パインと白衣

なつのあゆみ

第1話

 二十歳の彼は、父親の後を継ぐか継がないかで悩んでいた。医者にはなりたいが、院長サマにはなりたくない、と彼は言う。両親の命令に従って医大を受けたが半端な意欲ゆえ、落ちた。浪人中の二十歳の彼は、医者になりたいという志望と、父親の金儲け主義な院長サマぶりに腹が立つという、二つの強い熱量を持った思いに拮抗していた。


 そして彼は、酒に逃げた。


 現代医学の批判を高らかにし、少年のように病気の子供を救いたい、と目を輝かせ、しかし次の一杯を飲み干した後は目が座って、父親が少子化だからかと小児科を無くしたことに怒り狂った。

 一人、また一人と彼と酒を飲む者はいなくなった。毎度同じことを言い募り、そしてへべれけになってトイレに突っ伏す彼に、みんな付き合いきれなくなった。

 私も彼と距離を置いた。誘いが来ても、彼女がアレでコレデでとか、レポートがうんぬんと理由をつけて断った。

 その内、彼から、ぱたりと連絡が来なくなった。音沙汰がなくなると心配になる。しかし、大丈夫か、というメールを送るのも気色悪い。若いと自分のことで精一杯だ。私は彼のことをしばし忘れ、バイトと勉強、たくさんの遊びの忙しい日々を送った。


 蒸し暑い初夏の夜、私は寝転がってサリンジャーのフラニーとゾーイを読んでいた。

 フラニーが倒れたところで、ドカン、とドアを蹴る音がした。ドカン、ともう一発。安アパートを一発の蹴りでつぶしてしまいたい、と願っているような強い一撃だった。

 恐る恐る覗き穴から外を見ると、彼が立っていた。私は慎重にドアを開け、彼の様子を伺う。

 彼の体は左右に揺れて、目はどろんと溶けかけて、顔色が半分は赤でもう半分は青白いという、なんとも奇妙な容貌だった。


「入れてくれよぉ」


 甘えた声で彼は言った。私は溜息を一つ吐き、酒臭い彼を玄関に入れた。

 何で来たんだ、と私は文句を言った。


 うえっぷ、という答えが返ってきた。


 彼は天を扇ぎ、瞼を痙攣させた。がっくりとうなだれた。彼の口から、黄色い液体が噴射された。

 黄色のすっぱい臭いがする液体は、とめどなく彼の口から噴出され、私は唖然と見ていることしかできなかった。ぽとん、と彼の口の端から黄色い雫が落ちる。彼はむん、と口を閉じて目を閉じた。


 玄関が、黄色に侵食された。足元に目を落とすと、買ったばかりの白いランニングシューズの中に、なみなみと黄色い液体が注がれていた。嗚呼。

 

私の純白を汚した憎き酔っ払いは、ドアに寄りかかって目を閉じている。私は彼の首根っこをつかみ、ベッドに放り投げた。パイプベッドを軋ませながら彼は丸まった体制になり、寝息を立てた。

 私はもう一度、玄関を見に行った。


 黄色い。そしてとてつもなく酸っぱくてツンと鼻に来る、甘ったるいこの臭い。奴は一体、何を飲んだんだ。吐くのが致し方なかったとして、せめて普通の嘔吐物を吐いて欲しかった。黄色くなったシューズに、手を触れたくない。びちょびちょに濡れた玄関タイルを、どうしていいかわからない。

 フラニーとゾーイの前で私は正座し、ひたすら溜息を吐いた。災難、初夏の災難。ゾーイに小難しい皮肉でからかって欲しいが、本の中の人物は出てきやしない。

 私はキッと災難をもたらした彼の、丸まった背を睨む。こいつの一番腹の立つ所は、自分がいかに恵まれているか気付いていないことだ。奴が起きたら、ずっと言ってやりたかったことを言ってやる。そして玄関の片付けをさせる。もちろん、シューズは弁償だ。


 蒸暑さと苛立ちで私は眠れぬ夜を越え、ぐっすり眠った彼は明け方に起きた。

 嫌味なぐらい朝だ。黄金の朝日ち心地よいと風が、狭いアパートに満ちていた。


 ここどこぉ、という顔で彼はベッドの上に座り、目をこすっている。


「あれを見て来い! というかこの臭いを腹いっぱいに嗅げよ、なんてザマだよまったく、せっかくの爽やかな朝なのに、この臭いで台無しだ!」


 私は玄関を指差し、怒鳴った。彼は鼻をひつくかせると、顔をしかめた。そしてのろりと立ち上がり、玄関に行った。彼は惨状をじっと見つめた。


「おい、一体何を飲んできたら、こういう吐き方ができるんだ? おまえ、黄色い水を吐くマーライオンみたいだったぞ。これは何だ」


 私は彼に詰め寄った。彼は小首を傾げてから、はっと目を見開く。

「パインジュースだ」

「パインジュース?」

「そう。ビールと日本酒をちゃんぽんして、気分が最悪になったんだ。胃の中の物を全部吐いてしまって。吐くことで体力を消耗して、喉が渇いたけれど酒はもう飲めない。気分も体もアルコールを拒否してる。そしてふと、メニューに書いてあったパインジュースがどうしても飲みたくなって、パインジュースを三杯ぐらい飲んだな。空同然の胃に、三杯」

「はあ、なるほど。この色と臭いの理由はわかったよ。わかった所で腹の立つのは変わりないが」


「俺、パインジュース嫌いなのになぁ。なんで昨晩は三杯も飲んだんだ……ああ、それは酔いがマシになったからだ。三杯目を飲んだ頃には、悪酔いの気持ち悪さがなくなってた。

パインジュースには、悪酔いを治す効用があるのか? という客観的な議論だが……個人的にも、なぜ俺はパインジュースを飲んだのだろう。あの厳つい外観に、酸っぱいんだか甘いんだかわからない味、ざらついた食感、どれを取っても好きな要素がない。ジュースにして食感も見た目もないから、としても俺はパイン味は嫌だ。パインキャンディーだってだいっ嫌いだ。舐めていると薄くなって、舌を痛めたことがあるし、それから……」

「うん、どうでもいい」私は彼の肩を叩いて、独り言を止めさせた。「ここの掃除をさっさとしやがれ!」


 私は彼の背中を押した。彼はふらつき、黄色い玄関で転んだ。うぇー、と彼は自分の吐いたパインジュースまみれになった。


 私は腕を組み、雑巾で玄関を拭く彼を見下ろした。彼は謝り、服が汚れるのも構わず懸命に掃除した。無残なシューズを見て、泣いてくれた。

 いい奴なんだよな、なんやかんや。だから、言ってやろう。


「おまえさ」

「ん?」

「真面目に勉強して、医者になる決意はついたか?」

 問うと、彼は手を止めた。返答はない。

「あのさ、なんで気付かないんだよ? 真面目に勉強して立派なお医者様になってさ、親父の後継げよ。親父を早々に引退させてさ、院長サマになって、おまえの目指す医療とやらで病院を改革しろよ」


 私が言うと、彼は立ち上がった。そして目を輝かせ、私の両肩をつかんだ。


「それだ! その道があったな!」


 本当に気付いていなかったのか、と私は彼の喜びようを見て、引いてしまった。薄々とそう思っているも、病院の改革に怖気づいてているのだ、と私は考えていた。


「はっはっは、あの親父を引きずり降ろせばいいだけの話じゃねぇか。俺が何もかも変えてやる、俺は病院の王様になってやらあ!


 小児科を復活させて、無能な医者は全員辞めさせてる!」

 彼は宣言し、薄き黄色に汚れた姿で、はっはっはと高笑いした。

 アホだったんだ。


「……うん、頑張れよ」


 私は半笑いで、エールを送った。こんなアホを医者にして良いものだろうか。私はとんでもない過ちを犯したのではないだろうか……。



 という悔恨は、数年後には逆転した。

 彼は立派な医者となり、病院を改革させた。

 名医の院長サマとなり、日々懸命に人命を救った。病院はテレビでも紹介されるほどで待合室の椅子は患者で埋まり、常に院長サマは腕利きの良い医者を欲しがっていた。


「なーに、心配するな。俺がおまえの体から、ガン細胞をすべて引っ張り出してやる」


 彼の言葉は、とても信用できた。

 私は五十歳でガン細胞だらけの体となった。電車の窓際の席に飽きて結婚し、妻と娘と息子という家族ができていた。

 家族は私よりもガンに怯えた。

 私は妻の手をぎゅっと握り締め、手術室へ運ばれた。手術着姿の彼が、私を待っていた。

 私はマスクで半分顔を隠した彼を、見上げた。


「おまえ、今でも悪酔いすると、パインジュースを飲むのか?」


 私が言うと、彼は目を細めた。目尻にしわがたくさん寄る。彼は冷や汗を何度もかいた大手術が成功して、翌日に手術の予定が入っていない時だけ、酔いどれになれることを、私は知っている。


「懐かしい話をしてくれるじゃないか。ああ、たまに、な。人は同じ過ちを繰り返す」


 歌うように言って、彼が笑う。私も笑った。

 髪は抜け痩せ細り、死に直面しても尚、笑っていられる、というのは良い兆候だ。


「おまえは血で白衣を赤く染めず、パインジュースで白衣を黄色に染めるタイプの医者って訳か」


 昨晩から考えていたジョークを飛ばすと、彼は仰け反って笑った。


「そりゃあいい! いいね、それ! 今度、テレビでそう紹介してもらおう。さすがおまえ、だな。おまえのお陰で俺は今、こうしていられる……いや。湿っぽくなるからこのお話は終わってから。さあ、ガン退治にかかるぞ」


 安心しろ、と彼の目は語ったので、私は頷いた。こうして安心していられるのは、おまえがあの日、パインジュースを吐いたから。ふん、なんて笑えるエピソードだ。

 彼が吐き出したパインジュースの酸っぱくて甘ったるい臭いを思い出す。そういえば、あの時台無しになった純白のランニングシューズを、まだ弁償してもらっていない。

 ニューバランスの一番高いシューズを買ってもらおう、と考えていると、麻酔が効いてきて私は眠りに落ちた。


 パインジュースの臭いを、かぎながら。




                   終

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