20 流されたわけじゃない!2

 夏樹が同居に承諾した後の久志の行動は早かった。

 渋る夏樹を追いたてるようにして当座の着替えなどの荷物をまとめさせると、荷物ごと夏樹を車に押し込み、一時間もしないうちに自宅へと連れ帰った。


「こういうことは早いに越したことはない」

「だっ、だからって早すぎます! 俺にだって心の準備が……」

「何か飲むかい? そこでちょっと待っていなさい」


 そう言いおいて久志が部屋から出ていく。気のせいか少し浮かれているように見える。


 二十畳はありそうな広いリビング。その中央に据えられた大きなソファの隅っこで、夏樹は借りてきた猫のように体を強張らせていた。

 座り心地がいいのか悪いのか、ふかふかしすぎる座面に体が安定せず落ち着かない。


「…………」


 夏樹は失礼にならない程度にキョロキョロと視線を動かし、辺りの様子を窺った。

 以前、同じ敷地内に芹澤が住んでいると聞いていたため、夏樹はてっきり広い庭のある邸宅にでも連れて行かれるのだと思っていた。

 だが、久志からここが自宅だと連れてこられたのは、ひと目で上流階級の人たちが住まうとわかる高層マンションだった。


 建物に入ってすぐの所で、二十四時間常駐だというコンシェルジュに同居人だと紹介され、久志の自宅内へと招かれたのだが、そこはまるで映画やドラマに出てくるような洗練された空間だ。

 根っから庶民な夏樹にはあまりにも場違いすぎて、これからしばらくここへ住むなんて実感がわかない。


「どうかしたのかい?」

「――ひっ!」


 背後からかけられた声に、夏樹は大袈裟なくらいにびくっと体を揺らした。

 そんな夏樹の様子をおかしそうに眺めながら、部屋着に着替えた久志が大きめのマグカップを夏樹に手渡す。マグカップの中にはココアが入っていて、甘い香りがふんわりと夏樹の鼻先をくすぐった。


「あ、ありがとうございます」

「もしかして緊張してる? 大丈夫。私は嫌がる君にどうこうしようとは思っていないから、安心しなさい」

「…………はあ」


 マグカップを両手で持ち、ココアを飲むフリをしながらこっそり久志のことを窺い見る。

 久志は首回りがゆったりとしたカットソーにアースカラーのコットンパンツを合わせていた。

 特にこれといった特徴のないラフな服装なのだが、これまでスーツ姿の久志しか見たことがなかったため、部屋着で寛ぐ彼の姿に夏樹は不覚にもときめいてしまった。

 顔の半分がマグカップで隠れた夏樹と久志の目が合う。

 こっそりと久志の姿を見ていた後ろめたさから、夏樹はさサッと目を逸らせた。


「夏樹」


 夏樹がまばたきをした隙をつくように間合いを詰めた久志が、ソファに腰を下ろす。

 そのまま久志は夏樹ににじり寄り、ひじ掛けと久志の体の間に挟まれてしまった夏樹は、ソファの上で身動きがとれなくなってしまった。


「こっ……や、えっ?」

「夏樹、こぼすよ」


 久志が夏樹の手からマグカップを取り上げる。

 マグカップがなくなった分だけまた二人の距離が近くなり、そうとわかるくらいにみるみる夏樹の顔が赤くなった。


「夏樹……あんまり可愛いことをしないで欲しいな。無理に君にどうこうするつもりはないと言ったけど、そんな可愛いところを見せられると我慢ができなくなってしまうんだが」

「こっ、こ、こん、のさ……ん?」

「久志、だろう? もしかして君、それはわざと?」


 頬と頬が触れ合いそうなくらいに顔を寄せた久志が、夏樹の耳朶を食むようにして囁く。

 眼鏡のフレームがこめかみに触れ、そのひんやりとした感触に夏樹の肩がぴくりと揺れた。


「――っ……ひ、ひさ……し、さ」

「うん」

「や、めて…………っ、あっ!」


 夏樹の耳の後ろに久志の唇が触れ、きつく吸い上げる。

 チクリとした痛みと痛みの中に潜むゾワリとした感覚に、夏樹は思わずあらぬ声を上げてしまった。


 耳の後ろへ施したキスの余韻を引きずるように久志が夏樹から離れる。

 体を触られたわけでもなく、耳の後ろにキスをされただけだ。なのに、すっかり蕩けてしまった夏樹は力の入らない体をソファに預け、涙で潤んだ瞳で久志のことを見上げた。


「ほら、またそうやって煽る」


 煽ってなどいない。夏樹は久志のことを見つめたままふるふると首を横に振った。

 夏樹が本気で泣きそうになっているのがわかったのか、久志は困ったような顔をして夏樹の柔らかな髪を撫でると、額に掠めるようなキスを落とし、「おやすみ」と言ってその場を離れた。


 夏樹はここへ避難をしに来たはずだ。なのにちっとも自分の身が安全な場所にいるとは思えない。

 盗聴器騒ぎが収まるまで果たして自分は無事でいられるのだろうかと、夏樹は顔の火照りが引くまでソファの座面に突っ伏した。

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