千尋の冬

二谷文一

(帰途)



 みぎわにはおびただしい数のトビウオがうちあげられていた。

 気分が悪くなる。生理的嫌悪感情が、胸の奥から湧き出てくる。

「うっ…………」

 吐き気がする。生臭さを伴った腐臭が漂ってきて、僕の鼻腔は壊れそうになる。

 居心地の悪さに耐えかねて、僕は泣いた。

 胃がせり上がってくる――消化物が吐瀉物としゃぶつに変わる直前に、両手で口を塞いだ。

「ぶふぁっ――おえぇ、うぇっ……!」

 抑えきれずに、口から溢れ出る吐瀉物が僕の手を汚してしまう。

 口腔内に残る、生温かい酸味が味蕾みらいを刺激する。

 滲み出る唾液で嚥下えんげしてみた。

 不味かった。

 当たり前か。

 でも、この状況は、何なのだろう。海水が押し寄せてきて、陸地が、沈みつつある――

 世界は、この広い海に、沈殿してしまうのだろうか。

 それとも、僕は――


◆◆◆◆◆◆◆


 ついになけなしの大地を母なる海が呑みこもうとしている。そう知れたのはほんの偶然だった。

 ただその現象自体は必然で、僕たち人間が外れくじを引いてしまったのだとたまたま認識できただけのことなのだ。気付かなければ死んでいたかも知れないし、気付いていても死んでいたのかも知れない。

 そんな儚げな存在なんだと、僕たちは自覚したのだ。

(まもなく冬が終わるな……)

 春がきてもいい。今はそれくらいの時季だ。だからこそ胸の奥底から湧いてくる温もりはもっとあってもいいように思う。

「きっと寒冷化の所為だね」

 僕に彼は横から言った。

「現代のヒトは心まで冷えきってるんだよ、全く困った時代だよね」 

 僕は黙って無視を決め込む。彼に返す言葉なんて、何も無いからだ――正確に言えば、言葉が見つからないだけなのだけど。

「寒い! 寒いよこの星は……! 僕と一緒に、地球を出ようよ!」

 気温が猛烈に低下して、今にも氷菓子アイスになってしまいそうな極寒になっていた。服を着ている気がしない……冷やされた空気を肺に吸い込むと、ますます体温が悲惨なものに――

「そろそろ、屋内なかに入ろう……ここじゃ風邪を引いてしまう……」

 意味をなさない防寒具を放り捨てて、僕は砂地から立ち上がる。彼はそれでも動かなかったけれど、毎度いつものことだった。だから気にも留めずに僕はシェルターの方向へ、やおら歩き出す。

 シェルターは地下に埋まっているのだ。土竜もぐらのように土中に忍んで、辛うじて寒さからは逃れられている。堅牢な鉄扉の代わりに設えた蓋は地中に落ちないような形状をしていて、所謂いわゆるルーローの五角形と呼ばれるものだった。そういえばアメリカにあったペンタゴンは、水面下に沈んでしまったのだったか。

 どうやらこちらのペンタゴンはまだ地上と呼べる程度の海抜高度は維持しているようだった。

「じきにここらも海の底に沈んでしまうんだろうけれど……ね」

 独白が虚しく空中に響く。余韻として聴こえてきたのは、さざなみが海面を削る音だけだった。

 僕は重厚な外蓋をこじ開けて、その間隙すきまから下半身を挿入する。地下世界に通じる鉛直の隧道とんねる――その道程は、困難を極める。

 何せその空洞は外蓋に倣っておよそ五角形の断面を呈しているのだ。滑らかな円形のマンホールとは大違いで、角ばった壁面に両肩が当たって、煩わしい。

 というのは、前もって用意しておいた感想であって、僕はまだマンホールには入っていなかった。蓋を閉める間際の状態で、開いた隙間ニッチから外界の殺風景を見つめている。

 終わりのない思料から覚醒して、気付くと、砂浜に坐していた彼は――

「何処へ」

 ――きっと海へ帰ったのだろう。

 彼の種別は、確か人魚だったはずだ。



 延々と続く鉛直隧道マンホール只管ひたすらひたむきに進む。蓋を閉めきった暗闇の中では、何もかもが不可視みえない。深い深い漆黒に、僕の瞳孔は染まるばかりで。

 そういえば、先刻さっきいた砂浜はこの孤島唯一のものだった。

(海と陸の境界さかいが消失しているんだ)

 まぁ孤島とはいえ、そうなったのはつい最近のことであって、それ故に砂礫も、殆ど堆積していない。あの地点が特別、天までの距離が近かったというただそれだけの瑣末さまつなことだ。

 高台やらやぐらやらの避難所に準ずるものがあればいいのだけれど。それさえも見つからないのが今の状況であり、苦境だ。

「…………」

 マンホールの内壁に溶接された鉄製の梯子は、今にも崩れそうなくらいに錆びていた。赤銅色のそれは酷くもろくて、握るたびにてのひらに赤錆がこびりついていく。

整備メンテナンスがなってない――まるで、誰も)

 いないみたいだ。

 無限に感じられた道程が、唐突に途切れる。地面だ。ようやく地下に到着したらしい。

 上方を見上げると――見上げて初めて分かったことだけれど、このマンホールの勾配は微妙に垂直ではないようだった。ほんの少しだけ、傾いている。僕の平衡感覚が感知し得ない程度の塩梅で。

 そして……マンホールの深淵が計り知れない程の孤独感を演出している。

 歩こう。とにかくそう思った。

 動いていないと、止まってしまう。

 胸の鼓動が、停まってしまう。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

 息が切れて、酸素の欠乏が止まらない。だから欠伸する程度では、その欠陥は埋められなかった。

「かはっ、はーっ、はーっ、はーっ」

 歩みを止めて、考える。そうだ、明かりを点けよう。ランプがあれば、現在地点が分かるはず……僕は自分で自分のふところをまさぐる、奇妙な感情に駆られながら、浮かれながら、何とか目的のものを見つけ出す(これはライターだ)。

 寒さに凍えた僕の両腕はかじかんでいて、中々点火することができない。

(シュボッ)

 パッと、小さな太陽が現れる。煌々と輝くこの雫は、中性子のスープの残滓ざんしだろうか――浅はかな比喩を取り下げて、僕は早速辺りを見回す。円形の普通の隧道が、そこには一直線にのびていた。

「いつの時代に、こんなものを……」

 さっき降りてきたマンホールからは、わずかに一メートル程離れていた。ライターの照明範囲からは外れていないようだ。見るとやはり少し傾斜がついていた。夜目が利いていてもいなくても、判りにくいのは相変わらずだが。

 マンホールの直下からは左右に道が分かれていて、その微妙な空間の広さが、閉所パイプに密閉されている感覚を刺激する――孤独。

 寂寥感せきりょうかんに、満たされる。自分はここにしかいないのだと自覚して、戦慄する。

(僕を共有してくれる他人ひとは今、どこにもいない)

 あるのは地平と、それを取り囲む無機物だけだ。

 二酸化炭素が血中を駆け巡る――血脈けつみゃくまでもが密閉状況、挙句脳髄は破裂パンクしそう――

「早く行かないと」

 息苦しさで、死んでしまう。

 刹那、止めていた呼吸を再開するために、僕は走りだす――感覚の麻痺した手足を揺り動かし、必死に走る。

 方向はどちらでもいい。こんなところで彷徨ほうこうしている方が、人生じかんの無駄だ。

 そろそろ辿りつかねば、無駄にさえできなくなってしまうかも……知れない。

(あっ……あれは、扉)

 果たして、終着駅いきついたさきは――



 それは一枚の扉だった。

 ちっぽけな、何の変哲もない、ただの扉。壁と同化するのもいとわない、無機質な番人。

 こちらはマンホールの時とは違って酸化せずに金属質を保っていたけれど、しかしてドブネズミ色の退廃的な色調は僕の気を滅入らせるには十分だった。

 まるで生活感がない――それは必要最低限の物資しかないという意味ではなくて、単純に人間の住居として相応ふさわしくないという意味での感想だった。

 はっきり言って、死臭がする。

 肉の腐敗した臭い……蠅や屍出虫シデムシが羽音を立てている――ような。幻聴きのせいだろうか。

 …………ヴゥゥ――ゥン……ヴゥ――ンンン…………

 蚊虻ぶんぼうやら羽虫やらの羽音さえ、今は聞こえない。やはり幻聴だったのだろう、雑音ノイズは、この扉の奥に封印された――対して無音サイレントが、僕の呼吸音を顕著に晒し上げていた。

 大丈夫。まだ生きている。この部屋にはまだ入っていないのだし、だから僕は死ぬことがない。考えてみれば随分と皮肉な話だけれど、これが残念ながら今現在の現実だ。

(生きるために生きているのでは、なくて――)

 僕はドアノブに手を重ねる。把握して、回転まわして、押し込んで。

「駄目だ、逆だった」

 扉の右端に付けられた蝶番をみて、僕は言った。押して駄目なら、引かなければ。

 幸いにして鍵はかかっておらず、あっさりと不気味に扉は開いた。まあ、それも当然。旅から帰ってくるものを拒む理由など――あるはずがない。して家族であれば――である。

「…………、……ただいま」

 とりあえず帰宅の合図をしてみた。返事はない。そこに人間はいないからだ。

 そこにはただ、相も変わらず壁面があった。仄灰色ホワイトグレー曖昧模糊ファジカルで、僕はただ悄然しょんぼりとするしかなくて……それでも、無目的室やくたたずという訳ではなかったけれど。

 むしろ正規の道程だった。

 部屋の天井は吹き抜けの如く穴が空いていて……、否、そこが入り口なのか。

(バタン)

 と、背後で突然音が聞こえた。旋風つむじかぜでも吹いたのだろうか、扉が強引に閉められた。ともに僕も閉じ込められる。施錠の成否を確認するまでもなく、僕は天井を見上げる。青天井とは言えないが、解放されているのは上方のみだ。

 示唆された獣道けものみちを歩むしかなかった。今の僕は、道についていくのが精一杯であり、最善なのだ。

「もうあれから……何年経った……?」

 唐突に、素朴な疑問が湧出ゆうしゅつしてきた。十年? 二十年? 一世紀は経過したか……だがそれでも足りない、この世界が阿鼻叫喚から返戻へんれいされるのは、もっと先の話だ。

(今は――確か22ニセンニヒャク……22にじゅうに年)

 カレンダーを久しく見ていないので、今が何曜日かも分からないでいる僕だった――曜日を確認するような状況だとは流石さすがに判じかねるけれど。

 ライターを高く掲げて上方を見遣ると、正方形スクエアに一面だけ、なにもない空間があった。壁面に遮られて死角になっているけれど、その空白を埋め得る壁面自体がないということくらいは分かる。

 あの先にこそ、僕の帰還すべき場所があるのだろうか、どうだろうか。

 しかし……この部屋、どことなく茶色い気がする――渾然とした灰色なんかではなくて、遠大な歳月を経て、染みこんだような――

塗装ペイントではない……これは、)

 ――瞬間。

 本当に一瞬だった。

 またたく間に、否、まばたく間もなく、僕の眼前に何かが落ちた。

 骨の割れるような、重々しい音が鳴り響く。

(違う、これは――骨が割れているのだ)

 視線を床に落とすとそこには、人間の、死人の頭部が転がっていた。



 死人、というよりはミイラに近い様相だった。痩せこけた頬に、半開きの口。収納されている歯はぼろぼろどころか実体がそもそもなかった――ひげかみは油脂にまみれて、汚物を巻き込んだその様はあたか海狸ビーバーの巣のようだ。

 頸部の切断は荒削りで、断面が滅茶苦茶な方向にえぐれている。短刀か何かで断切だんせつしたのか……何にしても、その労力は計り知れないものだ。

 紅い涙を流した双眸そうぼうを見て、僕は美しくないと感じる――そう、醜くないことが良いことなのだ、僕は二本の指で、彼のまぶたを下ろしてあげた。やさしさを携えてそのかおは、残酷に僕の心を溶かしにくる。果たされなかった哀哭あいこくが、時を超えて完遂されたのである…………

「なんて、慰みにもならないよな――」

 僕は一人で虚しくなって、虚空を見上げる。その視線の先には、断崖からはみ出たか細い手があったが、僕は知ってか知らずか無視を決め込む。死人に一瞥いちべつをくれることに、意味があるとは思わない。

 仮に僕の瞳孔に映っているものが死人でないとしても――だ。

 ここに拘泥こうでいしている暇もないし、僕は帰らなければならない、還らなければならない。

 きびすを返して、僕は扉をこじ開ける。……意識の範疇はんちゅうから除外していたけれど、血の臭いは相当にきついものだったようで――部屋から出た後に、からだに染みついた臭いが急に刺激を帯びてくる。

「……とにかく、目的地に着かなきゃ」

 僕は来た道を引き返して、再びマンホールのもとへ戻る。

(方向はこっちのはずだ)

 死体のあるのが左方の部屋で、そうじゃないのが右方の部屋だ。いくら扉で閉ざされていても、滲み出る死臭が忌むべき部屋を教えてくれる。

 しかして一歩を踏み出した途端、恐怖が全身を支配する――周囲に反響した足音が、間をおいてやってくる……

 これは怨念だ、怨嗟えんさ怨恨えんこんだ、死者の魂が、生者の僕を、殲滅せんめつしようとしている――

 絶滅される。直感で、僕は確信して遁走とんそうする。

逐電にげるっ……!)

「はっ、はっ、はっ、はっ……!」

 ――そのユニゾンは死者の足跡そくせきを示していたが……結局のところ、僕が停止すれば死者も俊足を止めざるを得ないのだった。

 たったそれっぽっちのことだった。

(肺に酸素が、足りないっ)

 息せき切って、僕は思い切り疲弊ひへいしていた……けれど、最後に見つけた。すべてが回帰する空間を――世界を終わらせてくれる、窮屈な世界を……

「僕は帰るんだ」



 死にたい。

 自殺志願は罪ではないし、過去への贖罪しょくざいという訳でもない。

 ただ単に土に還りたい――だからこそ僕たちは同士として集合している。

 地下に埋没した集合場所は、扉に護られたまま、今も健在だったようだ。そういうところでつい懐古感ノスタルジィに浸ってしまう。

「やっと…………帰ってきたんだね」

 数えきれない程の人間でひしめきあう密室の中で、虚ろな目をした彼女は言う。

「キミが帰ってくるのを、百年、待った。みんながみんな、ね」

 嘘だ――彼女は明らかに十代後半という感じだし、それに――

 百年間、この部屋での生活を貫徹した者など、皆無だ。

「……まだやっているってことが分かって、僕は嬉しいよ。言葉にならないくらいだ」

「でもここから逃げたのは、キミだよね。後にも先にも、キミ一人だった――」

 そう……ここは自殺志願者の巣窟だ。僕は確かに今でも死にたいし、死に体寸前なのだ。だから、何時いつ帰って来たって構わない――ワケないか。

(『そうやっておごり高ぶって、何にもできなくなるんだよ、何にもなれなくなるんだよ』)

 自虐的にそんな妄想シナリオを想起する。こんなところで生きていなければ、彼女はもっと辛辣しんらつなのだろうに。

 僕はとても耐えられなかったが、彼らはそういう人種なのだ。死にたい癖に生きることに執着し、どうしようもなく寂しがり屋の、人生の臆病者なのだ。

 ……それこそが人間らしさなのだということを遅まきながら理解したのは、何時の時分だったか――人という生き物は、多少の強引さと傲慢さをもって生きねば、崩れ落ちてしまう。それを僕は分かっていなかった。

「……そうか、成程」

ようやく、意味が分かった――)

 あのこうべが落ちてきた部屋の反対側に、この部屋は位置している。鉛直隧道マンホールの真下が丁度二部屋の中心点に当たる。

「間取りはともかくとして……」

 つまりは、あの死体があった部屋は死者のための、ある種の装置サービスなのだ。あの断崖の上にいる人々というのは、死ななければ、あの部屋を出ることはできない。首から上だけだった彼のように死んでからあの断崖を降りるか、あるいはあの断崖から墜落して結果的に死ぬのか――

 どちらにしろ、死者にしかできない二者択一だ。あの断崖の奥に棲むモノは、既に「生」を諦めている、、、、、

 対照的に――。

 今僕がいる部屋は、生気に満ち溢れている。いくら瞳に清輝がなかったとしても、彼らの自殺志願は、自己欺瞞ぎまんに過ぎない――彼らにはここから離脱する自由があり、機会チャンスがある。にも関わらず、何故とどまるのか――

 答えは明々白々だ。言うまでもない。

 さて、それじゃあ一応、挨拶くらいはしておこう。

「只今――」「――お帰りなさい」


(了)

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