12 遺失物4

 達筆すぎて何て書いてあるのかよくわからないが高価そうな掛け軸と、品よく活けられた花が床の間を飾っている。

 十畳ほどの和室。大きな座卓を挟んで夏樹は久志の真向かいに座っている。


 久志から食事に誘われ、終業時刻ちょうどに芹澤から「エントランスで専務がお待ちです」と内線があった。

 仕事が終わった後に、夏樹が久志と二人で食事をするのはこれで二回目だ。

 外回りが多い夏樹と普段からとても多忙な久志。社内で顔を合わせるのも、どちらかと言えば久志が時間の空いたときに夏樹の姿を見つけて声をかけるというパターンがほとんどだ。


 前回夏樹が久志に連れて行ってもらったのは、何とかという舌を噛みそうな名前のフランス料理の店だった。

 後から夏樹が修一にそれを言ったら、そこはとても高級な店でしかもかなり人気店でもあるため、簡単には予約ができないところだと教えてくれた。恐らく今日連れて来られたこの料亭もそんな類いの所なのだろう。


 夏樹は心の中でそっとため息をついた。


 ――早く帰りたい。


 なれない場所で落ち着かないのももちろんだが、夏樹にはそれとは別に早く帰りたい理由があった。

 ここ数日、夏樹が残業などで帰宅が遅くなったときに限って、自宅に帰ると誰かが部屋に侵入したような気配がある。

 物が盗られただとか部屋の中を荒らされたとかいう訳ではないのだが、帰宅して部屋の中に一歩足を踏み入れたときに何ともいえない嫌な感じがするのだ。


 あくまで夏樹がそう感じるだけで、これといった実害がないため警察にも相談のしようがない。

 そのため、夏樹にできることといえば、できるだけ残業をしなくてすむように、その日に済ませておかないといけない業務は頑張って就業時間内に終わらせ、定時とともに勤務先をあとにすることぐらいだ。


 今日も早めに帰宅するはずだったのに予定が狂ってしまった。

 またあの誰かの気配の残る部屋に帰るのだと思うと、ついため息が漏れてしまう。


「夏樹? どうかしたのか? 口に合わなかったか?」


 一点を見つめたまま、卓上に彩りよく並べられた料理に箸をつけない夏樹へ久志が声をかけた。


「――え、っあ……いや、すみません。すごく美味しいです」


 あわてて料理に箸をつけ、口に運ぶと夏樹は笑顔を顔に貼り付けた。

 こんな高級な店に誘ってくれた久志には悪いが、少しでも早く自宅に戻るには目の前の料理を片付けてしまわなければならない。

 不自然に笑顔を見せる夏樹の様子に、久志は片眉を少し上げたが特に追求はしなかった。




「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」


 料亭から出た所で夏樹が久志へ頭を下げる。

 今日食べた食事は、本当ならその美しい見た目だけでなく、味も素晴らしいものだったのだろう。

 だが、誘ってくれた久志に失礼に当たらない程度に少しでも早く目の前の料理を食べてしまうことに集中していた夏樹には、それをゆっくりと味わう暇などなかった。


「それじゃあ、これで失礼します」

「待ちなさい」


 頭を上げるやいなや、そそくさとその場を去ろうとする夏樹の肘を久志が掴む。


「えっ? な、何ですか?」

「ちょっと待ちなさい。それとも何か急いで帰らないといけない理由でも?」

「…………いえ」

「それなら一緒に帰ろう。自宅まで送るよ」


 いつの間に来たのか、料亭の車寄せに来たときに乗ってきた車が停まっている。そして運転席には来たときの運転手ではなく芹澤が座っていた。


「芹澤さん?」


 時間はすでに午後十時を過ぎている。秘書の仕事とはこんなに遅くまでしないといけないのだろうか。


「芹澤は私と同じ敷地内に住んでいるんだ。君を送り届けたら、そのまま一緒に帰る」


 夏樹の疑問に答えるように、背後から両肩に手を置いた久志が耳許で囁いた。夏樹の耳に久志の息がかかり、思わず体がびくりと強張る。

 恋人宣言されてからというもの、何度となくされる久志のスキンシップだが、夏樹は未だにそれに慣れない。


 結局、上手い断り文句も思いつかないまま、気がついたら夏樹は車の後部座席の久志の隣に座っていた。


「次は和食ではない方がいいかな」


 走りだした車の中で久志が夏樹の手をやんわりと握りながら言った。

 どうやら夏樹がろくに味わいもせず、ただ料理を口に運んでいただけだったのがバレていたようだ。


「えっ、いや……本当に美味しかったで……す」


 夏樹が久志に握られた手をさり気なく引っ込めようとする。だが、反対に指を絡め取られてしまう。


「そう?」

「は……はい。すごく、美味しくて……ま、また食べたいな、なんて……」


 隣に座る久志から真っ直ぐに見つめられ、本当はちゃんと味わってなどいなかった夏樹の言葉が徐々に尻窄みになる。

 夏樹のたあいない嘘など久志にはお見通しのようで、何だか居たたまれなくなってしまった夏樹が思わず顔を俯ける。


 だが、いくら夏樹が久志から顔を逸らしたところで、狭い車内でその熱い視線から逃れられることなどできない。

 結局、自宅に到着するまで夏樹は俯けた顔を上げることができなかった。

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