6 二十年前の出来事1

「久志さん、久志さん!」


 中庭に面した廊下から母が久志のことを呼んでいる。

 今日は来客があるからと午前中の英会話と午後からの経済学の家庭教師が休みになった。


 よほど大切な客なのだろう、たまにしか帰ってこない父親が自宅に帰ってきている。

 父に来客なら自分には直接関係はないだろうと、久志は読みかけの小説を持って、こっそり自室を抜け出した。


 広い庭の茂みに身を隠しながら、裏手にある出口を目指す。

 大人たちの目を盗んで、裏口から無事脱出に成功した久志は、裏口扉に凭れて大きく息をついた。


 住宅地から少し離れた場所にある久志の自宅には、裏手に私有地である小高い山がある。久志は時おり今日のようにこっそり自宅を抜け出し、そこだけぽっかりと木が生えていない、お気に入りの場所でひとり本を読むのを楽しみにしていた。


「誰かいるのか?」


 そこには久志しかいないはずなのに、人の気配と話し声がする。

 紺野家の私有地に誰かが紛れ込んだのだろうか。久志は人の気配のする方へと足を向けた。


「おじさん、まだー?」


 声の正体は幼い子供のようだ。舌足らずな喋り方から、まだ就学前だろう。


「なっちゃん、つかれちゃったよ。もうあるきたくない」

「もうちょっと頑張ろう? あと少し行くとお家があるから。お菓子も用意してあるよ」

「ほんと? ねこちゃんもいるの?」

「うん、いるよ。生まれたばかりで可愛いよ」


 久志が茂みの陰からこっそりと様子を窺うと、くるんとした大きな瞳が印象的な天使のように可愛らしい子供が、久志の父親と同じくらいの年頃の男に手を引かれているのが見えた。

 確かに、ここからしばらく歩いた所に小さな物置小屋があるが、あんな小さな子供を連れ込んで何をしようというのか。


「もしもし、芹澤? ちょっといいか?」


 久志はポケットから携帯電話を取り出すと、父の秘書の息子である芹澤芳美(せりざわよしみ)に連絡をした。

 芹澤の家は代々紺野家に仕えており、久志の家の敷地内の離れに住んでいる。四つ年上の彼は久志を取り巻く人々の中では一番年が近く、幼い頃から一緒に過ごしてきた仲だ。


「――あ、ほら。お家が見えてきたよ」

「ねこちゃん、だっこしてもいい?」

「うん、いっぱい抱っこしようねえ」


 男は子供の手を引いたまま、物置小屋の中に入って行ってしまった。


「まずいな」


 紺野家の私有地内で犯罪行為が行われるのは非常にまずい。

 自宅に在駐している警備員を連れてくるよう芹澤に頼んだが、このままでは芹澤たちがやって来る頃には手遅れになってしまう恐れがある。


 久志は上着を脱いで地面に置くと、その上にお気に入りの小説を乗せた。


「ここ二週間ばかり練習をサボっていたから、思うように動かないかもな」


 そう言いながら、久志が軽くストレッチをして体を解す。

 そうして足音を忍ばせて物置小屋へ近づくと、入り口扉を少し開けて中の様子を窺った。


「おじさん、ねこちゃんは? いないのー?」

「そうだねえ、ちょっと黙ってようか。うるさくしてると子猫は怖がって出てこないんだ」

「わかった。なっちゃん、しずかにするね」


 自分のことをなっちゃんと呼ぶ子供が、男に言われたとおりに口を噤み、紅葉のように小さな手で口許を押さえる。


「いい子だね。そのまま静かにしているんだよ」


 こっくりと頷く子供に男の手が伸びた。


「おい、お前。そこで何をしている」


 子供の小さな肩に男の手が触れる直前、物置小屋の扉が勢いよく開け放たれた。

 一瞬、男の体がびくりと硬直したが、そこに立っていたのが子供だと分かると体に入っていた力を抜いた。


「……どうしたのかな? 迷子?」

「そこで何をしていると聞いている。答えろ」

「ええと、ここはおじさんの家なんだけど。君は誰なの?」

「この物置小屋がお前の自宅? 何をふざけたことを言っている、そんな訳あるはずがない。ここは紺野家の私有地だ」


 毅然とした態度で言い放つ久志に、男は小さく舌打ちをすると、立ち上がり久志に襲いかかった。

 ほんの数秒の出来事だった。久志は咄嗟に身を屈め、男の鳩尾に肘を入れると、足を払ってその場に男を倒した。

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