『聖地』(2009年10月31日)

矢口晃

第1話


とても、美しい世界でした。まるで、夢のようでした。夢、とは一体、どんなものなのか私には定かではありませんが、夢、というものが、一般に美しいもの全般を指す言葉であるならば、それはまさしく、夢だったに違いありません。

 夜の遊園地のメリーゴーラウンドのように、目の前を回る、赤や、黄色や、白や、オレンジや、地球上の、ありとあらゆる色彩が、すぐ目の前を、間断なく通り過ぎて行くのです。そしてまた、通り過ぎていくばかりではない、その後からはすぐにまた別の色彩が、きらきらとまどろむような輝きを放ちながら、前の色彩にぴったりと寄り添うように後から、後からいくらでも続いて来るのです。

 そのあまりの恍惚感に、しばらくぼんやりとたゆたうように浸っていると、ああ、さらに美しいことには、さっきまで秩序立って流れていた色彩の帯から、ひらり、またひらりと、何とも幻想的にその色のいくつかが剥落するではありませんか。私は思わず両手を合わせて神に祈りました。あるいは、神がこの世に降臨され、その呪文によって天と地とが創造される際、このように美しい火花が、世界全体を包み込んだのかもしれません。

 水は、豊富にもたらされます。私が水が欲しいと思えば水が、お湯が欲しいと思えばお湯が、どれだけでも、私が望む限り際限なく地の底から湧き上がって私の前に清らかな聖なる滝となって現れるのです。もはやそこには、私たちの生活を幼少の頃から苦しめた、あの枯渇した世界はありません。古くからの言い伝え、神によって恵まれた一個の魔法の壺によって、数百年来乾ききった大地の真ん中に、突如としてオアシスが形成されたという、まさにその神話のよう。

 私を取り巻く聖なる部屋の壁の内には、ああ、見渡す限り清く尊き聖典の文書が、いにしえびとの聖なる文字により筆写され、壁一面を埋め尽くさんばかりに、隙間もなく掲げられている。憩いを求める人々はこの世界を自由に訪れ、憩いを得たる人々と、次々にその座を交代してゆくのです。そこに言葉はない。神の教えに忠実なる、敬虔たる信徒たちよ。得たる者はいまだ得ざる者に、見返りも求めずにその権利を譲る。拈華微笑、以心伝心、神の教えが具現化された世界、それを夢と言わずして、一体何と呼びましょう。

 色取り取りの、五万の色彩の帯――ああ、それさえ今は、これがかの三途の川かと見紛うくらい、その色彩の帯の向こうには、全身に潔白の白色の着衣をまとった神の使い、両の掌を軽く擦り合わせればたちまちに生まれる色彩の滴。それが大河の一滴となって目の前を流れる色彩の帯に投入されるのです。

 一本の導火線に火を点けると、火は夥しい量の火花をこぼしながらどんどんもう一方の端を目指して進んで行く、まるでそのこぼれた火花のように美しく剥落した色彩を、この世界の人々は自らの口の中へと運んで行く。神は空気を召して生きられるとの教え、それならば、まさにこの世界の人々は皆がその神であるかのうよう。五万色の色を、さも当たり前であるかのように、静かに、黙って口の中へと運んで行く。

 彼らの口に入れているのは、光彩を放つ尊き経文に違いない。それを証拠に、ああ、経文を摂取した彼らの前には、やがて堆く積まれる無地の経典。十枚、二十枚と、彼らは静かに、ひたむきに功徳を積むのです。

 部屋の中には蠟を焚いた後の、あの鼻に抜けるような甘酸っぱい匂い。色彩の帯を隔てたるあの全身純白の信徒のしばしば唱える「ヘイラーシャイ」というあり難き念仏。

 夢、とは一体、どんなものなのか私には定かではありませんが、夢、というものが、一般に美しいもの全般を指す言葉であるならば、それはまさしく、夢だったに違いありません。

 違いありません。

 えっ? カイテンズシ?

 いいえ、先生。私が東の果ての国ジャポンで見てきたものは、決してそのような名前の場所ではありませんでした。

 あそこはまさに、神と、またその敬虔なる信徒たちが集まる、地上の聖地でした。

 カイテンズシなどという、そのような言葉は、誰一人として用いてはおりませんでした。

 そうです。ヘイラーシャイ。

 あれは、ヘイラーシャイという名の聖地だったのです。

 そうです。そうに違いありません。

 そうでなければ、どうして、どうしてあのような、美しくまた争いのない世界などが、存在しえましょうか。



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『聖地』(2009年10月31日) 矢口晃 @yaguti

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