辺を神妙な眼差しで見つめ、丸眼鏡の縁を数回こすると、うっすらとした半透明の少年が映った。ニット帽をかぶった半ズボンの幼き姿が、悲しそうな顔で佇んでいる。
隆志は呟くように魔術詠唱らしき囁きを発すると、胸元で十字を切った。少年の身体がきらきらと白く発光した。最後に安らかな笑みを浮かべた少年は、ふっと空気に溶けて消えた。数年前、この場所で悲惨な事故が起きたらしい。
ひとつの哀れな魂を救済した青年神父が、自宅でもあるトラペゾ教会へ帰ると、礼拝堂で一人の少女が祈りを捧げていた。
少女が振り向いた。
人生に疲れた者が一様に見せる、あのひっそりとした暗さに沈んだ、十代半ばの面持ち。
折しも茜色の空が濃い蒼へと落ちたところだった。
険しい顔をした男が、殴りこむ寸前の勢いで教会のインターフォンを叩いたのは、午前零時も近づいた夜更けのことである。窓のない個室に通された男はじろりと室内を見回し、眼前の青年神父に食ってかかるように耳障りな怒鳴り声を上げた。
「娘は、恵美子はどこだ!? さっさと渡せ!」
仕事から帰ると義理の娘の姿がなかった。あちこち探し回ったが徒労に終わり、怒りと焦燥に身を募らせながら家に戻る途中で携帯が鳴り、教会の神父に呼び出されたのだ。
今にも爆発しそうな剣幕にも顔色一つ変えず、隆志は平静に口を開いた。
「その前にひとつお聞きしますが――」
「お前なんかに話すことは何もない! 娘を出せ!」
「落ち着いてくれないと警察をお呼びすることになりますよ?」
「チッ……聞きたいことはなんだ」
舌打ちして幾分か態度を軟化させるあたり、警察沙汰は困るらしい。
「恵美子さんは幼少時にご両親が亡くなってから親戚の間をたらい回しにされていたそうで、そしてあなたが引き取った。ちょうど奥さんを亡くしたばかりで、子供もいなかったこともあって」
「ああそうだ。それがどうした」
「最初は純粋な気持ちで引き取ったのでしょう、あなたは恵美子さんを大層可愛がった。ようやく平穏な日々が戻ってきたと思われます。彼女は美しく成長していったそうですね、年頃になるにつれ」
「……何が、言いたい?」
「もともと血の繋がりはないわけですから、心惑わされるのは致し方ありません。ですが、あなたを信じていた彼女にとっては天国から地獄だったことでしょう」
男は無言になり、拳を震わせながら、みるみる剣呑な表情に変わっていく。あと少しで暴力に訴えかねないというタイミングで、隆志は次の一言を放った。
「恵美子さんなら、あなたの後ろにいますよ」
「――!?」
ハッとして振り向いた男の目に映ったのは、壁に掛けられた鏡だった。磨かれた青銅の縁取りに、怪蛇や悪鬼や屍鬼の姿が忌まわしくも壮麗に彫りつけられている、一見して古ぼけた鏡だ。なめらかな鏡面に映るのは男の姿のみで、彼は憤慨して青年神父へ向き直った。
「ふざけるな! 大体、俺がいなかったらあいつは厄介者として行き場をなくしていたところだ。八年も面倒を見てやったんだ、恩返しをしてもらったっていいだろう?」
「ちなみに、その鏡は僕の知人が最近、裏方面の競売で落札した代物で、ニトクリスの鏡の贋作です。衝動買いで手に入れたものの大して使い道もなかったようで、僕にくれたんですよ。でも僕としても用途はこれといってなくて放置していたんですが……つい先刻、初めて使用する羽目になりました」
「聞いてるのか! お前の話なんかどうでもいいんだよっ」
「さっき恵美子さんから事情を聞き、それなら僕が何とかしましょうかと言ったのですが、彼女は首を横に振りました。彼女の心の闇は深く、絶望にも似た諦めに染まっていたのです。残念ながら手立てはなく、そこで、僕は彼女に提案してみました」
激昂していた男は、急に娘の話に戻され一瞬たじろいだ。ここでもし男がオカルティストであったなら、先の話と関連付けて恐ろしい想像が閃いただろう。
「ニトクリスとは、エジプト第六王朝の女王で、この世ならぬ鋼鉄のごとき意志を持ってギゼーの玉座を占め、臣民を恐怖に打ちひしぎつつ支配した人物です。詳細は省きますが、女王ニトクリスが所持していた鏡は異界へ繋がっているとされ、午前零時になると鏡面が異界の門と化し、鏡の中はおぞましい怪物たちが蠢く世界で、女王は捕らえた政敵達をことごとくその餌食としたそうです。――あなたの背後の鏡は贋作にすぎませんが、それでも名のある魔術師が造り上げたものに違いなく、面白いことに奇数と偶数の数秘的な効果があります。一度に鏡の中へ入れるのは一人きりで、最初に鏡の中へ入った者は怪物と化し、次に入った者はその餌食となる。後はそのくり返し」
ここまで話されたところで、さすがに男の額に脂汗が滲み出す。馬鹿馬鹿しい与太話と唾棄したくとも、このような深夜に教会という場所の薄暗い一室でそんな話を聞かされれば、いやがおうでも不気味さが増してくるのはやむを得ない。
ふと腕時計に眼をやると、ああ、午前零時をまわったところではないか。
「その鏡は幾度となく持ち主を変えているため、それまでの順番はもはや誰にも分かりません。さて、僕が彼女に提案したことは予想がつくと思いますが、結果は……」
青年神父が人差し指を上向けた。彼の後ろにも鏡があった。それは何の変哲も曰くもないただの鏡だが、合わせ鏡となって映る自分の姿とその背後を、男は見てしまった。
青白い顔をした義理の娘が、ぞっとするほどの笑みを浮かべていた。鏡面からそそり出た両手が信じ難い異界的な力で、慄然とする男の肩を背後から掴んだ。
見る間に鏡の中へ引きずり込まれていく男を冷笑混じりで眺めつつ、隆志は、
「アーメン」
淡々とそう口にした。
「ふわあぁぁあ」
真昼の暖かな陽光を浴びて反射するテラスで長椅子に腰をかけ、うとうとしながらあくびを漏らしたのは、星を意味する名前を持つチェコ人の少女である。玄関のベルが鳴った。来客は見知った相手であり、ヴィエはまたひとつあくびをしてのそのそと開錠に向かった。
客間でテーブルを挟んで席についた青年神父がロイヤルミルクティーを一口含んだ。
「このまえヴィエちゃんから貰った鏡、先日役立ちましたよ」
「へえー、そうなんだ。タカくんが私情で使うのは考えにくいから、人絡みかしら」
「ご想像にお任せします」
「で、今日来たのはそれを言いに?」
「いえいえ、今のは前置きで本題はこれからです」
少しもったいぶったような切り出しで微笑し、隆志は言った。
「ミスカトニック大学附属図書館から『セラエノ断章』の貸し出し許可が降りました」
「――!」
端正な顔が瞬く間に喜色を帯び、少女は軽快に指をパチンと鳴らしたのだった。
「ふぅー」
感嘆の響きを伴わせた息を吐き、ヴィエは一冊の書物を閉じた。
その二つ折判の本こそは『セラエノ断章』――かの盲目の大賢者ラバン・シュリュズベリイ博士が、異星の大図書館で見出した神秘のごく一部を解析して英訳した自筆写本である。
アメリカはマサチューセッツ州エセックス郡の古びた地方都市、アーカム。ここはそのアーカム市街にあるホテルの一室。ミスカトニック大学附属図書館から『セラエノ断章』の貸出許可を得たと隆志から知らせを受けたヴィエは、喜び勇んで彼と一緒に日本を出立した。ちょうど夏休みに入ったこともあり、すぐに入念な準備をした上でアメリカまで出向いたわけだ。仮に夏休みでなくとも御納戸学園に短期休学を認めさせて出発しただろうが。
ミスカトニック大学は、マサチューセッツ工科大学やコロンビア大学、シカゴ大学に肩を並べるアメリカ東海岸の名門で、アーカムの中心部にキャンパスを構える。ニューイングランド地方の古い伝統を色濃く遺す土地柄に恵まれ、民俗学、人類学の分野において注目すべき数多の研究が進んでいるほか、地質学、考古学の分野においても多大な成果をあげている。
そんなミスカトニック大学の数多ある貴重な知的財産の中でも注目すべきは、大学創設の出発点にもなった附属図書館の存在だ。地元産の御影石をふんだんに用いたゴシック様式三階建ての堂々たる附属図書館は、実に四十万冊以上もの貴重な文献・資料を収蔵する、キャンパスの象徴ともいえる施設である。中でも世界中に五冊しか現存していないと言われるラテン語版『ネクロノミコン』を筆頭とする魔術書など稀覯書の数々は、自由に閲覧することが許されない特別閲覧室に収められているという。
そのうちの一冊である『セラエノ断章』の一部を読み終えたヴィエのご満悦加減たるや、部屋のノックにもしばらく気づかないほどであった。
「ヴィエちゃーん、いらっしゃいますかー」
「あ、タカくん? ごめんごめん、いま開けるね」
穏やかな微笑を伴って入ってきた青年神父は見間違えようもなく羽丘隆志その人だ。
「熟読されていたようですね。セラエノ行きの準備は整ってますから、ヴィエちゃんがよければいつでもオーケーですよ?」
「ありがと。じゃあ知識の整理を終えたらミスカトニック大学附属図書館に『セラエノ断章』を返却して、そのあとレッツゴーということで♪」
笑い交わす二人は、遠足の前夜、眠れぬほどにわくわくしている子供のようであった。
「ええ天気やなあ……あの空に手を伸ばしたら世界を掌中におさめられそうなくらいや」
「相変わらずおかしな表現ねー。普通は雲がわたあめみたいだとかでしょ」
隣を歩く友人の発言に思わず苦笑するリア。
「あたし、わたあめより焼きそばのほうが好きやねん」
と、どこかのんびりと語気を強めたのは、ゆったりした関西弁以外にさして特徴のない、ごくごく平凡な顔立ちをした黒髪セミロングの少女。リアのクラスメイトで名前は秋霜止(しゅうそういたる)――通称・明石焼き。
この春に大阪からこの町へと引っ越し、御納戸学園高等部二年に転校してきた。それから程なくしてリアとは友人関係になった。明石焼きというあだ名は、中学時代からの親友である香月という少女に付けられたものらしい。
「ところでリアっち、最近なんか機嫌ええなあ」
「そりゃだって、あの二人がいなくなったんだから当然よ」
「あの二人て……ヴィエちゃんとタカくんのこと?」
きっぱり頷いてみせるリア。隆志が戻ってきたせいで両親は隣町のさらに隣町へ引っ越し、結果自分の家で一人暮らしすることになった。ヴィエと知り合ったおかげで厄介事に付き合わされることが多くなった。どちらも彼女のこれまでの生活を一変させた張本人である。
その二人が、夏休みに入った途端、唐突にアメリカへ旅行に行ったのだ。悩みの種がいっぺんに消えた。それも少なくとも二週間は日本を留守にするのだというから、これほど喜ばしいことはない。
ゆえに、久しぶりに訪れた平穏な日常を満喫しているというわけである。
ぶらぶらとウインドウショッピングを楽しんでいると、外国人が話しかけてきた。その対象が自分であることに気づき、リアは口を引きつらせた。
「えーと……あの……そのー」
明確な困り顔で汗を垂らす。実はリアは英語がまったく話せない、日本語オンリーである。アメリカ人とのハーフとはいえ、生まれも育ちも立派な日本で、それどころか英語の成績は赤点という有様だ。
「ねえ明石焼き、私は英語が話せませんって英語でどう言うの?」
「ええー? あたしにそんなん聞かれてもわからへんー。……どーゆーのーいんぐりっしゅあんだすたん?」
リアにひじで小突かれ、思いついた言葉を適当に並べる明石焼き。これは駄目だ。
そのとき、第三者が近寄ってきて外国人の男と会話しだした。英語で数回言葉を交わした後、外国人の男は軽くお礼の気持ちを示して去っていく。おもむろに振り向いた第三者は、サングラスをかけたこれまた外国人の男。――サイモン・コウである。
アーカム郊外、人目のつかない静かな草地に立つヴィエと隆志。
まるで液体自体が光っているかのような不思議な黄金色の蜂蜜酒を飲み、奇妙な装飾が施された魔法の石笛を吹くと、二人は次の呪文を唱えた。
「いあ! いあ! はすたあ! はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ! あい! あい! はすたあ!」
すると、一瞬にして二匹の魔物が眼前の空間に姿を現した。不気味な頭部と蝙蝠に似た翼、胸部と腰部にそれぞれ二本の足を持ち、蜂のような腰部の大部分はフーンと呼ばれる謎の器官で構成されている。
ビヤーキー。星間宇宙と風の神々の長たるハスターに仕える奉仕種族で、宇宙を飛行することができる有翼生物だ。普段は空気のない小惑星や彗星の核に棲んでいるが、召喚されれば時空を越えて何処にでも瞬時に現れる。そう、いまのように。
「さあ行くぞ、セラエノへ。蜂蜜酒の貯蔵は充分かー?」
「問題ないですよ。いざいざ向かわん、星の大海」
ビヤーキーの背に乗った二人が、意気揚々と気持ちを合わせる。キーキー金切り声を発する二匹の翼がふっとはためくと、次の瞬間には宇宙が広がっていた。眼下に青く広がる大きなもの――地球が見える。
「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」
と、ヴィエ。一般的に知られる人類史上では初めて有人宇宙飛行を成し遂げたあるパイロットの言葉だ。
「しかし、どこを見回しても神はいなかった」
と、隆志。これもその人物の言葉だと言われているが、まがりなりにも神父である隆志が口にしていいものか、それとも彼ならではの発言か。
さて、このようにして地球外へ飛び出した二人だが、ビヤーキーに乗っている間は宇宙服を着なくても大丈夫などということは当然ない。生身で宇宙空間にさらされて何故平気なのか。その理由こそが、先刻飲んだ黄金の蜂蜜酒の効果である。飲む者を時空の束縛から解き放ち、あらゆる時間や空間の旅を可能とする。すなわち宇宙の真空と極寒の中でも生身で生存していられるのだ。また、副次的な効果として知覚力と霊感を鋭敏にさせるという。
星間を飛翔するビヤーキー。地球上での飛行速度は時速七十キロ前後だが、宇宙では光の速さの十分の一を出すことができる。上に乗るヴィエと隆志がその速度に耐えられるのも黄金の蜂蜜酒のおかげだ。
しばらくして、ビヤーキーはフーンと呼ばれる常磁性の器官を用い、特殊な時空パターンを発生させた。宇宙の真空でのみ発生可能なそのパターンは、古代の本の著者たちが「カイム」と呼んでいたもので、このカイムの中ではビヤーキーは光速の四〇〇倍までの速度を出すことが可能となる。
「ところでタカくん。ちょっと聞いてみたいことがあるんだけど」
「なんですかヴィエちゃん」
「トラペゾ教会の前任者のことなんだけど、タカくんとは深い交流があったんだよね」
隆志は一瞬眼を細め、微笑を濃くした。
「そうですよ。彼との出会いは僕が子供の頃にまで遡りますが、その時から僕の人生観は大きく変わりました。僕が今の道を目指すことになったのは彼の存在あってこそです」
「それは、先代神父が、〈這い寄る混沌〉の信奉者だったから?」
「そういうことです。彼は僕の素質を見抜き、僕に秘密を明かして誘ったんですよ」
「そっか。でも一応公共の教会に属していながら先代神父がその素性を隠し通せたのは、何がしかの組織のバックアップがあったんだろうね。そう、たとえば――」
「――例えば、『星の智慧派』のような?」
暗黒が支配する星のしじまに、ぞっとするほど不気味なふたつの笑みが交錯した。
「ほんますごいなあ、ドイツ人やのに英語と日本語も話せるんやから」
「ははは、お褒めに預かり光栄さ。まあ俺のとりえはこれくらいだけどな」
「た――ううん、ありがとう、助かったわ」
確かに、と言いかけたのを堪えてお礼を述べるリア。ドイツ語は英語と似ているから英語を理解するのにさほど苦労はいらないそうだが、日本語はそうはいかないだろう。彼が日本語を習得した動機が日本のオタク文化のためであったとしても、外国語を全く話せないリアからすればそこだけは敬意を表するに値する。
「サイモンさん今日はどこかにお出かけなの?」
「いや、昼飯帰りに街をぶらついてただけだよ。ヴィエちゃんがいないと家に帰っても一人で寂しいんだワン……その間の食費はもらってあるから生活には困らないけど」
「そういえばサイモンさんって、バイトで得たお金は自分の趣味に使って生活費は全部ヴィエに出してもらってるんでしたっけ」
「そのとおり! おかげでヴィエちゃんには頭が上がらないわけなのさ」
「いやそんな得意げに言われても……」
ジト汗を浮かべるリア。正直サイモンという人物は二次元趣味に傾倒して著しく社会性を欠落してしまっている、所謂ダメ人間の範疇に分類されるわけだが、ヴィエは彼のそうした人間性をいたく気に入っているらしい。むしろ社会人として人間的に成長することを好ましく思っていないフシがあるのだから分からないものだ。
「なあなあ、サイモンさんって……ヒモなん?」
リアとサイモンの会話をぼうっと聞いていた明石焼きが、唐突にそんなことを口にした。
本人を前にしてのあまりのストレートな質問に思わず固まる二人。
「ちょ、明石焼き! 小腹が空いたしクレープでも食べない? ちょうどあそこにクレープ屋があるから好きなの三つ買ってきて。お金は私のおごりで、お釣りはいらないから」
口早にまくし立てて二千円札を手渡すと、リアは強引に明石焼きの背中を押しやった。よたよたと歩いていく後ろ姿を見送ったあと、苦笑いで愛想の表情を浮かべて近くのベンチに腰を下ろす。
「そういえば、前から気になってたんだけど……ヴィエの家族ってどうしてるんです?」
「ヴィエちゃんの家族?」
「だってヴィエがいくらお金持ちだからって、その出所は親なんでしょ? その辺どうなのかなって」
「ああ〜、それは……」
「あ、プライバシーに関わる事なら答えなくても」
「いや、別に口止めされてないし口外してもいいって言ってた。ヴィエちゃんのお母さんは数年前に病気で亡くなってる。なんでも二人目の子を身ごもってたけど流産しちゃって、それがショックで心労がたたって衰弱していったみたい。で、父親のほうなんだけど……一年半くらい前に失踪したらしいんだ」
「失踪?」
「俺もよくは知らないんだけど、その時に何かがあって、それで父親が家を出ていってそれっきり消息不明のままらしい。その結果ヴィエちゃんがウビジュラ家の当主の権利を得て、資産も全部自分のものになって、どういう経緯か法的にも認められたみたいだよ」
つまりお金の出所は親ではなく他ならぬヴィエ自身であり、しかも投資などの資産運用が大きく軌道に乗り、いまや彼女は十一歳の天才美少女実業家としてその道では名が知られているらしいのだ。
「……なんていうか、あいつにもいろいろあるのね」
どこか複雑そうに感心の色を見せ、リアは以前ヴィエを看病したときに聞かされたことを思い起こしていた。のんびりした足取りでクレープを持ってくる友人が視界の隅に映った。
金属製の匂いが立ち込める霧に包まれた場所に、ヴィエと隆志の姿があった。
ふたりをここまで運んだ二匹のビヤーキーは、カイム使用の星間飛行を終えた時に生じる飽くことなきほどの飢えを癒す、魔術的な食物を与えられて送還された。
「ううーん、ここがセラエノかあ♪」
「正確にはセラエノを主星とする惑星系の第四惑星上ですけどね」
のびをして気分爽快というふうに周囲を見渡すヴィエと、清々しく眼を伏せる隆志。
セラエノは牡牛座の中にある散開集団プレアデス星団の恒星の一つで、地球からは一四〇〇光年の距離にある。恒星とはいえセラエノの等級は七等星ほどと低く、地球上から肉眼で見ることは難しいとされる。
ビヤーキーに乗ってここへ辿り着いた時間の経過は、地球にして数時間ほどだ。もっとも、いくら光速の四〇〇倍の速度でも、一四〇〇光年の距離を移動しようと思ったら最低でも三ヶ月以上かかることになる。それがこれだけごく短い時間で到着したのには、現実的な物理法則に当てはまらぬ何かが働いているのだと推測するほかはないだろう。
冷たい灰色の液体をたたえる大きな湖が見え、石造りの波止場があるそのほとりには、見る角度によって金色や緑色に変化する石目のある、黒くて厚いブロックで造られた巨大な建物が建っていた。ヴィエが歓喜の表情を輝かせて駆け出し、そのあとを穏やかな微笑をたたえた隆志が続く。
正面に高さ四〇〇フィート以上の巨大な円柱が林立する、荘厳な神殿のごとき建造物こそは、かつて〈旧支配者〉と呼ばれる邪神達が〈旧神〉から盗み出した知識の全てを納めたという、セラエノの大図書館である。
図書館の正面入り口を潜ると、壮大なスケールの大ホールが広がっていた。ホールの四方の壁には雛壇のような桟敷が並んでいて、一つ一つの桟敷に備えつけられた本棚には、護符、印形、象形文字のようなものが記された石版が所狭しと納められている。
かのラバン・シュリュズベリイ博士は、セラエノに二十年も滞在し、この石版に記された文献や叡智のごく一部を解析した。それをもとに英訳した私家版の自筆写本が『セラエノ断章』なのだ。
広大な図書館を見渡すと、魔道士らしき数名の男女が体を落ち着かせて休んでいた。セラエノはハスターの支配地に含まれるため、ハスターと敵対関係にあるクトゥルーの勢力に追われている者達にとっての緊急避難場所としてもしばしば利用されている。彼らはハスター教団の者なのかもしれない。
「それじゃあ、知見を広めるための調査開始といこうかな」
はやる気持ちを抑えられず、言うが早いかヴィエは、地球誕生以前の知識が秘められた太古の碑文へと走っていった。
「では、僕も――」
ヴィエとは別の場所へ歩を進める青年神父もまた、期待に胸を高鳴らせている様子だった。
ここで得た新たな知識は今後の両者にとって非常に有益なものとなるのである。
そう、どちらにとっても。
「あーん、サイモンくん愛してるー」
「俺もだよヴィエちゃんっ」
「ただいまリアちゃん。これお土産です」
「……」
隆志から手渡された紙包みを受け取り、少女は自分の額に手をやって溜息をついた。後ろではヴィエとサイモンが無思慮にラブラブに抱き合っている。
こうしてリアの平穏な日々は二週間半ほどで終わりを告げたのだった。
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