第1話 リカちゃん(前編)

 ファーストプレミア・チェリーリバー、と大そうな名称の二階建てコーポ。


 六畳一間のワンルーム・タイプの部屋が、一階二階合わせて十二室。築二十五年の学生専用のアパートである。大家さんの苗字は十中八九、桜川さくらがわさんと思われる。


 早起きの蝉がすでに鳴き始めた、午前四時前。


 コーポは中京都ちゅうきょうと大学へ歩いて十分、閑静な住宅街の中にある。


 蝉の声を背に受けて、ひとりの男子学生が帰宅してきた。


 オカッパヘアに、大きく突き出た立派なお腹の持ち主で、二十歳前後の若者には絶対見えない。むしろ中年のメタボな体型だ。

 強度の近視のためメタル・フレームのレンズをかけ、レンズが重いのか、小指を立てた右手で頻繁にずれる眼鏡を持ち上げている。


 ところが眼鏡のレンズの片方はヒビが入り、もう片方はレンズ自体がない。黒地にリアルなフランス人形をプリントしたTシャツ、ジーンズは泥だらけ。

 おまけにかなり酔っているらしく、二階の玄関前でフラフラとゆれていた。


 表札には「設楽姫二郎したら ひめさぶろう」と書かれている。


 姫二郎はたすき掛けした布バッグに手を突っ込み、家の鍵を探す。何を入れているのか、バッグは大きく膨らんでいた。


 通常オタクのバッグには、漫画雑誌、コミケで購入した同人誌、アイドル応援のうちわにペンライト、そして汗拭き用のタオルが収納されている。


 五分近くかかってようやく鍵束を取り出しノブの下の穴に差し込むと、次に別の鍵で玄関扉の上と下に設置した鍵穴を開錠する。三重のロックが施されているようだ。


 下の鍵穴にキーを差し込むとき、しゃがんだ姿勢のままいびきをかき始め、寝落ちする寸前で立ち上がった。


 姫二郎は中京都大学の漫画研究会に所属している、文学部の二回生である。


 漫研部員はさまざまなマニアの集合体でもあった。姫二郎は最右翼のフィギュア・オタクである。ロボットやアニメの美少女キャラはもちろん、日本人形やアンティークの人形まで造詣がかなり深い。


 美しいものには、国境や時代、キャラは関係ないと考えているのだ。


 玄関に三つも鍵を取り付けているのには、ある理由があった。


 六畳の和室は最低限の家具のみをそろえ、窓をはさんだ両壁にはステンレスとガラスで作られた棚がデンと設置してある。


 そこには人形フィギュアがジャンル別に陳列されていた。

 フランス人形、アイドル、ロボット、アニメのキャラクターなどだ。中にはマニア垂涎すいぜんの大変高価な人形もある。だからきっちり施錠しているという次第だ。


 漫研の連中はここを「恐怖の人形魔窟にんぎょうまくつ」と呼び、影で震えている。


 人形たちの視線がすべて部屋の真ん中に集中するように並べられており、深夜二時になると人形たちがヒソヒソと囁き始めると噂されている。


 夜中にならなくても、太陽の光が差し込んでいる時間帯であっても、かなり不気味なシチュエーションには違いない。


 部屋の真ん中に敷かれた万年布団に、姫二郎は汚れた格好のまま寝転がった。


 ゲフーッと酒臭い息を吐き出しながら、ご主人の帰りを待っていてくれた人形たちをながめる。

 ヒビ割れたレンズの奥で、細い目がニタリを微笑んだ。不気味を通り越し、恐い。


 姫二郎はほとんどアルコールをたし

なまない。嫌いではないのだが、酔うと記憶をすぐになくす体質なので気をつけるようにしているのだ。


 一年半前の漫研主催の新歓コンパで、先輩たちから次々とお酌され途中から記憶が飛んだ。同期の連中にこの部屋まで担ぎ込まれる途中で目が覚めた。


 介抱しながら来た同期たちは、この魔窟でそこから約一時間以上にわたり姫二郎の人形にかける情熱を聴かされた。


 同期たち人形たちの視線におののきながら、熱く語る姫二郎の話も半分に腰を抜かしたように帰宅したのであった。


 肩からはずしたバッグの口が開いていたのか、中から小さな正体不明のかけらが十個ほどコロコロと布団の上に散らばった。


「えーっと。なんだあ、これ?」


 姫二郎はひとつを指先でつまんだ。眉間にしわを寄せ、カーテンからもれる光にかざした。眼鏡のヒビと酔いが覚めていないため、よく見えていない。


「ガラスの破片かなあ」


 よいしょっと重たい身体をおこし、朝陽を反射する破片を、指先を切らないように注意しながらすべて集めた。


「もしかしたら、僕の眼鏡の破片かもー。危ないなあ。あーぁ、飲まなきゃ良かったよ」


 ブツブツとつぶやきながら集めた欠片を、布団のそばに落ちているコンビニの袋に入れ、キュッと上部を縛った。


「次のごみの日に分別して、捨てないとね」


 ビニール袋を丁寧に部屋の隅に置くと、姫二郎は大きく息を吐いて再び横になった。


〜〜♡♡〜〜


 世には常人には理解しがたい趣味嗜好を持つ人間がいる。

『リカちゃん人形同盟N市支部・大集会』なる奇天烈きてれつな催しが、N市の繁華街であるセントラル・パークの居酒屋で行われた。


 リカちゃん人形とは、言わずとしれた着せ替え人形の国内元祖である。


 リカちゃんハウス、リカちゃんの家族やボーイフレンドの人形まで販売されている子供向けの玩具だ。


 その長い歴史の中で大人のコレクターも現れ、高額で取引される人形のひとつとして未だに人気は衰えてない。


 子供にとってはただの玩具である。それがなぜか分別のついた大人の一部に異様なまでに愛されているのだ。


 趣味が高じて、着せ替え用の服を製作し商売にしている方もいる。


 当初は『リカちゃんとみんなとお友達になろうネ会』の名称で、主に腐女子たちによる小さな会が発足された。

 それがいつしか全国規模になり、老若男女問わず好事家が集まっていったのである。


 組織が巨大化すれば、軋轢あつれきも生まれる。


 徐々に分派が発生し、『リカちゃん人形同盟』は男子だけによる硬派な(?)会として名乗りを上げた。


 N市支部は会員数は二十名を超え、年に一回大集会と称して飲み会を開催している。


 大集会では会員それぞれが一年間で集めたリカちゃんに関わる情報や、入手した貴重なレアものを披露しあい、和気あいあいな雰囲気で杯をかたむけあう。


 会員たちはご満悦であるが、運悪く居合わせた他の一般客たちは人形片手に酒を飲む異様な集団の不気味なオーラにおされ、酔いも半分で席をたってしまう光景が見受けられた。


 はっきり言えば、カルト教団の宴会が催されているのと差異はない。


 姫二郎はもちろん漫画を描くのが大好きで漫研に入部したのだが、もっと大好きな人形について思う存分語り合える大集会をすこぶる楽しみにして一年を過ごす。


 その大切な日がやってきた。


 もちろん自室の飾り棚から、お気に入りのリカちゃん人形をひとつを布バッグに入れて、スキップをするように会場へ向かった。


 夕方から始まった集会は、今年も多いに盛り上がった。


 副支部長を務める四十歳代の脳外科医が、なんとオークションで幻の作品と呼ばれたリカちゃんを、銭にモノを言わせてセリ落としたというメールが会員には送られている。


 その希少品お披露目が、本日メインイベントである。


 いったいどう幻なのか。大量生産された人形に過ぎないのにと思う方は、リカちゃんの奥深さをご存じではない。


 製造過程で本来リカちゃんのオジサマ設定の人形に取り付けられるはずのカイゼル髭(逆への字型)が、どこでどう間違ったのかリカちゃんに植え込まれてしまったことがあるらしいのだ。


 当然出来上がった製品は即刻廃棄処分された。


 そのはずが、数体だけ市場に出回ってしまったのである。今から十数年前の事実だ。


 それを知らないでクリスマスにプレゼントされた少女は、ワクワクしながら包み紙を丁寧にはがし、箱からリカちゃん取りだして満面の笑顔を浮かべる予定であったのが大きく狂わされた。


 両手で抱きしめようとしたリカちゃんが、なんと、立派な髭をたくわえてニッコリ微笑んでいたのだ。


 世にも恐ろしい悲鳴を上げた少女は、それ以来二度とリカちゃん人形を抱きしめることはなかった。悲劇を生んでしまった髭のリカちゃん。


 聖なるクリスマスに、悪魔の悪戯しわざとしか言いようがなかった。


 恐怖の逸話を持った、レアな髭リカちゃん。マニアの間で一、二を争う希代きたいの人形であった。


 もちろんお披露目は終盤であり、それまでは会員たちはそれぞれがお気に入りの人形(主にリカちゃんだが、パパやママ、あるいはワタルくん)を抱きながら飲めや歌えの宴会を楽しんでいった。


 時間も頃合い「ゴホンッ」としわぶきをひとつ、メインイベンターである副会長がゆっくりと立ち上がる。


 ざわついていた会場が、水を打ったような静けさに包まれた。


 姫二郎もビールで真っ赤になった頬をピクピクさせながら、コップを置いて正座に切り替える。


 副支部長は全体を見渡した。二十名強の熱い視線が降り注がれる。

 かたわらに置いていた、高級ワインを入れるような木箱を持ち上げた。


 ゴクリと数人が嚥下する音が聞こえる。


 やや後退した髪をなでつけた脳外科医は、じれったくなるほどの時間をかけて木箱の蓋を開けた。

 もう誰も身動きしていない。姫二郎も細い目を限界まで開いて注視する。


「オオオゥ!」


 宴会場にため息とも唸り声ともつかぬどよめきが起こった。たまたま近くを通ったサラリーマンらしき中年紳士は怒涛ようなの声に、ソニック・ブームを浴びせられたかのごとく通路に転がる。


 副支部長は出産されたばかりの赤子をいだくように、その手に髭リカちゃんをそっと持ち上げていた。


 見事なカイゼル髭をたくわえた愛らしい人形。夏物の水玉ワンピースに青いハイヒールは、どうやらお手製の一品物のようだ。


 歓声が宴会場を包んだ。我もわれもと会員たちはスマホを片手に写真を撮りまくる。まるでアイドルの撮影会だ。


 姫二郎も普段見せぬ強引さで輪の中に入ると、あらゆる角度からスマホで写真を撮り続けた。


 楽しい宴もやがて終りに近づく。


 隣に座った老年の会社役員と意気投合し、姫二郎も多いに語り合っていた。


 気を付けていた飲酒はいつのまにかタガがはずれ、グイグイとやってしまったのだ。


「それでは会員の皆様、そろそろお時間でございます。お話は尽きないとは思われますが、大集会をおひらきとさせていただきます。

 支部長、閉めをお願いいたします」


 進行役の大学教授が、バトンをN市支部長の県会議員に渡した。二人とも還暦をとうに越している。


「今宵も楽しく充実した会でございました。また来年も我らの愛しいリカちゃんのために盛大に大集会を催しましょう。

 ご唱和お願いいたします!」


 支部長の声に、会員全員が立ち上がった。それぞれ手に人形を持って。


 支部長は両手で胸元にかかえたリカちゃんを正面に向け、ピンクのブラウスの背中部分から下がっている輪っか付きの紐を引っ張り、放した。


「ワタシ、リカチャン、カワイイ?」


 おしゃべり機能付きのリカちゃんだ。

 全員が叫んだ。


「リカちゃん、カワイイよッ!」


 ドッと拍手が起こった。


 居酒屋を上機嫌で出た会員たちは、三々五々帰途につくのであった。


〜〜♡♡〜〜


 交渉寺の境内の周囲はくぬぎならの樹木が密生し、都会の中であることを忘れさせる。


 外灯の光は、あくまでも境内の総門から本堂までを案内する程度しかない。


 学生たちは本館から研究棟や武道場へ行く場合、お寺の本堂から先の霊園を通り抜けていく癖がついている。

 しかし太陽が沈むころからは霊園をさけるように遠回りして、目的の場所に向かう。もちろん、コワイからだ。


 幽霊や物の怪もののけたぐいは出ないとわかっていても、原始的本能が迂回を指示してくる。


 いつもの夜なら、鳥や虫のざわめき、国道を往来するクルマの排気音で森の奥とて寂しさは紛れるのだが、その夜は違った。


 クルマが通り過ぎる音はかすかに聞

こえるのだが、自然界の音声がすべて消えていた。そよとも風も吹かず、葉ずれの音さえ聞こえない。


 なにかある。


 いや、なにかいたのであった。


 境内の森を形成している、一抱え以上もある椚の木々。

 ちょうど参道を見下ろせる十メートルほどの高さの位置に張り出した太い枝。


 枝から幹にかけて、映像がぶれるような細い光の線が時おり走る。


 その影はヒトのようであり、ヒトではなかった。


 世間一般に生活する人間は、身体のラインにそって光が走ることは無い。


 姿はわからないが二本脚で枝に立ち、二本の腕を胸元で組んでいる。そんな映像が、ジジジッと走る光のラインで見て取れた。


 正体はなにか、目的はなにか。ただ、静かにそこに存在していた。


つづく

 

 

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