後悔しても手遅れです
とが きみえ
1 プロローグ
昼下がりの社員食堂。
営業課の
「口の端にソースがついているぞ」
「え? ああ、もう……だからいいですって。自分で出来ますから」
「照れているのか? 結構可愛いところもあるんだな」
「照れてません!」
修一の同僚である
――――膝の上に乗せて。
オフィス用の事務機器の開発から販売、リースをはじめ、最近では若い女性向けのちょっとした文房具まで展開している、大手事務メーカーの『KONNO』に入社して今年で三年目。
修一の見間違いでなければ、同僚を膝の上に乗せている男は三年前に自分が入社した会社の会長の孫であり取締役の
一方、修一の同僚の夏樹は小柄で童顔、ふわふわの天然パーマにくるりとした紅茶色の瞳の可愛らしい容姿をしており、どう見繕っても二十代半ばの成人男性にはとてもじゃないが思えない。
久志の膝の上に違和感なく収まってはいるが、普通に考えて日常的な光景でないのは確かだ。
「あの、二人はいったい何をして……?」
修一が恐る恐る尋ねてみた。
やはり気になるのだろう、二人と修一の座るテーブルを遠巻きにしている他の社員らが耳をそばだてている。
「私と夏樹は付き合っている。だから一緒に昼食をとっているのだが?」
「はあ。ええっと、あの……」
何を当たり前のことを聞くのかと、久志から呆れたように返された修一が次の言葉を探していると、それまでおとなしく久志の膝の上でハンバーグセットを食べていた夏樹がテーブルを乗り越えて修一のネクタイを掴み、自分の方へ引き寄せた。
「違うぞ」
「へ?」
修一の間近に迫っている夏樹の顔は、笑顔を形作っているが目が全く笑っていない。
「俺とこの人は付き合っていないから」
一応、周りを気にしているのか小声だが、夏樹はきっぱりと言いきった。
「え? でも、取締役は付き合ってるって……」
「違う! 俺は……っ」
夏樹と修一の二人がテーブル上で顔を付き合わせてこそこそと喋っていると、久志がおもむろに夏樹の腕を掴んで修一から引き剥がした。
「な、なっ……紺野さん、何っ!?」
「さっさと食べてしまわないと冷めてしまうぞ」
「……ひっ!」
久志が夏樹の後ろから腰に手を回して自分の方へ体を引き寄せ、耳元に唇を寄せる。
突然のことに驚いた夏樹は体を硬直させ、顔を真っ赤にさせながら両耳を塞ぐと久志から離れようと体を捩った。
「それに紺野さんじゃなくて久志だ。そう呼ぶように言っただろう?」
久志が夏樹の手首を掴んで耳から剥がし、その耳許へもう一度囁きかけた。耳に直接送り込まれる腰に響く低音に、夏樹はすっかり涙目になってしまっている。
「こっ、こっ、こんの……さっ」
「――久志」
「――ひっ! ひさ……し、さ……んっ」
「うん、何?」
「あの……っ、やめ……てっ」
真っ赤になりながら、必死に久志の腕から逃れようと体を捩る夏樹。そんな夏樹を久志が目を細めて楽しげに眺めている。
夏樹は付き合っていないと言っていたが、修一にはどうみても二人がいちゃいちゃとじゃれ合っているようにしか見えない。
なんだか食欲が失せてしまった修一は目の前の二人からさりげなく目を背けると、黙ってテーブルに箸を置いた。
「専務、そろそろお時間です」
三人が座っているテーブルの側で気配を消して控えていた久志の秘書の芹澤が声をかける。
「ああ、もうそんな時間か。芹澤、この後の予定は?」
「はい。この後は十四時からグループ企業との打ち合わせ、十八時から青木商事の青木様との会食となっております」
「そうか……それじゃあ、今日はもうここに戻ることは出来ないようだな」
そう言うと久志は夏樹の脇に手を差し込み、膝の上からひょいと隣の椅子へ小柄な体を下ろした。
「残念だが仕事だ。君に寂しい思いをさせてしまうが仕方がない」
久志が夏樹の顎へ手をかけ上を向かせる。
「…………」
「どうした? 拗ねているのか?」
「だっ、誰が拗ねてなんか」
「あとで連絡する」
「…………ひっ」
必死で顔を背けている夏樹の頬に久志は軽く唇を付けると、颯爽と社員食堂を出ていった。
後には真っ赤な顔で片頬を押さえる夏樹と、修一をはじめ現場を目撃した数人の社員らが呆然とした様子で久志の背中を見送っていた。
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