不眠症

「眠れない……全然、眠れない」

 草木も静まる真夜中のこと。とある一軒家の寝室で、目の下に濃いクマを刻んだ男が忌々しそうに呟く。彼は重度の不眠症を患っているのだった。

 症状が出始めたのはかれこれ数か月前。最初は床についてもなかなか寝つけない程度であったが、それは日に日に悪化の一途を辿ることとなった。

 今では、夢の世界に足を踏み入れることすら困難極まりない。ここ数日なんて、ほとんど寝た気がしない始末だ。

「ああ、何故こんなことになってしまったのだろう。どうして俺が、こんなに苦しまなければいけないのか」

 不眠症になる要因に、思い当たる節はない。もちろん医者にも頼ったが、そこでも原因は不明と診断された。一応睡眠薬を処方されたが、焼け石に水。いくら服用したところで、症状が改善されることはなかった。

「仕方ない。今日もおとなしく、羊でも数えているとしよう。あまり期待はできないが」

 男はベッドに横たわったまま、深呼吸をしてからゆっくりと目を閉じる。そして、頭の中に草原を思い描き、無数の羊が柵を飛び越えていくさまを数え始めた。


 羊が一匹……羊が二匹……。


 眠るためにとあらゆる民間療法にも手を出してきた彼にとって、もはや手慣れたこと。時計の針が刻まれる音とともに、着実にカウントは増えていく。

 その数が百を突破した頃、若干ながら眠気を感じた。


 よし、いいぞ……。少しずつだが、心が落ち着いてくる。もう少し、もう少しで眠れ…………。


「⁉」

 突然、どこからか響く物音に、男は目を見開いて飛び起きる。はあはあと息を切らしながら、窓から隣家を睨みつけた。

「隣か。人がせっかく眠れそうって時に」

 音の正体は、隣に住む一家が立てたはしゃぎ声。どうやら、興奮した子供が暴れ回っているらしい。

「この間、注意したばかりだというのに。くそっ」

 男はすぐさま家を飛び出し、隣家のインターホンを鳴らす。まもなく中から、上着を羽織った婦人が出てきた。

「どうしたんですか、こんな時間に」

「どうしたもこうしたもありません。この間、頼みましたよね。私は今、不眠症を患っていて、わずかな物音でも気になって仕方がない。だから、夜中は極力静かにして下さいと。それが、お宅の子供が騒ぐものだから、せっかく催してきた眠気が覚めてしまったではないですか」

「それはすみません。気をつけますわ」

 婦人が申し訳なさそうに頭を下げるのを確認してから、男は家に戻る。

 隣人はすんなり注意を聞き入れてくれたのか、寝室は静寂を取り戻していた。

「ふう、またやり直しだ。今度こそ」

 男は再び床に就き、羊を数える。もはや手慣れたことだからか、それは異様なまでのハイペースで加算されていった。

 その数が五百を突破した頃、ようやく眠気が襲ってきた。


 よし、いいぞ……。いつもより、いいペースだ。今日は調子がいい…………。


「⁉」

 またも物音に叩き起こされた男は、血走った目できょろきょろと辺りを見回す。そして、窓を開けて首を出した。

「あのガキども。また夜中に馬鹿騒ぎしやがって」

 今度の原因は、近所を通りかかった若者達。酒でも飲んでいるのか、ゲラゲラ笑いながら喚き散らしている。それも、人の敷地の近くで。

 これに関しては男だけでなく、近隣住民も日頃から被害に悩まされている。一度皆で注意したこともあったが効果はなし。それもあってか、苛立ちは募る一方だ。

「ガキどもめ。調子に乗りやがって」

 口で言っても理解できない輩には、強行あるのみ。

 男は電話を手に取ると、躊躇することなくダイヤルをプッシュする。かけた先は、警察だった。

「もしもし。うちの近所で、迷惑行為が……」

 被害を切々と訴えてから十数分。最寄の警察署から派遣されてきたと思われる警官が、たむろする輩の前に現れた。少しばかり大袈裟に被害を伝えたからだろうか。若者達は、次々に連行されていった。

 男はそんな光景を見ながら、ニヤリとほくそ笑む。

「ふん。人の安眠を邪魔するからこうなるのだ。今度は、これだけでは済まされないからな」

 目に狂気に似た何かを光らせてから、ベッドに身を横たえる。今度こそはと心に決めて、羊を一から数え直した。

「……おかしい。邪魔が入らないのに、眠気を全く感じられない」

 最初は調子がよかったというのに、今回はなかなかうまくいかない。気がつけば、数えた羊は既に千百七十五匹。このままでは、一睡もすることなく夜が明けてしまう。

「くそっ。二回も寝そびれたのがいけないのだ。だが、過ぎたことを後悔していても仕方がない」

 男はこれでもかと言わんばかりに、全神経を眠りにつくことに集中させる。そうこうしているうちに、草原を駆け回る羊の数は五千を突破した。

 それとほぼ同じ頃。待ちに待った眠気が、徐々に襲ってきた。


 よし、やっと。やっと眠れる。結局いつもと変わらないが、全く眠れないよりはマシだ…………。


「⁉」

 またも鳴り響いた物音に、男は目を剥きながら半身を起こす。その表情は、既に常人のそれとはかけ離れていた。

「誰だ。俺の眠りの邪魔をするのは、誰だ」

 聞こえたのは、リビングの方から。ガラスでも叩き割るような、実に耳障りで不快な音。


 ……けしからん。人の眠りを妨害するものは、元から絶たなければ。


 男はベッドの下に忍ばせていた、木刀を手に取る。そして気配を殺し、リビングに忍び足で向かった。

 ガサゴソと暗闇の中から漏れてくる音に向かい、男は臆することなく進んでいく。ぼんやりと動く影を視界にとらえると、それを目がけて木刀を振り下ろした。

「ぎゃあっ!」

 闇の中で動いていたそれは、悲鳴を上げて飛びのく。確かな手ごたえはあったが、とどめを刺すには至らなかった。

「な、何だあっ」

 その正体は、みすぼらしい身なりをした青年。どうやら、盗みを目的として家に侵入してきたらしい。

 しかし、そんなことなど男にとってはどうでもいいこと。彼には彼の、目的があるのだ。

「消してやる」

 男は一切ためらうことなく、青年に木刀を振るい続けた。途中、びちゃりと顔に何かが飛び散ってきた気もするが、眠りを妨害されることに比べれば、どうってことはない。

 一方、青年にとっては一大事。このままでは金品を奪うどころか、こちらの命が奪われかねない。相手は正気でないらしく、謝ったところで済まされないのは明らかだ。

「た、助けてくれ。助けてくれっ!」

 男の振るう木刀は、あらゆる家具を薙ぎ払い、照明を砕いた。それは耳をつんざくほどの騒音となり、辺り一面にこだまする。青年のちっぽけな悲鳴など、瞬く間にかき消されてしまう。

「こ、殺される」

 青年は恐怖におののくが、その間にも自身をつけ狙う一撃が待ちかまえている。姿の見えない相手が、こちらの息の根を止めようと目を光らせているのだ。

 彼の精神は極限状態の中、とうとう限界を迎えた。

「う……うああああーっ!」

 青年はうわずった声を上げると、正面目がけて力任せに突進した。

 ドン! という鈍い音とともに、その先にいた男の足元が揺らぐ。

「あっ」

 男の手から木刀がするりと抜け、身体がふわりと持ち上がる。

 間もなくして頭部に、硬い物体に打ちつけられた時に似た、しびれるような衝撃が走った。

「あ……ああ……」

 後頭部がじわりと、生暖かくドロッとしたもので濡れるのを男は感じた。だが、不思議と嫌な心地はしない。それどころか、むしろ幸福なような気さえする。

 もう、何も気にならない。ドタバタと駆けずる足音も、けたたましく鳴り響くインターホンも。全ての感覚が、失われつつあることすらも。 

 男は静かに目を閉じる。最後に、実に満足そうな面持ちでこう呟いた。

「これでやっと、眠りにつける………………」

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