第3話 灰色のガチョウ(前)

 私は振り返ることなく、意識を背中にこれでもか、というほど集中させていた。なぜなら、振り返ってでもみて、向こうに非現実的かつ非科学的なモノなりヒトなりがいたら発狂してしまう自信があったからだ。そう。普段の私ならば、向こうからやってくるヒト(なのかどうかは定かではない)になんか目もくれず、足早にここを立ち去る。しかし、なぜか私の後ろ髪は引かれているのだ。こんな夜更けに、誰もいない公園にやってくるヒト(であると信じたい)は、一体どんな人物で、どんな風貌なのか。よし。私は向こうからやってくる人の顔だけ確認して、すぐに帰宅することを決めた。それにしても、こんな夜更けに、誰もいない公園で女性一人というのは、少しばかり危険な匂いがする。チープなB級ホラー映画の冒頭にでも使われていそうなシーンである。きっと次の場面では私の変死体がスクリーンに映し出されて、観客を戦々恐々させるはずだ。


 さて、私がそう葛藤の渦でもがいている間にも、足音はみるみる近づいてきていた。軽快な革靴の音がよく響く。先ほどまでは気にもならなかったあたりの静けさが、今となっては妙に気味が悪くなっていた。ぼんやりと。濃い闇の中で、ゆらりと影が動いているのが見えた。しかし闇があまりにも深いため、はっきりと姿を捉えることはできなかった。私は街灯の一つも設置していないこの公園に腹を立てた。私は帰宅後、市役所にでも苦情の電話を入れることを誓った。靴の音とともに、近づく影が上下に動く。多分、男性だろう。私は暗闇の中で次第に大きくなってく影のサイズから、暫定的に性別を定めた。いや、大柄な女性だったら大変申し訳ないのだが。それにしても、男か。危険度がぐっと増した気がした。私は音を立てないように、後ずさりながら、自分のことは棚にあげて、こんな時間にこんな場所を一人でふらつくヤツはどんな面構えなのか、確かめる気でいっぱいだった。


 接近してくる影の中から突然、きらりと何かが光った。本当に小さな光が見えたり、見えなかったりしていた。人の形をした影の、中間くらいからそれは伺えた。手に何か持っているのだろうか。ひょっとしてナイフとか。いやいや、まさかね。きっと腕時計かアクセサリーの類だろう。私はそうして自分を宥めすかす。大丈夫。いざとなったら、私は走り出せばいいのだ。向こうは革靴、まともに走ることは難しいはずだ。


 雨雲に阻まれているせいか、すっかり弱気になってしまっている月は、それでも非力な私を慮ってか、必死に男性を照らしてくれていた。おかげで徐々に彼の風貌がわかってきた。黒か、濃紺のスーツを纏った男性だ。歳の頃は表情から察するに、三十半ば、または後半、といったところか。私と目が合うと、口角をあげて小さく会釈をしてくれた。私も思わず、つられるように頭を下げてしまった。温和な方にみえる。彼からしてみれば、橋の上からじっと凝視してくる女(私)の方がよっぽど不審者にみえたに違いない。


 なんとも優しそうな、中年の男性だった。私はもっと、目をギラつかせた性犯罪者のような人物を想定していたためか、少し肩を落とした。さーてと、帰るかな。私はもう満足だった。あとは男性に背を向けて、この場をあっさり立ち去るだけだった。しかし、それは全く残念なことに、くっきりと、はっきりと、私の視界に入り込んでしまった。


 ナイフだ。


 男性は右手に、鈍く銀色に光る、ナイフを握っていた。その瞬間、私はまるで金縛りにでもあったかのように、微動だにすることができくなっていた。はやく逃げなきゃ。頭では十二分に理解しているが、身体は全く動かなかった。私の筋肉という筋肉が硬直している間にも、男性はぐんぐんと距離を詰めてきていた。あ、ヤバイ。これは全くの偏見かもしれないが、ああいう温和そうな人が意外や意外、猟奇的な殺人者だったりするのだ。私は脳内から、けたたましいぐらいの警告アラームが身体中に鳴り響くのを感じていた。でもいかんせん、身体が言うことを聞いてくれない。お腹と背中がじりじりと熱くなる。どうしよう。あー。もしかして、もしかするのかな。殺されるのかな。私は翌朝、若い女性アナウンサーが「◯◯公園で、女性と思われる変死体が発見されました」と、私の訃報をテレビで読み上げるところまでイメージできた。


 気がついたら男性はもう、あと数歩で私を刺し殺すことができる位置にいた。私はこれでもか、と熱心に神様に祈りを捧げ、助けを求め、それから自分の両親にも心の中で謝罪の念を述べた。私は親より先に死んでしまう親不孝者です。それでも今まで育ててくださり、本当にありがとうございました。


 そうっと、閉じていた眼を開けると、私の目と鼻の先には男性が立っていた。しかし、彼は私を刺殺するのではなく、そこにじっと立っているばかりだった。私が祈りと謝罪を終えるのを待っていてくれたのか。なんて慈悲深い方なのだろうか。私は目尻から涙が溢れそうになった。いやいや、違う。これは錯覚だ。きっと吊り橋効果みたいなものだ。殺害される前の緊張感ゆえ、少し優しくされただけでほだされてしまう、みたいなやつ。


 ところが男性は私には目もくれず、ずうっと橋の先を見つめていた。これから犯すであろう罪を前にして想うことでもあるのだろうか。だが私には関係ない。ちくしょう! もしも私を殺してみろ。お前とお前の子孫を七代先まで呪ってやるからな! 私は怒鳴り散らした、もちろん心の中で。しかしこう、いざ死を目の前にすると、案外いかにもな捨て台詞しか出てこないものなのだな。私は自身の貧相なボキャブラリーを、迫りくる死の恐怖のせいにした。しかし、何ということだろうか。彼は一向に私を刺さない。もういっそのこと、ぶすりと、一思いにやってくれ! 私はもうこの恐怖と緊迫を綯い交ぜにしたような重圧に耐えきれなくなっていた。喉が異様に渇く。もう喉が食道にへばりついて、声なんか出そうにもなかった。毛穴という毛穴から汗が噴き出る。私は限界だった。


「あのう、」


 それはあまりにも小さく、掠れた声だった。


「そんなモノを持って歩いていたら、捕まってしまいますよ」


 私は言ってしまった。この後、私は一体どうなってしまうのだろう。彼を怒らせてしまったのだろうか。逆上した男性に弄ばれて人生を終えるのだろうか。一秒が、誇張表現なしに、永遠のように感じられた。私はいつ、この重圧に負けて意識の糸を手放してもおかしくない状態だった。それでも必死に、ただひたすら彼からの返答を待っていた。


「あれです」


 男性特有の低い声が、私の耳に届いた。私は未だ、無傷でいた。彼は私を刺すのではなく、代わりに湖畔のあたりを指差していた。私は彼の指すところに目をやるも、そこには何羽か、鳥が佇んでいるだけであった。


「あの鳥ですね、いただきたいな、と思ってまして」


 ガチョウの群れ。湖畔には白いガチョウが、優雅に湖のほとりをただよっていた。しかし、彼が指差したのは群れる白いガチョウではなかった。白いガチョウに混じる、珍しい毛色をしたガチョウ。それは灰色のガチョウだった。



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