第6話 新世界の神

 In addition, is it Osaka



「できたあっ♪」

 御納戸町の住宅街外れにある洋館の魔術実験室で少女の歓声が上がった。

 丸型にカットされた縞瑪瑙のブローチを指でつまみ、しげしげと眺めてダークブルーの瞳を感嘆に揺らすのは、洋館の主であるフヴィエズダ・ウビジュラである。〈夢の国〉の凍てつく荒野から持ち帰った縞瑪瑙の原石を幾日もかけて様々な魔術加工を施し、ついに完成したのだ。

 折しも紅葉の映える季節の中頃に差し掛かっていた。

「この出来映え……うふふ、丹念に手間をかけた甲斐があったわ」

 天才が趣味嗜好に労力を費やすと、世のため人のためになるか、或いはろくなことにならないか、大別して二つのパターンに分けられるが、さて、結果はどうなるか。

「さっそく効力を確かめたいところだけど、誰で試そうかなあ」

 まず自分で試すなどという思考は、彼女には当然存在しない。イレギュラーは大歓迎だが、あくまで自分は安全圏にいることが前提で、観察者として楽しむ道理である。

 ブローチ片手に実験室を出て居間に足を運ぶと、だらしなくソファに座って煎餅をボリボリかじりながら、一〇〇インチの有機ELテレヴィに映る萌えアニメをヌボ〜ッと見ているサイモンの姿が目に入った。

 尻子玉をフィーバーで大放出してしまったかのような腑抜けた顔は、「僕にも魔法が使えたら何しようかな〜まずお金かな〜……いやダメダメ! そんな事したらアニメ美少女達に嫌われちゃうよ!」などと考えていそうで、まさにダメ人間の坩堝、こんなやつ一人世の中から消えたところで誰も文句は言わないだろうという選民思想主義に則って、普通なら「よし君に決めた!」となるのだが、

「サイモンくん、バイトから帰ってきてたんだ」

 ヴィエが声をかけると、サイモンはリモコンの一時停止ボタンを押して振り向いた。

「ああ、いま録り溜めたアニメを消化しているところさ」

「そうなんだ。わたしこれからちょっと出かけてくるから」

「いってらっしゃい」

「いってきまーす」

 そのまま玄関へと向かうヴィエ。

 いかにマンガ、アニメ等に頭脳容量を使い過ぎで、社会人として必要な知識は足りてないフリーター青年といえど、彼女にとっては一緒にいるだけで幸せな気持ちになれる最愛の恋人に他ならず、危険性も起こりうる実験材料に使う気など毛頭ないのだった。


 夕陽の照りつける街路を歩きながら、稀少魔術品の効果を誰で試そうか考える。

 真っ先に浮かんだのは隆志やリアだが、どちらも術者であるし性格的な面を考慮しても大事になる可能性が高い。もっとも隆志だと意図を見抜かれ拒否されること請け合いだろうが。なんにしてもレン高原の高純度の縞瑪瑙を用いた代物である、なるだけ害のなさそうな人間を選ぶべきだろう。

「なんやーヴィエちゃん、難しそうな顔してどないしたん?」

 やんわりとした関西弁が頭上二十センチの高みから降ってきた。

 顔を上げると、御納戸学園高等部の制服を着た女学生が、春風駘蕩な顔で眼を丸めていた。

 リアのクラスメイトで友人の秋霜止こと明石焼きだ。

「あー、明石焼きさん、こんにちは」

「こんにちわー。ヴィエちゃんも学校の帰り?」

 私服のヴィエが学校帰りのわけはない。今日は土曜だから初等部は授業が午前で終わりなのは分かっているだろうに、頭がゆるいのか天然というべきか、とにかくいつも平和そうな顔をしている。

 瞬く間にピンときた。

「あなたに決まり!」

「え、え、なに? いきなりなんやの〜?」

「明石焼きさん、プレゼントがあるの。よかったら受け取って!」

「え……ブローチ? なにこれ」

「純度の高い縞瑪瑙だよ。貴重品だから失くさないように」

「そんな貰ってもええん? それにそないなこといきなり言われても……」

「それじゃ、大事にしてねー♪」

 返事も聞かず強引に手渡すと、ヴィエはパタパタと走り去っていった。ぽつんと立ち尽くし、困った顔で手元のブローチに視線を落とす明石焼き。夕焼けを浴びて縞瑪瑙の表面が異彩を放っていた。

 走り去るヴィエは、一度振り返ってほくそ笑んだ。

「一度所有させてしまえばこっちのもの。あとは効果が現れるのを待つだけね」

 そう、人生万事塞翁が馬とはいえ、まさかあのような事態にまでなるなんて、この時の彼女には想像もつかなかったのです……たぶん。


 一週間後、御納戸町は徐々に不可解な出来事が浸透していた。しかしそれをおかしいと認識していたのは一部の能力者たちのみで、異常の内容が内容だけにいまひとつ危機感を募れないでいた。

 その現象とは。

 脈絡もなく大阪や阪神の人気が出て街中で流行化している。

 各所でたこ焼き屋や五五一の蓬莱に行列ができ、通天閣バッジ、食い倒れ人形キーホルダー、大阪城Tシャツといったわかりやすい大阪グッズや阪神グッズが売れまくり、巨人ファンも阪神ファンに鞍替えし、通行人の服装も白と黒の縦じまスタイルが増え、六甲卸しを歌いながら大阪名物パチパチパンチを披露したりする有様で、このままでは日本の首都が大阪となってしまいかねない勢いだった。

 ついでに「あずまんが大王」が時期外れのブームを呈しており、春日歩こと大阪の人気だけがうなぎ上りだというのも奇妙な現象の一つに数えられる。

「まったく……街中どうしちゃったのかしら」

「ええことや。みんなやっと大阪の魅力に気がついたんや」

「いやどう考えてもおかしいでしょ」

 すっかり大阪一色に染まった通りを歩く学校帰りのリアと明石焼き。

 今日の授業でも社会の先生が現代の大阪について詳しく説明しだしたり、歴史の先生が大阪の誕生と発展を延々と語り、英語に至っては関西弁への翻訳が盛り込まれたりしたのを思い出し、さすがに頭が痛くなってきたリアは、ふと隣を歩く友人の胸元に眼が向いた。

「あんたそのブローチ、最近ずっと身につけてるわね」

「ん? もらい物やねんけどな、なんやしらんけど、これを付けてるとええ気分になってくるねん。発想が湧き上がってくるゆうんか……なんでもできるんやないかっていうオーラが発散しそうな、そんな感じや」

「そんな感じって言われてもさっぱりだけど……それ誰にもらったのよ」

「一週間前にヴィエちゃんがくれたんや」

 瞬間、電光の閃きが脳裏を貫いた。

 そのまま一目散に駆け出したリアは、ただひとつのことを確信して思った。

 ――ヴィエの仕業だ。


「痛い痛い、リアさん耳ひっぱらないでー」

「うるさい! なにとんでもないことしでかしてるのよ、あんたはっ」

 ヴィエの耳たぶをつねって怒りをあらわにするリアは、思わずめまいがしそうになってきて溜息をついた。

 明石焼きが肌身離さず持っていたブローチはレン高原とやらの縞瑪瑙で、この世界においては所持している者の認識力と思考力を著しく拡大させ、その者の意思や性質に合った事象が周囲を侵食して変貌させていくのだという。

 この世界とは異なる幻夢境という異世界の物理法則が所持者の頭脳を侵食して体をも蝕んでゆき、周囲を所持者の望む姿へと造り変えていくらしい。ゆえにレン高原の縞瑪瑙を覚醒世界で所持する者は、使用時以外は魔術による封印を施しておくのが常である。

「それで、この事態を収拾するにはどうすればいいの?」

「もう少しデータをとりたいんだけどなあ……面白そうだし――あいだだだっ」

 さらに耳を強くひねられ、ヴィエが涙声を上げた。

「わ、わかったから手を放して。彼女から縞瑪瑙を取り上げれば解決するからー」

「最初からそう言いなさいよ。よし、じゃあ行くわよ」

「やっぱりわたしも?」

「当然でしょ」

「はーいはいはい、しょうがないなあ」

 苦笑してリアの後に続くヴィエ。縞瑪瑙はどのみち回収するつもりだったので、リアが率先してやってくれるなら人任せにできる点で楽だ。


「ふっふっふ、よくここまで来たな、褒めてやろうー」

 公園の噴水前に立つ明石焼きは、リアとヴィエを前にして棒読みで不適に笑った。ちなみに呼び出されたのは明石焼きのほうなので、セリフとしては矛盾している。ただ単に言ってみたかっただけだろう。

「えーと、あのね明石焼き、あんたを呼んだのは……」

「このブローチは渡さへんでー」

 出し抜けに会話の機先を制され、リアはうろたえた。

「今のあたしにはわかるんや。リアっちやヴィエちゃんが異能者っちゅうことも……見える、あたしには見える。明らかや、呆れるほどに明らかやー」

 ゆったりとした関西弁をうわずらせる明石焼きの胸元で、異界の縞瑪瑙が不気味なまでに発光していた。

「ありゃ、もうだいぶ侵食されてるみたい。リアさん、早く何とかしないとまずいことになるわよ?」

「あんたの責任でしょーが! くそっ、冗談じゃない……てゆーか明石焼き! あんたいったい何がしたいのよ!?」

「ええやろ、リアっちには話しといたるわ」

 フフフという擬音が浮かびそうな物言い。サイモンさんが悪役の真似をしたらたぶんこんな感じなんだろうなと、リアはどうでもいいことを思った。

「あたしの成すこと、それは人類大阪計画。――全世界を大阪化するんや」

「は?」

 呆気にとられるリア。こいつはなにをいっているのだろうか。

「水、食べ物、空気……人が生きていくためにはいろんなものが必要や。ほんならやー、あとひとつくらい増えたってええやん? 世界は大阪のもとに統一され、大阪魂に昇華される。すべての人間が大阪人になれば地球上から争いはなくなるー」

 いやそのりくつはおかしい。

 そんな突っ込みもあまりの荒唐無稽さに引っ込む、なんという思考、なんという壮大さか。

「なんだか面白そうねえ――むぎゅぅぅぅっ」

 愉快そうに感心するヴィエだが、リアにほっぺをつねられて涙目。

「それで、その後あんたはどうなるの」

「あたしは大阪新世界で、大阪化した地上の秩序となる」

 新世界とは大阪市浪速区恵美須東一丁目から三丁目にある歓楽街のことを指し、界隈に通天閣やジャンジャン横丁があることで知られる一種独特の領域で、明石焼きの生まれ育った場所でもある。

 いまや地球皇帝にも匹敵する物々しさを備えた――ように見える明石焼きが、大仰な仕草で、両手をゆっくりと天に伸ばした。

「あたしは新世界の神になる!」

 大胆不敵、傲岸不遜、電光石火の発言に、リアは無言でスカートのポケットから一枚の護符を取り出した。紙片が水平に飛翔し、まだ自分に酔っている明石焼きの額に張り付く。

「被甲護身!」

 自身の防御の他に、対象にかかった術や憑依などを討ち払って正気に戻す効果がある――はずだったが、一瞬で護符がぼうっと炎上消滅して、明石焼きがにやりと笑んだではないか。

「無駄だってばリアさん。幻夢境の物理法則に浸食されてる彼女を元に戻すには、あの縞瑪瑙を直接奪い取るしかないわよ」

「だったら――オン・キリウン・キャクウン ノウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャダソワタヤ・ウンタラタカンマン!」

「あうっ!?」

 キンと空気が張り詰め、明石焼きの体が見えない何かに束縛される。不動金縛りの術だ。

 これは効果があったようで、不自然なポーズで彫像のように固まった自称新世界の神が、必死に全身を動かそうと苦悶の表情を浮かべている。いまのうちとばかりに明石焼きへ疾走するリア。

 その直後。

「まだや……まだ終われへん!」

 忌まわしきレン高原の縞瑪瑙がまばゆいばかりの閃光を迸らせ、その所持者を中心とした半径の空間が軋んだかとみるや、とてつもない波動となって拡散したのだ。彼女の周囲にあったものはみな吹き飛び、リアとヴィエも公園外の壁に叩きつけられた。

 そして見よ、圧倒的な存在感を伴って膨れ上がる魁偉なオーラと、瞬く間に街を覆い尽くす異質な空間。腰をさすりながら顔を上げたリアの眼に映った「もの」は――

「あたしは新世界の神……ゴッド・明石焼きなりー」

 四頭身にディフォルメされた、両目が白抜き眼の微妙にファンシーな少女の姿は、全長二〇〇メートルの巨体でそびえ立ち、そのシュールな偉容から重低音の声を街全体に響かせた。

 なんの冗談かと唖然とするしかない光景に、ゴッド・神取みたいに不気味じゃないだけましかなと、半ば現実逃避でとりとめもないことを思うリアだった。

「あーあ、とうとう体まで変容しちゃったか……仕方ない、一旦離脱ね」

 淡々とつぶやき、ヴィエはナイトゴーントを呼んだ。空間から現れた一匹の夜鬼が召喚者を背中に乗せると、やや放心気味のリアの肩を掴んで上昇し、音もなく漆黒の翼を羽ばたかせてその場を飛び去っていった。


 薄暗くなってきた空の下、ヴィエの邸宅を囲む庭にアンティークランプの明かりが灯る。

「えらいことになったわね……固有結界みたいなもので街全体が覆われているようだから、他の町からは普通の光景にしか映ってないと思うけど」

 現状の把握を終えたリアがうんざりしたように頭をかいた。巨大化した明石焼きはのっそりと気の向くまま無意味に移動中で、そのたびに街中から悲鳴が上がって前代未聞のパニックを引き起こしている。外部の連絡は通じず、警察所は巨大なたこ焼きに包まれて行動不能になっていた。前向きな一部の能力者たちは独自に事態を解決しようとしているが、何しろ相手は全長二〇〇メートル、しかも異界の物理法則に護られているためどうしようもない。

「いやー、なんかすごいことになってるっすねー」

「サイモンさん、こんなときに暢気にカレー食べてないで!」

 立った状態でもぐもぐカレーを食しているグラサン男に突っ込みを入れてから、本当に解決法はあるのかと向き直るリア。チェコ第五の魔道士は澄ました顔で頷いた。

「うん。これだけ事象を塗り替えれば必ず反作用のあるひずみが生じるはずだから、それを特定するの」

 そう説明して、濃密な魔力の展開を始めるヴィエ。

「プラネタリウーム・ド・マリニー」

 ド・マリニーの時計――象形文字の刻まれた棺形の時計が奏でる異様な音色が、宇宙的な尋常ならざるリズムをもって真実を指し示す。

 奇妙な象形文字群が刻まれた文字盤の上をすべる、地球上のいかなる時間計測法にも従わない四つの針の奇妙な動きを、じっと見つめたとき、ヴィエの脳裏に明確なヴィジョンが途方もなく鮮明に投影された。

「視えた!」


 御納戸町の片隅にある五階建てのホテルに三人はいた。四〇三号室の前で立ち止まると、先頭のヴィエがドアノブを回す。当然ロックされているが、彼女の手に魔力が溢れるや、カチリと音が鳴った。開錠の魔法だ。以前リアが彼女に自宅へ不法侵入されたときもこの手段で正面から入られた。しかもちゃんと術による対策を施していたのに簡単に解除されてしまったのだから始末が悪い。

 とりあえず非常事態ということで眼前の行為に眼をつぶるリア。良心が痛んだ。

 明かりのスイッチをオンにすると、部屋は無人だった。

「誰もいないわね。ここに事態を解決させる何かがあるっていうの?」

「そうだよー。さっそく調べてみましょ」

 あまり広くない室内を見渡すと、小机の上に数枚の用紙を見つけた。走り書きの手記らしく、内容は次のようなものであった。


  私の名前は麻生香月といい、大阪から来た十七歳の女子高生だ。私はいま、それとわかるほど神経をはりつめてこれを書いている。今日の夜までには、もうこの世にはいないだろうから。私はこの四〇三号室の窓から、眼下の汚らしい裏通りに身を投げ出すことになるだろう。とり急ぎ記すこの書きつけを読んでもらえれば、十分に理解してもらうことこそかなわないにせよ、私が死を、どうあっても必要としなければならない気持ちを、あるいは察していただけるだろう。

  私が今日、御納戸町へやってきたのは、中学の時からの親友に会うためだ。親友は半年ほど前に家の事情でこの町へ引っ越していった。頻繁に会えなくなったといっても、互いの親睦にはいささかも変化はなく、それならばと彼女の名字にちなんだこの季節に会いに行こうと思ったのだ。もちろん事前連絡はしていない。突然に驚かせてやりたい、ただそれだけの、子供のような私のいたずら心を、きっと彼女はぼんやり困ったような表情を浮かべながら、それでも温かく笑い返してくれるに違いない。

  そう思い描いて、この町へ足を踏み入れたとき、私は自分がどこにいるのやらさっぱりわからなかった。初めて訪れる町は異質な空気に包まれており、何やら形容しがたい、困惑の連鎖ともいうべき、甚だ首をかしげる騒ぎに陥っていたのだ。

  するうち、突然、私は見た。そいつは陽の落ちた空をのっそりと横切って姿をあらわした。アニメを思わせるそのディフォルメされた巨体は、ギャグ調にあらわれる途方もない超展開のように、ああ、なんということか、それは私の親友に恐ろしいまでに酷似していたのだった。その瞬間、私は正気を失ったようだ。

  血迷って斜面と街路を駆け走ったこと、無我夢中でこのホテルまで辿り着いたことについては、ほとんど何もおぼえていない。空耳ケーキをうたいつづけ、うたえなくなると莫迦笑いしたような気がする。

  意識をとりもどしたとき、私はうつろに考えた。これはなんだろう、中学二年のとき親友に、その場のノリで今に至るまで変わらぬあだ名をつけたことに対する怨念が形となったのだろうか。だが、私はそのとき本当に彼女の恋を応援しており、あだ名をつけたのも彼女が大切な親友であったがゆえだ。それとも彼女の恋が成就したと勘違いした私が、自分も彼氏ができたと、喜び勇んで伝えてしまったことを根に持っているのだろうか。しかし私もたった三日でその彼にフラレてしまったのだから今更蒸し返されるようなものでもないと思うのだが。

  なんにせよ、私はいま、参考になるか嘲笑の種になるかはわからないが、十分な弁明をここに記しおえた後、何もかもにけりをつけようとしているのだ。そうだ、そろそろけりをつけてしまおう。ドアが音をたてている。何かつるつるした巨大なものが体をぶつけているかのような音を。ドアを押し破ったところで私を見つけられはしない。その前に私はタミフルを飲んで、奇声を発しながらあの窓から転落死するのだから。いや、そんな! あの手は何や! 窓に! 窓に!



 手記はここで途切れていた。

 ふと目をやると、カーテンに閉ざされた窓。意を決し、リアが前に進み出た。ごくりとつばを飲んだ。さっと左右に開いた。そこには――


『アホが見〜る〜』


 そんな一文がでかでかと書かれた紙が貼られてあった。

「……」

 いまどき子供でもやらないようなイタズラに、こんな状況で引っかかってしまい、リアは無言で立ち尽くした。コメントが思いつかない。背後の二人も空気を読んでくれたようだ。

 ふと眼を落とすと、小机のそばにリュックサックが置いてあった。

 手を伸ばそうとしたとき、ドアの開く音がした。

「リュック忘れてたー! えへへ、香月ちゃんしっぱいしっぱい♪」

 明朗快活をあらわしたような声で入ってきた人影。十代半ばだろうか、頭の両側で黒髪をくくった少女だった。互いに見合わせた。先に声を出したのはその少女のほうだ。

「あちゃー、引っかかっちゃいましたか!? いやもー、ほんとにごめんなさい! でもビックリしたのは嘘じゃないんですよ? 御納戸町はたまに不思議な事件が発生する町だって聞いてましたけど、まさか自分の親友がディフォルメ巨大化してるなんて、まさに驚き桃の木山椒の木! だからついホテルに閉じこもってそんな手記ネタを……あっ、最後の文章のところ、何か気づきませんでした? 出だしで大阪から来たって書いてるのに、なんで文体が標準語なんだよーって思わせておいて、ラストの緊迫したところで、「あの手は何や!」って大阪弁が出てしまう部分、焦燥感が出ていていいと思いません? 思いませんですかちくしょーっ!」

 怒涛のようなマシンガントークにぽかんとする三者。

 しかもまだ終わる気配がないようなので、そそくさとリアが話の腰を折ってのけた。

「あのー……ご静聴できなくて申し訳ないんだけど、あなた麻生香月さん?」

「むむっ、なぜに私のフルネームを? そうか、さてはあなたエスパーですね!? こいつはしまった、ここ一年間で三度も男にフラれていまだちゃんとした彼氏ができてないなんてことがバレてしまうっ。うわー、恥ずかしいなあもう」

「えーと……あの、あなたの親友って明石焼きですよね? 本名が秋霜止の」

 途端、ハイテンションで喋りまくっていた少女がきょとんと眼を丸くした。

「手記には書いてなかったのにどうしてその名前を……あれ、よく見るとあなたの特徴……やや、もしかしてあなたがリアライズ・羽丘さんですか?」

「えと、うん、そうだけど」

「なるほど、ザ・ワールド! そして時は動き出す。――や、申し遅れました、私は麻生香月いいます。明石焼きの親友です」

 びしっと敬礼して、少女は明るくほほえんだ。


 十メートルはあろうかという白目が、眼下の見知った数名を睥睨した。

 その中に中学時代からの親友を見つけて、重低音の声が揺れた。

「わ〜、香月ちゃんや、いつこっちきたん?」

「今日や今日。突然来て驚かせたろう思うてたんやけど、こっちが驚いてもうたで〜。や、それにしてもえらい格好になってるなあ」

 感心というか若干呆れた眼差しで親友の巨体を見上げる麻生香月。

 その後ろで事の成り行きを見守るリアは、本当に彼女が事態を解決する鍵になるのか固唾を呑んでハラハラしていた。ヴィエとサイモンはどちらかというと観賞気分だ。

「ふふふ、今のあたしは新世界の神……ゴッド・明石焼きやねん。全世界が大阪化したあかつきには、香月ちゃんにはローゼン麻生ってソウルネーム付けたるわ」

「それは遠慮しときますわ。ふーん、ゴッド・明石焼きねぇ……へーえ」

「むー、なんやの、その鼻持ちならへん人を小馬鹿にしたような顔ー。言いたいことあるんならはっきり言ってやー」

「じゃあはっきり言うわ。――何が新世界の神や。あんたは甚だしい勘違いをしているっ」

 バックに「ゴゴゴゴゴ」と独特の擬音が浮かぶ。

 俗にいう『ジョジョ立ち』ポーズでビシッと指を突きつけ、

「ゴッドは英語で、明石焼きは日本語や!」

 と、麻生香月は言った。「ドオォーーン」という擬音がどこからともなく発生した。

 すると、おお、明石焼きが悲鳴を上げて苦しみだしたではないか。形容しがたい絶叫が緩やかな割れ鐘のように響き渡り、異質な空間がぐにゃりと歪み始める。それはあたかも天上のトランペットが吹き鳴らされ、地上を襲うアーマゲドンの合図であるかのようだった。

「よし、幻夢境の物理法則を維持する楔に綻びができたみたい」

「それはいいけど、このあとどうするのよ」

 そのとき、天空から一条のきらめきがヴィエとリアの間に降り注いだ。彼方を見ると、御納戸町から距離を隔てた二箇所から、淡い光の筋が空に昇っている。ふたすじのきらめきは途中で二重螺旋のごとく絡まり合い、この町へ流れ込んでいた。

 溢れだす淡い光の根源地――それは秋葉原と日本橋のオタロード。

 アキバとバシ。根付く意識は違えども願う心はひとつ。

「わわわっ、なんだ、俺の体がふわふわとっ!?」

 突然、サイモンの身体が地上三〇〇メートルの高みにまで浮かんだ。

「事態の収拾まで所持者の性質に合わせたやり方になるわけね。それじゃリアさん、仕上げいくわよ♪」

「何が何だかわからないけど、オッケー!」

 合わせ鏡のように両手を向ける二人の少女。そこに集まる純然たるきらめきが、見る間に大きな光球となっていく。そして――

「サイモンくーん、みんなの想いを」

「受けとめてー」

 ヴィエとリアが最後に「えーいっ」と声をそろえて、膨張しきった光の玉を撃ち放つ。逆放物線を描いて飛翔したそれは、遥か高みに浮かぶサイモンの全身を飲み込んだ。

 その光景を見上げて驚愕の表情を浮かべる明石焼き。

「こ、この光は!――やらせはせへえんーっ」

 突き出した手の平から現れた通天閣が投槍のように飛んだ。先端が光球に突き刺さった瞬間、光の粒子に浄化されて塵と消える。まばゆい輝きが収まったとき、彼女達は見た。

 立体化した巨大な『萌え』という文字を両手で掲げ持つサイモンの姿!

「くらえ! 俺たちの、俺たちの……俺たちの未来をぉーーーーーーーーッ!」

 万感の意志を乗せて放り投げられた、燦然ときらめく想いの結晶。

「コスモよぉぉーっ!」

 明石焼きが両手を左右に広げると、WTCコスモタワーが彼女の正面に盾となってそびえ立つ。西日本一の高さを誇る、住之江区南港コスモスクエア地区のシンボルだ。

 しかし! 

 一直線に飛来した『萌え』は、三六〇度全面ガラス張り回遊式の展望台を粉砕して突き抜けた!

 その威力、その衝撃。とてつもない爆風が巻き起こり、サイモンは地上に吹き飛ばされ、ヴィエたちはナイトゴーントに掴まって難を逃れた。爆風が収まったとき、勝敗は決していた。立体化した『萌え』が、明石焼きの胸元にあるブローチ――縞瑪瑙に突き立っていたのだ。縦に亀裂が走り、パキッという音と共に真っ二つに割れた。凄まじい断末魔を上げて爆発炎上するゴッド・明石焼き。お約束である。

 二つに割れた縞瑪瑙の片方が、塵と化していく巨体に吸い込まれ、純白の粒子が飛沫となった。はじけたきらめきの粒が巨大化する前の少女の姿を形成して地に横たえた。

「明石焼き!」

 真っ先に駆け寄って抱き起こしたのは麻生香月である。

 うっすらとまぶたを開けた明石焼きが、ぼんやりした視界に親友の姿を捉え、

「香月ちゃん、おはよーさんやあ」

「あほかっ、今は夜やってば」

「そうなん? あれー、なんであたしこんなとこにおるん……?」

 状況を理解できずに首をかしげる。どうやらおかしくなってからの記憶は残っていないらしい。

 街全体を覆っていた異質な空間も消えた。壊れたものはすべて元通りになり、人々の記憶もきれいさっぱり失われる。今回の事件を覚えていられるのは一部の人間だけだ。

「あー、つかれた」

 どっと息を吐いてアスファルトに腰を下ろすリア。遠くでは気絶したサイモンがポリバケツの山に埋もれている。ヴィエが、吸収されずにすんだ、もう片方の縞瑪瑙を手にして軽く肩をすくめた。

「データもとれたし、半分残っただけでもよしとするかなあ」

 これはヴィエだけが知り得る事だが、吸収されたほうの縞瑪瑙は完全に明石焼きと同化している。

 実はレン高原の縞瑪瑙に完全に侵食された者は、それを失うと変容した体を維持できなくなる。本来なら爆発炎上した時点で明石焼きの死が確定していたのだが、『萌え』の粒子が縞瑪瑙の欠片と溶け合って、それが奇跡的にも彼女の肉体を再構成したというわけだ。

「終わりよければすべてよし、と」

 どこか楽しそうに眼を伏せるヴィエだった。

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