5 遭遇4

「ねえ、修一……俺もう帰ってもいいかなあ、ていうか帰りたい」

「バカなこと言ってんじゃないよ。ほら、一昨日お前が見たいって言ってたカタログ」

「うん。ありがと」


 夏樹は修一から新商品のカタログを受けとると、やる気なさそうに机に肘をつき、受け取ったカタログを捲った。

 高校の時からの腐れ縁であるこの小柄な同僚、今朝、出社した時からどうも様子がおかしい。


 スーツ姿が、まるで七五三詣でのためによそゆきの洋服を着せられた子供のような印象を与えるが、仕事ぶりはいたって真面目だ。

 そんな夏樹が冗談とはいえ、仕事半ばに帰りたいと言い出すだなんて何かあったに違いない。


「夏樹。お前、昨日は確か桜が丘学院から直帰だったよな」

「……っえ? ああ……うん。そうだけど、何?」

「いや、別に」

「あ、そう…………っあ! このリングファイルいいな。四穴で書類もずれないし、背表紙も見やすいよ。ねえ、そう思わない? 修一」


 それまでやる気なさそうにカタログをパラパラと捲っていた夏樹が、桜が丘学院の名前を修一が出した途端、ビクリと肩を震わせカタログに集中しているフリをした。

 ちなみに、今夏樹が開いているのは接着剤関連のページで四穴のリングファイルなんてどこにも載っていない。


 あきらかに挙動不審だ。

 桜が丘のタヌキが夏樹のことを変な目で見ていることを知っている修一は、もしかしたら夏樹がタヌキに何かされたのではと思い至った。


 夏樹は高校生の頃、通学時の満員電車に乗れば必ずと言っていいほど年配男性の痴漢に遭遇していた。また、休みの日に遊びに出掛けた際など、夏樹の姿が見当たらないと思って修一が辺りを探せば、知らない年配の男性にずるずるとどこかへ連れて行かれそうになっていたことも一度や二度ではない。


 夏樹は、道を聞かれたので教えていたらいきなり手を掴まれたと言っていたが、これまでの経験からなぜ相手の下心に気づかないのか。

 別段面倒見がいい方でもない修一なのだが、この年配のおじさま方から妙な方向に受けがいい夏樹のことは心配でずっと目が離せないでいる。


「お前さあ、もしかして青嶋のタヌキから何かされた?」


 カタログに貼り付けようと付箋を探していた夏樹の動きがピタリと止まった。


「何かって……?」

「夏樹、お前が俺に隠し事なんて出来ないの分かってるだろう? お前ってすぐに顔に出るから、何かあったらすぐに分かるんだよ」

「…………昨日」

「昨日? ほら、言ってみろ」

「青嶋さんに飲みに誘われたんだ。それで……あの……」


 どうやら、タヌキ教頭と飲みに行った際に何かあったらしい。だが、タヌキとの間で起こったことを言いたくないのか、夏樹は口を閉ざしてしまった。


「夏樹、言いたくないかもしれないけど、一人で悩んでいても解決しないぞ。お前と俺との仲じゃないか……どんなことでも相談に乗るから」

「修一……」


 夏樹とは高校からの腐れ縁だ。

 大学三年の時、二十歳になった夏樹から自分は同性しか好きになれないのだとカミングアウトされた。

 夏樹には、修一との友情が終わってしまうかもしれないという覚悟があったそうだが、修一は「ああそうか」と不思議とすんなり夏樹のことを受け入れることができた。

 多少のことでは動じない自信がある。


「昨夜、青嶋さんと飲みに行って」

「うん」

「帰りにホテルに誘われたんだ」

「うん………………はぁ!?」


 多少のことでは動じないはずの修一が目を見開き、声を裏返らせた。


「夏樹? まさかとは思うけど、ついて行ってないよな?」


 修一はつい頭の中でタヌキ教頭と夏樹との濡れ場を想像しそうになった。想像しそうになったが、いくら懐の広い修一でもビジュアル的に許容できず、脳が想像するのを拒絶した。


「入り口までは連れて行かれたんだけど……偶然、会社の人が通りがかって……その、助けて……もらった」


 よかった。最悪の事態にはならなかったようだ。誰だか知らないが、偶然その場に居合わせた同じ勤務先の人物に修一は心の中で手を合わせた。

 すでに中学生の娘を心配する父親の心境である。


「それで? 同じ会社の人って、知ってる人なのか?」

「ううん、向こうは知ってたけど俺はよく知らない。また会社でって言われたから……」


 どうも夏樹の歯切れが悪い。

 だが、娘の貞操が守られたことに安堵している修一に、夏樹の微妙な感情の動きは読めなかった。


 その日の昼休みの社員食堂で、修一は夏樹の危機を救った人物と遭遇する。そこで初めて夏樹の様子がおかしい本当の理由を知ることとなったのだった。

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