2 遭遇1
その日は目覚ましのアラームが鳴る前にスッキリと目覚め、朝のテレビの星占いが一位になっていた。
毎朝、夏樹のことを親の
朝からちょっとした良いことが重なって、夏樹は何となくいい気分で出社した。
いつものように午前中はデスクワークをこなし、午後からは約束していた得意先を訪問する。
特に問題もなく、一日が終わるはずだったのだ。
夏樹はその日最後の得意先である私立の高校の事務室を訪ねていた。
「松本くん、たしか今日はこのまま直帰だって言ってたよね」
担当者との話が終わり、帰ろうとしていた夏樹を教頭の青嶋が引き留めた。青嶋は夏樹の直接の営業相手ではない。
いつだったか、たまたま近くへ来たので顔出しに訪れていた夏樹を青嶋が校内で偶然見かけただけだ。
なのにそれ以来、青嶋は夏樹のどこが気に入ったのか、夏樹が営業で学校の事務室を訪れるたびにどこからともなく現れ、事務用品の説明や備品の注文など自分の職務とは直接関係ないのに必ず同席するようになった。
「あ、はい」
「どう? この後、飲みに行かない?」
「……えっと、その」
確かに夏樹にはこの後の予定など特にないし、このまま帰った所で独り暮らしの部屋で待っている人がいるわけでもない。
断る理由はないのだが、青嶋のことをちょっと苦手に思っていた夏樹はこの誘いに乗りたくなかった。
「あれ? もしかしてデートとか?」
返事を渋る夏樹の肩へ青嶋がなれなれしく触れてくる。
そうなのだ。この間もなく六十を迎える、頭のてっぺんが寂しくなってきた信楽焼のタヌキのような青嶋は、ことあるごとに夏樹へ意味のないスキンシップを図ってくる。
大っぴらに公表してはいないが夏樹の恋愛対象は男性だ。だがタヌキは対象外。いくら性別が男でも付き合うなら人間がいい。
「いえ……あ、はい」
「どっちなの。デートじゃないなら、たまには付き合いなさいよ」
「…………はあ」
結局、夏樹に上手い断り文句も思い浮かばず、他の職員も一緒だからと青嶋から強引に飲みへの参加を押しきられてしまった。
「松本くん、ほら、もっと飲んで」
「あ、はい。頂きます」
まだ半分以上酒が残っている夏樹のグラスへ、青嶋が強引にビールを注ぐ。目上の相手、しかも大事な得意先の人物に手ずから注いでもらうのを無下に断ることもできず、夏樹はなみなみと注がれたグラスに口をつけると、ひと口あおってグラスをテーブルに置いた。
「なかなかいい飲みっぷりだね。遠慮なんてしなくていいから、もっと飲みなさい」
「――――はい」
夏樹は今、青嶋の誘いに乗ってしまったことを酷く後悔していた。
場所はちょっと高級感の漂う大人の雰囲気の店だ。側には綺麗な女性が座っているというのに、青嶋は店の女性そっちのけで夏樹の隣にベッタリとくっついている。
もともとアルコールには強い方だが、隣にくっついたまま離れてくれないタヌキのせいで夏樹の気分は最悪だった。
「松本くんはいくつになるのかな?」
「……二十四です」
「そうか二十四か。ちょうどいい年頃だねえ」
いったい何がどうちょうどいいというのか、青嶋はニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながら夏樹の太腿に手を乗せた。
「――ひっ」
ねっとりと撫で擦る青嶋の手のひらの体温が気持ち悪い。夏樹は頬を引き攣らせ息を飲んだ。
「松本くん。この後、どうかね」
青嶋が夏樹の耳許に顔を近づけて囁きかける。
耳に吹きかけられる酒臭い息に夏樹は吐き気と悪寒を覚えたが、取引先の手前ぐっと堪えた。
「に、二次会ですか?」
「何を言ってるんだい、私と朝まで付き合わないかと聞いてるんだよ。君も子供じゃないんだから、私の言っている意味、わかるだろう?」
「あの……俺、見た目こんなですが一応男ですよ?」
「今さらじゃないか。分かっているんだよ、松本くん。君は私と同類なんだろう?」
そう言って青嶋の生ぬるい手のひらが夏樹の小さな手を捕まえた。
「あのっ、やめて下さい。同類とか意味が分からないです」
夏樹は掴まれた手を慌てて取り戻すと、ソファの上で青嶋から距離をとった。
男性に対して魅力を感じるという部分では青嶋と嗜好が同じかもしれない。だが、夏樹にだって選ぶ権利がある。
慎重に選びすぎてまだ清いままではあるのだが。
他人からそういった意味で触れられることに慣れていない夏樹の様子を、青嶋が愉しそうに眺めている。
「申し訳ありません……じっ、実はこの後予定があって……お先に失礼させて頂きますっ」
青嶋からの舐めるような視線に耐えられなくなった夏樹は、苦し紛れの理由をつけて席を立った。
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