50 暗転2

「――ん? どうした?」

「んーっ、んーっ」

「何だ、何かあるのか?」


 夏樹の必死な様子に、男が噛ませていた猿ぐつわを外した。


「――――っ」

「大きな声は出すなよ」


 大声で助けを呼ぼうと大きく息を吸った夏樹の首に、刃物のような冷たい感触のものが当てられる。夏樹は息を吸い込んだまま、動きを止めた。


「……トイレ、に、行かせて……ください」


 夏樹はトイレに行きたいとだけ、ようよう絞り出すように言った。






「トイレだって?」


 先程出ていった男が部屋へ戻ってきて、夏樹の状況を知らされると戸惑ったような声を出した。用心のためか、わざと声音を変えており相変わらず誰なのかはわからない。

 男は夏樹の頭を冷やすために保冷剤を取りに行っていたらしく、今夏樹の頭には彼の手によって保冷剤が当てられている。

 拘束を解いても大丈夫なのか、男から逡巡している気配が伝わってきたため、夏樹はさもトイレに行きたくて堪らないように、モジモジと腰を動かした。


「早く連れて行った方がいいんじゃないか?」


 夏樹のことを拉致した方の男が、夏樹の様子を見て心配そうに声をかける。

 これは夏樹にとって手足を自由にできるかもしれないチャンスだ。この機を逃せば今度はいつそんなチャンスが訪れるかも分からない。

 夏樹は本当に切羽詰まったように、ベッドの上でモジモジと体を捩った。


「あの……トイレ……お願い」


 一瞬、夏樹の頭を冷やしている男の手がピクリと動く。

 諦めずに腰をくねらせてトイレに行きたいアピールを続けていると、夏樹の必死の願いが通じたのか、男のため息とともに夏樹の足の拘束が解かれた。


「変な気は起こすな」


 声音は変えていても凄みのある低い声に、夏樹が首を何度も縦に振る。

 足の拘束は解かれたが、手の自由は奪われたままだ。また、足が自由になった夏樹が逃げ出さないようにだろう、今度は腰にロープが巻かれた。





「あの……」

「どうした? すぐ目の前にあるのがトイレのドアだ」


 閉じ込められていた部屋から出され、トイレまで連れて来られたのはいいが、目隠しをされた上に後ろ手で両手を縛られた状態で、どうやって用を足せというのか。


「ああ、そうか」


 何かに気づいた男がトイレのドアを開けてくれた。


「逃げようとして無駄だ。ドアは少し開けておく」


 男がそう言って夏樹の腰に繋いだロープを引っ張る。


「行かないのか?」

「いえ、あの……手」

「手?」

「手が、これじゃ……できない、です」


 解くのが無理なら、せめて前に縛り直してくれると助かるのだが。夏樹は困ったように、背後の声のする方を振り返った。

 夏樹の手を解いてくれるのだろうか、男の近づく気配がする。


「すみません、これ解いて……」

「――仕方がない」


 後ろ手に縛られた手を解いてくれるのだと思った夏樹が、背中越しに腕を持ち上げる。だが男は夏樹の腕は掴んだが、そのまま一緒にトイレの中に入ってきてしまった。

 男の手が背後から腰に回され、夏樹のズボンのベルトに掛かる。


「――え、えっ!? 何ですかっ」


 予想外の出来事に、夏樹があわあわと慌てている間にも、男の手でベルトが外されてしまう。さらに男の手がズボンのファスナーに触れた所で、夏樹は慌てて腰を引いた。

 あまりの夏樹の慌てように男の手が止まった。


「あ、あのっ、止めてください」

「どうして? 我慢しているんだろう?」

「それよりも、手……手を」


 手を解くか、前に縛り直してくれと夏樹が訴えると、男はしばらく考えるように口を噤み、そのまま何も言わずに夏樹の手を解いてくれた。


「変な気は起こすな。おとなしくしていろ」

「……は、はいっ」

「ドアは閉めるな」

「……はい」


 腰にはきつく結ばれたロープが繋がったままだ。ロープを切るハサミもないし、隙をついて逃げ出すことはほぼ不可能だ。

 夏樹に逃げ出すつもりがないと分かったのか、男は夏樹一人を残してトイレから出ていってしまった。

 ロープの分だけドアは開いているが、一応個室だ。夏樹は自由になった手でそろそろと目隠しを外してみた。


(ここ、どこだろう。普通の家みたいだけど)


 もしかしたら夏樹を連れてきたあの男の家かもしれない。

 残念なことにトイレには窓がなかった。小窓だけでもあれば、脱出はできなくても外に助けを呼ぶことができたかもしれないのに。

 やはり逃げ出すことは無理なのかと、夏樹の口からため息が漏れる。


「まだか?」


 外から夏樹のことを呼ぶ声が聞こえた。だがそれは夏樹のたんこぶを心配したり、トイレにつれてきてくれた男ではなくて、最初に夏樹をここに連れてきた男のものだ。どうやら夏樹がトイレに入っている間に交代したらしい。


「遅いぞ。それと、目隠しを外すな」


 トイレから出てきた夏樹はドアの前に立っていた男の顔を見て、驚きに目を見開いた。だが男は夏樹に構うことなく、目隠しをしようと夏樹に手を伸ばしてくる。


「自分でしますから、だから触らないでください――青嶋さん」


 部屋へ戻り、青嶋の手で夏樹はまた元のように手足を拘束されてしまった。目隠しもだが、猿ぐつわまで先程のように噛ませようとするので夏樹は呼吸がし辛くなると言って、猿ぐつわだけは嫌だと抵抗した。

 青嶋もあまり手荒なことはしたくなかったようで、大声で騒いでも無駄だと言い含め、夏樹の言い分を聞いてくれた。


「青嶋さん」


 夏樹の呼び掛けに、青嶋がちらりと目線だけを夏樹へ向ける。


「……もう一人はどこへ行ったんですか?」

「…………」

「青嶋さん」

「君に言う必要はない」


 そう言うと無駄話はしたくないとばかりに、青嶋は口を閉ざしてしまった。まるで夏樹とは極力関わりたくないとでもいうように、夏樹と目も合わせようとしない。


 夏樹がまだ営業にいた頃、営業先のひとつだった桜が丘学院の教頭である青嶋から、かなりしつこく言い寄られていた。ホテルへ連れ込まれそうになったこともある。

 だが今の青嶋は、夏樹が話しかけても気まずそうに目を背けるなど、あれだけ夏樹に言い寄っていた男とはまるで別人のようだ。

 ここ何カ月かの間に一体何があったのか、変に自信満々で強引だった所はなりを潜め、少ない会話しかしていないが彼の声からは覇気が感じられない。

 今回、夏樹のことを部屋に監禁したことも、あまり気が進まなかったように思える。


(どうしたんだろう。もしかして誰かに命令されたとか……だとしたら、もう一人の男?)


 だが、もう一人の男は夏樹の頭にたんこぶを見つけただけで青嶋に食ってかかり、手ずから夏樹の頭を冷やしてくれた。

 そんな男が夏樹に対して危害を加えようとするとは思えない。


(もう、訳が分からないよ。それよりさっきの男はいないみたいだし、青嶋さん一人なら……)


 うまくいけば青嶋の隙をついて逃げ出すことができるかもしれない。

 夏樹はさっきトイレに行った帰りに見つけた百円ライターを、青嶋の目につかないよう、ズボンの後ろポケットからこっそり取り出した。

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